そして因果はめぐる
本編完結しましたが、番外編を投稿したくて追加しました。本編完結後の二人をちょこっと垣間見える内容になっています。
サブタイトルの意味は、『おいしい料理のつくりかた』本編を読まれた方にはピンとくるかも知れませんが、未読でタイトルの意味にピンと来なくても内容に支障はありません。
番外編執筆の都合で本編の篠田さんの肩書きを先輩店員から店長に変更しました。
本編とは違い、篠田さん視点の三人称でお送りします。
気持ちよく晴れたとある冬の日曜日。茜ちゃんは『スイーツカフェ soja』のカウンターにへばりつくようにして項垂れていた。白いシャツに黒いベストとスカート。白いエプロンがセルヴーズ、つまり女性給事職のユニフォームだ。
店長の篠田は白いシャツに黒いベスト、長いギャルソンエプロン姿でカウンターの中に入っている。黒いギャルソンエプロンは、この店で飲み物を淹れることが許されている証だった。彼はこのカフェの正社員で、エスプレッソマシーンの管理や珈琲豆のブレンドも任されているれっきとしたバリスタだ。カフェ好きが高じて、大学生の時には全国の名だたるカフェ巡りをした。その合間には喫茶店やシアトル系カフェなどでアルバイトをしていた。一度は旅行代理店に就職したものの、自分の夢は自分の理想のカフェの店をやることだと退職した。彼は思い付いたら即実行! と非常に行動力のある亥年生まれの男だった。
すぐに様々な準備不足に直面し頓挫することとなったが、時を同じくして南豆腐店の婿が始めた豆腐スイーツの店が増築して、カフェスペースを設けるという情報を親戚経由で耳にした。そして、カフェスペースでカフェを提供する従業員を探しているとも。彼はさっそく面接を申し込んだ。自分の好きなカフェで働きながら、自分の店をもつ資金を貯めるつもりだった。
だが、彼の持つカフェ勤務の経験と豊富な知識に感心したオーナー夫婦は彼をこのカフェの店長に据えてしまった。
これでは資金が貯まったからといって無責任に辞めるわけにはいかなくなったが、玉野遼氏の豆腐スイーツを提供すること以外の経営方針については篠田の意見も取り入れてくれる今の環境に現状は満足していた。
オーナー夫婦の息子がこの店のアルバイトに来ているが、それも篠田が面接して受け入れることを決めた。彼はオーナーの息子だと傲るところはなく、丁寧な接客で真面目に勤めている。
オーナーの息子、伊織くんは今や篠田の弟子とも言うべきバリスタの卵に育っていた。彼がバリスタとして一人前になれば、独立の夢が叶う。篠田は今、人を育てる楽しみもまた味わっていた。
最近になって、伊織くんの同級生の女の子がアルバイトとして新たにスタッフに加わった。篠田とオーナーが面接した。
これまでも見た目が端正な伊織くんとお近づきになりたい下心を抱えた娘さんが、アルバイトを申し込んでくることはあった。それはオーナーも篠田も丁重にお断りしていた。彼女、勝倉茜さんは、以前この店で彼氏と別れ話をして店中の耳目を集めていた人だった。普通の感覚であれば、店としては残念ではあるが足が向かない場所となってもおかしくはないのに、彼女はここでアルバイトをしたいという。伊織くん目当てではないかと篠田は思ったが、オーナーは彼女を採用した。
オーナーが認めるのだから、きっと即戦力になってくれるだろうと思いきや、彼女はありとあらゆる初心者がやる失敗を踏襲していった。それはもう見ていて可笑しいやら、気の毒やら。
しかし彼女は落ち込みはするが、切り替えも早く、その時に自分に出来ることを見つけて動ける人でもあった。だから篠田は彼女に励ましの声をかけた。「誰でも最初は失敗するものだ」と。
そんな茜ちゃんが、分かりやすく気力を削がれている。きっと伊織くんと何かあったのだろうなと思いつつ、新しいブレンドを試す準備をしていた。
篠田は鶴のような細い注ぎ口のポットで紙フィルターをセットした珈琲豆の上にお湯を注ぎ入れた。細く挽いたコーヒー豆はふんわりと膨らみ、ポタポタとコーヒーが抽出される。
「茜ちゃん、開店まもなくてお客様がいないからって、店内でだらけるの禁止だよ」
「ふぁい」
気の抜けた返事を返す茜に篠田は、肩をすくめた。
ゆっくりと身を起こし、持っていたクロスでカウンターを拭く。頬は膨らんで唇は尖らせたままの茜に、このままじゃ営業に支障が出ると判断した篠田は、見て見ぬふりをしていた態度を改めて早期解決を試みた。
「伊織君と喧嘩でもした?」
二人の交際がいつの間にか始まったことを篠田は気付いていた。人当たりはいいものの、こと女の子にはいつもあたり障りのない態度であしらう伊織くんが、最初からちょっと特別扱いだった女の子。伊織くんはおそらく無意識だったとは思うが、篠田はこうなることをなんとなく予感していた。だからギクシャクと交際を隠しているつもりの茜の様子にすぐ気がついた。
交際が始まったからといって、二人の間に甘い空気が流れるかと言うと、そんな素振りはみせない。
(二人きりのときは知らないけどね)
「今は冬休みなわけですよ」
「うん、そうだね」
「先週はクリスマスで、昨日は大晦日で、今日は元旦なんです」
「うん。休みたかったのなら事前に言ってくれれば良かったのに。お友達と約束があった?」
茜ちゃんはまた頬を膨らませて、同じところを親の仇のようにゴシゴシ拭いている。
「いえ。予定は無かったんです。全く。家族で夜にチキン食べて、ケーキ食べたんです」
「いいね、賑やかそう。羨ましいよ」
「……篠田さんは彼女とかいるんですか」
篠田は思わず半眼になる。彼女とは半年前に別れていた。
篠田にとって、特に何があったというわけではなかったが、ちょっとずつ心の距離が離れていたのだろう。ある日突然別れを切り出された。苦い思い出が甦り、篠田は苦笑いをみせた。
「それで?」
質問には答えず、質問で返した篠田の様子に茜は地雷を察した。
「……なんでもないです。失礼しました!」
力任せにテーブルを拭く茜の姿に、篠田はすっきりしない気持ちになったが、本人が打ち明けないものを無理に聞き出すことはできない。
ちょうどオーナーのひとりで、隣のパティスリーのシェフでもある玉野遼氏がケーキの納品に来たので、その話題はそこまでとなった。
*
それはその日の午後に起こった。ティータイムを過ぎた夕方の頃だ。
カランとドアベルが来客を知らせ、篠田は「いらっしゃいませ」と挨拶をした。
カフェに入って来たのはツインテールの少女だった。
白いコートの下からベージュのスカートの裾がひらひらと見えている。顔立ちも整っていて可愛らしい。少女は見るからに不機嫌そうな顔をして、黒いエナメルのラウンドトウの靴をつかつかと大股に進み、篠田の挨拶を無視して、ぱちくりと目を見開いている茜の側まで歩み寄った。
「あなたが勝倉茜さん?」
「そうだけど」
「あなたがお兄ちゃんの彼女なの? やだ、見た目も全然フツーじゃない。聞くところによると、ゆで卵も作れない、お菓子も料理も作れないんでしょ。それどころかお水を運ばせればコップを割る、珈琲を運ばせれば溢す、注文も聞き間違えるって聞いたわ。そんなことで将来有望なお兄ちゃんの隣に立って支えていけると思ってるのかしら。あなたが彼女だなんて、私は認めないんだから」
店内にお客は少ないとはいえ、店内でする話ではない。篠田はいきなり美少女に辛辣な言葉をかけられて、状況把握ができず硬直している茜をひとまずそのままに、少女に向き合った。
「有紗ちゃん、今日は伊織くんは?」
少女の大きな瞳がくるりと動いて篠田の姿を捕らえた。ふん、と自慢話でもしそうなドヤ顔で茜を横目でちらちらとみる。
「もうすぐ来ると思うわ。私、さっきまでお兄ちゃんと一緒に初詣に行ってきたのよ。お兄ちゃんったら有紗の手を繋いで『俺の側から離れるな』って言うの! そのあと映画に行って、チュロスとオレンジジュースごちそうしてもらってきたわ。クリスマスも土日も、有紗は毎日お兄ちゃんとずーっと一緒なんだからっ。彼女なんて認めないんだから! 有紗のお兄ちゃんなんだから!」
「ええと、有紗ちゃんは伊織の妹?」
「もう! 妹って言わないでよ! 妹だけど、妹って言われるのは嫌なの!!」
キィと有紗が癇癪を起こしそうになる。そこへ伊織くんが店に到着した。まっすぐ二人に近づいて、ひょいと有紗を抱き上げる。
その表情は若干イラついているようだ。
「何ワガママ言ってるの有紗」
冷ややかに妹を見下ろす伊織くん。
「お兄ちゃん!」
と、大好きなお兄ちゃんに抱き上げられて喜ぶ妹と、戸惑いを隠せない茜。
「伊織……」
篠田は肩を竦めてカウンターに戻った。途中、お客様に会釈も忘れない。
「茜は仕事中でしょ、持ち場に戻って。有紗は帰るよ」
と零度の声で促す。茜ちゃんはびくんと身体を震わせてカウンターに戻ってきた。有紗ちゃんはというと、お兄ちゃんが好きすぎて、怒られるのさえ嬉しいようだ。
「はぁい♪」
「篠田さん、すみません。ご迷惑をおかけしました」
伊織くんはぺこりと頭を下げると、有紗ちゃんを連れて店から出ていった。
*
茜ちゃんのバイトが終わる時間に伊織くんが茜ちゃんを待ち伏せしに店に来ていた。
平日の放課後と土曜日の午前中は、小学一年生の有紗ちゃんは小学校の学童保育にお世話になっているらしい。
両親が共働きで忙しいせいもあって、伊織くんは有紗ちゃんが小さい頃から面倒をよくみていた。
時に彼女よりも妹を優先するおかげで、破局するといったことを時々オーナー(母の方)が、申し訳なさそうに漏らすこともあった。高校生になって、いきなり地味な装いで高校生活を過ごしだしたのも、特定の女の子と付き合ったりするのが面倒になったからというトラブル事前回避が理由らしい。
反面、店ではキラキラ度が増していて、カッコいい男になったなぁという感慨と学校での擬態との落差に篠田は驚かされていた。
篠田にとって伊織は弟子であり、星空とカフェメニューが好きな弟のような存在のままだ。
この時間はいつもなら彼が有紗ちゃんの相手を家でしているであろう時間なので、おそらく彼女の機嫌を取りにケーキ屋の方にいる両親に妹を預けてきたのだろう。
篠田はそっと彼の様子を窺いながら、オーダーのエスプレッソを抽出した。
*
篠田は店長の仕事であるレジ精算と売り上げ計算を済ませ、現金を金庫に入れると、閉店後の清掃が終わるなり、茜ちゃんをスタッフの休憩用に使われている二階に連れていった伊織くんに一声かけてから帰ろうと階段を上がった。
二階はスタッフ用のトイレと、倉庫。それと、スタッフ用の休憩室しかない。休憩室にはテレビと、ベッドにもなる大きめのソファーと小さめのローテーブルが備えられているのだが……。
そのスタッフ用の休憩室から、甘い声が漏れ聞こえていた。あの声は茜ちゃんのものだろう。
「やぁ、参ったなあ」
篠田は、少しだけ扉の向こうを想像して頬を赤くした。
伊織くんがスペアキーを持っている可能性はあるが、確証はない。 ドアの近くの床にそっとスペアキーを置くと、篠田はオーナーから預かっている鍵で店を施錠した。