1-6:「World in the Water Project I」
BL展開……!?
目を覚ました時、ナギヒコは自分がどこにいるのかわからなかった。
ようやく焦点が合いはじめた目に、はじめに映ったのは、天井ではなかった。見知らぬ男の、無精ひげの生えた顔。
裸の男の、膝枕。
ナギヒコはコンマ2秒でソファから跳ね起きた。男の無防備な腕をねじりあげ、分厚い胸板を、ガラス製の茶卓に向かって叩きつける。卓上のものをひっくりかえす騒々しい音に混ざって、男は「むぎゅう」と呻いた。
気の抜けるような声に、ナギヒコはハッと我に帰る。男の腰には「13」と、あの不吉極まりないアラビア数字の刺青があった。
「……夢じゃ、なかったのかよ…………」
思わず呟いたナギヒコに、ぱちぱちと拍手が鳴る。
目を向ければ、部屋のドアを開けた少年、ルツが、ハシバミ色の目を輝かせて手を打ち鳴らしていた。
「すげえな、今の動き。あんた、実は忍者かなんかなの?」
「……人より育ちがよくないだけだよ」
男を押さえつけたまま、ナギヒコはいま置かれている状況を確かめる。
椅子と机こそあるが、彼が今まで寝かされていたのは倉庫のような場所らしい。部屋に所狭しと並べられた本棚と、その本棚からすらあふれ返っている本の山を見ると、書庫といったところだろうか。
ドアと窓は一つずつあるが、窓は嵌め殺しな上、本の劣化を避けるためだろう、暗幕が惹かれている。
「悪いなー、こんなホコリっぽいところに連れてきちまって。あんたが起きるまでは身動き取れなくてさ」
部屋に入って来たルツは、気さくな調子でナギヒコに話しかけてきた。
「…………いや……」
ナギヒコは体勢を崩さず、ルツの動きを観察する。
攻撃してくる気配はなかった。若いというよりはまだ幼い様子で、動きに身軽さはあるが、無駄も多い。この場所で武器になりそうなものといえば、分厚い本の角くらいなものだが、素手での殴り合いでも勝機があるのはナギヒコの方だ。――あくまで、常識的に考えればの話だが。
あの騒動が夢でないとすれば、この制服姿のルツよりもさらに幼いbに、ナギヒコが圧倒されたこともやはり現実なのだ。そう、現実だった。ナギヒコは嘆息して、ここに至るまでに起こったことを思い返した。
噴煙と豪雨が混ざり合い、くすぶったようになっているその中心で、裸の男は赤塚の前に倒れ伏していた。ふらふらと身を起こそうとした寸前、赤塚に顔を蹴りつけられる。
「飃殺捕捉を受けて、まだ息があるとはな」
「……! …………!」
「戻って、先にクダに始末を付けた方が早いか……bには、久々に食いでがありそうな獲物だ、これ以上、水を悪くするのはためらわれる」
踵を返そうとした赤塚の足を、傷だらけの男はしかし、力強く掴んだ。息も絶え絶えになりながら、赤塚の足首がきしむほど、渾身の力を振り絞っていた。
男の食いしばった歯から、はじめて言葉らしいものが漏れる。
「イッ……いいいいい、いか、いかせ、ない」
発声もあやしい、たどたどしい口調に、赤塚は眉をひそめた。
「……なんだ? おい、おまえまさか――、ミズの分際で、クダを護ろうとでも言うつもりか?」
「ナギヒコのトコ、ロには、いかせ、ない!」
男のひっくりかえった声には、しかし力があった。思わずたじろいだ赤塚の耳に、突如、走行音が響く。ヘッドライトを煌々とともした軽トラが、眼前に迫っていた。
「しっかり捕まってなァ!」
ナギヒコが荷台に引き上げられた次の瞬間、トラックは動き始めていた。車体に頭をぶつけたナギヒコを飛び越えて、ルツが運転席の真上に陣取る。
驚くほど身軽で、まるで猫のようだった。
「新手か!? 車ごと来るとは、まさかミチル型……っ」
「いーやっ、物理でねじこむグレーテル型だよ、ゲルダ型!」
ジャケットの裾をふわりとなびかせて舞い降りたルツが、赤塚の脳天に踵を落とす。後を受けるように、裸の男が赤塚を投げ飛ばし、そして吠えた。
「ナギヒコ!」
ナギヒコは、自分の名前を連呼して飛びついてきた男の重みに、荷台にしがみついているのがやっとだった。
ルツが再びトラックの上に飛び移ると、運転席の窓が開いた。あたりまえだが、運転している人間がいたのだ。荷台に向かって、親指を立てている。
『BENIKOシステム有線認証済みー……』
車内のステレオから、アナウンスが漏れ聞こえてくる。ナギヒコが公衆電話で聞いたものと同じ、かったるそうな女の声だった。
『空間移動装置、上へまいります』
まばゆいほどの水色に包まれるセカイ。
(あ……なんだ、夢、だな、これ……)
ナギヒコはそれきり、意識を失い――取り戻した時には、すでにここに寝かされていた。夢ではなかったのだ。その証拠に、裸の男はナギヒコの下で呻いている。
「――なあ、そいつ、離してやったら? あんたのミズなんだろ、悪さするわけないじゃないか」
ルツが見かねたように肩をすくめる。ナギヒコは少し迷って、男を解放してやった。見るからに怪しい、というか、腹から出現した時点で意味不明な存在だが、死にそうになっていたところを助けられたのは事実なのだ。
「……ミズ、ってのは、なんのこと?」
「ん? そいつが、あんたのミズだろ。で、あんたがそいつのクダ。え? なに、違うのか?」
ナギヒコが思わず見ると、男は顔に不似合いな屈託のない笑みを浮かべて、ナギヒコを見つめ返してきた。
「俺、こいつ……この人とは、初対面なんすけど」
見るからに年上なので言い方を改めたナギヒコに、ルツは「けど、あんたが生んだんだろ。あんたの――そう。傷が、さ」
赤塚の襲撃ですでにボロボロだったためだろう、ナギヒコも下着以外の服を脱がされていた。露わになった腹の傷をルツに指さされ、ナギヒコは押し黙る。
その時、開いたままのドアを、コンコンとノックする者があった。
「どうも、失礼します。着替えを持ってきたのですが――お邪魔だったでしょうか?」
「あ、眞浦ぁ。こいつらなにもわかってないみたいなんだけど」
「それはそれは」
トラックを運転していた男だ、と、ナギヒコは気がつく。右手首にはめている腕時計が、あの時、車窓から出て来た手が付けていたものと同じだった。本物かどうかはナギヒコにはわからないが、本物であれば、雨に濡らすのが恐ろしいほどの高級品だということは知っていた。
ナギヒコに着替えを手渡しながら、眞浦はにっこりと笑った。物腰は柔らかいが、どことなく人をばかにしたような笑みだ。
「眞浦と申します。この度はご愁傷さまでしたねえ」
「……ナギヒコ、です」
広げたTシャツには「萌え!」と極太の筆文字で書かれている。ナギヒコはTシャツと眞浦を見比べたが、なおも彼が笑みを崩さないので、大人しく袖を通した。どういうシュミの持ち主かはさておき、いざここから逃げるとなった時に、半裸のままでいるのは分が悪い。
眞浦はルツに紙袋を渡しながら言った。
「ルツ、お連れの方の着替えを手伝って差し上げてください」
「ん!? えっ、なんで物理装備なんか……。つーかおまえ、なんでいつまでもそんなカッコしてんだよ。クダが起きたなら動けるだろ」
「君がさっき言った通りですよ。おそらく、彼はミズの着替え方がわからないんです」
「えぇー……」
眞浦の言葉通り、裸の男はきょとんとルツを見つめかえすばかりだ。ルツは「しょうがねえなぁ」と、脱力して、男をソファから引き起こした。全裸の成人男性の手を、制服姿の少年が引いて歩くという図を見送り、眞浦は「さて」と言って、ナギヒコの真向かいに腰かけた。
「大変なことに巻き込まれてしまいましたねえ、ナギヒコくん」
「はぁ……。あの、ここは、どこなんですか。つうか、俺はどれくらい眠っていたんですか……それに、あの乗り物は……だいたい、ミズだのクダだのっていったい」
矢継ぎ早に尋ねようとして、ナギヒコはふと口を止めた。眞浦のうす笑いはすべてを見通しているようだった。
「一つずつお答えしましょう。まずこの場所ですが、僕の自宅です。
あのあと駅前は大変な騒ぎになってしまいましたのでねえ……ああ、自営業ですので、自宅兼職場と思ってくださって結構です。趣味が高じてネット古書店とでもいうようなものを営んでいます。ここはその倉庫といったところしょうか」
よかったらどうぞ、と、眞浦は懐から名刺を取り出して、ナギヒコに向けた。「古書取り扱い 落ち穂舎 眞浦明慶」とある。
「落ち穂……ミレーの、「落ち穂拾い」っすか」
「ご存知でいらっしゃる」
「いや、ホストやってたんで。いろんなお客さん来るんですよ」
十九世紀半ばにフランス画家・ジャン=フランソワ・ミレーによって描かれた名画だ。農村の収穫作業で取りこぼされた麦の穂を拾い集める3人の貧しい女達が描かれ――キリスト教的な隣人愛をあらわしていると言われていた。
「なるほど、ホストですか。すると聖くんの……」
「……聖さんを、知ってるんですね」
聖に教えられた電話にかけた結果、ルツと眞浦は現れたのだ。
「聖くん、彼は我々の仲間です」
「仲間」
「……ちょっとしたボランティアみたいなものですよ」
眞浦は茶化すように笑い、ソファから立ち上がった。
「僕と聖くん、そしてもう一人の仲間で、この理不尽な戦争の早期終結を目指して活動しているというわけです」
(戦争?)
「戦争ですとも……君が目を閉じて必死に逃げ続けていたというだけで、戦争は今でもあるし、ずっと続いているんですよ。ナギヒコくん」
ナギヒコはその時、眞浦が卓上で組んだ手、右手の親指の腹に大きな傷があることに気がついた。眞浦は立ち上がり、書架の間を歩き回った。
「話を戻しましょう。君とあの全裸の彼を連れて、我々は空間移動装置でここまで来ました。そうですねえ、かかった時間はおよそ十五分と言ったところでしょうか。おそらく誰の捕捉も受けなかったはずです。そうですね、今は夕方の6時ですから、だいたい二時間くらい君は眠っていたということになります。我々も多少は気をもみましたが、例の彼は、やはり、あなたを大事に思っているんでしょうね。見ていてかわいそうなくらいでしたよ」
「……あいつは、いったい、なんなんですか。あなたにはわかるんでしょう、眞浦さん」
「ふむ……」
書架の間から顔を覗かせた眞浦は「じゃーん」と言って、本の表紙を見せてきた。年恰好にそぐわない振る舞いにナギヒコは脱力する。
「なんすかそれは……」
「ナギヒコくん、君もホストなら、マヤ・アステカ文明のことはご存知でしょう」
「そんな……ホストやってたからって別に……いやっ、なんとなくは知ってますけどね、水晶ドクロとか、そういう……オカルトでしょう、要するに」
ナギヒコが慌てて言葉を繋ぐと、眞浦の打ちひしがれた顔に微笑が戻った。
次回更新予定:9/23(水)17:00