1-9:「World in the Water Project Ⅲ」
遅刻でメンゴ!
ナギヒコは名無しの男を暗い眼差しで見つめていたが、やがて、ため息をついた。少なくとも、こいつがここに存在するという事実は、もう覆しようもないのだ。
緊張した面持ちでいる男に、ナギヒコは「どうも」と会釈をした。たとえ自分にとりついたウィルスのようなものだと聞かされた後でも、どう見ても年上である相手に横柄な口を利けるナギヒコではなかった。処世術が身に染みついてしまっている。
「あの――おたく、ラビットっていうんですか?」
「?」
「針山有璃素って知ってます?」
「アリス」
男はまるで頑是ない子供のようにおうむ返しにした。見た目は三十すぎのおっさんだというのに、中身はまるで三歳児だ。それこそ生後数時間なのだから、あたりまえなのかもしれないが。
気まずく黙り込んだ二人を現実に立ち戻らせたのは、ルツの大きなあくびだった。目を眠たげにこすりながら「じいちゃん、俺もう眠いんだけどぉ」と、眞浦のシャツの裾をひっぱる。
眞浦は目を丸くしたが、ややあってから了解したように「そうですね」と笑ってうなずいた。
「今日はもう遅い。ナギヒコくん、よかったら今夜はうちに泊まって行ってください」
「い、いや……俺、帰らないと」
「でしたら、お送りしますよ。まだ外には聖獣がうろついているかもしれません」
「えーっと……」
眞浦にネットカフェに寝泊まりしていることを教えるのははばかられた。そもそも本当の意味で「帰る」場所など、ナギヒコにはどこにもないのだ。「はるふうぇい」の面々は傘を壊したことなど気にしないだろうが、彼らを聖獣との戦いに巻き込むわけにはいかない。
ナギヒコの迷いを読みとったかのように、ルツは頭の後ろで手を組んだ。頭にかぶったナイトキャップのポンポンが揺れる。
「言っとくけど、赤塚の野郎はまだ生きてるぜ。強めには蹴っといたが、あん時ゃ逃げないと分が悪かったんでね……」
「……」
「ナギヒコ……」
黙り込んだナギヒコを、名無しの男が呼ぶ。その情けない声に、ナギヒコはふっと脱力した。名前は知っているんだな、と、人ごとのように思った。
「……じゃあ、すみません。お世話になります」
ぺこりと頭を下げたナギヒコに、男は慌てたように倣った。
「よしよし」四人の中で一番小柄なルツが偉そうにうなずく。「じゃー俺は先に休ませてもらうとするか。じーちゃーん」
「おやおや、こんなところで」
困ったように笑う眞浦の手をルツは取り、その親指を口に含んだ。今まで少年の姿をとっていた形が、水色の点の集合体となって光り輝き、一瞬で傷の中へと吸い込まれる。後には眞浦の親指の傷だけが残された。
ぎょっとしたナギヒコに、眞浦は照れくさそうに笑った。
「戦闘以外の時はこうやって休んでいるんですよ」
ナギヒコは成人男性として、自分より上背のある男に、それも腹にキスされるのには抵抗があった。
眞浦にさらに深々と頭を下げて用意してもらった二組の布団の、片方にナギヒコは横になっている。
眞浦が「休む」と言ったからには、ミズも休息を取る必要があるのだろうが、布団に横になることで体力が回復するのかどうかは、ナギヒコにはわからなかった。
「……寝れそう……っすか?」
「やってみる」
隣りの布団を横目で見ると、男はカッと目を開いたまま天井を睨みつけている。瞬きする必要はないらしい。
(マジで化物なんだな……)
なんとなく腹の傷をさすっていると、男が横で「アリス」と呟く。
「知ってんのか!?」
ナギヒコは思わず身を起こしたが、男は横になったまま「わかんない」と答えた。
「あ……そっすか」
「でも聞き覚えがあるような気もする。俺が、俺になる前……よく、思い出せないけど……」
まっすぐに天井を見上げながら、声がだんだんゆっくりになっていく。かと思えば、寝たかとため息をついた矢先に「着替え!!」と大声を上げた。
「はっはいっ!?」
「きがえ……できるように、がんばる……から、捨てないで……ぐ……んごごごご」
「……お……おう……寝た……」
化物のわりに、人間じみたイビキをかくのだった。
(これも、俺の趣味嗜好ってやつを反映した結果なのかね……)
どれだけ思い返してみても、やはりナギヒコはこの男に見覚えがなかった。好みというのも取り立ててないが、男か女かでいえば彼は女が好きだし、今まで見知ってきた誰に似ているというのもない。そもそもナギヒコは誰かのことをとりたてて好きになったという経験がなかった。
夜な夜な女性と言葉の駆け引きをしていたホスト時代でさえ、生活の糧を得るのに必死だったのだ。
(……まあ、俺には、関係ない、か)
ナギヒコは布団からむくりと身を起こした。
倉庫でもちかけられた眞浦の誘いを、ナギヒコは蹴る――どころか、この場からも逃げるつもりでいた。