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『地獄の一ヶ月?』後編

 

 全く時間と言う奴は素早くて止まりなどはしない。

 あれから早くも半月が過ぎ去っていた、その頃にはバイトにも慣れはしたがあんな姿を夢ちゃんには見せられない。

「おい十夜、どうだこの晩飯は? 旨そうだろう?」

 美しい髪をポニーテールへと結い、笑顔を生産しながら問い掛けて来たのは紛れも無い僕の彼女、鮎原夢だ。

 時は夕食、ぼろアパートにて彼女が手料理を振る舞ってくれている場面だ。

「ああカレーライスですか、美味しそうですね」

「そうだろ、そうだろ? ま、オレは料理何て簡単だぜ? 冷めない内に食え!」

 嫌々、本当に美味しいだ。決して不味そうだったとしても彼女の前でそんなことは言えはしまい。

 特にポニーテール状態の時は更に、ね。

「はむ……うん! 美味しいですよ夢ちゃん!」

「だろだろ! 嬉しいぞこの野郎め!」

 頬に柔らかな刺激が。彼女からのキスだ。

 本当に彼女はキスが好きだな。

「ぷは。十夜、おかわりは沢山あるから遠慮はするな!」

「はい、ならお言葉に甘えて一杯食べさせて貰います」

 約半月、同棲なるものを彼女と体験した訳だが死にそうになったことが数多くあった。

 例えば朝、どの夢ちゃんも必ず僕の布団の中へと侵入を果たし眠っている訳だが、精神的にも肉体的にも大ダメージだ。やはり若い女性と一緒に寝られるなんて男の夢だが、彼女の場合ある意味地獄なのだ。

 ツインテール状態だと甘えて抱き付いて来て離れようとはしないし、ストレート状態は顔を真っ赤にして恥ずかしそうにするし、ポニーテール状態は照れ隠しに殴るし。

 ほら、肉体も精神も朝からボロボロだ。でも、悪い気はしない。

「ん? 何だよ人の顔ジロジロと見やがって。何か付いているのか?」

「いえ、ただ……幸せだなと思っただけです」

「な、何を急に言ってんだ。あ! 分かったぞ、そんなことを言ってオレの体を狙っていやがるな! この変態野郎!」

 そして殴られた、理不尽である。

「そうだ、話しは変わるがバイトは慣れたのか?」

「ええ、お陰様で」

「なあ、今度見に行っても良いか? 十夜が働いている姿が見たいんだ」

 今何と言ったのだこのお方は? バイト姿が見たいだと? ダメだダメだ、あんな姿を見られると思うと死んだ方がマシだと思ってしまう。見せるくらいなら、妙な味の某アイスをたらふく食べてやろう。今度は何だ? 昨日久方振りに食べさせられた、ミルクあんこ、熊カレー風味。

 あれは……過去に食べたのを凌駕していた。て、何を考えているんだ僕は。平常心よ帰って来い。

「おい十夜? お~い! 話を聞いていやがるのか!」

「はっ! す、すいません、どうやら思考の渦に溺れていたらしいです」

「は? 訳分かんねーーこと言ってねーーで、バイト先に行って良いのか! ダメなのか!」

「ダメです! 絶対にダメ!」

 あんな姿を見せられるものか。今思い出しただけで恥ずかしくなる“あれ”を目撃されでもしたら。

 良くて引かれるか、悪くて殺されるか。

「ダメだと! 何でだよ、ただ見に行くだけじゃねーーか! 邪魔しに行く訳じゃあるまいし!」

「えっと、その、つまりですね、理由を今は話せませんがとにかくダメです!」

「……怪しい」

 いけない、何やら疑いの眼差しをギラギラと放つ彼女の姿が。

「まさかテメェ……バイトと偽って浮気かこら! 何処のどいつだ! あ! まさか隣りの姉妹かぁ!」

「ちょ、それは誤解ですよ! それにここ壁が薄いんですから聞こえでもしたら……」

 嫌々、そんな心配は無用だったらしい。何故なら突如ベランダの窓が開き、侵入者が。そこには真っ黒なパジャマを着た桜井水面さんと、真っ白なパジャマを着た桜井鏡ちゃんが現れた。

「あらあらまあまあ、楽しそうな話をしてますね白原さん! くひひ!」

「くひひ! 寝る時間まで良い暇つぶしが出来そうだよ!」

「ち、ちょっと! 不法侵入ですよ二人共! 自分の部屋に戻って下さい!」

「待て十夜! こいつらが来たのは都合が良い! テメェらに訊かなきゃならないことが出来た! 絶対に十夜を取り返して見せる!」

 人は何故争うのだろうか、これは永遠のテーマなのかもしれない。

 て、ちょっと待って! 永遠って言葉で逃げるな、解決しろ!

 そうじゃないとこの場が治まらない!

「まさか本当に浮気してたのか! どっちだ! どっちが十夜を唆したメス豚だ!」

「あれ? 何かこの人会う度に喋り方が変わってるような……まいっか、お兄ちゃんを唆したのはこいつ!」

「あらあらまあまあ、実の姉にこいつ呼ばわりは無いでしょ鏡? でもバレたら仕方ありませんね、そうです何を隠そう白原さんといけない先生と個人授業的な関係にあるのはわたしです!」

 一撃彼女から拳骨が、目茶苦茶痛い。

「い、いけない先生と個人授業的な関係だと! ふざけやがって、十夜は先生よりエレベーターガールが好みだ!」

「ええ! 違いますよ! 僕は……」

「テメェは黙ってろ!」

「は、はい!」

「お兄ちゃんって尻に敷かれてるんだね! ……ていうかエレベーターガールって何?」

 ああでもない、こうでもない。永遠と口論が続く最中、突如としてまたまた誰かが玄関から入って来るのだった。

 紫色のふわふわした髪をしたお婆さんだ。この人はこのアパートの大家さんである。

「せからしか! 何ば言いよっとね近所に迷惑が掛かっとよ! 若もんはこれだけんいかん! さっさと寝んね! ガマだして家賃を稼げ金ズル! 分かったとか!」

「「「ご、ごめんなさい!」」」

 そして出て行った。あの人は怒ると怖い、何でも九州出身らしいのだが、転々としていたためなまりが混ざっているとか何とか。

 でも来てくれて助かった、静かになったから良かった良かった。

「悪ふざけが過ぎましたね、鏡帰りましょう。鮎原さん全部嘘なのでごめんなさい」

 と言って姉がベランダから帰ってく。誤解が解けたか。

「ポニーテールのお姉さん、お姉ちゃんが言ったのは多分本当だから! それじゃ!」

 妹もベランダへ。

「……多分?」

「あ、あの……」

 この後の展開は敢えて語るまい。



 食事を終えてゆっくりとした時間が出来た訳だが、まだ疑いが晴れて無いのか真偽の提示を求めて止まない。

 何とか説得の末、納得をしてくれたらしい。

「話疲れたぜ、十夜肩揉め!」

「はい、了解しました」

「……んっ、んんっ! 十夜は肩揉み上手いよな……ん……」

 嫌々、何とも色っぽい声を奏でるではないか。肩を揉む度に喘ぎ声らしきものを出されると、興奮すると言うか恥ずかしいと言うか……。

 て、僕の馬鹿! またまた彼女で嫌らしい妄想を浮かべてしまった愚かな僕。穴を掘って叫ぶ、恥ずかしくて。

「んっ……あ、んん……と、十夜、もっと右……うん、そこだ、そこを……ほぐして?」

「ここですか?」

「ひゃう! ば、馬鹿野郎が、そこは弱い……んんっ! も、もっと下だ、ばかぁ~」

 うむ、声だけ聴いたら間違いなくないモザイクものだ。

 甘い声が理性を崩して行くがどうにかそれを阻止し撃退に成功。彼女は狙ってやってるのかと疑問を持たせる。が、彼女はそんな女ではない、断じて。

「ふぅ、気持ち良かったぜ十夜、これはお礼だ……目を瞑れ」

 なんだ改まって、予想はキスをして来ることを示しているがいつも問答無用にして来る筈なのだが。こう目を瞑れなんて言われたらドキドキしてしまう。

 新鮮な感じを受けてしまい、すんなり瞼を下げてしまう。

「こう、ですか?」

「ああ。……動くなよ?」

「は、はい……」

 心臓音が鼓膜を震わせて羞恥を呼び寄せ僕に牙を向く。ゆっくりと体に纏わりつき、もどかしさを量産させて悩ます。

 はて、もうかれこれ三十秒程瞑っているのだが、何も起きない。そして更に三十秒、等々僕はもどかしさに支配され瞳を晒す。

 一番始めに思ったのはその笑顔が醜悪に染まったかのように身震いを覚えてしまったことだろう。

 口角が上へと向かい頬に食い込む彼女の笑みは何て嫌らしい。僕を侮辱するニヤつきは小悪魔と等しい。

「思ったか?」

「……え?」

「オレがキスしてくるって思ったか? 可愛かったぞ十夜の顔、ほっぺたを赤らめてギュッと目を瞑る十夜の顔……可愛かった」

 一気に恥ずかしさに抉られてゆく、凄く恥ずかしい。

 そりゃあ、あの状況なら誰だってキスだと思うだろう普通。

 ここは怒るところなのだろうか?

「そんな顔すんなよ、ちょっと意地悪してみたくなっただけじゃねーか」

「いえ、その……こんな時どうすれば良いのか見当が付かなくて」

「こうすりゃ良いんじゃないか?」

 急に視界が黒に染まる。

 闇が訪れた筈だった、しかし温かい。体を包むそれは鼓動を謳い、生命を知らしめた。

 ああ何だ、僕は抱かれているのか。

「キスは一番好きだがな、その次に好きなのがこれだ。十夜を感じることが出来て嬉しい」

 彼女の胸に僕の顔が埋もれ、息苦しさが悩みの種だが、何だか安らぎを感じてしまう。

 温かくて、気持ちが良い。こんな温もりは初めてかもしれない。

「良く聞けよ十夜、オレはお前が好きで良かった……って、何言ってんだろなオレは……でもたまには良いもんだろ?」

 急にひんやりした空気が温もりを拭い去り、光を与えてくれた。離れた彼女を見上げて僕は視線が離せなくなる。

「たまにはイチャつきも悪くないよな?」

「は、はい……むぐぅ!」

 そしてキスが訪れた。

 今日のキスは一段と恥ずかしさが野次を飛ばしあざ笑う。だって不意打ち過ぎるのだから。

 陰陽なる唇は離れ糸を引き、淫らなる単語が検索されて頭に浮かぶ。

「間抜けな顔だぜ……オレは風呂に入って来るな」

「あ、はい。ごゆるりと」

 しばらく惚けていたらシャワーが声を掛けて来る。嫌々単にシャワー音が生まれただけだ、つまりは彼女はとっくにお風呂場。後数日もしたら夢ちゃんとの仮同棲生活が終了となる訳だが、やはり死にかけた。

 着替え中の彼女とばったり遭遇したり、布団の中に潜り込まれたり、キスされたり、あ、これはいつものことか。

 とにかく理性を保てたことが喜ばしい。そりゃあ夢ちゃんは彼女なのだから、その、男と女がすることをしてみたいと思ったこと無いと言ったら嘘になる。

 でも、時折『信じてるから』等と言われたら手を引っ込めるしかない。ま、焦って彼女を傷付けでもしたら嫌だからね。急がば回れ、かな。

「ふ~さっぱりした、十夜も入ってこいよ」

 シャワーを終えた彼女はそれはそれは色っぽい、どうして湯上り状態はこう色欲を掻き立てるのだろうか。また変な気分になりそうなのでとっととシャワーを浴びよう。

 風呂場へとやって来て僕は固まってしまう。何故なら先程まで身に着けていた彼女の衣服が脱いだままになっていたからだ。

 つまり彼女の、ブラやショーツがちらほらな訳で。いつもは洗濯機の中へ入れている筈だが、忘れたようだ。

 今日は水色だったのか。

 馬鹿! 僕のエロ馬鹿! 素早く衣服を脱ぎ捨てシャワーを被る。無論頭を冷やす為に水だ。

「ひぃ!」

 予想以上に冷たかった。直ぐにお湯へと変換させ冷えた体を温めてからシャンプーに手を伸ばす。頭を洗い終え、体も清潔にしたところで物音が飛び込んで来る。

 脱衣所に誰かいる、一応扉は硝子なのだが向こう側見えないように細工されたものだ。そこには人影が。

 まあ誰かは見当はついているが。

「夢ちゃん?」

「悪いな、着替え洗濯機入れてなかったの思い出したから入れに来たぜ? ……もしかしてオレの下着を変なことに使ってないだろうな?」

「変なことってなんです?」

「そ、そりゃあ……○○とか、○○したり、○○○○だったり……な、何を言わせやがる変態野郎!」

 嫌々、どう考えても夢ちゃんが話題を提供してくれたからこうなった訳で、決して僕は変態ではない。と言って彼女が納得するだろうか?

「ちくしょう、今直ぐ殴ってやる!」

「わ! ドアを開けないで下さい! 僕裸ですよ!」

「何ぃ! 裸になっているなんてそんなにオレの下着に欲情しやがったのか! ド変態野郎!」

「何言ってるんですか! ここはお風呂場で、裸のは当然なんですよ!」

 とまあ妙な討論が長たらしく続き、完全に体が冷えてしまい寒かった。

 このままでは風を引いてしまう、早く着替えなければ。

「あのもう出ますからそこから出て行って貰えませんか?」

「何だと? オレに命令する気か?」

「夢ちゃんお願いします。僕を愛しているなら着替えをさせて下さい!」

「……良くそんな恥ずかしいことがスラスラ言えるな、軽く引くぞ十夜」

 ああ、心に何やら鋭利なものがグサリと。

 引いた彼女を元に戻すのは簡単では無かったが、どうにかこうにか説得を重ね、遂に脱衣所から撤退させることに成功したのだった。

 嫌々、その甲斐あって服を纏えることがこんなにも嬉しいのかと涙が、だけど完全に冷えてしまったのは明白だが。

「うう……寒いですね」

「ほれ、コーヒー作ってやったぞ? 有り難く飲むべし」

「ありがとうございます、うわあ、温かいです」

 男勝りバージョンとは言え、やっぱり彼女は根から優しい。有り難くコーヒーの熱を体に染み込ませてゆく。

 インスタントコーヒーを飲んでいるとやはり加藤さんが入れたものには敵わない。でも庶民的な僕はこっちのコーヒーも好きだな。

「さて、明日はバイトですから早めに寝ましょうか」

「あ、ああ……寝てる時にオレを襲うなよ?」

「襲いません!」

 布団を敷き消灯、おやすみと伝え瞼を下ろす。すると静けさが訪れ、無かった。やはり壁は薄いのだと実感を持てる、お隣りの醜悪姉妹が楽しそうに会話を楽しんでいたのだ。

 まあその内寝るだろう。それにしても仲が良い姉妹だな、どうして二人だけで暮らしているのだろう。嫌、これは詮索する方が野暮だ。それぞれ理由があるのだから。

 だから……夢ちゃんも理由があるに違いないのだ。

 本当の君は何を考えているのだろうか?

「……もう寝たか十夜?」

「いえ、まだ起きてますよ」

「……あのさ、オレの…………あ、嫌、やっぱ良いや。また今度訊く……おやすみ」

 再度おやすみを述べたが、はて、彼女は何を言いたかったのだろうか? そんなことを思い、姉妹が奏でる声をBGMにしながら睡魔に食べられた。





 翌日の早朝は何やら心地の良いリズムに起こされた。トントンと軽快な調べは睡魔を退散させ、目覚めを引っ張り出す。その音は台所から放たれているらしい、重い瞼を何とか上げて見る。

 可愛らしい後ろ姿が、エプロンを身に付けた夢ちゃんが朝ご飯の準備をしていたのだ。

 リズミカルな包丁とまな板のハーモニーはいつ聞いても和む。

「あ、目が覚めたんですね、おはようございます」

 起き上がり台所で朝の挨拶を交わした後洗面所で顔を洗い、歯を磨き、ついでに寝癖も修繕。

 いつも変わらぬ僕の顔が鏡に写り込む。顔色は良好、健康そのもの。

「朝ご飯出来ましたよ!」

「あ、はい、直ぐに行きます」

 ストレートの髪が美しい彼女が視界に入りほんわかな感情が芽生えて来る。

 はて、ほんわかな感情とはどんなものか。

 日本の典型を思わせる朝食を有り難く頂く、やはり日本人は米に限る。僕は朝は和食派だ、確かにパンも美味しいがやはり米を食さないと力が出ない。

「私はパンの方が好きですね、寝起き食べやすいですから。あ、もちろんお米だって好きですよ」

「そうだね、米は日本人に欠かせないですよ。でも、たまにはパンも良いかもしれないですね」

「じゃあ明日はパンにしましょうよ十夜!」

 などと他愛ない会話に花を咲かせて摘み終える頃には満腹に満たされ、一日頑張るぞと力が込み上がる。

 ふと、僕は妙なことを口走ってしまう。

「……何かこんな風にしているとまるで新婚生活みたいですね」

「あぅ! し、しし、新婚生活ですか! そ、それって……私が十夜の……お嫁さん……」

 あれ、何やら地雷を踏んでしまっただろうか?

「あぅ、き、きっときっと十夜は優しい旦那様で私はネクタイなんかを付けてあげて、好きだよとかとか言ってくれて……キャーー!」

「あ、あの夢ちゃん? もしもし、もしも~し!」

「そしてそして、新婚初夜は…………やだ、十夜はすけすけすけべさんです!」

 僕は一体彼女の想像の中でどんなすけべなことをやっているのやら? 真っ赤な顔で僕を見つめ、ポカポカと頭をグーで殴られるが、全然痛くない。

「も~! 十夜のすけすけすけべさん! 馬鹿馬鹿! もっかい馬鹿ぁ!」

「すけすけすけべさんって何ですか?」

 おっと、いつの間にかバイトへ行く時間では無いか。

 どうにかこうにか、すけすけすけべさん攻撃を止めさせ、バイトへと向けて出発することに。

「じゃあ行って来ますね」

「はい、行ってらっしゃいです! えい!」

 瞬時、彼女が空を舞う。穿つように、抉るように、彼女は飛び付き僕の唇を奪う。勢いが強過ぎ、そのまま半開けだったドアを退かしながら玄関外に落ちた、頭から。

 後頭部にダメージ大、しかし動けない。彼女が上に乗っかりキスを堪能しているので。

「……うわあ、熱々だ」

「あらあらまあまあ、十八禁的な光景ですね」

 丁度学校へ登校をしようと出て来た桜井鏡ちゃんと、仕事に出掛けようとしていた桜井水面さんと鉢合わせ。

 嫌々、何ともタイミングが良かったり悪かったりで。

「ぷは! ご馳走様でした十夜、美味しかったです!」

「ねえねえお姉さん、お兄ちゃんの唇って何味?」

「え? ……そ、そんなの教えられません! 私だけの秘密です!」

「あらあらまあまあ、見せつけやがりますね」

 分かる、分るぞ、このままではこの醜悪なる姉妹に魔の手を差し延べられると。

 一気に起き上がり、営業スマイル的な笑顔を姉妹に向け。

「良い天気ですね、それじゃバイトに行って来ます! 夢ちゃんまた後でね!」

 そのまま無我夢中で駆けて行く。

「あ! 十夜~! 行ってらっしゃいです!」

「くひひ、逃げたねお兄ちゃん」

「くひひ、逃げやがりましたね。鏡、夜いっぱいからかってあげましょう」

「賛成!」

 などと会話しているとは夢にも思わないまま僕はバイトへ。帰って来たらどんな苦行が待っているのか、しかしそれを乗り越えて何か得るものはあるのやら。

 そんなこんなで『ママンの胸』に到着、嫌々、相変わらず変な名前だ。そんなこと口が裂けても加藤さんには言えないが。

「おはようございます」

「ふっふふん、来たわね十夜ちゃん! 今日も頼むわよ~! 売り上げが貴方のお陰で伸びてるんだから、感謝しちゃう! どう? 今夜ワタシの部屋に来ない?」

「あ、あははは、えっと、遠慮します」

 きっと、嫌、絶対にそこに行ってしまったら僕は男として何か大切なものを失うと思う。恐るべし、かれんちゃん。

「さぁさぁ、早く着替えて来て!」

「もう着替えを覗かないで下さいね?」

「……い、嫌だわ、そんなことしないわよ~!」

 今の間が怪しい。とは言え着替えないと始まらない。

 かれんちゃんに警戒しつつ更衣室へ。着慣れた執事服に袖を通す。

「ふっふふん! 若い男はこれだから良いのよね~」

 などと口ずさみながら更衣室を覗くかれんちゃんなんぞ分らなかった。知っていたら青ざめていたのは間違いない。

 さて、ここで僕がこの『ママンの胸』でやっている仕事について説明をしておこうと思う。本当は話すのも嫌なのだが、それを語らないと物語が進まないと言うか何と言うか。て、何言ってるのだろう。とりあえず内容を提示することにしますか。

 喫茶マスター加藤錬士郎ことかれんちゃんが提案したのは執事喫茶、つまりはメイド喫茶のパクリだと断言しても良いだろう。

 あーー嫌々、パクリと言ったのはかれんちゃんに対してであって、実際に存在する執事喫茶を馬鹿にしている訳でないことを予め断っておく。

 お客様が男性だったなら『お帰りなさいませ旦那様(お坊ちゃまも可)』、女性なら『お帰りなさいませお嬢様(奥様も可、但しお客様は熟年代が多い為自然と奥様)』である。

 ここまでは何とか慣れた、嫌、慣らされた。初日は恥ずかしくて何回頭の中で穴掘って叫んだか。後は普通のウエイターなのだが、かれんちゃんが特別メニューを考案したのだがそれが一番のネックなのだ。

 特別メニューは三つ、

 一つは『お嬢様にあ~んして汚れた口周りを執事がふきふきするパフェ』

 二つ目『顎をクイっと持ち上げていけないお嬢様だと囁いてくれるコーヒー』

 三つ、『よろしければハグさせて頂いてもよろしいでしょうかジュース』

 はい、意味が分らない。こんな執事がいる分けないだろうに。しかしこれらが好評で熟年代から若い中学生まで頼む人が必ずいると言う不思議。

 最初は抵抗した、やりたくないと。そうしたらかれんちゃんが『やれ!』と凄んだ。ああ、絶対に夢ちゃんにだけはこの姿は見せられない。

 断じて!

 そんな羞恥に絶えながら仕事を続け、気が付けばもう時計針は三時を示していた。後二時間でこの格好から解放されるかと思うと歓喜を味わう。

 それにお客様が誰一人も居ない、近くに時間限定で割り引きをするライバル店があるらしく、殆どがそこに取られてしまうのだ。

「キーー悔しい! 十夜ちゃんの執事でもこの時間帯だけ勝てないなんて!」

「まあまあ落ち着いて下さい、一度向こうのコーヒーを飲みに行きましたがかれんちゃんの方が美味しかったですよ?」

「ふっふふん、まぁ十夜ちゃんたら、嬉しいことを言ってくれるわね! お礼にコーヒー入れたげるわ! どうせもうお客来ないと思うから休んで良いわよ」

 それならお言葉に甘えようではないか、加藤さんのコーヒーはお世辞では無く旨い。それが飲めるのなら是非ご相伴に預かろう。

 カウンターに座り休んでいると客が一人入って来たのを聴覚が察知。ドアの開閉音が木霊し四方へ、直ぐに立ち上がりお辞儀。

「お帰りなさいませお嬢様」

「……え?」

「ん?」

 聞き慣れた声が噛み付く、じわりじわりと牙を食い込ませ刺激を伝わせて行く。

 それを脳が理解する頃、僕は今日程神様を恨んだことは無いだろう。

「……ゆ、夢ちゃん!」

 そう、そうなのだ、間違い無くそこに我が彼女鮎原夢が現れたのだ。 似ている人では無いのか?

「わあ、十夜凄い格好をしていますね?」

 残念、偽者説消滅。

「あの、お嬢様って何ですか? まさか私のことを言ってるんですか?」

「あら? お客ね……って、十夜ちゃんどうしたの固まっちゃって?」

 砕け散る破片の如く心が床に散らばるような感覚に苛まれて、今にもここから走り去りたい衝動が暴れた。しかし横に居るかれんちゃんがそれを許す筈が無く、沈静させなければならない。

「もしかして十夜ちゃんのお知り合い?」

「え、ええ……まあ」

「あぅ、ええまあって、ちゃんと私を恋人さんだと言って欲しかったです!」

「な、何ですって! 十夜ちゃんの女ぁ!」

 皆様、多分これからややこしいことが勃発すると思われますが、お付き合い下さいますようお願いを致します。

 そしてこんな状況を演出を設定した神様に一言、僕に恨みがありますか?

「ちょっとどうゆうことなの十夜ちゃん! 貴方女体が好きだったの! ワタシの気持ちを知っていながら影であざ笑ってたのね! ひっどい!」

「ええ! まさか十夜は……お、男の人と……その、そっちの趣味があったんですか! じゃあ私は遊びですか!」

「嫌、あの……」

「十夜ちゃんは優しい子だと思ってたのに、いつの間にそんな男になったのよ!」

「酷いです! 男が好きならどうして言ってくれなかったんですか!」

 ああ、何だこの展開は?

「もう許さないわ、十夜ちゃん……歯ぁ食いしばれやゴラ!」

「十夜の馬鹿馬鹿! もっかい馬鹿ぁ! こうしちゃうです!」

「あの、ちょっと、待って……うぎゃああああああああ!」

 世界は残酷だった。

 かれんちゃんの拷問と夢ちゃんのくすぐり攻撃(脇と足の裏)を食らい死神がこっちおいでと手招きを。あっちに行ったら戻れなくなる。

 床に大の字で倒れていると、夢ちゃんとかれんちゃんが何やら口論を。

 それは一時間にも及びその結果……仲良くなっていた。

「ふっふふん、貴女なかなか面白い娘ね」

「かれんちゃんさんもです!」

 分からない、何故二人が仲良くなったのか。

 世界の七不思議に認定しても良いだろうか?

「貴女にならワタシの十夜ちゃんを任せても良いわ! 大切にしてね?」

 あの、いつから僕はかれんちゃんのものに?

「はい! かれんちゃんさんの思いを胸に私、十夜を幸せにします! 任せて下さいです!」

 あの、その台詞花嫁を貰う新郎みたいだけど?

「十夜ちゃん、ワタシ貴方を諦める、諦めるわ、……ちくしょう、十夜ちゃんはオレのものだったのによちくしょうめ!」

 もう何も突っ込むまいと心に誓う。

 とまあ妙な三文芝居が終わりホッとしたが、こんな格好を見られた僕は気分がブルーだった。

「そうだわ、鮎原ちゃん、何か注文してみたら? 特別に割り引きしてあげるわ!」

「本当ですか! ならお言葉に甘えちゃいます!」

「はいこれメニューね」

 あ、そのメニューは! 一ヶ月限定の特別なメニューだ。そこに書かれているものが幾度か弱い僕の心を引き裂き続けたか。

 それがよりにもよって夢ちゃんの手に渡るとは。

「三つしかメニューが無いです……良く分かりませんけど、えっとじゃあこの『お嬢様にあ~んして汚れた口周りを執事がふきふきするパフェ』? を下さい」

「な! ダメですよ夢ちゃんそれを頼んじゃダメです!」

「ふっふふん、十夜ちゃん……やれ! つべこべ言わずやれ!」

「ひぃい! わ、分かりました!」

 かれんちゃんに凄まれたら何も言い返せない。

 きっと夢ちゃんは今から何が始まるのか分かってなどいないのだ。恥ずかしさのあまり死んでしまわないか心配だ。無論それは僕のことだが。

 かくして『お嬢様にあ~んして汚れた口周りを執事がふきふきするパフェ』が始動する。

「お嬢様、お待たせ致しましたご注文のパフェでございます」

「あぅ、やだ、十夜が何だか別人みたいです。でもその服も似合ってますし、本当に執事さんみたいですね! あ、イチゴパフェなんですね、美味しそうです……」

 スプーンに手を伸ばす前に僕が手にする、案の定不思議そうな顔を向けて疑問を。

 これから起こることを理解出来ていない。

「十夜?」

「……そ、それでは」

 スプーンにパフェを掬い彼女へ。

「お口をお開け下さいませ……」

「え? えっと、その……こうですか? あ~ん」

「失礼させて頂きます」

 口へ甘いパフェを送る、ここでこのメニューに肝心なお口ふきふきの為にわざと口回りに付けるのがコツだ。甘く白いアイスが口元から垂れてゆく、見ているだけでいけない感情が芽生えてしまいそうな。

 て、何を考えているのだ僕は。

「んんっ!」

 悶えたような声が脳髄をとろけさせる魔法を備えているかの如く、こちらの頬が赤く。すかさずスプーンを抜き、ハンカチを取り出してふきふき。

 夢ちゃんが真っ赤に染まってゆく。

「申し訳ごさいませんお嬢様」

「あぅ、こ、こんなの……反則です。でも、悪い気はしないです」

 ああ恥ずかしい、ただ今羞恥を誤魔化す為に頭の中は工事中である。ドリルで穴を掘って叫ぶ、奈落の底まで。

 しかしこの程度で終わってくれて本当に良かった、特別メニューは確かに恥ずかしいが、パフェはまだましだ。

 もう羞恥とはおさらばだろうな、良かった良かった。

「あ、あの、せっかくだからもう一つ頼んじゃいますね、えっと、『よろしければハグさせて頂いてもよろしいでしょうかジュース』をお願いします!」

「ふっふふん、あらやだ、鮎原ちゃんたら十夜ちゃん執事の良さを知ったようね!」

 はて、地獄は終わった筈では無かったのか?

 どうやら僕は戦わなければならないらしい、羞恥心に苦しむ自分自身と。

 こうなったら自棄だ、やってる、やってやるさ!

「お待たせ致しました、お嬢様オレンジジュースでございます」

「あ、ありがとうです……えっと?」

「お嬢様、お飲みになる前にお願いが……大変無礼極まりないのですが、ハグさせて頂いてもよろしいでしょうか? そうすればジュースをお渡し致しますが?」

「あぅ、えっとえっと……どうぞです」

 ギュッと彼女を抱き締めた、いささかハグを要求する意味が分からないがここは乗りと言うことで理解して頂きたい。

「あぅ! あぅ! あぅ~!」

 夢ちゃんがオーバーヒート気味に沸騰し、頭から湯気が。

「さ、最高ですこれ! も、ももももうこうなったら自棄です! 『顎をクイっと持ち上げていけないお嬢様だと囁いてくれるコーヒー』を下さい!」

 はいかしこまりました、貴女は僕に死ねと? かれんちゃんが羨ましそうに見つめているが気にしてはならない。

「お嬢様、コーヒーでございます」

「は、はい! どうもです!」

「さ、お熱い内にお飲み下さい」

 催促し彼女はコーヒーを口に含むが、一口しただけで飲むのを止めてしまう。

 それはそうだろう、何故なら無糖だからだ。

「あぅ、苦いです、砂糖を下さい」

「おや、お嬢様はブラックは飲めませんか? いけませんね、本来の味を楽しめないとはそれでもレディですか?」

「え? 普通苦かったら砂糖入れませんか?」

「もうその考え事態がコーヒーを楽しむ資格は無いのですよ? 無理に大人振ってコーヒーを頼むとは……」

 素早く指を彼女の顎へと滑り込ませクイッと上げる。

 顔を触れるか触れないかの位置に持って来るのがコツ。

「全く、いけないお嬢様だ……僕が教育して差し上げなければ、手取り足取り……ね?」

 ここでニヤリと笑って見下したようにするのもコツだ。

 誤解しないでもらいたいが、これ全てかれんちゃんの指示でやっていることを忘れないで欲しい。

 そうしないとこんなのただ頭がおかしい奴じゃないか。

「は、は、はいーー! わ、私、手取り足取りされちゃいますですぅ!」

 やり切った、今にも高笑いが出てしまいそうな程感情が高鳴る。これで僕は羞恥なる単語にもう悩まされずに済むのだ。

 こんなに嬉しいことがあろうか。

「ふっふふん、やっぱり十夜ちゃん最高ね、今のビデオカメラに撮ったからDVDに焼いてあげるわ鮎原ちゃん! これでいつでも十夜ちゃん執事が拝めるわ!」

「わあ! かれんちゃんさんありがとうございます! それ家宝にします!」

 そう、これこそが僕の人生における汚点と相成った。どうして世界はこんなにも残酷なのだろうか。





 それから数日後、等々バイトも終わりを迎えた。嫌々、何度羞恥に痛め付けられたことか。

 だがもう終わったのだ、今はそれを喜ぼう。

「等々一ヶ月が経っちゃったわね、また寂しくなるわ」

「また来ますよ、コーヒーを飲みに」

「ありがとうね……この一ヶ月本当に良かったって思ってるわ、だって貴方が笑っているからね……それだけで満足よ、……本当にまた来てね十夜ちゃん」

「はい、必ず」

 店を後にすると少し寂しさを覚えたがまた来れば良いのだ。

 生きている限りまた会えるのだから。て、何を言っているのだろうか僕は、そんなの当たり前なのに。

「さて帰りましょうか」

 茜色に着色された空の下を歩く。不意に視界に仲が良さそうな親子が向こうから手を繋いで歩いて来る。

 楽しげに笑い、通過して行く。どうしてだろう、あの親子を見ていたら……。

「あはは、仲良さそうな親子だな」

 どうして羨ましさが込み上げるのか、見当が付かない。

 もう一度空を見上げ遠い過去を眺め、見慣れたアパートを視線内に納めた。

 ああそうか、バイトが終わったと言うことは夢ちゃんとの短い同棲生活が幕を下ろすと言うことになる訳だ。短い期間色々と葛藤する日々だったな、全て夢ちゃん関連で。

 男の欲望が爆発しそうになったり、それを理性に押さえ付けて貰ったりと大忙し。

 でも、誰かと一緒にいるって何と言うか……温かかったな。

 結果的に楽しめたと思う。

「……荷物の片付け終わっちゃったでしょうか?」

 と嘆きの様な声を空に爆ぜさせ薄めて行く。

 今の言葉が彼女に届かないことを祈る、そうしないと『寂しい?』と訊かれてしまうかも知れないから。

 意を決し、部屋へと足を踏み入れる。

「ただいま、今戻りました」

「あ、お帰りなさい白原さん!」

「遅かったねお兄ちゃん!」

「お帰りなさいです十夜!」

 あれ、声がいっぱい聞こえたのは気の所為か? 何やら醜悪な姉妹がそこにいるような感じが。

 まさかねと現実逃避を決行したかったがそうは行かない。何故なら醜悪姉妹が仲良さげに僕に悪魔の微笑みなるものを送っていたからだ。

 分かっている嫌な予感よ、この後良くない現象が開催されるのは明白だから。夢ちゃんが姉妹から感染させられたかのような笑みが怖い。

 そして三人があるものを見ていたことが僕を苦しめたのだった。

「あ、ああ! まさかそれは!」

 三人はテレビを見ていたのだが、そこに映し出された映像がヤバイのだ。

 僕が夢ちゃんにやった執事の特別メニューを記録したDVD!

「お兄ちゃんエロエロ!」

「白原さんってこんな特技があったんですね? 是非生で見せて頂きたいですね!」

「あぅ、十夜ごめんなさい勝手に見せてしまって……でもこの十夜や素晴らしかったから自慢したくてですね…………あ、それからお帰りなさいです! えい!」

 飛び掛かる彼女を受け止めキスをした後、勢いで地面と後頭部がこんにちは。

 結局散々な地獄の一ヶ月だったらしい。

 先生、恨んでも良いですか?


 

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