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ナギヒコくんと水色の戦争  作者: むらたけ
she sells seashells by the seashore.編
1/10

1-1:「スマイル&スマイル」

デデーン!

「許してね。ナギヒコくん、わたしもう、こうするしか他になかった」

 額から流れた汗が顎で滴り、有璃素の肩に落ちる。漆黒のレースはしずくを弾いてひらひらと揺れた。《破璃鼠》こと針山有璃素は、いつも店に来るのと同じようなゴスロリファッションで、いつもと同じようなぼそぼそした声で、ナギヒコの腹に刃渡り十二センチの果物ナイフを深々と刺していた。

「ぐ、ぐ……あ……有璃素、ちゃ……」

「しゃべらないで」

《破璃鼠》とは、むろん、彼女の本名にひっかけてナギヒコの仲間たちが呼び始めたあだ名みたいなものだが、指名ホストとなって有璃素と接する機会が増えた彼には、それがあながち的外れな呼称ではないことは、すでによくわかっていた。

 感性が、尖っている。

 尖っていて、透きとおって、なおかつ脆かった。

 卓について喋っていても、確かに毛を逆立てて弱い皮膚を守ろうとする、あのモグラの仲間である小動物を連想させられることは多かった。だからと言ってこうして腹を突き破られる日が来るだなんて想像したこともなかったが。

 有璃素の肩越しに望む、玄関を出てすぐの廊下が、いつもと同じ眺めであるのが奇異なほどだった。ホストクラブYOMIの寮として使われている大手マンションの、三階。他の階も風俗店や水商売によって埋め尽くされているという話はナギヒコも知っていたが、なるほど、掻き入れ時であるこの時間帯は、安定の人気のなさだった。

「あ……有璃素ちゃ、アッ!」

 ナイフを握った手の甲を無言で返されて、ナギヒコはドアに向かって倒れ込んだ。ドアノブを握ったままの手に感覚はない。玄関を濡らすほど脂汗で濡れて震えているというのにだ。

「だ……だいじょうぶ、ナイフ、離そう、な……」

 左手はまだ、どうにか動いた。亜璃素の手に手を重ねると濡れる。凪彦の血だった。触ってみると、ネイルアートをほどこした爪が小刻みに震えている。彼女の手首には六つ、これまでに自分を痛めつけてきたのと同じだけのリスカ痕が刻まれているが、人を傷つけるのと自分を傷つけるのとではやはり具合が違ったようだ。そこに確かにある怯えを受け取って、ナギヒコは声を絞り出した。

「俺は、ヘーキ、大丈夫、亜璃素ちゃん」

「ナギヒコくん……黙って……」

「医者に、行くから。こういうのって俺たちの世界じゃよくあるんで、気にしないで。俺は、丈夫だし、亜璃素ちゃんが本当はこういうつもりだったんじゃないって、わかる、わかってますから、俺」

 その時、亜璃素はたしかに手を緩めた。悲哀に満ちた顔を伏せ、しかし、再び顔を上げた彼女の眼差しに、凪彦はぞくりとする。

 有璃素は、微笑を浮かべていた。

「ほんとうに、ごめんね」

 ナギヒコの体が緊張しきるまえに、亜璃素はナイフを強く引いていた。ほとばしる鮮血に覆い被さるように彼は地へ伏し、とどめとばかりに蹴りつけられる。仰向けに転ばされれば、もう起き上がることもできない。

 そして有璃素は、その上腕に七つ目の傷痕を刻みつけるさまを、ナギヒコに堂々と見せつけた。縦に、深々と、ほとんど切り裂くようにして、ナギヒコの腹に血を浴びせる。

 ナギヒコは彼女に手を伸ばそうとした。ふらふらと後ずさる彼女は、足に力がまるで入っていない。手すりの向こうは、地上までの吹き抜けになっていた。

 彼女は、最後になにか言ったようでもあった。


 その事件は『ホスト、客に刺され死亡』という見出しで、新聞の三面記事に報道されることだろう。実名は明かされず、ただ二十代女性が被害者の腹部を刺してそのまま飛び降りた、という、いかにも陳腐な事実だけが書き連ねられる。

 水商売に入れ上げた女と、それを食いものにした報いを受けた男。人は笑うでも怒るでもなく、彼らを世間という波のうねりのひとつとして受け入れる。やがて風化して、そんな事実が本当にあったかどうかも、誰もが忘れていくことだろう。

(俺が生きてようが死んでようが、世の中にはなんの差しつかえもないんだから)

 うすれる意識のなかで、ナギヒコ自身でさえ、そう思っていた。


次回:金曜日更新

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