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「茜ちゃん、ごめんね……」
「どうしたの利恵」
「好きになっちゃったの。茜ちゃんの彼氏だから好きになっちゃダメだって分かってたんだけど、キモチ抑えられなくて、それで……本当にごめん」
「正直、良い気はしないけど。だからってそこまで泣かなくても」
放課後、思い詰めた顔の利恵に呼び止められて、通学路から外れた地域のカフェに入った。
そして席に座ったとたん、利恵がぐずぐずに泣きはじめたのだ。ボクは当惑していた。ボクの彼氏のことを好きになったからと言ってどうしてそれを報告されなければならないのか。そして、どうしてそこまで謝られなくてはならないのか。
恋する気持ちにブレーキはかけられないのは分かっている。でも、他人のものを欲しがるなんて、みっともないと思わないのか。そんなもの、ダメだって分かっているならせめて心に秘めておいてくれ。そして周囲に誤解を与えるからそこまで泣いて謝らないでくれ。
「……直巳くんと別れて欲しいの」
「え、なに?」
「……ごめんね、むちゃくちゃ言ってるとは思うんだけど……お願い。直巳くんは悪くないの、本当にごめん……」
「俺から話すよ、辛い思いさせてごめんな、利恵」
ボクの彼氏、直巳がまるでドラマのようなタイミングで現れ、なぜか利恵の隣に座った。労るように利恵の髪を触る。
どうしてこうなった?
すっと胃が冷たくなった。頭は働いていない気がするのに、勘だけは冴えている。
「茜、ごめん。俺と別れてくれないかな」
「……え?」
「たぶん勝手なことを言ってると思う。実は俺と利恵は同じ塾だったんだ。最初は茜の友達ってことで話すようになってーー」
「あのね、私が分からないところとか無理言って教えてもらってたの、私バカだからーー」
「利恵はバカじゃないよ。利恵に教えるの、俺も楽しかったし、自分の勉強にもなるからーーそれで」
なんだよそれ。
「いつも直くん、塾の合間にコンビニのお弁当とかパンとか食べてて……勉強教えてもらう代わりにお弁当作ろっか、ってことになって、それで」
二人がお互いを庇うように矢継ぎ早に話すからボクは何も言い出せなかった。
ボクを通してお互い面識ができたのは理解できる。いつからボクのいないところでそんなことになっていたのか。どうりで最近は夜にメールしても既読は付くのに返信がないと思った。ボクとは土日も塾があるからってデートの約束さえなくなっていたのに。
胃が重たくて気持ち悪くてたまらない。
「そう、なんだ。ボク、お料理なんてできないもんね。ははっ、ははは……」
胃袋を掴まれちゃったってか。そんなことでダメになっちゃうものなの?
その程度の気持ちで付き合ってたのかと悲しくなる。
鼻がつんとして、泣くまいと眉間に力を入れる。
ちらちらと利恵が上目遣いで窺ってきた。
「で……ね、先月」
言いにくそうな利恵の様子と、目線を合わせない直巳の様子にピンとくるものがあった。
つまり、あんたは簡単にやらせてくれる女を選んだってわけか。
ボクのこと大事にするとか理解を示すような態度をしておきながら、結局は本心ではなかったということか。
「もう、いい」
「なんだよ、もういいって」
利恵の言葉を遮ったボクに直巳が気色ばむ。
「わかったって言ってんの。もう、消えて! 二人ともボクの前から消えて!」
遠慮がちに立ち上がる二人。申し訳ないというよりも、ボクが本当に納得しているのか気にしているんだろう。
「……ごめんね」
ふざけんな、ふざけんな。
心の中に黒いどろどろしたものが渦巻いていた。
二人が席をたっても私はしばらく俯いて動けなかった。
*
視界の端に人の立つ気配を感じた。
ボクのいるテーブルに湯気のたつカフェオレを置いた。
「お待たせいたしました、カフェオレです。ごゆっくりどうぞ」
その声にふと顔を少しだけあげた。涙で濡れた頬を見られたくなくてぐしゃぐしゃに掻き寄せた長い前髪の間から覗く。向こうからは幽霊のように見えているかもしれないけどかまわなかった。
白いシャツに黒いギャルソンエプロン。長めの黒い前髪がさらりと目にかかっていた。ピアスが妙に印象的だった。
店員さんは伏し目がちに伝票を置くと立ち去ろうとしていた。
「すみません、カフェオレ頼んでないーー」
言いかけて伝票をひっくり返すと、『元気を出して』と書かれていた。あの店員さんの奢り? 友達と彼氏に裏切られて別れ話を切り出されて、惨めに声を堪えて泣いていたボクの一部始終を見られていて……同情された?
恥ずかしくて飛び出そうと荷物を抱え、テーブルの上のカフェオレが目にはいった。珈琲の香りが届く。
ゆっくり座り直し、カップを両手で包むと温かかった。湯気が詰まって凝り固まった眉間を溶かしてくれる。
カフェオレには罪はない。この際だから、人の好意に甘えてみようか、とカフェオレに口を付けた。
「おいしい……」
ポツリと呟いた言葉が、先ほどの店員さんに届いたのか、コーヒーを抽出していた店員さんの表情が柔らかく微笑んだきがした。
*
『元気を出して』のカフェオレのお会計をどうするべきかと悩み、レジに伝票を出した。
さっきの店員さんがレジの前に立つ。
ドキドキしたけれど、奢りだと思ったのが誤解だったのなら払えばいいだけだ。
店員さんが打ったレジマシーンには、430円の表示。慌てて財布を取りだそうとカバンを漁る。
「いいよ、これは僕の奢り」
「え、でも」
チン、と音をたててレジマシーンの数字が『オツリ0円』に切り替わった。店員さんがお尻のポケットから小銭をレジに入れる。
「今度また来てくれたらいいから、勝倉さん」
「……え」
突然名前を呼ばれて店員さんを二度見した。こんなイケメン、知り合いにいたっけ。
店員さんはポケットから黒いフレームの眼鏡を出して掛けた。耳にかけてあった髪を戻し、ピアスを隠した。すると見慣れた顔になった。いや、見慣れてはいるけど仲良いわけではない。意識してなかったただの同級生の男子……。
「玉野伊織……!」
「ぷっ。本当に気付いてなかったんだ。っていうか、それどころじゃなかったよね。不可抗力だけど、なんだかごめんね、修羅場見ちゃって」
「玉野伊織はどうしてここに」
玉野伊織はぽりぽりと右頬を掻いた。
「レジのこちら側にいるのにその質問する? さっきから思ってたけど意外に天然なところあるんだね、もちろんここでバイトしてるんだけど」
「ああ、そっか、そうだよね」
顔を真っ赤にして頷くと、玉野伊織は困ったように微笑んだ。
「じゃ、気をつけて」
ぎこちない挨拶を交わして、ボクは帰路についた。二人に置いていかれたあのまま、外に飛び出していたら、自暴自棄で何をしでかしていたか。でも、今の気持ちは、一杯のカフェオレのおかげでずいぶんと落ち着いていた。
*
落ち着いて考えると、ボクは何も悪くはないはずだった。
だけど、もう直巳を取り返そうとは思わなかった。そんなことは現実的ではないと思ったし、どこかプライドが許さなかった。
ただ、これから利恵と直巳にどんな顔をすればいいのか分からないってそれだけ。今朝は二人には会わなかった。きっとお互い同じ気持ちなんだろう。っていうか、ちょっとは気にしてないと腹立つ!!
「あーー、もう。なんでこんなにぼこぼこになるんだよ!」
家庭科の実習でゆで卵を剥いていたボクは、薄皮と一緒に白身が剥がれて表面がぼこぼこになっていた。
それさえも腹ただしくて、卵にあたりそうになる。
「勝倉さん、なに卵にあたってるの」
同じ調理台で実習していた男子、玉野伊織が調理台に投げ出したゆで卵をさらっていった。白身がぼこぼこで殻が3分の1くっついている無様なゆで卵をしみじみと見つめていった。
「ああ、こりゃひどい」
玉野伊織はぼこぼこのゆで卵の殻の続きを剥き、ひょいと口に入れた。
「ま、味は変わんないけどね」
「ちょっ、ボクのゆで卵! ってか、今食うな」
玉野伊織はいつもの学校仕様の眼鏡くんなレンズの向こうで愉快そうに微笑み、卵を差し出した。
「はい、じゃ交換ね」
同じ手順で調理したはずの玉野伊織の茹で卵は、少しひびを入れて爪で引っ掻くとつるんと剥けた。
なんだか馬鹿にされたような、負けたような、釈然としない気持ちでボクはそれを食べた。口の中の水分を奪っていくのが苦手な黄身でさえ、ねっとり濃いオレンジ色で食べやすかった。
料理がうまくなれば彼氏をつなぎとめられるんだろうか。いや、ちょっと待て。つなぎとめる以前に新しい彼氏を見つけなきゃ。
ボクの頭がいいアイデアが閃いた。
*
「ちょっと玉野伊織、いいかな?」
地味系男子が徒党を組んで理科室から教室移動をしていた。
玉野伊織ももちろんその中に紛れていた。声を掛けると、一団はビクッと驚き、玉野伊織に気遣うような視線を送りながらも彼を置いて先に階段を登っていった。
「なに」
レンズの向こうの瞳には余裕が窺える。
なんだかその余裕が腹ただしくて、玉野伊織の二の腕の横あたりに囲うように壁に手をついた。
「わぁ、勝倉さん……オトコマエ」
玉野伊織が茶化す。体格差からほとんど抱きついているようにも見えるかも知れないけれど、精一杯ドスを利かせた声を出す。
「ボクに協力しろよ」
「ええ~ヤダ」
「バイトしていること学校にチクるぞ」
「バイトは校則違反じゃないよ」
「それなら、ピアスしてることチクるから」
「えー、それは困るなぁ」
「協力するの? しないの?」
「……協力って何するの」
冷静な声で聞かれて、ぐっと喉が詰まった。
「何も考えてなかったの? それじゃ、僕もう行くから」
レンズの奥の瞳が笑ってる。イラっとして、玉野伊織の脚の間に足を入れた。羽交い締めにしたいのか、玉野伊織を足掛かりに壁を這おうとしているのか、変な体勢になっている自覚はある。
「次の彼氏ができるよう協力しろ」
玉野伊織がパチパチと目を瞬かせた。驚いたみたいだ。ざまぁ。
「どうして僕が?」
「……えっと」
すっと玉野伊織の表情が真顔になる。その迫力に少し怯みそうになった。
「昨日の今日で気持ち切り替えられるなんてすごいよね。直巳君への気持ちってそんなにすぐ乗り越えられるものだったんだね。そりゃ、彼氏の気持ちが離れるよ、なんて身も蓋もないことは今さら言っても仕方がないから言わないけど。僕はたまたま勝倉さんたちが別れ話をしに来たカフェで働いていただけで、二対一でずいぶんひどい布陣でやられてるなって思ったし、たまたま勝倉さんが知ってる人だったから、ちょっと同情しただけで、カフェオレを一杯ごちそうしただけで面倒に巻き込まれるなら、関わらなかったよ」
「そ、そうだね……」
「もう行っていいよね」
有無を言わせない迫力のある笑顔でそう訊ねる玉野伊織。おずおずと囲っていた足と腕を下げる。囲いから抜け出すと、玉野伊織は教科書を抱え直した。
「あのね、個人の自由だし、僕には関係ないから言わなかったけど、勝倉さんのそのキャラクター、一般男子受けしないからね。ボクっ娘なんて一部のコアなマニアにしか受けないから。次の恋人探すんならそこ気をつけてみたら? じゃ、頑張って」
ぐさりと矢が刺さる。
「待って! ボク、じゃなくて、私に料理を教えて!」
足を止めた玉野伊織がじっと考えるようにこちらを見る。
「料理……? どうしてーー、ああ。料理上手な友達に彼氏の胃袋掴まれて奪われちゃったんだっけ」
「聞いてたの!?」
羞恥のあまり体温が上がる。昨日のもやもやも甦る。
「あの小さなお店の中で聞こえてないわけないよね。みんな聞いてない振りしてるだけだから。聞かれたくないなら次から別れ話するときは人のいないところでした方がいいよ」
「そ、それでーー」
肝心の返事は得られないうちに、先に上がっていった地味系男子仲間が先生を連れて戻ってきた。
なんだい、かつあげなんかしてないぞ。
ボクだけ先生に職員室に後で来いと言われて、引き剥がされた。玉野伊織の友達がボクを警戒して間に入って歩く。
もう玉野伊織はしおらしい地味系男子に変態していて、でも眼鏡の奥の瞳だけは愉快そうに笑っていた。
*
「こんな時期に新入部員だなんて」
玉野伊織が呆れてボクを見た。
「勝倉さん、他にクラブ入ってなかったの?」
「うん、中学では陸上やってたんだけど、高校入ってからはずっと帰宅部だったんだ」
「ああそう。別に中学の頃のことは聞いてないのにね」
しゃべるようになって気付いたことだけど、玉野伊織は意外に性格が悪い。チクリ、チクリと言葉にトゲを感じるのだ。
「で、今ごろどうして天文部? 本当に星が好きなの? 料理がうまくなりたいんじゃなかったっけ? 料理がうまくなりたいんだったら、ここじゃなくて料理倶楽部に入れば良かったでしょ」
「そ、それはそうなんだけど」
玉野伊織の腹ただしいくらいに完璧なゆで卵を食べて、玉野伊織に料理を教えてもらいたいと思ったんだけど、どう説得していいのか。
「あ、あの、ゆで卵……」
「はぁ?」
「いや、玉野伊織は料理が上手いのはどうしてだ?」
怪訝そうにしていた玉野伊織がふぅと息をついた。
「前から思ってたけどフルネームで呼ぶのはやめて欲しい」
「え? あ、じゃあ、伊織とか?」
「どうしていきなりファーストネーム呼び捨て? 勝倉さんおかしいんじゃない?」
「ご、ごめん。タマちゃんとか?」
「はぁ? 猫じゃあるまいし。馴れ馴れしすぎだよ……伊織でいいよもう」
「分かった」
「で? 伊織が料理できるのはどうしてだ?」
「しつこいよね。ゆで卵ひとつできるくらいで僕、料理できる人なの? あんなの簡単だよ。沸騰したお湯に入れて茹でるだけなんだから。勝倉さんが知らなすぎるだけ」
「おお~! 伊織すごいな!」
水から茹でてたよ。というか家庭科の先生、卵が被るくらいの水を入れて茹でるって説明してたぞ。
「全く、ゆで卵ぐらいで……で、勝倉さん、本当に天文部に入っちゃって良かったの。今さらだけどさ」
「別にいいよ。星見るの嫌いじゃないし。」
「あっそう」