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ナギヒコくんと水色の戦争  作者: むらたけ
she sells seashells by the seashore.編
3/10

1-3:「melon! melon! ...melon?」

※メロンはスタッフが美味しくいただきました。

 ハジメに乱暴なやりかたで渡された見舞いの品は、メロンだった。桐の箱に収められたそれをナースステーションにそっくり譲り渡し、ナギヒコは深いため息をつく。

「……病室、居心地悪かったしちょうどよかったけどさあ」

 まさかメロンとは思わなかった、と、ナギヒコは一人ごちる。意識不明で担ぎこまれた彼の手元には当然、果物ナイフなどなく――あったとしても、自分の腹を裂いた得物を扱う気分には、まだなれなかった。

 偶然ならばまだいいが、ハジメのことだ、恐らく確信犯だろう。遠回りな嫌がらせだ。手のかかる後輩に、今後の身の振り方を考えさせようとしているのは、なんとなく察しがつくが。

 ナギヒコは二度目のため息をつき、談話室のドアを開けた。入院患者と見舞客のために解放されているそこは、自動販売機と座るスペースがいくらかあるだけの簡素な空間だが、喫煙所を兼ねているベランダが併設されているためか、混み合うこともある。

 今日は平日で見舞客が少ないせいか、持ってきた新聞を広げるには十分なスペースがあった。すこし前にハジメに投げつけられたそれを、ナギヒコは白いテーブルに広げる。

 一面を飾る『第一回総国民健康診断、結果送付はじまる』の大見出しから、雨模様が続く週間天気予報までざっと目を通して、ナギヒコはうす笑いを浮かべた。彼が腹を刺された一件は三面記事にさえ取りあげられていなかった。

 あたりまえだ、すでに数日経っているし、事件性を否定したのは被害者であるナギヒコ自身なのだから。

 やはり、こういうものなんだな、とナギヒコは人ごとのように思った。彼の生死は大多数の人間にとってはどうでもいいことで――それよりも、全国民が義務づけられたあの健康診断の結果表の見方について知るほうが、ずっと大切なのだ。


『ごめんね、ナギヒコくん。もうわたし、こうするしか他になかった』


「なんだよ、それ……」

 脳裡に亜璃素の微笑が甦って来て、ナギヒコは両目をギュッとつぶった。指名ホストになって長いが、あんな彼女の声は聞いたことがなかった。

 針山亜璃素。《破璃鼠》の少女。

 はじめてナギヒコを指名したときも、彼女は全身の毛を逆立てた小動物のような出で立ちでいた。今どき珍しくもないゴシックロリータの全身武装に、手首のリスカ痕を、まるで自らを守る盾のように見せびらかしていた。

『心のない悪に、瑠璃玉薊の璃、素寒貧の素で、アリスと読むの』

 ホストクラブの客としては、決して珍しいタイプではない。傷痕をわざと見せつけるように卓に手を組む有璃素に、ナギヒコは営業スマイルで応じた。

『かっこいい名前! 改めまして、ナギヒコです。今日はぁ、ご指名ありがとうございまーす』

 ごちそうさまです、と、グラスをかちんと下から合わせたナギヒコに、亜璃素はにこりともしなかった。

 こくこくと飲み干し、タンとグラスの底を卓に叩きつける。

『わー、有璃素ちゃん、お酒強いねえ』

『ナギヒコくん』

『うん?』

 すかさず二杯目を作りながら見ると、有璃素は茹でタコのような顔をしていた。

『わらひ、ナギヒコくんに会うために生まれてきたの!』

『ん!?』

 情熱的な一言とともに胸に倒れ込んできた有璃素を、ナギヒコは酒のボトルを放り出して受け止めた。直後、彼が聞いたのは『うおええええ』という激しい呻き声だった。

 女に腕の中で吐かれたのは、それがはじめてだった。

 そういう子だったのだ。ハタチを過ぎたばかりの、虚勢を張るのだけは一人前の、まっとうであたりまえな女の子。理由もなく笑って人を刺せるような子じゃなかった、と、ナギヒコは思い返す。

 夜の仕事をしていると、理性を失った人間を相手取ることはままある。やはり、職業に貴賎はあるのだ。ホスト狩りというのもすこし前に流行った。男のくせに女に媚びて金をもらっているのだから、社会のダ二扱いを受けるのは当然だと、面と向かって言われたこともあった。

 夜の街で絡まれて、腹を殴られ、土下座を強要されても、ナギヒコはすこしも怒る気になれない。よそでなにか嫌なことがあったんだろうなあと同情してしまうくらいだ。

 こういった痛みは大抵この社会では持ち回り制になっていて、弱者がさらに弱者をいじめ、またその弱者が弱者をいじめるという連鎖的なしくみができている。弱者の振るう暴力には、いつもためらいがない。そういう風にいじめられてきたから、力加減がわからないのだろう。気がついた時にはあっさりと人殺しになってしまうこともよくあるようだ。

 気がついていない人の方が多いようだが、この世界には昼でも夜でも、目には見えない弾丸が縦横無尽に飛び交っていて、誰もがそれを寸でのところですり抜けて生活している。まるでコンビニで買い物をするようなあたりまえさで、人は簡単に世界の表と裏を行き来している。ナギヒコはそのことを子どもの頃から肌で感じていた。いつだったかヨミにその話をした時、彼は『コンビニで買い物するあたりまえか』と、苦笑した。二十四時間営業の店で金を払って品物を得るのを当たり前とするあたりが、この国のいびつな平和を物語っていると、話していた。

 有璃素も、きっとそういう世界を見ていたのだろうと、ナギヒコは思う。美しくて温かみのある世界の、もう半分は、暗くて冷たいと知っているから、手首にあんな痕を残すまねをするのだろうと、そう思っていた。

 本指名をナギヒコに決めても、彼女が過去にあったできごとを打ち明けることはなかった。そのぶん、店に来るたびにナギヒコの他愛もない話を聞きたがった。

 カップラーメンのおいしい食べ方とか、あの女優とあのお笑い芸人はできていると思うとか、近所にいるかわいい野良猫のことなどを、ナギヒコはまんべんなく話した。そんなとりとめのない話題のうちに、きっとホスト寮の場所を特定できるものはあっただろうとは、もちろん、推察できるのだが。

(でも、はじめから俺を殺すつもりで近づいてきたわけじゃ、きっとなかったはずだ)

 自分の接客のなにが彼女を暴挙に走らせたのか、彼はぼんやりと思いかえす。新聞に取り上げられない、事件性のうすい事件だったとしても、二十を越えた彼女が警察を呼ぶ事態を招いたことは、経歴の傷として一生つきまとうだろう。それはこの世の中では肉体の傷よりも恐ろしいことだ。

(悩んでいたのかもしれない、もっとちゃんと話を聞いてあげるべきだったんだろうな……)

 そういえば、彼女は最後になにかを言いかけていたのではなかったか?

『ナギヒコくん、―――――――よろしく』

 ギターの弦に爪がかかったかのように、彼女の声が鳴った気がした。

『――――のこと、よろしく』

 その瞬間、ナギヒコは、背筋が ゾクリ と波打つのを感じた。

 異臭。

 手。

 小さい、手。

 膝にひたりと載った手に、危うく椅子から転げ落ちそうになる。テーブルと腹の隙間に、しもぶくれた子どもの黄色い顔が浮いていた。

 ナギヒコは思わず頬杖を崩した。テーブルの下に潜り込んだ小さな子供が、ナギヒコの顔を凝っと覗きこんでいるのだった。

「あ…………うっ……わっ……」

 無意味な声を、ナギヒコは必死に呑みこんだ。

 頬をひくつかせながら「あ、ボク……どうしたの……?」と、それらしい言葉を子どもにかける。「お父さんとか、お母さんは……」

 親の姿を探すふりをしつつ、ナギヒコは一刻も早くこの場から離れようとしていた。気が付くと談話室には彼と子ども以外誰もいない。脳で、シグナルが鳴っていた。この子どもは危険だと告げている。

 それは、見ただけで不潔だとわかる子どもだった。

 鼻先を覆うほど伸びた前髪。肌はうす汚れ、漂う異臭はもうずいぶん風呂に入っていないことをたやすく想像させた。身につけている服と来たら、まるで雑巾だ。背丈はナギヒコの膝ほどしかないが、本来の年齢は読みとれなかった。虐待を受けた幼児、死にかけた老人、栄養失調の中学生、どうとも取れるような姿をしている。前髪の奥に、光の無い眼が黒々と透けていた。

 ナギヒコは息を呑み、改めて椅子を引こうとしたが、できなかった。万力のような力で膝を押さえつけられている。ぼろきれみたいな輪郭から想像もできない力にナギヒコはもがいたが、しかし、小さな手は緩やかに伸びて来た。

 腹の傷に来る。自然、緊張するナギヒコの腹筋に向かって、子どもは少しも勢いを殺さなかった。

「…………あっ?」

 子どもの鳥ガラのような腕が、肩までずっぷりとナギヒコの腹に通っていた。椅子の背もたれまで貫通した子どもの手を振り返り、ナギヒコは絶叫した。

「あっ、あーっ!! うわっうわあっああーっ!!」

(やめろ! やめろやめろやめろやめろ!)

 舌先まで吐き気がせりあがってくる。じかに内臓を掻きまぜられている感覚にナギヒコは身をよじって抵抗した。汗と涙で、あるいはショック症状で、視界がぐにゃぐにゃと歪む。ぶりかえすような腹の痛みに、ナギヒコの鼓膜は震えた。あの晩の有璃素の声の形を、はっきりと言葉として掴み取る。


『ラビットのことを、よろしく』


 それを合図に、ナギヒコの視界はぶつんと途切れた。


『ナギヒコくんなら、できるよ。きっとできる』


『世界に祝福されなかった子どもにも世界を祝福できるんだって、いつかはみんなわかってくれるって、信じたいんだ……』


『ねえ……ナギヒコくん』


 次に目を覚ましたとき、ナギヒコは頭に電極を付けられていた。青みがかった部屋の中に人影が見える。パソコンの液晶画面の前で白衣の背中が丸まっている。担当医の茂地村だった。

「あっ、起きちゃいましたかあ?」

「お……俺、どうなって……」

 茂地村は椅子に座ったまま、スルスルとナギヒコの前まで移動してきた。胸ポケットから取り出したペンライトで光を追う瞳の動きを確かめる。

「椅子に座ったまま後ろ向きにひっくりかえっちゃったんですよ。脳波に異常はないので、軽い脳震盪かと思われます」

「の……脳、しんとう」

「それでね……えっと、ナギヒコくん」茂地村は一度カルテに目を落とし「特に問題がないようだったら、明日の朝には退院ってことになるんですけど、大丈夫ですか?」と言った。

「あ……ああ、はい、平気です」

「誰かおうちの方とかお迎えにいらっしゃいますかね」

「いえ……」

「仕事の方とかもお見えにならない?」

「……はい」

「あー、そお。じゃあ、まあ、退院されてからなにか頭が痛いとかいうことがありましたら、またいらっしゃってください」

 茂地村はゴマ塩頭を手で掻き、再びパソコンに戻った。あまり熱心な医師ではないらしく、画面の端にマインスイーパーが表示されていたが、ナギヒコは特に指摘しようとは思わなかった。

「あの……さっき、変な子どもが……」

「はい?」

 肩越しに振りかえった茂地村に、ナギヒコはなにも言い出せなかった。患者衣ごしに触れる腹部は、数時間前と変わらず、しっかり縫い合わさっている。 

 ナギヒコは浅くため息をつき、検査室を出た。廊下の窓には雨が激しく打ち付けていた。


 同じころ、病院のエントランス前で、警備員が一人の男を見かけている。不吉な黒いネクタイを首に巻いた、会社員風の出で立ちで、なんの逡巡もなく屋根の下から出て雨脚の強い中をつかつかと歩いて行った。

 警備員は思わず身を乗り出して彼の背中を見つめたが、滝のような雨の中、男の黒い背中はすぐに警備員の視界から離れた。

「はい。こちら、赤塚」

 スーツの胸ポケットから低く短い呼び出し音が鳴る。その男、赤塚は胸に左手を差し入れて電子端末を口に近づけた。

「……クダとの接触に成功。予想通りミチル型と思わる」

 不思議なことに、雨はまるで男の輪郭を避けるように降っていた。いや、まるで雨粒のひとつひとつが、彼を包みこむ水色の気体に吸い込まれているかのようだった。

 短く切り揃えられた黒髪も、筋肉に盛り上がった肩も、少しも濡れておらず――そして、彼の右手の先には、それまではいなかったはずの、あの、ぼろきれのような少年の手が繋がれていた。

「処刑、了解。以後も監視を続行する」

 電源を切った端末を再び胸にしまった赤塚は「b、」と、その子どもを呼んだ。「例外はない。妹の名のもとに、あのクダ、生贄に捧げるぞ」

 まるで意思の無い人形のように、赤塚に引きずられて歩いていた子どもの顔に、その時、はじめて表情らしきものが浮んだ。笑っていた。輪郭が変わるほど歯茎を剥き出しにした、明らかな喜悦の表情だった。



茂地村先生(55)

あだ名はモッチー。世代的に山瓜嵐のことも知っているのだが、ナギヒコの顔を見てもどこかで見たことがあるような……程度にしか思い出せない。


次回更新:9/16(水)


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