『十夜と夢の幸せをーー』
喉が渇く、汗が噴き出し手が震え冷静さは微塵に散る。一気に部屋の空気に重りが絡み付いて潰れてしまいそうな感覚に負けてしまいそうになった。
もう途絶えた電話の向こうでは一定のリズムを刻む音、遮断された彼女との繋がりに絶望が居座る。
「……どうかしたのか?」
親友竹崎龍士は異変を感じ取っていたらしい、心配そうに僕を見つめている。
「いや、えっと……」
落ち着け、何が起きているのか少し整理するんだ、そうすれば思考が正常化するかもしれない。仕事を終えてお馴染みのアパートに帰宅して、竹崎がもう待っていて、桜井姉妹と絡んで、それからそれから……。
電話が掛かって来たんだ、僕の恋人の夢ちゃんから。
そして一言こう言った『助けて……』と。
そうだよ呆けている場合か、彼女が助けを求めているんだ。
直ぐに行動に出るんだ、夢ちゃんへ電話を掛け返すことにした。呼び出し音が鳴るが出ない、ずっと慣らせ続けたが留守番電話へシフトする。
ダメだ出ない。
落ち着いて考えるんだ、最初の電話では一言だけ言って切れた、つまり電話が出来ない状況になってしまったのだろう。
そう仮定したとしてその原因は何だ? 声が出せないから? それだと隠れているってことか? もしそうなら誰かに追われている?
他に電話出来ない状況と言えば……携帯を奪われてしまった?
それなら今誰かに脅されている?
くそ、どっちにしろピンチなのには変わりがないじゃないか。
「白原十夜、一体何が起きたのだ? とにかく訳を話せ」
「……今夢ちゃんから電話があったんです、助けてと言って切れました……こうしている間にも夢ちゃんが……くっ」
「焦るな、心の乱れは判断力を失わせるぞ」
落ち着いていると怒鳴ろうかとしたが思いとどまった、その行為こそ冷静さを欠いでいる証拠だからだ。
荒れている心を深く冷静に冷静に。
「……済みません、今落ち着けました」
「良し、それでこそ白原十夜だ……さて、電話は掛け直したんだな?」
「はい、ですが出ませんでした」
「となると携帯を奪われたか使用出来なくなったか……とにかく先ずは彼女の家に掛けてみろ」
言われた通りに夢ちゃんの家へ電話をする、数秒の呼び出し音後に幸子さんが出た。
『はい鮎原です』
「あ、幸子さんですか? 十夜です」
『あら白原くん? 夢ならまだ帰ってきてませんよ?』
帰って来てないと焦りとは程遠い口調、つまり夢ちゃんの危機を幸子さんは知らないのだ。
くそ、どうしたらいいんだ。
『もしもし……? 白原くん?』
どうするべきか悩んでいたが会話が途切れた為幸子さんが心配していた。
「あの……」
「待て白原十夜、俺に代われ。訊きたいことがある」
龍士が訊きたいこと?
何を考えているのかは知らないがきっと今の僕より何か良き案があるのだろうと信じてみることにした、素直に携帯を渡す。
「もしもし、初めまして白原十夜の親友の竹崎と言います。突然すいませんが訳は後で話しますので緊急事態何です、それでお聞きしたいことがあります」
そう言って龍士はあることを訪ねた、それを聞いた瞬間龍士が何を考えついたのか直ぐに理解することが出来た。
この方法なら何とかなるかも知れない、しかし確実とは言えないかも知れない。
でも今はこれに縋るしかない。
「そうですか、そうしているんですね? なら直ぐそちらに伺います。はい、はい……理由はその時に……はい、失礼します…………良し行くぞ白原十夜、話は理解しているな?」
「はい、直ぐに向かいましょう」
外へ駆け出すと隣りのドアが開いて中から桜井姉妹が飛び出して来た。
ここは壁が薄いから話は聞こえていたのかも知れない。
「お兄ちゃん、夢お姉ちゃんに何かあったの?」
「……これからそれを確かめに行って来ます。大丈夫ですよ鏡ちゃん、夢ちゃんは僕が守りますから」
「白原さん、わたし達が居ては邪魔になるだけですからこれだけは言っておきます。無理はしないで下さい……無事に戻って来て下さい」
「はい、約束します。水面さん、鏡ちゃん、行って来ます」
姉妹が同時に行ってらっしゃいと声を揃えた。何だろうこの感じ、帰る場所があって待っていてくれる人達が居る。
きっとこれが家族って奴の温かさなのかも知れない。
血が繋がらない者同士だろうと同じ屋根の下に住めばそれは家族ではないのだろうか。
きっとそうであると信じて僕らは車に乗り込む。
キーを回してエンジンを叩き起こし吹かす、そのまま直ぐに発進させた。数分走行して見えて来た夢ちゃんの家の前に停車させ素早く降りて玄関へ。
インターホーンを押すや否や直ぐに幸子さんが玄関から現れた、どうやら待っててくれたみたいだ。
「急にすいません、心して聞いて下さい。実は……」
夢ちゃんのSOSを知らせる、やはり不安な表情を表す幸子さんの姿を目撃することになってしまった。
でも、もたもたはしていられない。
「それで例の物は?」
龍士が電話で頼んだ物を幸子さんは手渡してくれた、これが手掛かりとなる。
「ありがとうございます……良し、試してみるぞ」
それを龍士が操作する、どうか上手く行ってくれ。
数秒後、その結果が判明する。
「良し! どうやら大丈夫みたいだ、居場所が分かったぞ!」
龍士の手に握られていたもの、それは幸子さんの携帯電話だった。龍士は何をしていたのか、それは衛星により居場所を知らせるGPS機能。
最近の携帯電話には備え付けられている、そこで幸子さんに確認したのは夢ちゃんの携帯電話の位置を知らせるアプリケーションがあるかどうかだった。
あいにく僕らはそのアプリケーションを持っていなかった、幸いその機能を幸子さんが持っている事が分かり携帯電話を借りに来たという訳だ。
でも良かった、夢ちゃんの携帯が生きていて。
「龍士、夢ちゃんは今どこです?」
「……隣町だ、建物らしき場所に居るみたいだ……近くに駅があるな……幸子さん警察にこの場所を知らせて貰えませんか?」
詳しく地図の情報を龍士が伝えていく、幸子さんは一度家の中に戻り紙とペンを携えて戻る。一生懸命にメモをしていた。
「わ、分かりました、伝えます」
「では俺達はここへ急ごう。すいませんが携帯お借りします!」
直ぐに車へ。
「白原くん……」
「必ず夢ちゃんを連れ帰ります。だから待ってて下さい」
そう言い残して隣町へ車を走らせた。
車内は静まり返りエンジン音と緊張感、それに焦燥感に支配されているみたいで落ち着かない。
無事でいてくれと何度祈ったか。そんな無言状態を破ったのは龍士だった。
「……なあ白原十夜、お前の彼女の今日の予定は知っているか?」
「え、ああえっと今日は午前中叔母の椿さんと一緒に大学へ行ってたはずです……それが何か?」
「いや、このGPSから送られてきた場所が隣町だっただろう? 大学とは反対の方向だ、つまりだ……何故そんなところにお前の彼女はいるのかと言う話になる」
言われてみれば確かにおかしい。大学に行っていたのならもし仮に誰かに追われて逃げたとしても隣町まで行くだろうか? 大学から隣町まで車で大体四十分の距離、現在GPSが示すまで場所一時間は掛かるだろう。
そんな場所に徒歩では行かないだろう。
では何故こんな場所にいるのか……。
「助けを求めたと言うことなら身の危険が迫っている事になる。なら何者かに襲われたか追いかけられたのか。隣町まで走って逃げる? いや、これは論外だと俺は考えるぞ、隣町まで逃げ続けるよりも途中で何処かに隠れる方が利口だ。それに男女平等とは言うがやはり体の造りではやはり女性は男性に劣る。
仮に行けたとしても逃げる体力まで温存出来るかどうか……。となると駅が近いから電車に乗り込んだか……もしかしたら拉致されたか。誰に拉致されたのかはこの際省くがどちらにしろ俺達二人だけで向かうのは不味いかも知れん」
「じゃあどうするんですか! こうしている間にも夢ちゃんがどんな目に合っているか分からないんですよ!」
「落ち着け白原十夜、焦りは判断力を鈍らせる……本の少しだけ寄り道を頼む、もしかしたら“彼”なら助っ人になってくれるかも知れん」
彼……?
「一体誰のことです?」
「まあ慌てるな、それより急いで俺の指示に従って運転してくれ」
何だか分からないまま車を走らせると見覚えのある場所に辿り着いた、直ぐに車を降りてそこへ踏み入った。
ここは喫茶店であり、龍士が言った助っ人が出迎えてくれた、笑顔で。
「まぁお久しぶりねぇ~、元気だったぁ?」
そこにいたのは喫茶店『ママンの胸』のマスターである加藤錬士郎ことかれんちゃんだ。高校時代にアルバイトをしていたから龍士とも面識はあるが何故かれんちゃんを選んだんだ?
「どうもお久しぶりです、えっと……」
「待て白原十夜、俺が説明する、お久しぶりです加藤さん」
「あら貴方は十夜ちゃんのお友達だったわね? どうかしたの、余裕のない表情だけど?」
「実は……」
龍士がいきさつを語り始めた、するといつもおねえなかれんちゃんがピタリと男に戻る。
「なにぃ? 十夜ちゃんの彼女のピンチだぁ? ふざけやがって、何処のどいつが彼女を狙っていやがんだ! ただじゃあおかねぇ、十夜ちゃんの知り合いはオレの知り合いみてぇなもんだ、良し力ぁかしてやらぁ!」
頼もしくもあり恐ろしくもある。とにかく助っ人が来ることになったのは嬉しい。
「良かったな白原十夜、加藤さんが協力してくれると約束してくれたぞ!」
「そうですね……時間が惜しいです、直ぐに向かいましょう」
「おう、十夜ちゃんの言う通りだ! バイト! ちょっくら店番していやがれ!」
バイトらしき若い男の子に店番を押し付け、少し待っていろとかれんちゃんは店の奥に。直ぐに戻ってくるとリュックを持ってきた。
「ここにはろくな物はねぇが色々持ってきたぜ? 時間が無いなら早く行くぞ!」
「は、はい!」
どうやらいつものおねえキャラではなくこのままで行くらしい。
まあ何にせよ頼もしい。
「おっと、忘れるところだった……十夜ちゃんのお友達、オレの事を加藤さん何て呼ぶな、かれんちゃんと呼ばないと……埋めるぞ」
「す、すいませんでした加……かれんちゃん!」
かれんちゃんのドスの利いた声に龍士が怯え、ついでに僕も震え上がる。
慌てて車に乗り込みすぐさま走らせた、少し時間をロスさせてしまったがそのかわり強力な味方を得ることが出来た。
走行中かれんちゃんは持参した物を僕らへと渡す。
「自衛の為にこれは持ってな二人とも」
「これって……スタンガンですか?」
「さすが十夜ちゃんだなよく知ってる。ただあくまで自衛の為だからな……ま、十夜ちゃんは人を傷つけるような奴じゃねぇのは知ってるさ」
もし夢ちゃんは拉致されたとすれば相手は複数だろう。
僕らは一般人であるからその中へ飛び込むには丸腰は自殺行為だろう。
あくまでもこれは自衛の為だけに使う。
「まあ後はちょいと十夜ちゃんに細工をすれば良いかな」
「細工……ですか?」
「まあまあ、後の楽しみさ」
「あの、俺には?」
恐る恐る龍士が挙手するとかれんちゃんはニコリと笑う。
「お前には必要ないだろ? まあスタンガン一つは貸してやらぁ」
「あ、ありがとうございます」
細工と言うのが気になるけど今は急がなければならない。アクセルを踏み込み少しでも早く到着出来るようにスピードを上げた。
しばらく運転に没頭しようやく隣まで入ることが出来た、後は携帯の地図に従って走るだけだ。龍士が道を教え等々目的地に到着する、約五階建ての薄汚れた白壁のビルが現れた。
窓ガラスは割れておりどうも使われている形跡はない。廃墟なのだろう。
が、そのビルの周りには複数のパトカーが取り囲んでいた。
「何だこりゃあ、察が来ていやがるな」
「多分幸子さんが警察に連絡を入れて隣町の警察が駆けつけたんでしょう」
「そうだろうな。さてここからどうする白原十夜、このまま警官に任せるか……?」
警察が出ているならば僕らは多分ビルには近付けないだろう。ただの一般人を警察が現場に入れる訳がない。
でもこんなところでじっとしているなんて出来ない。
「裏口とかに回り込めませんか?」
「そいつぁ無理だろう。察だってアホじゃねぇ、入口裏口全てに察を配置するだろうよ」
それはそうだ、入口裏口は必ず封鎖するだろう。なら見守る以外に選択肢は無いのだろうか。
焦燥に揺さぶられ自然と人差し指が車のハンドルを小突く。
「ん? 何だこれは……」
焦りが充満する車内で龍士は突如として声を上げる、何かあったのだろうか?
ここは素直に訊いてみようか。
「何かあったんですか龍士?」
「携帯のGPSなんだが……移動している、現在進行形でな」
「移動?」
あれだけのパトカーに塞がれているのに移動している?
一体どうなっているんだ? その疑問をかれんちゃんは見抜いた。
「なる程なぁ、十夜ちゃんの女をかっさらった連中も馬鹿じゃないらしい、こうなる事態を予測してこの場所を使ってたんだろうな」
「どう言う事ですか?」
「小難しい話じゃねぇ、見なよあのビルを。隣の建物との距離が短いだろう?」
「そ、そうか、隣の建物に飛び移ってそこから逃げ出したのか!」
龍士の至った答えに突きつけられた真実、つまり夢ちゃんを連れて逃げ出しているのか。
「なら直ぐに追いかけないと……龍士行き先は何処です?」
「向こうだ!」
指示された場所へ向け車を発進させる、その間にGPSは高速移動を示していた。つまり車に乗り換えたんだ。
逃げることを想定して隣の建物付近に車を待機させていたんだ、ちょうど入口と裏口から死角になる位置に隣の建物が聳えている。
それも計算に入れていたと言うわけか。でも逃がさない、僕の大切な人は返して貰う。
カーチェイスもどきを体験しながら段々と山奥へと誘う。
そしてある場所で向こうが止まる。僕らも気付かれないように距離を開けて停止。
「見てみな、山小屋があるぜ」
かれんちゃんの示す方角に木々の隙間から山小屋が姿を垣間見せていた。
あそこに夢ちゃんと椿さんがいるのか。
「ここからは音を立てないように近づくしかねぇ、車から降りるぞ」
「分かりました……」
「おおっとそうだ、十夜ちゃんちょっと細工をさせてくれよ」
そう言ってかれんちゃんは僕に細工とやらを施した、これは一体?
「かれんちゃんこれは……?」
「まあ用心だよ。ま、チャカの前には無力だかな、無いよりはマシだ」
「その通りだぞ白原十夜、意味がない物は無いのだ。……さてと、行こうか」
車から降りて辺りを見回し人気が無いことを確認した後山小屋へと向かう。
近付く度に心臓が波打ち聴覚をも心音が支配して行く中、話し声が微かにだが捕まえた。男の声と、女性の声。もう少し近付いて小屋の裏へと回り込み聞き耳を立てた。
裏には窓がありそっと中を覗くと会いたかった人物を見付ける。
夢ちゃんがいた、その隣には椿さんも。二人とも腕を後ろに回され紐で結ばれていた、部屋の隅に寄り添うように座っている。
夢ちゃん達以外には五人の男が。一人は白いスーツ姿でオールバックの男、それから白髪混じりの中年男、後は若者が三人。
どうする、踏み込んで助けるか?
「十夜ちゃん、まだ動くな……」
小さな声でかれんちゃんが僕を制する、とにかく今は敵の隙を見つけなければならない。
微かに漏れる会話に神経を集中させた。
「何度も逃げ出すとは油断ならない女共だ……しかし残念だったな逃げられなくて」
「ふふっ、まさか携帯電話で居場所を突き止めるとは……刑務所に入っている間に進歩したんだな」
「全くだ、それに失念していたのはおれのミスだった。……まあ良い、電源を切った、つまりもう助けは来ない」
どうやらここに連れて来てから携帯のGPSに気が付いたらしい、もしももっと早くに気が付かれていたらここまで辿り着けなかっただろう。ラッキーだったと言う他はない。
ここの場所を警察に知らせた方が賢明だがここは圏外だ、だから僕らが何とかしなければ。
「さて……色々あって遅れてしまったなぁ。夢と二人切りにさせてくれないかね? 久し振りだから楽しみたい」
「こんな時にでも衰えない欲だな、ある意味感心する……こっちの女はどうする?」
「もう要らない。興味が無くなった、後は好きにして良いよ、煮るなり焼くなり楽しむなり……殺すなり」
「分かった、暫く楽しんだら処理しよう。おい連れ出せ」
手下が椿さんを無理矢理立たせ外へ連れだそうとする。
「は、離しなさいよ! 夢、夢ぇ!」
「椿姉!」
まずい、椿さんが連れて行かれる。そうなってしまったら最悪の未来が待ち構えている、それじゃあ駄目なんだ。
飛び出すなら今か?
「待て白原十夜」
「待てません、このままでは椿さんが……」
「だから待てと言っているんだ。椿さんを助ける為に飛び出したとしても向こうには人質が二人もいる、これは致命的だ……だから奴らの隙を突かねばならない」
言っていることは理解出来る、しかし……。
「分かっている、お前の焦燥は。だから俺と加藤……かれんちゃんとで椿さんを助け出す。お前は自分の女を守れ」
「龍士……だが二人だけでは」
「大丈夫だ、策はある。ただ一番心配なのはお前だ、良いか良く聞け、奴らが出て行ったら俺達が助けに向かう。お前は彼女を助けろ、……但し俺達が戻るまでは時間を稼ぐんだ、間違っても取っ組み合いをするな、相手は何か武器を所有している可能性があるからな……良いか、無茶だけは止めろ、分かったな?」
「……分かりました」
つまり椿さんを助け出す間、僕は時間稼ぎをしろと言うことだ。確かに何かしらの武器を所有している可能性は否めない。
ならば二人を待つ方が賢明だろう。でも、もしもの場合命を投げ出す覚悟はある、夢ちゃんを守るためならば悪魔に魂を売り渡しても良い。
彼女のおかげで今の自分があるんだ、だから多少の無茶はする。
「嫌、嫌あああ! 離せ! 夢、夢ぇ! 嫌あああ!」
山小屋から男共が椿さんを連れ出して山奥に入っていく、透かさず龍士とかれんちゃんが奴らを追って山奥へ。一瞬龍士と視線がぶつかった、無茶はするなと言いたかったのは明白だった。
二人を見送った後山小屋から会話が聞こえて来る。
「今日は散々だったがやっと家族だけだ、嬉しいだろう夢、もう直ぐお前は桜になるんだからな」
「私はお母さんじゃない、お母さんの代わりでもないしお人形でもない! 貴方は何で現実を見ないの? 自分がしてきたことを何で認めようとしないの? 貴方は……」
「はぁ、はぁ、夢、夢ぇ、はぁはぁ……桜、桜桜桜ぁ……」
話はもう何も聞こえていないらしい、涎を垂らし、息を荒げた瞬間夢ちゃんに襲い掛かった。
上からのし掛かりいやらしい手つきが彼女の体に触れる。
「桜ぁ桜ぁああ、はぁはぁ……」
「や、嫌ああああああ!」
あの野郎!
自然と駆け出しドアを蹴り開けた。
扉を破る音が二人に届く、一人は救いを求める瞳を輝かし、もう一人は無機的な眼球を向け苛立たしく舌打ちをする。
その瞬間奴の標的が僕に切り替わる。
「と、十夜……? 十夜!」
「助けに来ましたよ夢ちゃん!」
繋がる彼女との視線は強く強く絡み合った。が、それを引き裂き前に出て来る男はまるでゾンビを連想させるかの如くゆっくりと起き上がる。
「誰だい君は? おれの桜に色目を使うな」
「桜? 違う、彼女は夢ちゃんです、貴方こそ彼女を解放しなさい!」
「夢? 違う違う、彼女は桜だよ……我妻の荒沢桜だ、これから愛の契りをやり直すところさ、悪い女になってしまっていた桜がようやく正気に戻ったんだ、ああ何て素晴らしい日だろう……だからこの神聖な儀式に相応しくないお前は誰だぁ? 桜の心も体もおれの物だ!」
何を馬鹿なことを言っているんだ、こいつは狂ってる。
「出て行け、神聖な儀式を壊すな」
「……何が神聖何です? 貴方は自分の娘を何だと思っているんですか! 神聖なんかじゃない、これは邪道です! 夢ちゃんから離れなさい! その汚らしい手を退けなさい!」
「何様だよお前はぁ、おれの妻だ、触って何が悪い?」
そう言い夢ちゃんの肩に手を掛ける、這うように指を触手のように動かして不快感を彼女に与えている。
「さ……触らないで!」
「……桜ぁ、今何て言ったんだい? 触るなとか聞こえたなぁ……」
「触らないでって……言ったの! 私はもう貴方のおもちゃじゃない、私は……私は十夜だけが好きなの! 十夜を愛してる! 貴方に何か触られたくない!」
完全なる拒絶、彼女の思いが刃となって父に向かう。
だが状況を悪化の色に染めた。
「……何てことだ……桜、お前この男と浮気していたのか……ああそうか、だからおれの言うことを聞かない聞かない聞かない聞かない聞かない……そうか、お前が桜を堕落させたんだなぁ?」
無機的だった瞳は殺意を込めた怒に染まり眼球が血走る。本気の殺意、これに対面するのは二回目だ、桜井姉妹の叔母が見せたあの戦慄、今それが再び目の前に。
大丈夫、僕はとっくの昔に腹を括っている。夢ちゃんを守る為なら何だってやってやる。
「お前が元凶だったんだなぁ、お前の所為でおれの家族がバラバラになったんだ……桜……桜をたぶらかした、こいつがこいつが……ふふ、ふふふ、お仕置きしなきゃな、お仕置きお仕置きお仕置きお仕置き……」
「十夜逃げて! この人はもうまともじゃない! 逃げて、このままじゃ十夜が殺されちゃう!」
「僕は逃げませんよ、夢ちゃんを置いて逃げる訳にはいかないんですよ……」
両親は首を吊って死んだ。僕は二人を助けられなかった、どんなに虐待されていたとしても大切な家族だった。
小さいから助けられなかった、でも今は大人だ、もう二度と誰かが死ぬところ、悲しむ姿は見たくない。
それに夢ちゃんは僕を変えてくれた大切な人だから。
彼女が好きだから、だから逃げる何て選択肢は初めから無い。
ズボンのポケットに手を突っ込みかれんちゃんに渡されたスタンガンを握り締めた。
いつでも反撃は出来る、しかし夢ちゃんはまだ向こう側だ。何とか奴をかい潜って縄を解かなければ。
「桜を堕落させた、桜を堕落させた……許さない、許さない……」
標的が僕に向いている今なら夢ちゃんに危害を加えないだろう。
時間を稼げと言われたが出来るかどうか。奴の精神状態は不安定、おそらくこちらに飛びかかってくるのは時間の問題だ。
「桜はおれの物だぁ、あはは」
「夢ちゃんはお前の物ではありません」
「おれの物だぁ! ……なら証拠を見せてやろうか?」
睨んでいた目は標的を切り替えた、後の身動きの取れない夢ちゃんを捉えた。
「桜、おれのことを愛しているだろ? お前はおれだけの物だよな?」
「貴方何か愛していないし貴方の物でもない!」
「……あれ、違うよ? 返す言葉が違うよ? おれの欲しい言葉じゃない…………悪い子だ」
それは奴にとって教育の一つなのかも知れない、無造作に彼女の毛髪を鷲掴みにして上へ上へと重力に逆らわせた。
比例して痛覚が倍増し、激痛が表情をねじ曲げる。
「あっ、ああああ!」
「悪い子だ、悪い子だ、また悪い子になった」
悲鳴、苦痛、涙、恐怖、それらが夢ちゃんを苦しめている。
憤怒が僕を突き動かし憎むべき奴に飛びかかった。
全力疾走からの体当たりは自分でも信じられない程のパワーを生む。
衝突の反動か彼女を苦しめていた手が解き放たれ、そのまま奴と共に地面に叩きつけられた。
全力に噛み付く苦痛に耐え直ぐに奴に焦点を定めるとこちらを殺意を込めた眼球で睨み、飛びかかり僕の首を絞め始める。
「がっ、ぐぅ……」
「桜を堕落させた元凶め、死ね、死ね、死ね、死ね」
「十夜!」
非力そうな腕は信じられない程に強力で食い込んで離さない。息が出来ない、苦しい。
視界は赤や紫の線が混じり合い周りがぼやけて気が遠くなっていく。
夢ちゃんの声が聞こえた気がした。
でもフィルター掛かった何かに包まれたようなこもった声で彼女の声なのかも疑わしくなる。
二つ揺れていた。
ぶらりぶらりと左右に揺れていて不思議な光景。
足が地面に着いていない、浮いている。
おとうさんとおかあさんがなかよくういていた、ぼくはなにもできなくてただみつめるしかできない。
ぼくはひとりぼっち、ただえがおでしあわせにくらしたかっただけなのに。
ぼくがちいさかったからふたりをたすけられなかったんだ。
『だったらこれから出会う大切な人を守れ』
記憶の底から浮かんできたその声はじいちゃんの台詞だった。
全てを無くしたあの日にじいちゃんに言われた言葉。
じいちゃん、僕はやっと見つけられたよ、だから守らなくちゃいけないよね?
もう二度と大切な人を失いたくない、僕が守る。
だから走馬灯から抜け出さなきゃならない。
震える手でそれを掴み、奴に食らわせる。
「あがっ!」
奇声を漏らして奴は手の力を緩め顔面から前へと倒れ鈍い音を生み出す。荒沢は床とキスをしているような滑稽な姿に。
解放された首は空腹のように酸素を貪る、視界が徐々に元通りの正常化に。せき込みながら手に掴んでいたそれを見つめた。
これがなかったら死んでいた。
かれんちゃんに渡されたスタンガン、それを荒沢に食らわせたのだ。
走馬灯を見ていたと言うことは本当に危なかったらしい。
「十夜……」
「はぁ、はぁ、……お、お待たせしました、助けに……来ましたよ」
息を整えてから夢ちゃんの方へ向かい縄を解く、かなりきつく縛ってあり解くのに時間が掛かったが何とか取り除く。
腕に残った縄の後が痛々しい。
「十夜……私、私……」
「もう大丈夫ですよ、大丈夫」
思い切り彼女を抱き締めた、体が震えている。どれだけ怖かったのかそれが教えてくれた。
頭を撫でながら何度も大丈夫と囁く。
この温もりを守るためなら努力は惜しまない、僕を変えてくれた日溜まりだから。
しかし安堵は直ぐに居なくなってしまった、変わりに不安がその場を仕切り始めるのだった。
「十夜、つ、椿姉が連れて行かれたの、助けないと……椿姉に何かあったらどうしよう……」
「大丈夫です、椿さんは龍士とかれんちゃんが助けに向かっていますから」
「竹崎さんとかれんちゃんさんが……?」
夢ちゃんは冷静に考え始め、何故僕らがここを知ることが出来たのか疑問に思ったらしい。しかし今は緊急事態だ、後から説明すると約束をしてこの場から離れることにした。
荒沢はまだ倒れたまま動く気配はない、全てが片付いたら必ず警察に引き渡してやる。
「行きましょう夢ちゃん、椿さんが心配ですから」
「うん、椿姉を助けなきゃ」
しっかりと手を握り合い僕らは外へ。
その直後、異音が耳奥へ侵入し裂けるような響きを奏でる。
静かな山奥で雄叫びのように吠えたのは聞き間違いでなければ銃声だと思う、ここから更に奥の木々から誘うようにそれは聞こえたのだ。
銃声、つまり誰かが拳銃を発砲したと言うことか。
まさか……。
「今のって……」
「とにかく行ってみましょう、向こうに気付かれないようにそっと近付いていけば……」
と自分で言ってみたが椿さん達が心配だ。だからなるべく音を立てずに走るしかない。
「行きましょう」
「う、うん」
木々へ侵入し、草木を掻き分けて銃声の場所へ。
出来るだけ急いで走りある程度に達すると二度目の銃声が。
かなり近い。
と、その時だった、足音を察知する。多分こっちに向かって来ている。まさか敵に見つかった?
一端止まりスタンガンを装備する。
近くの木に身を潜め迫る足音に神経を注ぐ。数は二つ、それらが近付く度に心音が高かまり手が震え始めた。
向こうは荒事に慣れた連中だがこちらは一般市民である。だがそれでも夢ちゃんは守る。これだけは揺るがない。二つの足音は等々目の前に姿を晒す。それを木の陰から覗くと力が抜けた。
「龍士! それに椿さん!」
「む! 白原十夜か! 無事だったらしいな」
「十夜くん、それに夢!」
「椿姉無事だったんだね! 良かった……良かったよぉ……」
龍士が椿さんを連れてここに現れた、つまり救出に成功した訳だ。
しかし聞こえた足音は二つのみだったが?
「かれんちゃんはどうしました? それにどうやって椿さんを?」
「うむ、俺達が向かった時奴らはちょうど彼女に乱暴しようとしていた、しかし酷だがそれが幸いした。完全に意識は彼女に向かっていたから後は草村から飛び出して蹴りと打撃の嵐を食らわせたのだ。忘れたか白原十夜、俺の習い事を」
通信算盤、通信英会話、通信裁縫、通信空手、通信拳法(何故か全部通信物)などを小さい頃から習っていたな確か。
しかしあれらが役立つところはあまり見たこと無かったが。
「努力の結果だ……とにかく下っ端はそれで片付けたがリーダーらしき男が拳銃を取り出した、直ぐに彼女を連れ出し加藤さんが男を引き付けている」
「どうしよう……かれんちゃんさんを助けに行かないと」
夢ちゃんが言っていることは正しいが向こうはピストルを所持していて尚且つ発砲して来る。荒事に慣れている男みたいだ。しかしかれんちゃんを見捨てる訳にはいかない。
「……とにかくバレない程度近付きましょう。もちろんピストルが向いているのとは反対側を……かなり危険ですけど相手の隙を突くしかありません。夢ちゃんと椿さんは僕らの後ろに、何か起きたら直ぐに逃げますよ」
「慎重に行かねばならない。足音一つに注意を払って行動せねば命取りだろう。……覚悟は良いのかお二方」
龍士の問い掛けに夢ちゃんと椿さんが肯定を示した。
「自分だけ助かっても意味ないもの」
「椿姉の言う通りだよ、私達も助けに行く」
見知らぬ土地ではなるべくまとまって行動するのがベストだろう。
本当は二人にはどこかで隠れていて欲しいが女性だけでいさせるのも何かしら危険だ。
もしもの場合は……覚悟を決め無くてはならないだろう。
「分かりました、では行きましょう」
息を殺してなるべく足音を立てずに歩いた、つもりだ。こちらは素人で団体、やはりある程度は音が出てしまう。
嫌な予感がする、確信などはないけど。
更に奥へ進もうとした瞬間に戦慄が沸き起こる。
その声に捕まった。
「勇気と無謀は違うぞ?」
背後から聞こえて来たのは第三者であり出来れば遭遇したくなかった相手だった。
僕らが一斉に振り返るとヤクザのリーダーらしき男が視界に入る。オールバックの髪をしたそいつの手に握られていたのはピストル、迂闊だった後ろを押さえられた。
「動くなよ、動けばどうなるか……分かるな?」
「……貴方は一体何者ですか? 荒沢を手助けするメリットは何です?」
「誰がしゃべって良いと言った? ……まあ良いか、冥土の土産に話してやろうか……」
やはり僕らを生かす気は無いらしい。
「おれと荒沢は小さい頃からの仲だ、小学校からずっと一緒だった。あいつは頭が良い方でな大学へと進み金のないおれは真っ当じゃない人生を進んだ。数年経ったある日おれは借金を作ってな、下手をしたら殺されるようなところで借りてしまい本当に危ない目にあったが……荒沢が金を払った。つまり命を助けられたのさ。まあその後に奴が務所に入ってしまったが、もしそこから出られたらおれを訪ねるように伝えていた、だから匿ってやった……つまり恩返しだよ」
なる程、それで荒沢は脱獄後捕まらなかったと言う訳か。
その謎は解けた。しかし解けたからと言って何になる、ピストルがいつ火を噴くのか分からない生死の狭間のような感じだ。まるで岸壁に立たされているみたいだ。
「それにしても実の娘がお好みとは……奴もだいぶ狂ったと見えるな。妻を亡くしてから麻薬の中毒になったからな……ま、こっちはいい小遣いになったが」
「じ、じゃああの人が狂うきっかけを作ったのは……」
「ああそうだよ嬢ちゃんおれだよ、ああなると分かっていて薬を売ったのさ、くっはははは、まああのイかれ具合は気に入っているがな」
「あ、貴方が……貴方が薬なんて渡さなかったら……お兄ちゃんは……死ななかったかも知れない……お兄ちゃんを、お兄ちゃんを……うっ、ううっ……お兄ちゃんを返せ!」
「返せだと? おれに言うのは見当違いだろうが、お前の父親は自ら望んでああなった、それに死ななかったかも知れない何てもしもまで恨まれる筋合いはない。恨むんだったらあいつの娘になったことを恨むんだな……さて無駄話はこれくらいか?」
ピストルを構え直し奴は誰から撃とうかと思案しているらしい。
下手に動けば標的にされる、しかし動かなければ死ぬ。
「……そうだな、少し遊ぶか。おいそこのお前」
呼ばれたのは龍士だった、奴は何を考えているんだ?
「何だ……」
「横にいる男をおれが良いと言うまで殴れ、そうしなければ女が死ぬ」
「なっ……何と、そ、そんなこと出来るか!」
「命令に背くか。なら女を殺すか……いや、おれのお楽しみの処理でも構わんが? くっはははは!」
僕を殴らなければ誰かが死ぬ、今はそうしないといけない。
「龍士、僕を殴って下さい」
「し、しかしだな……」
「今はそうしないといけない……チャンスを待つんです。僕は殴られることに慣れてますから」
「…………くそ、必ず奴に報復してやる」
決心してくれたらしい。チャンスを待つしかない、その心当たりは一つだけだが今は賭けてみるしかない。
「言っておくが本気で殴らなかった場合は……分かるな?」
複雑そうな表情に歪む龍士の顔、僕は黙って龍士を見つめる。
遠慮するなとの眼差しは彼を行動に移させた。
ハンマーで打ち付けられたらような衝撃が右頬に発生し、そのまま慣性に従い地面へ。
口の中が鉄の味で広がり気持ち悪い。
「がっ、痛……さ、さすが龍士のパンチ、結構利きますよ……」
「うっ……くそ……」
「おい何をしている? まだ良いとは言った覚えがないが? 早く続けろ」
起き上がり龍士の攻撃を待った、やはり強力な拳だ。
殴られ、倒れ、起き上がりまた殴られる。痛い、でも僕を殴る龍士も痛い筈だ。拳と心が。
「くっはははは! 良いねぇ、これは良いショーだ、くっくっく……」
「や、止めて……これ以上殴ったら十夜が……止めて、お願いだから止めさせて!」
「嬢ちゃん、あいつらを止めたいのか? 駄目だ。……よし、嬢ちゃんが邪魔したから次は蹴りだ、さっきよりも強力になったな? くっはははは! ほら次は蹴りだぞ? 遠慮無しに蹴れ!」
「そんな……」
「ゆ、夢ちゃん……僕は大丈夫ですよ、だから……心配しないで下さい……」
と言うもののさすがにふらふらして足腰に力が入らなくなって来たと思う、そんな状態で次は蹴りか。
奴に殺されるよりも友に殴り殺された方がマシだが、でも今死ぬ訳にはいかない。
「何をしている! 早く蹴りをして見せろ!」
ピストルをちらつかせ龍士を脅し、鋭い蹴りが腹部に直撃した。
世界が反転してしまうような激しい揺れと激痛が僕を再び地面に平伏させた。
そして嘔吐、口の中を切っているから血が混ざっているな。起き上がろうと奮闘するが足が言うことを利かない。
完全に動けなくなった。
「何だ立てなくなったのか、なら次はサッカーだな、おれは野球が好きだがサッカーの方がこれに合っている……ほらそいつをボールと思ってシュートだ」
泣き叫ぶ夢ちゃんと涙目で怒りを堪えている椿さん、それから後悔と自分の不甲斐なさに苦しむ龍士が見えた。
僕はボロボロだ、助けに来たつもりだったのにもう立てない。
「おい、誰が止めて良いと言った? 早く蹴ろ! 何なら踏みつけてみたらどうだ?」
「…………きない」
「……何?」
「もう……出来ない! このままでは死んでしまう! 頼む、次は俺を殴ってくれ、もう限界なんだ!」
震えながらそう訴えた、しかし了承する訳が無かった。
「そうか、なら選べ。どの女を死なすか」
「ま、待ってくれ、それだけは止めてくれ!」
「くっはははは! 良いねその顔、それとも演技か? そろそろ助けに来てくれると思ってないか? くっくっくっ……お前等が待っている男は来たくても来られないだろうな」
かれんちゃんに何があったんだ?
「貴様、加藤さんをどうしたんだ!」
「殺した。胸を一撃だ、あれは死んだ」
そんな、馬鹿な……。
「助けを待っていたんだろ時間稼ぎをして、だが残念だったな、あいつは死んだんだ、だから助けなど来ない」
嘘だ、そんな訳がない、そんな……馬鹿な……。
「くっはははは! 教えてやるよ、これを絶望と人は呼ぶ。良い体験となったな? さあ続きを、試しにそいつの頭を全力で蹴ってみたらどうだ? そんな状態なら一発で逝けるんじゃないかぁ? くっはははは!」
「くっ……くそ、くそぉ!」
「悔しがってないで早く蹴ろよ、そろそろ本当に撃ちたくなる、どうする? 三十秒以内にやらないと……こいつが死ぬ」
激痛でうめく中ピストルを誰に向けているのかを眺めた。
ピストルの先にいたのは椿さんだった。
「や、止めて……椿姉を……撃たないで……」
「誰が発言して良いと言った? ペナルティーだ、後十秒以内にそいつを蹴ろ」
僕に構うなと叫びたかったが声は出ない、龍士、僕を……。
「ふん、貴様にその人を殺せるものか」
「……何?」
突然龍士が吐いた挑発的な言葉、何を考えているんだ?
「……口に気を付けろ、おれは本気で撃つぞ?」
「ああ、確かに貴様は撃つだろうな。だが貴様は何も分かっていない」
「何が分かっていないと言うんだ? 返答次第でどうなるか分かってるんだろうな?」
「貴様は教えてくれたな、これは絶望だと……なら今度は俺達が希望を教えてやる!」
顔をしかめ龍士の台詞に意味を理解しきれない様子だった。
だが僕の視界に映った、そしてその言葉を理解した。
男の後ろの茂みから飛び出る希望、希望は男を後ろから襲いピストルを奪う。
「てめぇオレが死んだだと? ふざけんじゃねぇよ!」
そこにいたのは加藤錬士郎、またの名をかれんちゃん。
「ば、馬鹿な、何故貴様が生きている!」
「はっ、企業秘密だ」
男は完全にかれんちゃんに動揺している、だからこのチャンスを見逃すはずがない。
龍士が走る、そして勢いの乗る蹴りを男の頭に打ち込む。
「がっ!」
「おっと、次はオレだ! どりゃあ!」
かれんちゃんの背負い投げが綺麗に決まり完全に男は気絶した、泡を吹いて。
これで終わった、終わったんだ。
気力で保っていた意識は気が抜けた拍子に手放した。遠くで僕を呼ぶ声が聞こえるが誰なのか分からないまま落ちる。
感触があった、それは右手を包む温かさ。誰かが手を握っているらしい、重い瞼をやっとの思いで動かすと温かさの正体を目にする。
それは僕の大切な人、僕の全て。
「……夢……ちゃん……」
「十夜……? 十夜! 目が覚めたのね、良かった、良かったよぉ……」
「僕は一体……痛っ」
体中が痛い、何で痛い? それにここはどこだ? 記憶の混乱か暫くここが何処なのか分からなかった。
時間経過が徐々に記憶を提示する。ここは僕の車だ、後部座席に寝かされているみたいだ。夢ちゃんが助手席から身を乗り出して手を握ってくれていたんだ。
「無理しないで、体はボロボロ何だから」
「はい……あの、あれからどうなりましたか?」
「えっと、龍士さんとかれんちゃんさんがオールバックの男を倒してから龍士さんが十夜をおぶって車まで連れて来てくれたんだよ。かれんちゃんさんはヤクザ達を縄で縛って一カ所に集めるってまた森の中に行ったよ龍士さんと。椿姉は運転席」
そう言われて運転席を見ると椿さんが眠っている姿が。
あれだけのことがあったんだ、疲れて当然だ。
「……終わったんですね」
「うん、終わったよ……」
ああ、彼女の笑顔にまた巡り会えた。これを守る為ならどんな努力も惜しまない。
もし世界中を敵に回すようなことが起きたとしてもこの決意は変わらない、絶対に。
「十夜……ありがとう」
そんな言葉を僕にプレゼントしてから彼女の柔らかな唇が触れる。
キス魔な彼女のこの行為は愛情表現だと理解している、だからそれを受け止めた。
その間は痛みを忘れられた気がした。
「……あのね十夜、私は貴方の隣にいても……良いんだよね?」
「もちろんですよ、僕だって夢ちゃんとずっと一緒に居たい、ずっとずっと側に居て欲しいです」
「……それって、プロポーズ?」
「はい、……夢ちゃん、このゴタゴタが片付いたら……」
結婚しよう。
と言い掛けたところで龍士とかれんちゃんが戻ってきてしまった。タイミングが良いのやら悪いのやら。夢ちゃんが窓を開けると笑いながら報告する。
「おおっ、目が覚めたか白原十夜! あの時は済まなかったな」
「気にしていませんよ、あの場はああしないともっと危なかったですから」
「そうか……んん、奴らは縄でぐるぐる巻きにしておいたから後は警察に連絡するだけだ」
良かった、これで肩の荷が下ろせる。今日一日は本当に長かった気がするよ。
だけどこれで平和が訪れる、また夢ちゃんの笑顔が帰ってくるんだ。
「うふふ、十夜ちゃんたらようやくホッと出来て可愛い笑顔になったわねぇ、ああ、食べちゃいたい」
「だ、ダメですよかれんちゃんさん! 十夜を食べて良いのは私だけです!」
何て言うと顔を真っ赤にして恥ずかしがり、後悔する夢ちゃんが可愛らしい。
すっかり元に戻ったかれんちゃんを眺めると胸元の風穴が目に入る。そうだ、胸をピストルで撃たれたのに何故無事だったんだ?
「かれんちゃん、ピストルを胸に撃たれたのにどうして無事だったんですか?」
「それはすごぉ~い仕掛けが、ある訳じゃないわよん? ほら」
上着を捲るとそこから出て来たのは初めてて見る防弾チョッキを来ていた。
そうかそれで無事だったのか。
「ワタシってこう見えてか弱いでしょう? 昔自衛隊に居たことがあってね、使い古しを貰ったのよ。あ、普通はいけないことだからみんなには内緒よ!」
みんなって誰? それにか弱いって誰が? そもそも自衛隊だってことに驚いた。
何故ならどう考えたってかれんちゃんは元ヤクザ何じゃないかなと疑っていた、実は実はこの場にいる全員が思っていたりもする。
「まあ防弾チョッキって言っても胸に食らったらさすがのワタシでも気絶しちゃったわ……でも間に合って良かったわよ」
「本当にありがとうございます、かれんちゃんが居なかったら僕らは多分生きてなかったと思います」
「ふっふふふん、お礼なんていいのよん、だって後で十夜ちゃんを食べちゃうんだから」
「ええっ! その話生きてたんですかかれんちゃんさん!」
驚愕の夢ちゃんだが僕もビビった。
「そうか、等々白原十夜は童貞卒業か。赤飯でも炊こうか?」
「龍士、人事だと思って変なことを言わないで下さい!」
「あらぁん、別に龍士ちゃんでも良いわよん?」
「お、俺には心に決めた人が居るのだ、つ、つまりこの話は自然消滅と言う訳で……」
大量の汗をかきながら断る龍士が可笑しくてみんなで笑った、笑い声に反応して椿さんが起き何故みんなが笑っているのか不思議そうに眺めていた。
こうやって笑い合える時間は凄く大切で尊い。こんな温かな輪の中に僕が居られることを感謝したい。
かつて忘れてしまった笑顔の花に囲まれている。
だから僕も笑っていられる。
これが幸せなのかも知れない。
「さて、俺は下まで降りて警察に電話するかな。全く圏外は辛い」
「龍士ちゃんが連絡係りならワタシは奴らを見張っていようかしら。逃げ出そうとするなら……掘る」
「そうだ、かれんちゃん小屋で気絶している男もお願いします」
「あらんヤクザに気を取られて忘れてたわ! 直ぐに行ってぐるぐる巻きにするわね!」
こうして龍士は下山、かれんちゃんは荒沢を確保に向かう。
「十夜くんてさ、変なん知り合いが多いわね」
「椿姉もそれに当てはまると思うよ?」
「そうね……って、夢ぇ? わたしってあの人達と同類と言いたいわけ?」
「うん!」
満面の笑顔で答える夢ちゃんに椿さんが襲い掛かる。
と言ってもくすぐり攻撃だが。
「や、やめ……あはははは!」
「ほらほら誰が何だってぇ?」
「あはははは! ご、ごめんなさい! あはははは!」
本当の姉妹のようにじゃれつく二人を眺めていると兄弟は良いものなんだなと少し羨ましくなる。桜井姉妹は互いが互いを思いやり愛している、僕は一人っ子だから兄弟には憧れるな。
「よし、お仕置き終了。……で? 十夜くんは夢に何か言い掛けてなかった?」
「起きてたんですか?」
「話し声に目覚めたの。で? で? 何て言おうとしたの?」
急に振られると何だか恥ずかしい。後で夢ちゃんと二人切りになったらもう一度言おう。
「内緒にしておきます」
「何よそれ、秘密主義者だったの十夜くんは」
「私も知りたいよ、十夜何を言い掛けたの?」
「後で夢ちゃんと二人切りになってから伝えます……まあその、大事なことですから」
納得はしていないだろうがこれは大切で大事な台詞になる。
だから手軽に言うのは嫌だ。
彼女となら家族になれる、僕が求めた温かな家庭を夢ちゃんとなら築けると信じている。
笑顔が絶えない、そんな理想を僕は求めた。
しかし運命とでも言おうかそれを阻むのは好きだとみえる。
冷ややかに、冷徹に、車内を悲鳴で充満し世界の反転へ。
開け放たれた後部の扉、椿さんの悲鳴、そして夢ちゃんの恐怖、先程まで笑顔絶えない世界は崩れた。
その元凶が僕の目の前で不幸を振り撒く。
「このこそ泥野郎め……桜はおれの物だぁ、渡すか、渡すものかぁ!」
荒沢新一が狂気を纏い激昂する。
「あ、ああ……嫌、嫌ぁ、十夜ぁ!」
僕の“姿”に発狂してしまいそうな程に驚き恐怖する夢ちゃんがいた。
何が起きている? 何が僕を苦しめる?
突然車のドアが開いて荒沢が現れたと思ったら何かが僕を襲った、ああだからなのか。
だからそれがそこにあるのか。
鋭利なナイフが僕のお腹に食い込まれていた。
「あっはははは! 桜を拐かし、堕落させ、誘惑した罪だ、死ね、しねシネしねシネ死ね! あははははははははは!」
ナイフが刺さっている、痛みはない。いや分からないだけか、それとも後から来る痛みなのか。
「や、やだ、十夜……し、死んじゃ……嫌だ、嫌だよぉ……」
「さあ桜、目を覚ませ、そして俺といつまでもいつまでも幸せに暮らそう……また高級な香水を買ってやろう、また高級な服も買ってやろう、エステにも通わせてやる、デカい家、巨大なテレビ、ふかふかのソファー、二人の愛を育むベッドも! さあ行こう桜、もう離さない、二人で幸せになるんだ」
狂気に惑わされた荒沢は無理矢理夢ちゃんの手首を掴み連れて行こうとする。
椿さんがさせまいと夢ちゃんにしがみついた、だが空いている片方の手で椿さんの髪の毛を掴む。
「ああっ!」
「邪魔するな、おれは幸せになるんだ、桜がいれば幸せだ、邪魔するな、邪魔するな」
「夢は……ああっ、わ、渡さないぃ!」
僕が刺されたことに夢ちゃんは動揺し泣き叫ぶ。
今まで笑顔だったのに、僕が心奪われた笑顔を何故奪う?
「さあ来い、桜、また二人だけで暮らそう!」
「……ふざけるな」
決別した言葉でそう呟いた。
「桜? 違う、彼女は夢、鮎原夢だ!」
起き上がり奴を蹴り飛ばす。
案外奴は軽かった。簡単に夢ちゃんと椿さんを解放する。
「がっ、……ぐっ、お、おお、おおおのれぇ! 桜をまた拐かすか!」
「貴方は……貴方にとって幸せてって何です?」
「決まっている! 金だ! 地位だ! そして桜だ! それが幸せの全て!」
「一番最初に言ったのがお金ですか……桜じゃなくてお金ですか?」
ナイフが刺さったまま車から起き上がり奴と対面する。
「そうさ金さ! 金が無ければこの世では幸せは掴めない、金があればデカい家が買える! 車もテレビも何もかもが手には入る! 地位があればおれは部下を持てる、人を使い上に立って動かす、正に王様だ! その二つがあれば桜を養ってやれる、守ってやれる! ああそうさ、今度こそ守るんだ、だから桜を渡せぇええええ!」
「……歪んだ愛ですね、お金があれば何もかもが手には入る? そんな訳がない…………何て奇麗事は言えませんね、確かにお金は大事ですから」
「十夜……?」
だってお金があれば父さんと母さんは死ななかった、莫大な借金だって返せた、そうお金があればきっと二人は側にいたと思うんだ。
そんな思いと、お金が全てではないとの思いがぶつかり合い、自問自答の毎日だった。
それは高校を卒業して就職するまで悩んだ、お金があれば二人は死ななかった、極端に言えば金で命を買えたんだ。だから金がいる、こんな貧乏臭い暮らしは真っ平だ、どんな手を使おうと金持ちに成ってやる。
いや違う、金に執着したから二人は死んだんだ。だからお金なんかいらない、大切なのは人と人との繋がり。他人と関わろう、そして友人を増やしていくんだ、それはお金よりも貴重なものになる。
そんな思いが僕の中で渦巻いていた、自問自答の末に辿り着いた答えは無い。
いや分からなかった、どちらが正しいのか。
もしかしたらどちらも正しいのか。
もしかしたらどちらも不正解か。
「ははははは! そうさ金だ、お前は気に入らないがそこだけは認めてやる!」
「……お金は大事です……でも僕は知りました、出会いました」
それは笑顔をくれた君が居たから知ることが出来た。
鮎原夢に出会ったから知ることが出来たんだ。
彼女と過ごす時間は安らかで温かくて凍り付いていた感情を溶かし、笑顔を与えてくれた。
そして彼女の笑顔に惹かれて行く、お金なんか無いただのカメラマン見習いの僕だったけど笑顔の絶えない日は無かったと思う。
いや無かった。
何故だろう、今まで悩んでいた答えは夢ちゃんの笑顔にある。
そう思えるようになった、そうしたら悩んでいたこと自体が馬鹿らしく思えたのを覚えている。
人は何かにしがみついてそれに縋る。目の前にいる荒沢は金に縋り魅力された。僕もそうなりかけた、けど彼女といる時間が、笑い合っている温かみが、キスしている瞬間が幸せだったことを知れた。
人は弱い。だから縋る。
だけど本当に大切なものにみんなはまだ出会ってないだけじゃないだろうか。
僕は彼女に出会って“知れた”、自分が求めている答えに逢えたのだ。
「……きっと貴方は知ることが出来なかった、逢うことが出来なかったんですね……そしてそのこと自体に気が付いてないんですよ貴方は」
「何を言ってるんだお前は、……ああそうか、そうやって混乱させた隙に桜と逃げ出す気だなぁ? そうはいかない、桜はおれのものだぁ!」
「……もはや哀れみすら感じます。僕らは似ていた、でも知ることが出来た僕と知ることが出来なかった貴方ではもう僕らは別なんです……」
大切なものに気が付けた、夢ちゃんや水面さんに鏡ちゃん、大家さんにかれんちゃんや龍士、九十九先生や出会った人達、これが知って出来た宝物。
「知ることが出来なかったことは罪では無いのかも知れません、知らないまま死んでいった人もたくさんいたはずですから。でも、それでも……僕は貴方を許せない、縋ったものに踊らされて自ら狂い、夢ちゃんの心に深い傷を残し、夢ちゃんのお兄さんを殺めた貴方を僕は許せない」
家族は守るものじゃないのか。
もう壊れた心には届かないのかも知れない、意味が無いのかも知れない。
でも、僕の拳に力が溢れて今にも爆発してしまいそうだ。
暴力では何も解決はしない。
しかし許してはおけないものはある、だから拳に宿る意思に身を任せる。
悲鳴を上げる傷だらけの体に鞭を打ち駆け出す。
荒沢新一、覚悟しろ。
ずっと言ってやりたい言葉と共に奴に拳を届けた。
「この馬鹿野郎が!」
爽快な程に拳は荒沢の右頬を貫く。やはり軽い。
この一発だけは入れたかった、もう戻らない心ならせめてこれだけは。
地面に引っ張られるように荒沢は落ちる。怒りに任せた暴力はこれっきりにすると誓う。
後は元の場所に帰す、この国が下した裁きを執行する場所へ帰れ。
そして二度と僕らの前に現れるな!
「はひ、……い、痛い、痛いじゃないか、ああ……ああ……」
「二度と僕の前に現れるな! それと夢ちゃんに近付くな!」
「ひっ、ひぃいいいいぃ、た、助けてくれ、助けけけ、お、お金をやるから、だから助けて……ああ桜、おれを助けて、桜、桜ぁ……」
ガタガタと震えながら夢ちゃんに助けを求める姿は哀れそのもの。
そんな男に彼女が叫ぶ。
「私はお母さんじゃない、私は鮎原夢! 貴方のおもちゃでもないし人形でもないの! お母さんは……貴方が殺したようなものじゃない!」
「……あれ、あれあれ? 桜はここに、お前が桜……違う? あれあれ、桜はどこ? 桜ぁ、桜ぁ……あれ、あれあれ?」
地面へ視線を落としたまま荒沢はぶつぶつと独り言を繰り返して動かなくなってしまう。
ようやく現実を垣間見たらしい。しかしそれを認められなくて自らの思考を停止させて独りの世界に入りこんだ。そして孤独な心の迷路で迷っている。
その時遠くから慌てて駆けてくるかれんちゃんの姿が。
「大変よ! あの男が小屋から姿を消して……あら、やだこいつこんなところにいるじゃない!」
「かれんちゃん、その人を拘束して下さい……うっ」
体に無理をさせて過ぎていたのを忘れていた、軽い貧血に車に背を預ける。
もう立っているのも辛い。
「と、十夜……」
「夢ちゃん、もう終わりましたから、だからもう大丈夫ですよ」
「ち、違うの、そんなことよりお腹……ナイフが刺さったまま……や、やだ、まさか死んじゃうんじゃ……嫌だよ、そんなの嫌だよ!」
ああそうか、お腹にナイフが刺さっていたっけ。
“忘れてた”。
「あの落ち着いて下さい、僕は死にませんから」
「で、でも、お腹に……お腹に……」
「大丈夫ですよ、ほら」
ナイフを抜いて見せると椿さんと夢ちゃんは不思議そうに見つめていた。
血の付いてないナイフが珍しいみたいに。
「あれ、血が付いて……ない?」
「本当に危なかったですよ、かれんちゃん助かりました」
服の下にあったそれを取り出す。ここに来る前にかれんちゃんに施された仕掛け。
「分厚い……本?」
「ええ、かれんちゃんに細工して貰ったハードカバーの本です。これがナイフをせき止めてくれたんです、だから大丈夫、僕は死にませんよ」
穴の空いた本を見せると力無くその場に尻餅を付く夢ちゃんは呆け顔だった。
「……じゃあ死なないの?」
「む、勝手に殺さないで下さい。僕はまだ生きていたいですから」
「…………良かった、良かったよ……十夜……生きてる……死なない……十夜は死なない……」
そう呟いてから泣き出してしまった、慌てて慰めようと起きあがった瞬間に足が笑い激しく前から地面とキスした。
うむ、やはりキスなら夢ちゃんじゃないとダメだ、凄く痛い。
倒れたおかげとでも言おうか夢ちゃんがびっくりして泣き止んだ。
「……えっと、十夜大丈夫?」
「多分大丈夫です」
とほざいて地面から夢ちゃんへ顔を向けた瞬間に笑われてしまう。
「……ぷっ、あはははは! 十夜の鼻が赤くなってる! あはははは!」
「ひ、酷いですよ笑うなんて……夢ちゃんだって目が真っ赤じゃないですか、それも可笑しいですよ」
と、互いの酷い有様にただただ笑った。
荒沢は独り言を繰り返してじっと地面ばかり見詰めて視点が定まっていなかった。かれんちゃんに縄で縛られている間も無抵抗で先程までの狂気が嘘のようだ。
痛む鼻先を押さえながら夢ちゃんと椿さんに手伝って貰い起き上がりそのまま地面に一時座る。
そして荒沢を眺めた。もしかしたら僕がこうなっていたのではないかと畏怖し、余計にこうあってはならないと決意させられたと思う。
彼は可哀想な奴だったのかも知れないがそれを棚に上げて何でもやっていい訳ではない。可哀想だった、しかし彼はやり過ぎた。
その過ちにすら気が付いていないだろう。もしかしたら一生気が付かないかもしれない。
だからそれが罰だ。
これから一生気が付かずに苦しんでいく。本当に大切なものに気が付けば己を悔いて反省し前を向いていける。
でも荒沢にそんな資格は無い、ただただ悩んで、気付かせてやることすら許されない。いや、出来ない。
それが荒沢新一の罰なのだ。
そう僕は思った。
こうして全てが終わった。
と僕は思っていた。
狂気により苦しめられた人間の心情を読み取れなかった、傷だけ残された者がここにいる。
その人は立ち上がりそれを手にする、虐げられた心と体、それらに操られたかのように佇む。
「何をしているの夢……」
椿さんの問い掛けにも反応しない、今突き動かすのは憎しみ。
鋭く光るナイフを握り締めて荒沢を呆けたように見下ろしている彼女の背中がとても小さく見えた。
「夢ちゃん……」
僕の問い掛けに反応するかは半信半疑だったが彼女は答えてくれた。
「私ね、お母さんとお兄ちゃんが大好きだった。良く頭を撫でてくれてキスの意味を教えてくれたお母さん……元気いっぱいで良くスカートを捲る悪戯をしてくるけど私を守ってくれたお兄ちゃん。大好きだった……大好きだったのに……こいつがそれを奪った」
ナイフを両手で握る、震えながら。
大切な者を奪われる悲しみは痛い程に理解出来る、今彼女の中では葛藤が巻き起こっているはずだ。
体をいたぶられ、大切な人を奪われ心まで疲弊させられた。
その元凶が目の前にいるのだ、復讐の二文字がナイフを握らせても可笑しくはない。
でもね夢ちゃん、復讐は下らない。
そう教えてくれた人がいたじゃないか。
「…………夢ちゃん覚えてますか、桜井姉妹の事件」
叔母に苛められていた姉妹は逃げ出した、でも鏡ちゃんは連れ戻されてしまうあの事件を。
叔母の家に水面さんと夢ちゃんと僕とで取り返しに行った夜のことを。
「水面さんが叔母に殺意を剥き出しにした時鏡ちゃんが言ったじゃないですか……叔母さんみたいに怖い顔をしないでって。叔母と同じようにならないでって言ってたじゃないですか……復讐は下らないと僕らに教えてくれたじゃないですか」
あの時は暴言を吐く叔母に夢ちゃんは怒った、でも手は出さなかった。
それは鏡ちゃんが教えてくれたから。
だから彼女は知っている、復讐の下らなさを。
「復讐は遂げれば一時は爽快何でしょう……でも後で気付くんですよ、復讐した相手と同じになってしまったと……憎むべき相手そのものに自分がなってしまったと。夢ちゃん、そんな人間になったら大好きだったお母さんとお兄さんが悲しむんじゃないですか?」
力を振り絞り椿さんに支えられながら夢ちゃんに歩み寄る。
そして震えながらナイフを掴む手にそっと暴言の手を重ねると、憑き物が取れたようにナイフが手を放れ地面に突き刺さる。
「……ううっ、ぐすっ……」
「あいつは罰をもう受けています。あの姿そのものが罰です……さあ帰りましょう、僕らがいるべき場所へ」
ゆっくりと彼女が僕の胸元に顔をうずめて泣く。
ただ黙って抱き締めた。
彼女の苦しみは僕が全部受け止めると決めた、いや決めていたとうの昔に。
彼女の支えとなろう。彼女は僕の支えでもあるのだから。
悲しみをかき消すように遠くからサイレンの音が近付いてくるのを聞いた。
この音が悲しみ全てを取り除いてくれたらどんなに良いだろう。
不釣り合いに空は茜色を燃やしている、悲しみを取り除いてくれるかのように燃えている。
悲しみを乗り越えた先に見えるものは掛け替えのない光だと信じてまた彼女を強く抱き締めた……。