1-7:「World in the Water Project Ⅱ」
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眞浦明慶がその一冊の本を手にしたのは、海外旅行のさなかだった。落ち穂舎の仕入れという名目で訪れていたスペインの田舎町。その滞在先の宿で、ボーイから、差し出し人不明の一荷物を受け取ったのである。宛先は、アキヨシ・マウラ。確かに自分の名前だった。
不思議なのは差し出し人が、誰にも行き先を伝えていなかった自分の所在を正確に探し当てたということだ。不審な気持ちもあったが、それよりも好奇心の方が勝っていた。
眞浦はボーイにチップを払って、その荷物を自分の部屋に引き取った。包装を解いてみると、そこには一冊の本。買い取り希望の客がこんなところにまで来たのかと、眞浦は笑いだしたいような気分になりながら、ページを繰った。
ずいぶん古い本らしく、表紙がところどころすりきれ、内容も読みづらいことこのうえなかったが――古代マヤ・アステカの文化史について書かれた専門書であることは、彼のつたないスペイン語の知識でわかった。きちんと出所を確かなことは言えないが、奥付を見ても、そう珍しい本というわけでもない。日本国内で売ることも考えると、そう高い値が付けられるものとも思えなかった。
ぱらぱらと無造作にページをめくっていた眞浦は、ふと、手に痛みを感じた。ページの端で親指の腹を深く切っている。慌てて本を手放し、ティッシュで手を押さえて戻ると、テーブルの上にあったはずの本は、ベッドの上に寝転ぶ一人の少年の手の中にあった。
状況の異様さ、彼が強盗である可能性、部屋に戻ってから閉めたはずの鍵――それらのことは、眞浦の脳内からとうに消し飛んでいた。
藍色に近い黒髪、生意気そうにつんと尖った鼻筋、未発達な手足。身につけているものは、おそらく私立中学校の制服だろう。自分の理想の少年の姿に、眞浦は言葉を失った。
「あー、お帰り! おじーちゃん」
少年はニコッと気さくな笑みを浮かべて、ベッドから起き上がった。
不思議なことに、彼から返された本には、眞浦が付けたはずの血の痕などどこにもないのだった。
「あのよー、お願いがあるんだけどさ。よかったら、俺と神さま目指してくれないかなって」
神さま。
彼があっさりと口にしたその単語について咀嚼した、その刹那、眞浦は彼がなにものであるか、これから自分がなにを成さなければならないのか、はっきりと悟った。眞浦は彼の前にひざまずき「ルツ」と、そのあらかじめ決められた名前で少年の名を呼んだ。
「いいでしょう、僕はあなたのクダになり、あなたは僕のミズになる。きっとあなたを、神さまの座につかせてみせましょう」
「そう? 助かるわ! ありがと!」
ルツは歯を見せて嬉しそうに笑った。
「これはあくまでも、僕の仮説ですが――ミズというのは、ある種のウイルスなのだと思います。傷を媒介として生まれ、我々の脳に影響を及ぼす。あの時、僕は本のある1ページから感染し、クダとして、彼とすべての情報を共有した」
「…………」
「ナギヒコくん、君はあの裸の男がどんなふうに生まれてきたのかを、見たのでしょう」
「ああ――はい」
はじめは確かに、それこそ「ミズ」のような液状で現れ、徐々に水色の輪郭を人の形に変化させていった。
「でも俺……そんな、変な本になんか触ってないし、この腹の傷は、ちょっと店の客とトラブルがあって」
「そのお客様に、なにか、血のようなものをかけられた覚えはありませんか?」
「…………!」
目の前で手首を切った有璃素の立ち姿が目に浮かび、ナギヒコは口を押さえる。あの血を、ナギヒコは確かに腹で受けた。
「有璃素ちゃん……俺が、その客に、その……ミズだかなんだかいうウイルスを、伝染されたっていうんですか」
「もちろん、そんな例は僕も聞いたことがありません。ですが、君は確かにクダとして、ミズを生んだ」
「そんな、ふざけんな、俺はあいつとなにも共有なんかしてない! あいつが俺を勝手に追いまわして、こっちはわけわかんないまま、変なことに巻き込まれてるだけだっていうのに」
「おそらく彼はミズとして不完全な状態なのでしょう。服を着ていない状態で現れたというのも、それで説明がつきます」
「なんだよ……どういうことだよ!」
思わず声を荒げたナギヒコを、眞浦は小首を傾げて見下ろしていた。
ラビットを、よろしく。
有璃素はたしかにナギヒコにそう告げていなくなった。ラビット? あれはどう見てもそんな柄ではない。だが、あの時、有璃素になにかを託されたという実感は、確かにナギヒコの中にあった。
「……ナギヒコくん、君は、彼に一種の慕わしさ……そう、彼の見かけや立ち居振る舞いに、好意を感じたりはしていませんか」
「は……?」
「というのも、ミズはそうやって自分の形を作るからです。僕は多くのクダを持つミズと接触してきましたが、彼らは本能的に、クダが護らずにはいられなくなるような姿をとってこの世に現れる。脳と同期した際に、記憶や趣味嗜好を読みとるようです」
「……!?」
「実際、僕に美少年趣味があるのは、君もおわかりでしょう」
照れたように頬をかく眞浦に、ナギヒコはぞっとしてシャツの胸を押さえた。眞浦が慌てたように「いやいや、安心してください。僕の好みは十代前半から半ばまでの少年です。君では育ちすぎです」と両手を前に出した。
「あ、あんた……あのルツくんて子に、まさかそんなことを……」
「……いいえ、ナギヒコくん。僕は「護らずにはいられなくなるような姿」と言いました。ミズは本当にいいセンを突いてくるんですよ。自分が危害を加えられず、なおかつ大切に扱われる存在として出現する。僕があの子にそういった欲望を持つことはありえません。そもそも僕は趣味に性欲を反映しないタイプなのですがね」
「…………じゃあ、なんだ? あいつは、俺が、あの全裸のムキムキなおっさんを護ってあげたくなっちゃう変態だと思って、あんな姿になったっていうわけ」
「いや……たとえば、お知り合いに似ているということはありませんか? 親しいご友人であったり、恩のある人物……」
「知らん。あんなおっさん、俺は見たこともないよ……」
「……ではやはり、そちらも不具合ということなのでしょうね」
不具合。自分の災難をその一言で言ってのける、眞浦という人物に、ナギヒコは疑問を覚える。
「あんた……いや、あんた達、いったい何ものなんですか。それに、神さまを目指すって、それは……」
「……話を整理しましょう。僕や聖くんがそうであるように、先ほど君の言った有璃素さんという方も、おそらくはミズだったと考えられます。ミズの目的、それは、クダでさえあれば一瞬で理解できることです。すなわち、戦争ですよ。ミズはミズと戦い、そしてそのミズを食うことによって、力を増幅させる。最後に残った、もっとも強いミズこそが、その魔力を糧に、神さまの座を手に入れる」
その目的のくだらさに、ナギヒコは思わず笑ってしまった。
「神さまに、なる……? 眞浦さん、まさか本気でそんなことを信じてるんですか。そもそも、神さまってなんですか。え?いきなりそこ、宗教入るんですか」
「信じていては、いけませんか」
「いや、いけないっていうか……」
「君もクダなのであれば、すぐにわかると思いますよ。いえ、もうすでにわかっているんじゃないですか。押し並べて、クダとして選ばれた人間はそうなのです。この世界の半分の醜さを、君だって知っているでしょう?」
「……」
「神とは、そういうことです。誰かに敬われるとか、富を得るとか、そんな浅はかな望みではない。君が憎み、許せないと感じたセカイを再構築し、ゆりかごとなって統べる力を得ることです」
眞浦の言葉には、力があった。逃げ場を失ったナギヒコは、もはや、こう問いかける他なかった。「眞浦さんは、そんなにまでして変えたい世界があるんですか」
「おや、これはまた、突っ込んだことを聞きますね」
眞浦はいたずらっぽく笑ってごまかした。
「質問に質問で返すのは僕の好むところではありませんが……君、消えたいと思ったことあるでしょう」
「えっ」
「死にたいとか、いなくなりたいとか、なんで生まれて来たんだろうとか」
「な……なんで、そんなこと聞くんですか」
「その問いかけが、間違っているのが自分ではなく世界だと信じるための第一歩だからです。そして、そういう人物だけがクダになる権利を得るのだと思います。その傷と同じく、自分の壊す世界を負うために」
次回更新予定:9/25(金)17:00