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ナギヒコくんと水色の戦争  作者: むらたけ
she sells seashells by the seashore.編
4/10

1-4:「無職はさいこう」

1-2時点ナギヒコくん

「俺は、大丈夫です。ちゃんと当てもあるんで、心配しないでください」(嘘)

 押し殺した笑い声とざわめき。そして、漫画本のざらついたページをめくる音。ヘッドフォンからシャカシャカと漏れるノイズ。

 隙間だらけの個室に漏れ聞こえてくるそれらの聴覚情報は、どこか遠い。ナギヒコはパソコンの前に座ったまま大きく背伸びをした。

 平日も午後をまわり、駅前のネットカフェ「はるふうぇい」は、学校帰りの学生客が集まり始めたようだった。受付とドリンクバーの周辺がそこそこに騒がしい。

(コーヒーのおかわりは、あの波が引いてからか……)

 手もとの紙コップが茶色く乾いているのを横目で確認し、ナギヒコは口をへの字にする。

 中学校こそお情けで卒業できたものの、彼は学生生活というものにとんと縁がなかった。いかにも青春を謳歌しているという風に、堂々と制服姿で闊歩している若い彼らを町で見かけても、どこか遠くの世界、それこそフィクションでも見ているような気分になる。セーラー服、学ラン、ブレザー……それらはナギヒコにとって、キャバクラで目にするものという印象の方が強いのだった。

 やれやれと凝った肩を回すると、彼は再びパソコンに向かう。液晶に映っているのは求人サイトの検索画面だ。退院と同時にホストを辞めた彼は、晴れて二十代学歴なし無職という、聞く人が聞けば眉を潜めそうな立場を手に入れたのだった。

「まあ、潮時だったしなあ……」

 少ない貯金を下ろし、かつてプレゼントされた時計やアクセサリーを質に入れ、まとまった額の金を作ったところで、たかが知れている。路上生活の経験もないわけではなかったが、一度そこに落ちついてしまうと今度こそ完全にまっとうな仕事に就けなくなりそうな気がした。

 まっとうな人間であれば、それこそ、次の職のあてもないのにホストをやめるべきではなかったと思うところかもしれないが、ナギヒコには確信があった。彼のドブをさらうような二十数年、その人生経験が培ってきた第六勘が、あの土地に長く留まるほうが危険であると告げていた。

 有璃素の微笑。あれはおそらく、世界の暗くて冷たい半分からもたらされる災いの合図だった。ナギヒコ自身だけではなく、ヨミやハジメ、ホストクラブの面々さえ巻き込みかねない、大きな災厄の。

「……中二病、乙。もいいとこだな」

 自嘲気味に呟きながら、ナギヒコは検索結果をスクロールする。寮付き、学歴不問となると、件数はかなり搾れた。職種にこだわらなかったとしても、こんなものだ。水商売を除けば、居酒屋、新聞配達、イベントスタッフというのもあった。

 ナギヒコは申込ボタンを機械的にクリックし、必要事項をキーボードで次々と打ちこんだ。携帯電話はホストクラブを辞めると決まった際に、ヨミに返してしまったので、連絡手段は無料で取得できるフリーメールのみだ。

 詳細情報を開くたびに目につく年齢制限を、ナギヒコは意識して見ないふりをした。こんな風に適当に仕事を選んでいられるのも、二十代のうちだけなのだろうということは、知識としてはなんとなく知っていたが、だからと言って何をすればいいのかなど、到底思いつかない。

 ふと、新規タブを開いて、「あさぎ園」で検索をかけてみる。それが、ナギヒコが中学を卒業するまで暮らしていた養護施設だった。母体は北関東に位置する神社だが、法人化して福祉事業部を設立後は、境内の一部を養護施設として解放している。そのため、日課にはお参りが含まれており、ナギヒコも同じ境遇の子ども達と毎朝いやいやながら本堂で手を合わせていた。

 公式サイトには、子ども達の日々の生活をつづったブログへのリンクも貼られていた。なんとなくクリックしてみて、ナギヒコは笑ってしまった。

「ミユキさん、老けねえなあ……」

 先週更新されたばかりの記事に、園長である叔母の写真を見つけた。四十はすでに越しているはずだが、艶のある長い黒髪といい、肌の張りといい「おねえさん」と言って通用する若々しさである。

 中学卒業とともに、逃げるように上京してからは、一度も連絡を取っていない。年端も行かない少女に刺された今となっては、なおさら戻ることもできなかった。

「……100均行って、履歴書でも買ってくるかぁ」

 リクライニングルームを出ると、スタッフが漫画本の配架に、本棚を右往左往していた。額に汗をかいてさまよっているところを見ると、どうやら新人らしい。ナギヒコがドリンクバーの前でおかわりを済ませ、紙コップをゴミ入れに捨てても、まだ棚の間をさまよっている。ナギヒコは余計なお世話と知りながら声をかけた。

「おねーさん、少女誌系はあっちですよ」

「えっ」

「ちなみに雑誌は出入り口のそば。俺、外出するんで、ついでに持ってきましょーか」

 あからさまに不審だっただろうか、彼女は目をシロクロさせてナギヒコを見つめている。ほほえみかけてみると、おだんごにまとめた髪のてっぺんから、ボンと蒸気を上げて赤面した。

 まだ接客業に慣れていないらしく、ナギヒコが雑誌と分厚いマンガをいくつか受け取って手伝いにかかると、あたふたと後をついて来た。

「おやおや」

 雑誌を片手に受付の前を通ると、顔見知りのスタッフが、ほほえましいものでも見たかのように、丸眼鏡の奥の瞳を細くした。

「常連さんに手伝わせちゃ駄目だよー蛍ちゃん。それもナギヒコくんに」

「あっ、すっ、すいませんっ」

「俺がナンパしたんすよ、藤丸さん」

「あれ? じゃあお邪魔しちゃいましたか?」

「そっ、そんな、えっと、えっと……!」

 藤丸が海藻でも載せたようなもじゃもじゃ頭をかしげると、蛍はさらに赤くなって両手をばたつかせた。ナギヒコは笑って藤丸に雑誌を渡した。

「ああ、ナギヒコくん。外出されますか」

「はい、まあ、すぐ戻ってくるんでー」

「それはそれは。行ってらっしゃいませ」

 恭しく頭を下げる藤丸のエプロンの胸で、キャラクターものの缶バッチがカラカラと音を立てる。ナギヒコは「またね、蛍ちゃん」と片手を振って、出て行った。

「……蛍ちゃーん……?」

階段を降りる音が遠ざかるのを確認して笑みを深くした藤丸に、蛍は土下座する勢いで頭を下げた。

「すいませんっすいませんっ、マジすいませんっ、今日中にちゃんと棚の場所把握しますっ」

「うんー……わかるよー? ナギヒコくん、綺麗な顔してるもんねえ。いきなり話しかけられたら、びっくりするよねー」

「は……はい……。あ、あの人って常連さんなんですか?」

「うん、それこそ、俺がこの店に入ったくらいの時から来てるかなあ。そうか、うん、七年前か」

「な、なな……!?」

「まだ高校生くらいだったのかなあ。うち、登録とか年齢確認とかしないでしょ、ちょーっと見てて不安だったりしたんだけどね。あの頃は目つきもきっつくてさあ」

 藤丸の丸眼鏡に映っているのだろう、幼いナギヒコの姿を、蛍は食い入るように見上げたが、そこには彼の小さな黒い眼があるばかりだった。

「で、二か月くらいいて」

「にかげつ」

「まだネットカフェ難民って言葉も一般的じゃなかったからねえ。金はちゃんと払ってたけど、そろそろ通報した方がよくないですかあって店長に言おうとした頃、ふっといなくなって、またしばらく来なくて」

 藤丸も忘れかけていた頃に、まるでイタズラ好きの猫のような態度で、ひょっこりと顔を出したのだと言う。

「最後に来たときは、ホストになりましたー、とか言ってヘラヘラしてたけど、なにやってるんだろうねえ、あの人。危ないことしてなきゃいいんだけど」

 レジロールを交換しながら、藤丸はまるで一人ごちるような調子で言った。

「美形もあそこまで来ると、見ててなんだか不安になるよね。夢か幻かみたいな調子でふーっと消えちゃうんじゃないかと思うよ。じゃなければ、なにかすごく怖い事件とかに巻き込まれたりとかさあ。そういうのが似合うって言ったら、失礼なのかなあ」


 大きすぎるビニール袋に入った筆記用具と履歴書を片手に、ナギヒコは100円ショップを出た。傘立てからビニール傘を取って広げると、白字でプリントされた「はるふうぇい」のロゴがでかでかと広がる。泊まり客向けにサービスで貸出されている傘だ。

 ホストになってからしばらく足が遠のいていたが、いい店だと思う。店を取り仕切っている藤丸の人柄のためか、来る度に掃除が細かいところまで行き届いているし、漫画本の管理もしっかりしていた。

 彼らもまた、ナギヒコにとって、巻き込んではいけない人種だった。

 信号待ちのあいだ、クルクルと傘の柄を回していたナギヒコは、ふと瞼を閉じ、口許に微笑を浮かべる。それは前を横切った車の運転手が思わずよそ見をしてしまうほど蠱惑的な笑みだったが、「ったく……」次に目を開いた時には、まったく間逆の表情に切り替わっていた。

「しつけぇんだよなあ……いーかげん」

 対岸にある銀行の自動ドアに、群衆の中でただ一人、傘を刺さない男の姿が、彩度を欠いて灰色に映り込んでいる。

赤塚。

退院した直後から、ネットカフェにこもりきりになってもなお、振りきれずにいる男の視線だ。

 信号が赤から青へ切り替わる。

 ナギヒコは服のフードを目深に被り、目立ちすぎる傘を畳んだ。幸い小雨だ。「はるふうぇい」の前をまっすぐに横切り、大通りの雑踏を抜けて、路地裏へ潜り込む。慣れ親しんだ町で、地図は頭の中に叩きこまれている。

 一度右折し、胴の折れまがったバックミラーで背後を確認する。男、赤塚は、馬鹿正直に追って来ていた。ナギヒコは足を緩めずに直進する。数年前に潰れたホテルが、今も手つかずになっていることを覚えていた。

 裏口の階段まで誘いこんで待ち伏せしようとしたその直後――ナギヒコは思わず声を上げて笑ってしまった。

「おい、おい……あんた、瞬間移動でもできんのかよ……」

 赤塚は、まさにナギヒコが目指そうとしたその場所に立っていた。思わず後ずさるナギヒコを氷のような眼差しで見下ろし、ゴキンと肩を鳴らした。

「……骸骨の成る樹を、見たことはあるか?」

 どさりとブリーフバッグを手放し、ネクタイを緩める。

「《見る》ことを禁じられたその樹に近寄るのは、世間知らずの少女くらいなものだ。死は生をあらかじめ内包している。愚者と賢者の別などない。神から教えを受けたのは禁忌を犯した少女のみ――」

「……た、ただのストーカーかと思ったら、まさかの電波野郎かよ……」

 震え声で軽口を叩くナギヒコに構わず、赤塚はぬるりと得物を構える。ナギヒコの目には剣のように見えた。ただし、刃の先がほとんど錐のように尖っているのが気になったが。

「チャルチ・ウトクリエ《水の妹》の名のもとに、これより処刑を遂行する」

 飛びかかってくる姿勢に迷いはなかった。

 初撃、これはよけ切れた。

 顎を退いて飛びのけば、剣の先が耳の脇をかすった。血球が八つに割れるのをナギヒコは空気を裂くような音で感じ取った。

 反応が遅れていれば、ナギヒコの脳髄が同じことになっていただろう。

 だが。

「脇が甘ぇよ、電波野郎」

 空中でがらすきになった足首を、ナギヒコは鷲掴み、ぐるりと振り下ろした。アスファルトに叩きつけられ、左手に持ったビニール傘の先端を蹴りあげる。

 赤塚の股間を腹を胸をなぞりあげた傘の先は、彼が受身を取った時には、その眉間にぴたりと突きつけられていた。

「伊達にこのツラで二十ウン年生きてきたわけじゃないんでえ……ナメてんじゃねえぞ? あ? あ? あ?」

 こつこつこつと土に汚れた傘で眉間を打たれながら、赤塚はぴくりとも動かなかった。否、動けなかった。

 アスファルトに尻餅をついた状態から立ち上がるためには、腰に預けた重心を一度、足裏の支持基底面に移す必要がある。腰を折り曲げ、上体を前に移動させ、膝を少し曲げなければ支持基底面には重心は乗らない。重心移動が正確に行われる前に立ち上がろうとしても、後方によろけてしまう。

「なるほどな……ああ、こうして見りゃ、無職もそう悪くはないかもな」

 ため息をつくとともに、ナギヒコはひどく馬鹿馬鹿しそうに笑った。

「やりかえせば誰にメーワクかかるとか、そんな心配しないでいいわけだ。ああ、まったく、無職最高だぜ」

 鉄面皮を崩さない赤塚に同意を求めるように首をひとつ傾げ、ナギヒコは傘をくるりと回転させて肩に担いだ。

「どーせあんたも山瓜嵐のファンなんだろうけどさあ、俺、あの人と関係ねーんで……これに懲りたら、もー俺を追いかけ回すのは…………ッ!?」

 踵を返し、五メートルほど離れたその場で、ナギヒコは身に震えを感じた。

 うなじに浮き上がった脂汗が、背中に冷たく伝い落ちていく。

 まるで腹の中を掻き混ぜられるような感覚に、胸から吐き気がこみあげる。赤塚が動いていないのはわかっていた。背後にあの刺さるような視線をまざまざと感じている。

(下を、見るな。見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな)

 異臭。

 ナギヒコは思わず手で口を覆い、うつむいてしまう。うつむいてしまった。bはそこで、白目とも黒目ともつかない極端に色素のうすい瞳を、ナギヒコに見開いていた。

「アー、ソ、ボ」

 

蛍ちゃん(19)

体育大学の1年生。バイトははじめてということもあり、いっとき辞めるかどうか悩んだこともあったが、ナギヒコが常連客と知ってシフトを増やすことにしたらしい。

次回更新:9/18(金)17:00

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