16話 想像力の欠ける時間
過去は二度と変えられない。
どこか遠くへ過ぎ去ってしまった出来事に手を加えるのは未だに不可能だ。
記憶に刻まれた瞬間に確定される景色は擬装の思い出に過ぎない。
今も見えている光景でさえ、偽物だとしても。
人は限界という言葉を理解していない。
必ず目の前に現れる強大な壁に立ち尽くす未来の映像しか思い浮かばない。自分がそれほどの苦労をしない限り、夢を見る甘い時間は毒にしか変わらない。
そこにあるのはまだ見ぬ現実。
夢を見ても形にはならないのだから。
けれど現実を理解した瞬間こそ、自身は初めて生きている事に気付く。モノクロの景色の中で過ごした記憶は二度も書き換える。
自身の限界を越える時、見る世界は変わる。
その景色はきっと絶世なものだろうと、自分自身を知らない者は夢を見る。当たり前で平凡の毎日は少し刺激の足りない閑散とした空間に。
一つだけでも構わない。
閉じ込められた本当の答えを解き放つために。
避けては通れぬ正しい選択を決めるための、孤高の旅を始めよう。
◆
(犯人を探すための自習時間は今日で終わらせる魂胆か)
設けられた自習は女子更衣室にカメラを隠した犯人を探すための時間。その圧力が掛かる姿勢には一日よりも早く見付け出そうとする目論みがあることに傑は気付く。
担任である吉田の表情は硬かった。
起きてしまった事実に悲愁と怒気を含めている。許されぬ行動だけあって信じられない様子はこのクラスに犯人がいると信じ切れてない。
誰かを思う気持ちに評価はある。
しかし時に空気は残酷で、その行動は圧倒的に無意味だ。
『誰なの犯人。サイテー。首吊ればいいのに!』
『俺じゃねぇよ。というか公開処刑だろ』
『本当、死ねばいいのに』
勝手に進んでいく話は信憑性を欠けていく。
語彙力が乱暴になっていく始末はただの悪口だけで済まされない。
彼らは当然かのように命に関わる事に簡単に振るう。
(人権は最悪だが、簡単に命を語るなよ。もしこのクラスに犯人がいたとしたら、死なれたら困るのはお前らの方だろ……)
口は酷い達者だ。
流石に他人に対しての悪口はとても長けている。
人の過ちを許す感情は終わってしまった事に傑は静かに悪寒を耐える。今の世間は壺のように固すぎる。触れるだけでも壊れてしまうほどに。
思っていたよりも事態は深刻だった。
「……とにかく。先生はこのクラスに居るであろう盗撮の犯人を探す。居るのなら今の内だぞ。せめて退学を止めることしか手伝えないが」
コイツ、余計に表に出る可能性を潰しやがったぞ。
余計な一言によってクラスの雰囲気は刃物のように刺々しい。誰かを睨む視線が交錯して疑心暗鬼が強くなっていく。たとえ親しい人物であってもだ、犯人に繋がるものなら誰であろうと仕立て上げる。
間違いない。
怪しい動きを見付けた途端に関係ない人でさえ犯人にするつもりだ。
(何を根拠にして犯人を上げるつもりなんだ? このクラスに居ない可能性だって考えられる。冤罪に巻き込まれる事も有り得る)
未だに疑問の視線は消えない。
それどころか苛立ちによって雰囲気は最悪になる。重圧の掛かる空間は人の心境を反映し、息苦しさを投影させる。正しくほとんどの人達が何も変わらなぬ現状について嫌悪を抱いていた。
「だからみんな、下を向いて目を瞑ってくれないか。それで先生が言うことを正直に犯人であれば手を挙げてほしい」
収集が付かなくなる直前にその場を静めるように吉田は告げる。
簡単に終わる訳がない。
提案した選択は本当に正しかったのか。手順を間違えてはないだろうか。
あるいは、既に終わってしまったものなのか。
(絶対に手を挙げる奴なんていない。少しは考えろよ……)
傑の言う通り、吉田の言葉に人を動かす強さは無かった。
「クラスにいるなら、手を挙げてくれ……」
教科書通りのなんとも言えない堅苦しさ。その言葉だけを述べたような脱け殻に誰も動く気配はない。普段から存在する冷たい静寂が全てを物語っていた。
誰も手を挙げることはない。
誰も犯人だと告げない。
何も変わらない時間が勝手に続いていく。口を閉ざしたままの無言を貫く教室は尋問と同じで、微動でもしたらその空気は刃物のように突き刺していくだろう。
一向に時間を殺してしまうだけの展開が続いた。
納得の行かない束縛された状態に仮面を被る彼らのフラストレーションは着々と蓄積する。それは吉田もそうで、未だに犯人を見付けられていないのか無言を貫いたまま静寂を断ち切ることは出来ないでいる。
非常に不味い空気が流布する中で、破壊する者は限られてく。
無意味に縛られることのない冤罪の上に立つクラスメイト達だった。
『本当に誰だよ犯人。居るのは分かってんだぞ』
『卑怯者。時間を返して』
微動にしなかった静寂を粉々に潰し上げてく彼らには、同情もない。
敵を求める闘争心だけが動かす。
あるがままの本能が伝達しているような、気に食わない景色が広がる。
静けさの溢れた空間は勝手に変化を遂げてしまう。
吉田の言葉を無視する彼らは論争を始まってしまった。一向に自由を奪われ続けるだけの限られた時間を取り戻すための奮起。
果たしてそれは平凡を取り戻すための選択なのか。
仮面をの彼らに、傑は何もかも分からなかった。
『お前が犯人なんだろ!?』
『あなたが犯人なんでしょ!? 白状しなさいよ!』
限度を越える事態は疑心暗鬼に飲み込まれる。もはや誰にも構わず犯人に仕立て上げようとする狂気の沙汰に、これ以上直視出来る訳がなかった。
(時間の無駄だな、これは……)
とうとう傑はガラス越しにある景色を見据えてしまった。空を眺めた方が知的だと思えてしまうのは、答えのない議論に考えても無駄であるから。
京華の方も自習の時間を効率よく勉強をしてしまうほど、自由に過ごしてる。
何も生まれないのであれば関わる必要もない。
それが今を生きる最善の選択であれば逃げることが何よりの救いか。
「ほら静かにしろ! 何も見付ける事が出来ないだろう!?」
不発に終わる吉田にも冷静さを欠ける。
彼らの暴走を止める術が元々備わっていないから、手を加えても意味がない。むしろ可能性を広くした方が狭苦しい世界観は一気に変われると思えるのだが。
――あれはもう終わりだな。
傑は終了の宣告を判断する。このままではクラスの雰囲気は殺伐が続く。仮面を被る彼らの姿しか見えない傑にとって別に構わない事だが、そう見えない人にとって、彼らの目線は痛々しく感じるのだろう。
進展しない状況に得られるものはない。
自身が動く理由にも当然至ることはない。
何より傑は犯人ではないからこそ、犯人を見付ける意味がないのだ。卑劣な行為に敵意を抱くが確かな根拠がない。この場にカメラが存在していれば可能性は生じる。事件に転じれば指紋などの証拠を突き付ければ時間は掛かろうが答えに辿り着く。
ただの学生が、ただの教師が解決できるレベルの問題ではないのだ。
しかし学校の方でも古いプライドが許せない。
(現在警視庁長官の孫が在籍する。公表するのに躊躇うのは当然だろうな)
公にすれば評価は下がるのは目に見えていた。
それも盗撮事件だ。くだらない出来事に構う時間も力を施す理由にならない。それから一秒より早く犯人を上げてしまえば、表に出す理由がなくなる。
あまりにも学生の数が多く、教師を含めあらゆる人達が容疑を掛けられる。
別学年を視野に入れなければ確率は変わらない。
(……わざとカメラを置いた可能性だって含まれている。それを捨てられないんじゃ、この時間は無駄だ)
一体誰が犯人なのか、それを本人しか正解を知らない。
彼らの時間さえも掻き回す狂気の事態は無関係の人に疑いを掛けてく。
刺激は強大になろうとしている。
「……嫌な予感がするな」
無差別に鋭い言葉が飛び交う中で傑はあくびをしながら待つだけだった。




