1-10:「ナギヒコくんと水色の戦争」
男の見つめる先には……!?
男はうすく目を開く。手の甲に凍った糸のようなものがふれた。指ですくいあげる。目には見えないが、確かに掴んだ。
男は水色の息を吐いた。
「ナギヒコ……?」
糸の先にいるはずの相手は、ふとんから脱け出していた。
いっぽう、ナギヒコは夜の町をあてどもなく歩きまわっている。
町から町へと放浪しつづけてきた彼には独特の勘があった。たとえ見知らぬ土地であっても、どちらへ歩いて行けば主要な駅と道路があるのかがわかるのだ。
彼の勘によれば、しばらく歩かなければ住宅地からは出られそうもなかった。欠けたブロック塀に手をつき、周囲の気配をうかがいながら歩いていく。
また気違いじみた男にコテンパンにのされるような、ひどい目には遭いたくなかった。
(ミズとクダだの、聖獣だの、俺の知ったことかよ……)
ナギヒコはただ、無難に、まっとうに、当たり障りなく生きていたいだけだ。いくら生まれ育ちが人よりよくないからといって、それくらいは許されるだろうと彼は思う。
(戦争なんて、やりたいやつが勝手にやってりゃいい。なにが神さまになるだ、アホかあいつらは。そんなことができるなら、俺は――)
『君が憎み、許せないと感じたセカイを再構築し、ゆりかごとなって統べる力を得ることです』
脳裡に甦った眞浦の言葉に、ナギヒコは奥歯を噛みしめた。
(俺はどこまで遡ればやりなおせるんだよ……!)
有璃素に目をつけられなければ。ヨミに拾われなければ。どぶのような都会の闇に浸かった数年間さえなければ。「あさぎ」を飛び出さなければ。穴だらけの記憶を彼はたどる。――生まれてさえ来なければ。
「ううっ……」
脳を爆発させそうな自虐的な思考を、ナギヒコは額を押さえて振り払う。
とにかく彼は、自分を縛る運命から逃げなければならなかった。具体的には、あのミズとかいう生き物から離れる。職探しという日常に戻る。今ごろ、申込には返事が来ているはずだ。「はるふうぇい」でパソコンさえいじれれば、逃げ道もおのずと見えて来る。
コンビニエンスストアの灯りが見えてきて、ナギヒコはほっと嘆息した。まるで遠い世界から戻って来たような漢学がある。
その刹那。
「ナギヒコ!」
駐車場で大きく手を振る男の姿に、彼は息を呑んだ。眞浦から借り受けたままの「おっぱい」Tシャツに、スウェット。
ナギヒコは本能的に踵を返した。
(な、なんでいる)
駆けだす。だがそれが無意味な行為であることは、ナギヒコが一番よく知っていた。
「ナギヒコ、オレ、ナギヒコを、捕捉できるようになった!」
背後にぴょんと飛び跳ねたと思えば、交差点の角からニコニコ顔を覗かせる。ナギヒコは冷や汗をどっと掻いた。
「これで、ナギヒコがどこへ行っても、すぐに見つけられる」
「ふざけんじゃねえ!」
街灯にぶら下がっている男を、ナギヒコは下から怒鳴りつけた。
「俺にこれ以上つきまとうなっ。しまいにはブッ殺すぞ!」
「? え? まって」
「迷惑なんだよ、こっちは自分のことで手いっぱいなんだ! どっか行けバカヤロー」
うきゅううう、と、まるで小さな子どもが涙を飲むような音に、ナギヒコはぎょっとする。男の顔は、街灯の上に立っているせいで光があたらず、見えなかった。
目を凝らした時には、もういなくなっている。
瞬いたナギヒコは、軽い喪失感に我ながら驚き、しかしその実感がg現実になるよりも先に、早足で歩き始めた。まずは駅まで行って、ここが一体どこなのかを把握することが必要だ。手持ちの金は少ないが、カードで下ろせば、まだなんとかなる。
ナギヒコはあんな化物にかかずらっている場合ではなかった。だというのに、急に足取りが重くなる。頭が痛い。脳を掻きまわされているようだ。
「あ……っ?」
やっとのことでバス停を見つけ、ベンチにへたりこむと、生ぬるい吐き気が胃からゆっくりとこみあげた。
「なんだよ……死ぬのか、こんな所で……はぁ……?」
「死にませんよ」
予想しなかった返事に顔を上げると、前に人が立っていた。くわえタバコの火が揺れて、顔がわかる。眞浦だった。
「……っ」
「ひとつ、言い忘れたことがあったので、慌てて追いかけてきたんです」
慌てて逃げようとするナギヒコに、眞浦は淡々と告げる。
「な……なんですか」
眞浦は口から取ったタバコを、指で弾き飛ばした。庇の下から出れば、雨に濡れて火は消える。
(雨?)
ナギヒコは呆然と立ち上がり、道路へと降りた。深い水たまりに足をつけ、息が止まるかと思った。バケツをひっくり返したような雨に包まれながら、彼の体は少しも濡れてはいないのだ。
「これは我々もまだ原理を解明していないことですが、クダが交戦する際には、必ず雨に降られます。この雨は、おそらく低気圧の影響でしょうが」
眞浦は濡れたタバコを、懐から取り出したティッシュに包んで回収した。彼もまた、雨の中ですこしも濡れずに立っている。
ただその指先、親指の傷を基点として、体が淡い水色の光を放っている。そう気付いた瞬間、ナギヒコは我に返った。自分もまるで同じだった。腹の傷から漏れた水色の光が、彼の全身を包みこんでいる。
まるで蛍かのように。
「なんすか……これ」
「クダの証ですよ。君が……彼と繋がっている証拠です」
眞浦が、バスの時刻表に向かって手を振る。すると、その物影から男が姿を現した。水色の光を、まとっている。
「だから、なんなんですか……こんな……これじゃもう、夜道、歩けないんですけど」
「……君ねえ、あんな経験をして、二度も死にかけておいて、まだ人間のつもりでいるんですか?」
「は……」
眞浦はひどくかわいそうな生き物を見る目で、ナギヒコを見つめた。ナギヒコは喉が渇くような心地がした。
「俺は、もう人間じゃないんですか」
「……ナギヒコくん」
「俺はもう、人間じゃなくなっちゃったんですかッ!?」
「ナギヒコくん。ミズが、クダの大切な存在として顕現するという話はしましたね」
眞浦は答えず、そして、ふっとナギヒコから視線を逸らした。その先に、間抜けなTシャツを着た男が、おどおどと立っている。
「戦って世界を変革する力を得るのも、戦わずに聖獣に狩られるのも君の自由ですよ。なんなら、私がルツに君たちを食わせたっていい」
眞浦が親指の傷をなぞると、そこから漏れる水色は濃くなった。ルツが来ているのだとナギヒコは感覚として理解する。
「でも、ミズのことは護るべきだ。年長者としての忠告です。たとえ不具合によってもたらされたミズだとしても、彼を失えば、君は大きく損なわれる。大切な存在を失ったあとの人生なんて、泥のようなものですから」
姿を見つけてもナギヒコが怒らないのを察知したからだろう。男はそわそわとこちらに近づいて来ていた。
眞浦の語った精神論はともかく、ナギヒコが男の姿をみとめて吐き気が薄れたのは事実だった。ミズとは、そういうウィルスだということなのだろう。
ナギヒコは顎を上げ、ため息をついて、男へ歩み寄った。背後で、眞浦が笑い混じりの声で、彼をこう歓迎する。
「ナギヒコくん。水色の戦争へ、ようこそ」
「萌え」と「おっぱい」の邂逅……!