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『魔の手に掴まれて』

 

 眠気など関係はなかった、大好きな彼を見送るのに邪魔なだけ。休日なのに仕事何て本気に残念だけど仕方がないことだった。

 早朝、十夜が運転する車を見送ると邪魔だと余所へやった筈の眠気が帰って来てしまい大いに私を悩ませた。

 眠い、このまま寝てしまおうかと悩んだが今日は大学に用事がある、どうしても今日の講義を受けないと卒業やらに響くのだ。

 睡魔と格闘しながら家の中へ入った。もう一回顔を洗おう、睡魔退散と唱えながら。顔を洗い終えると多少だが眠気は退治出来たらしい。

 リビングに向かうとキッチンで朝食を作るおばあちゃんの姿が見えた。

「おばあちゃんおはよう」

「あら夢起きたのね、もう直ぐ出来るから待っててね」

「何か手伝うよ」

「そう? だったらお味噌汁をお願いね」

 どうやら味噌汁はもう出来ているみたいだ、お椀に注いで配膳する。卵焼きや漬け物を並べているとようやく椿姉が起きて来た。

 大きな欠伸をしながら席に座る。

「あら珍しく早起きね」

「まあね、今日は夢と大学に行くからね、ふぁ~」

「また大きな欠伸だね椿姉、昨日何時に寝たの?」

「三時くらいかな、深夜映画が面白くは無かったけどなんか見ちゃってさ、今ちょっと後悔しているわ」

 そう言ってまた欠伸を一つ、これは本当に眠いのだろう。

 椿姉と話している内に朝ご飯の準備が整い三人同時に「頂きます」をする。

「ああ味噌汁美味しい、幸せだな……わたしっもこれくらい旨く作れたらな」

「椿姉のご飯美味しいと思うよ?」

「ありがとう夢、でも母さんには適わないんだわ」

 椿姉の料理は確かに美味しい、でもおばあちゃんはそれを凌駕しておりとても美味しい。

 特に味噌汁と肉じゃがは最高クラスだ、十夜が大好きな肉じゃがを作れるようにする為におばあちゃんに教えて貰ったんだ。

「椿は練習が必要ね、男の胃袋を掴めれば幸せになれるわよ」

「ほほぅ、じゃあ母さんは料理で父さんを魅了したの?」

 数年前に亡くなったおじいちゃんとおばあちゃんは良い年をしてラブラブだったな。

 でも羨ましかったな、何歳になってもラブラブ何て。私も十夜と……えへへ。

「まあ味噌汁と肉じゃがは修得なさい。そうすれば大抵の男を落とせるから」

「おばあちゃんが凄いことを言ってるよ」

「むむ、わたしっも頑張らないと、彼の為に」

 最近付き合っている年下の彼をものにしたいのだろう、椿姉の目が燃えていた。

 それから朝食を終えて大学へ行く準備に取り掛かる、数分後にそれを完了させた。

 椿姉はもう玄関で待っていた、欠伸をしながら。

「ごめんね、遅くなっちゃった」

「気にしないで夢、大丈夫よ缶コーヒーで妥協しましょう」

「気を付けて行くのよ? 頼むわね椿」

「ふっふん、大丈夫よ、夢はわたしっが守るから」

 外に出ると一台の車が家の近くに停車していた、多分警察の人だろう。

 あいつがまだ捕まっていない証拠だ。車の窓が開くとやはりこの前家に来た警察の人だった、何処に行くのかと問われ事情を説明すると私服警官を数人付けてくれることになった。

 あいつが私を狙って来る可能性は充分にある、だから油断は出来ない。

 後ろを私服警官が付いてくる形で私達は大学へ向けて出発する。

「何か落ち着かないよね」

「仕方ないじゃない、警官が居てくれた方が心強いし」

「……ねえ椿姉、私は幸せになれるかな」

「何言ってんのよ、夢は幸せになるわ、十夜くんがその幸せの元じゃない。……わたしっはね夢が幸せになるって願っている、もう不幸はないって祈ってる」

 私の過去は悲惨だった、お母さんを失い、身を汚され、お兄ちゃんを死なせてしまった。

 罪深い女だと何度自分を責めたか。

 そんな私が幸せを望むのはおこがましいのだろうか、椿姉が言ってくれた言葉には優しさが詰まっていて荒んだ心を優しく撫でてくれる。

 わがままかも知れない、おこがましいかも知れない、それでも願う。

 私は幸せになりたい、幸福な未来を望む。

 大好きな人達と笑顔で暮らしたい。

 そして私の隣には十夜がいることを願う、私を理解してくれる彼と一緒に幸せになりたい。

 これが鮎原夢の願いだ。




 大学に無事到着すると講義を受けに向かう、その間椿姉は大学内を見回って時間を潰すらしい。

 その後は大学の食堂で待ち合わせることにした。

 それから講義受けて終え、食堂へ向かうとコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいる椿姉を発見した、一体何の雑誌を読んでいるのだろうか。

 そっと近付いて雑誌を見ると『より良い新婚生活の心得』を真剣に黙読していたのだった。

「椿姉気が早すぎるよ」

「わ! あ、あら夢、もう講義を受けたの? あははは……」

 もうって結構時間が経っている筈なんだけど、時間を忘れる程真剣に読んでいたらしい。

 やっぱり結婚願望が強いんだな。

「えっとえっと、な、何か食べてく? あははは」

「椿姉、セリフが全部棒読みだよ?」

「そ、そうかな? あははは」

 昼食を取り終えるとしばらく談笑してから席を立った、大学を出て歩いているとちょっと後ろが気になって振り向くと私服警官がちゃんと付いて来ていた。

 ずっと待っててくれたのに食堂で話し込んだのを申し訳無く思い心の中で謝る。

 日差しが強くて青い空を見上げるのに邪魔されている感覚に陥るが光が雲に隠れるとごめんなさいと謝罪しているみたいだった。

 ちょっとだけ太陽が可愛く思えた、光を放ち自己主張を強める光の塊は何かを知らせてくれているのか、横を通り過ぎる車のボディに反射し存在を認識させる。

 黒いワゴン車が太陽光を反射させながら通り過ぎる、筈だった。

 不意に停止して車のドアが開き数人の男が這い出し、標的を見定め群がる。

 最初は何が起きているのか理解出来なかった、私を取り囲む男達は腕を肩を腰を、あらゆる場所を掴み自由を奪い車へと引きずり込む。

 悲鳴は男の手に阻まれ出せなくて、変わりに涙が溢れ出す。

 椿姉が私を助けようと駆け寄るが逆に捕まり一緒に車へ。

 私服警官が走るが間に合わずに車は無惨にも走り去った。

 手足を強く押さえられて抵抗を許されなかった、口にガムテープを貼られ言葉も封ぜられる。

 椿姉も同じようにされてしまう、ここまで来てようやく私達は拉致されたと気が付く。

 こいつらは一体何者? どうして私達を捕らえたのだろう。

 何故か妙に冷静だな私は、まるで予期していたみたいに。暴れる椿姉を見ていたら逆に冷静さを取り戻したのかも知れない。

 車には男が5人、1人は運転席で操縦に夢中だ。後部座席は全て倒され部屋のようになっていて、意外に広い。

 そう観察した直後両腕を後ろに回されガムテープでぐるぐる巻きにされた。

 椿姉にもそう施し、続けて足もガムテープが拘束する。完全に動きを封じられ芋虫状態になってしまう。

「へぇ、いい女だなぁ美味そう」

「確かになぁ……1人余計だけど」

「だがよく見ろよ、この余計な女はよく見れば上玉じゃねぇか、……へへ、味見してぇなぁ……気が強そうだから泣き叫ぶ姿が見てぇ、きっと最高だぜ?」

「待てよ、連れてくるまで手を出すなって言われてるだろ? ……畜生身動きの出来ない女が二人もいるのになぁ、見てるだけでムラムラするぜ」

 取り敢えず危害は加えないようだ、今のところは。

 連れてくるまでって言ってたな、と言うことは誰かに命令されているってことだよね?

 まさか……。

 でも脱獄したあいつにこんな手下みたいな奴らがいるなんて思えない。

 こいつらは何者なの? 私達はこれからどうなるの?

 十夜、助けて、助けてよ。

 車は今何処を走っているのか検討が付かない、窓には小さなカーテンが備え付けられ外が確認できない。

 運転席側に男達が並ぶように待機していて前からも風景は閉ざされていた。

 冷静さは時間が経過するごとに狂い始めて行く、私達はどうなるのかと考え出すと恐ろしい映像が頭を過ぎる、何度も何度も。

 目に涙が溜まり始めいつ決壊するか分からない。

 体が震える、車の振動は泣けとはやし立てているような錯覚に陥るが、椿姉を視界に入れた瞬間に不安が緩和した。

 力強い眼差しを私に向けている、必ず守からと言ってくれてるみたいだった。椿姉はこんな状況なのに私を心配してくれていたんだ。

 自分のことばかり考えていた私は情けない。椿姉のように強い人間にならなければならないのに。

 涙を堪え、私も強く見つめ返す。

 二人で無事に帰ろう。

 そんな無言の約束を交わす。

 どれくらいの時間が経っただろうか、三十分か一時間か。多分今頃警察が動いているに違いない、まだ希望はある。大丈夫だと自分に言い聞かせていると不意に車が止まった、どうやら目的地に到着したらしい。

 男達は慌てて降りて私達を担ぎ車外へ連れ出す。

 外には見たこともない場所が映し出されていた、知らない街並み、多分隣町ではないだろうか。男達は廃墟らしきビルに運んで行く、知らない場所に怪しいビル、不安が増す。

 階段を上り三階へと到着し、その階の一番奥の部屋へ踏み入ると一人の男が待っていた。

 高い身長、オールバックの髪に顎髭を生やしサングラスをしている。スリムな体格で黒のスーツ姿をしていた。

 見るからにヤクザみたいな男だ、いやもしかしたらヤクザなのかも知れない。

「ほう、意外に早かったな、ご苦労」

 オールバックの男が喋ると私達を拉致した男達は一斉に頭を下げた、こいつが命令しているのは一目瞭然だった。

 こいつは誰? 何で私達をこんなところに?

「ん? 何故二人いるんだ?」

「はあ、実は拉致を邪魔してくるもんでいっそこいつも拉致った方がスムーズに行くと思いまして……まあオマケです」

「ふん、まあいい。目的は達成出来たがら文句は言わないでやる……ほう、この女がそうなのか?」

 椿姉と私は乱暴に床に放られ痛みを味わう、必死に手足を動かすがもがく虫そのものを演じるだけだった。

 オールバックの男は私に近付き顎を無理やり上げられ顔を観察し始める。

「良い女だな、おれが遊びたいくらいだぜ……おい、奴を呼んでこい」

 命令され下っ端の男一人が部屋を出ていく。奴ってまさか……。

 床でもがくだけが私達に許された足掻きであった、必死に暴れるが束縛から開放されることはない。疲れ始めた頃先程誰かを呼びに行った男がある人物を連れて戻る、その瞬間追憶からの警告が頭の中でガンガンと鳴り響いて吐き気を募る。

 恐怖が底より這い出し体中を舐め回す様な怖気、歯はガチガチと鳴り出して鳥肌を連れて来た。

 あれからもう何年経ったのか、白髪が目立つようになっているしだいぶ背が縮んだと思う。

 シワも増えて中年男となったが面影はあるのだ。

 予感は的中した。

「どうだ久し振りの再会は?」

「……ああ、最高だよ、済まなかったな手間を掛けさせて」

「なぁに、お前には借りがあるからな、お安いご用だ」

「ふっはは、ようやく会えたな……ああ、本当に美しくなったな夢……」

 老いた私の父、荒沢新一が目の前にいる。

「ああ夢、お前は桜に瓜二つじゃないかぁ……ふっはは、良いぞ、良いぞ……ふっはは、…………拘束を外してもらえないかい? 夢だけでいい」

「分かった、おい」

 命令され下っ端の男が私を縛るガムテープを剥がして行く。

 乱暴に取るものだから痛くて顔が歪む、全て取り除き無理やり立たせられ父の前に連れて行かれる。

「大きくなったなぁ夢、ふっはは、もう立派な大人だ、元気にしていたかい?」

 何も答える気にはならなくて無言を貫く。

「ん? どうしたんだい? お父さんだよ? 夢?」

 目も合わせたくない。

「久し振りで恥ずかしいのかな? それとも照れてるのかな?」

 喋り掛けないで。

「夢? もしも~し、夢? …………う~ん、参ったなぁ」

 父は頭をポリポリと掻いて困った顔をした数秒後、頭に激痛が走る。

「あっ! ああああああ!」

「悪い子だ、お父さんを無視しちゃ駄目だよ?」

 思い切り髪を鷲掴みにされ苦痛を味わった、同時に過去の恐怖が蘇る。

「あうっ、ああああああ!」

「しばらくみない内に夢は悪い子になっちゃったらしいねぇ、良いかい、おれが話し掛けているんだからちゃんと受け答えをしないと駄目だよ? 良いかい? ん?」

「あぅ、ああっ、ぐぅ、ああああああっ」

 髪を引っ張られ激痛に苛まれる、受け答えなんか出来る状況じゃない。

「呻き声じゃないよ? おれが求めてるのは人間らしい言葉だ……まだ悪い子なのかい?」

「あ、ああああああ! ああ……ご……ごめ……なさ……いぃ、ああっ、いぎっ、ごめ……なさい! ああああああ!」

「そうそう、そう言う素直さがお前の可愛らしさだよ」

 父が手を離し苦痛から解放された、しかしまだ痛みがジンジンと居座り、髪がぐしゃぐしゃで酷い有様だった。

 昔もこんな風に躾られた、容赦なく。

「じゃあ改めて、元気にしてたかい夢?」

「……あ、は、はい、元気でした……」

「うん、それは何よりだ。大きくなったねぇ、本当に桜に似ているよ……どれだけ成長したんだろうね、身長はどれくらいだい?」

「……162……です」

 そう答えると私の頭上から足元までを舐め回すような嫌らしさを孕む視線が這うように観察して行く。

 気持ち悪い。

「そうかぁ、桜は165だった、もう少しで追い付くねぇ、頑張りなさい。……じゃあ次だ、桜よりは小さいが……胸は何カップかな? ん?」

「そ、そんなことまで言わなきゃならないんですか……」

「あれ、可笑しいな、おれが求めている答えと違うな、また悪い子に戻ったのかな? またお仕置きが必要?」

「ひっ…………び、B……カップです」

 どうしてこんな辱めを受けないと行けないの、男達が沢山居る前で。

「ふむ、桜はCだったよ、頑張らないとね……さてと、久し振りの親子水入らずだ、家族だけになりたいな。……済まないけど我々だけにしてくれないかな?」

 オールバックの男にそう頼むと要求に承諾する。

「この女はどうする?」

「ああそのままで良いよ、ちょっとイタズラしたいから」

「そうか。下の階にいる、何かあったら呼んでくれ」

「迷惑かけるね」

 下っ端全員を連れて男は部屋を後にした、父と椿姉と私の三人だけが取り残され不安が部屋に充満して行く。

 椿姉にイタズラをする? 一体何をする気何だろう。そんな事させたくない。

「つ、椿姉に何をする気ですか……」

「あれ、喋って良いって言ったかい?」

「……ご、ごめんなさい」

「うん、素直が一番だよ。大丈夫、イタズラって言っても大したことじゃないよ」

 大したことじゃないと言うが父の基準の大したこととは常識と異なると過去が教える、あの父は平気で殴り、蹴り、自分が正しいと信じている人間だ。

 平気でモラルを踏みにじる男、時が経とうと本質は変わってないと再会して理解した。

 そんな父が椿姉に近付いて口を塞ぐガムテープを剥がす。

「やあ久し振りだね椿ちゃん、立派な大人になったね」

「あんたなんかに喋り掛けられたくないわよ、この人殺し! 自分の子供を殺しておいてなんでそんなに平気なのよ! 夢に何かしてみろ、その時はあんたの首に噛み付いて殺してやる!」

「あっははは、相変わらず元気な女だね……でも動けない君に何が出来るのかな?」

 顎を掴み頭を上げさせて凝視する父は醜悪に染まる笑顔だった。

「触るな汚らわしい!」

「やはり桜に似ているね、さすがは姉妹……でもお前は桜じゃない、だから前菜にしかならない」

「前菜? あんた何言ってんのよ、訳分からない」

「言葉通りの意味だよ。前菜、つまり食事を促す為の軽い食事……メインディッシュはもちろん夢だ、だいぶご無沙汰だから勘を取り戻したいんだよ」

 何の話をしているの? 勘って一体何を……。

「あ、あんたまさか……」

「やはり勘が良いね君は、あの時も夢を連れ出す行動力にも内心感心していたんだよ? ……それにあの時君が夢を連れ出さなければこんな惨めな思いをすることは無かったんだ……だからお仕置きついでだ、隅から隅までゆったりと味あわせてくれよ」

 口角頬に食い込ませ意思を帯びた手は椿姉の体に這い始めた。

 顎から首、ゆったりと下へ卑猥に落ちて行く。

「い、いや! 触るな変態!」

「君の体だけは一目に置いているんだよ? 桜と殆ど同じじゃないか、良いね、きっと飛び切りの旨さだろう」

「や……止めて! 椿姉に変なことをしないで!」

「ん~? またかい夢、誰が喋る許可を出しだの? 本当に悪い子だなあ」

 立ち上がる父はまるでゾンビを連想させる動作で不気味だった。私に向かって手を伸ばしてくる、また髪を掴む気らしい。

 体が震える、このままあれに掴まれたら闇に覆われてしまうような気がして怖い。

 でも、今動けるのは私だけだ、椿姉を助けることが出来るのは私だけだ。

 絶えず震える体に説得を試みる、今動かなければならない不幸になるだけだ。

 だから動け。

 もう怯えるだけの私ではないことに気付け、こんな奴に幸せを邪魔されて許せるの?

 また十夜に会いたくないの?

 私を認め受け入れてくれたあの人に会いたくないの!

 そう思った刹那、足に力が湧き上がり走り出す。

 両腕を前に伸ばして力の限り目の前の父を突き飛ばす。

 ひ弱なの力だが駆け出し足された力が手助けとなり転ばせることに成功した、転倒の時に頭から落ちて激痛を貰ったらしく頭を抱えてもがく父を見下ろす。

 今の内に椿姉に駆け寄り束縛たらしめるガムテープを引き剥がす。

 全てを取り除いたと安堵に浸りそうになったが唖然とした表情を浮かべる椿姉に現実に引き戻される。

 後ろへ振り向くと、正に鬼と化した父がナイフを握り締めて睨み付けていた。

「夢、お前は悪い子だ、悪い子はお仕置きだ、お仕置きだ!」

「逃げるわよ夢!」

 椿姉に手を引っ張られ入口へ走り出した、怒れる鬼は凶器を片手に携えて追う。

 殺される、一番にそう考え逃げるがどこに行けば良いのか。

 下の階にはヤクザらしき男達が待機しているはず、だったら上に逃げるしかない。

 逃げ場所が無くなるのを覚悟で私達は入口から飛び出し上を目指す。

 カビ臭さが充満する建造物を走る、割れた窓ガラスが地面に散乱する廊下を迫る狂気から逃げ、階段を駆け上る。

 止まれば最悪な未来を迎えることになる、私は幸せな未来を望む。

 おばあちゃんがいて、椿姉がいて、私の隣には十夜が笑っている幸福な世界。

 十夜と行ってみたい場所があるんだ、だから諦められない。

 私の人生を幸せに全うするんだ。

 まるで無限を連想させる長い階段を駆け上がっていくと扉が視界に映り屋上だと認識させた。

 躊躇無く扉を開け屋上に到着する、すかさず扉を閉めて二人掛かりで押さえつけた。

 父は思い切りドアに体当たりをして強い衝撃を生む、何とか二人でそれに耐えることに成功する。

「開けないか! おれの言うことが聞けないのか! 夢! 開けないかぁ!」

 必死に扉を押さえることしか出来ないこの状況では逃げ出すことは不可能だった、屋上には扉はこの一つのみ、父が退かなければ逃げられはしない。

 屋上の周りは塗装が剥げ錆びた中身が露出する古びたフェンスが並び、その向こうに町の風景が上映されていた。

 見慣れない住宅やビル、この建物が一番高くて屋上で何が起きているかなど他の建物から見えない。

 つまり助けが呼べないのだ。どうする、考えろ、考えろ。

「そうだ、夢携帯で助けを呼ぶのよ!」

「あ……うん!」

 椿姉に言われるまで何で忘れていたのだろうか、携帯電話がポケットに入っているじゃないか。

 気が動転していて忘れていたらしい、背中を扉に付けて体当たりする父を何としても入れないように力を込める。

 素早く携帯を操作して私が一番会いたいあの人に掛けた。

 数回のコール後に彼が電話に出た、私は十夜の声を聞いて安堵を感じる、だが今はそれどころではない。

 救いを求めるか弱き声を呟く、助けてと。

 が、一瞬の安堵感が力を抜けさせたのか椿姉と共に勢い良く地面に吹き飛ばされてしまった。慌てて振り返ると鬼が立ち尽くしていた、ギリギリと歯軋りを立てあからさまに苛立ちを表す鬼。

 吹き飛ばされた影響で電話の通話が途切れてしまい助けてと聞こえたのか不安だった。

 再度電話を使用したいが蛇に睨まれたように体が動かない、恐怖が私達を束縛する。

 父は私の携帯を見つけ睨む。

「警察に電話したのかい?」

 本当なら警察に連絡するのが当たり前なのだろうが、慌てていたこともあり十夜に掛けただけ、気付いてくれれば嬉しいけど。

 素早く動き出した父は一直線に私の携帯を奪いに掛かり、抵抗も空しく唯一の連絡手段が奪われてしまった。

 そのまま自分の上着のポケットにしまうと次は椿姉を睨んだ。

「お前も携帯をもってるだろ? 出せ、出さないと夢の体に傷が付いちゃうよ?」

 ナイフをちらつかせ私に近付けてくる、すると止めろと椿姉が叫ぶ。

「だったらさっさと出しなさい。いやいや携帯電話の存在を忘れていたよ、夢が小さい頃はまだ普及してなかったからねぇ」

 椿姉の携帯も取り上げられた、助けを呼べない、どうしたらいいの? 屋上の入り口は一つ、そこには父が立ちふさがり周りはフェンス。

「悪い子だ、お仕置きしなきゃね、さてどんなお仕置きをしようかな…………ああ、良いことを考えたよ、娘の成長具合を観察するとしようか」

「あ、あんた夢に何をする気よ!」

「簡単なことだよ……夢、服を脱ぎなさい」

「……え?」

「どうしたんだい、服を脱ぐように言ったんだよ? 早く脱ぎなさい」

 それって私に裸になれってこと? こんな場所で? しかもこいつの目の前で。

 そんなのは嫌だ、絶対に嫌だ。

「どうしたんだ夢、おれが脱げと言ったら脱ぐんだよ」

「ふざけんじゃないわよこの変態野郎が! やっぱりあんたいかれてるわ!」

「いかれてる……? 至って正常だよおれは、おかしいのはそっちじゃないのかい? 夢はおれの娘だぞ? それをどう扱おうがおれの勝手だ、それに夢はもうすぐ桜として生きることになるんだよ、おれの伴侶になるんだ、だから体の成長具合を見たいんじゃないか」

 狂ってる、そう椿姉は呟いた。

「お姉ちゃんはもう居ない、それに夢はお姉ちゃんには成れないわよ! 今までお姉ちゃんに苦労を掛けてきて……その上奴隷のように扱ってきたって聞いてるわよ! あんたは自分勝手よ! あんたのわがままで夢の人生を壊さないで! 夢はあんたのお人形じゃない!」

「……さい」

 聞き取れない声が父から漏れ出した、しかし椿姉には聞こえなくて更に父を詰るのだった。私の思いを代弁するように。

「あんたは人間じゃないわ! 人間の皮を被った悪魔よ! お姉ちゃんだけじゃく今度は夢を奴隷にする気? させないわよそんなこと、させるもんか!」

「……るさい」

「お姉ちゃんを弄んだあんたなんかに、あんたなんかに……」

「うるさい! そのお喋りな舌を黙らせろ! おれは桜を愛していたんだ! だから立派な家を建てた、デカいテレビや高級な服に化粧品! 何でも買え与えた! なのに桜はそれを否定した、おれがどれだけ頑張って来たかあいつは知っているはずだったのに、良い大学を出られなかったから肩身の狭い思いを乗り切って手に入れた城だったんだ! ああそうだよ、おれが、このおれが努力で勝ち取ったものだ! おれが養ってやっている恩を忘れてしまった悲しい桜、だから教育してやったんだよ! 誰のおかげで飯が食えるのかを体に教えてやったんだ! そうすればおれの偉大さを理解し直してまた新婚の頃のように幸せになれる……そう信じていたんだ!」

「はぁ? 養ってやった? 教育? あんたはただ仕事が楽しくて仕方がなかっただけでしょ? 家族を蔑ろにしていたくせに何を言ってんのよ、自分が悲劇の主人公だとでも言いたいわけ? お姉ちゃんを……夢を……そして信也を苦しめて……いい加減にしなさいよこのキチガイ!」

 荒々しく罵倒する椿姉、だけど父は怒り狂い私に向けていたナイフを椿姉に向けた。

「このくそ女が、一生人前に出られない顔にしてやろうか?」

「な、何よ、本当のことを言われて仕返しにナイフで脅すの? つくづく女々しい奴ねあんたは」

「つ、椿姉、刺激しない方が良いよ……」

 もし刺されたらきっと病院には行かせて貰えない、椿姉が死ぬなんてダメ、お兄ちゃんみたいに死んじゃダメ!

「止めて下さい! 椿姉を許して下さい! ……わ、私……脱ぎますから、だ、だから……止めて下さい」

「ほら見ろ、夢は君と違って従順じゃないか。さすがはおれの娘だ、やはり新たな桜は夢じゃなければ務まらないね……さあ夢、お前の成長具合を見せてくれ」

 おずおずと震える手を何とか動かして上着のボタンを外してゆく、しかし震えが邪魔をしてなかなか外れない。

 それを見ていた椿姉は慌てて私に叫び掛けた。

「止めなさい夢! こんな男の言うことなんか聞いちゃいけないわ!」

「あぅ、で、でも、こうしないと椿姉が……」

「わたしっのことは心配しなくていいのよ、……夢はもういっぱい苦しんで来た、でももう昔の夢じゃないでしょ? 理解してくれる十夜くんがいたから昔と少しは向き合えたじゃない! だから止めて! 昔に捕らわれてただ言うことを聞く人形にならないで!」

 昔に捕らわれている、その言葉が胸の奥に突き刺さった。拉致されてナイフを突きつけられているこの状況に飲まれていると思っていた。

 でも実際は違うのだ、過去のトラウマが父に逆らうなと言ってくる。

 逆らえばまた地獄を見ることになる、そんなのは嫌でしょ? と弱い私が語りかけて逃げる道へ誘導するのだ。

 だって父と目が合う度に鳥肌が立ってゾワゾワと何かが体中を這い回るような感覚に陥る、必死でそれに耐えて決して外へ出すまいと奮闘している自分がいるのだ。

 過去に受けた虐待が私を怯えさせては嘲笑う。

 ただただ震えて従う私を椿姉は見抜いていたんだ。

 過去と戦うと十夜に聞かせど筈なのに私は逃げている。

 こんな時お兄ちゃんはどうするだろうか?

 こんな時お母さんはどうするだろうか?

 こんな時、十夜はどうするだろうか?

 そんなことはもうとっくに知っている、きっと怯えずに立ち向かうだろう。

 私はいつも怯えるだけのか弱い存在だった、それは今も。

「夢、どうしたんだ手が止まってるじゃないか、早く脱ぎなさい」

「こんな奴の言うことなんか聞かないで!」

 過去に受けた傷は目に見えなくてもそこを侵略し、居続ける。

 それに向き合うためにはやはり自分が目を逸らさずにいなければならないと思う、他人ではない、受けた傷は自分でしか治せないのだから。

 目に見えない傷、深くていつまでも泥のように蓄積する障害物。

 私はそれに埋もれ溺れている、その最大の傷が目の前にいる。

 お母さん、お兄ちゃん、十夜、私は何時になったら岸に辿り着くのでしょうか。いつまで溺れていれば気が済むのでしょうか。

 私は自力で這い上がらねばならない、この泥沼から遙か彼方の空へ。

 そうしなければ人形のままなのだ。

 様々な違う私を演じてきた、けど本当の自分は何なのか分からない。

 だから探す、これから探していきたい。

 人形のままじゃ見つかるはず無いじゃないか。

「どうしたんだ、さっさと脱がないか! また悪い子になったのかい? お仕置きが必要かい? そんなんじゃ桜に成れないじゃないか、お前は桜にならなければならないのに」

「……私はお母さんに成れない」

「何……?」

「私はお母さんに成れないって……言ったの! 貴方の伴侶? そんなのは嫌! 私は鮎原夢、お母さんでもないし……貴方のお人形でもないの! 自分勝手なことばっかり言わないで! お母さんを自分で苦しめて来たじゃない、たくさん酷い仕打ちをして来たじゃない! それなのに……お母さんが居なくなった途端に自分勝手なことを言って私を弄んだ、お兄ちゃんを……殺した! どうして、私はただ家族みんなで笑って過ごしたかっただけなのに、お金なんていらない、ただささやかな幸せが欲しかっただけなのに……なんでこんなことになっちゃったの、どうして! どうしてなの!」

 ずっと内に溜めていたものを吐き出す、ただただ従う人形だったけどもう違う。

 私は鮎原夢、人間なんだ。もう逃げているだけの女じゃない。

「夢……お前今何て言った? 聞き間違いならまだ許してやるぞ? お前は桜になるんだ、だから……」

「貴方は……可哀想な人だよね、お母さんはお母さん、たった一人しか居ない。どんなにお母さんに成ろうとしてもお母さんには成れない。外見や仕草を真似させてもお母さんは帰ってこない! そんなことをしても虚しいだけ!

 私は夢、鮎原夢なの。貴方はただ悲しみから逃げてるだけじゃない、お母さんを失ったことを認めたくないだけじゃない。誰かを失うのは辛い……でもそれを乗り越えなきゃならないの! 逃げてるだけの貴方は何? 現実から逃げて貴方は満足? 私を弄べば満足? 代わりの人形で遊べば満足? 貴方は絶対に幸せに成れない、乗り越える意味を知らないから、人を思いやる気持ちを忘れているから……幸せに成れない!」

 私は今戦っている、弱い自分と、そして最大のトラウマ(父)と。決して武器を取り暴力を行使するだけが戦いではないのだ。

 臆さずに自分の意思を貫き通すこと、それが私の戦いだ。

 もう逃げない、怖がらない。

 それが成りたかった私であり本当の自分探しの鍵。

「……言いたいことはそれだけか? おれの言うことが聞けないのか? お前は本当に悪い子だ、教育してやらなければならないな……どうしてやろうか、どうしてやろうかぁ」

「もう私の言葉は届かないんだね」

「あ、そうだ、連帯責任って言葉は知ってるだろ夢ぇ? お前の悪い行いは……他の誰かが罰を受けなければならないよな?」

 そう言うと上着のポケットから携帯電話を取り出しボタンを押す。

 それを耳に当て、誰かに話しかけた。

「ああおれだよ…………うんうん、そう、うん…………屋上だ、直ぐに来てよ」

 屋上に来いと連絡を入れた時点で下の階にいる男達を呼び寄せたと思って良い、このままじゃ男達に襲われて取り押さえられてしまう。

 目の前にはナイフを突き出している父、完全に私しか見ていない。

 これはチャンスだ、視線が椿姉とぶつかり絡み合った後に状況打破の為に行動する。

 私はナイフに恐れて後退りする、と見せ掛けて椿姉が完全に父の視界から消える位置に移動する、すると椿姉が駆けた。全力で父に体当たりをすると屋上にただ一つだけしかない入口に吹き飛ぶ。

 椿姉と父がちょうど入口と直線で繋がっていたから押し出せたのだ。直ぐに扉を締め直す。だけどこんなことは時間稼ぎにしか成らない。でも先程と一つだけ異なることがある、それは私の足元に落ちているナイフだ、飛ばされる時に父が落とした。

 微弱かも知れないが武器を手に入れられたことは大きい。

 どんなに小さな望みでも私は諦めない、また十夜と出会う為ナイフを拾う。

 せめて脅し位には使えると良いのだけれど。

「……痛っ、クソ女め、良くもおれを……開けろ! ここを開けんかぁ!」

 二人掛かりでまた扉を押さえるが先程は携帯電話を使っていたから力が足りなくて侵入を許してしまった、でも今なら父一人なら何とか耐えられる。

 でもこのままじゃ何の解決にもならない、携帯電話が取られてしまったから外部との通信手段が絶たれた、椿姉は携帯を持ってないしどうしよう。

 拉致される現場を私達を見張っていた私服警官がいたから捕まったことは理解している筈だ、でも連絡を取らないと居場所が分からないんじゃ無いだろうか。

「あっ、んん……どうしよう椿姉……」

「ぐっ、こいつ意外に力強い……分かんないけど、夢はわたしっが守るから、だから心配しないで」

 激しく体当たりを繰り返す父に耐えながら好機が訪れるのを待つしかない。

 しかし世界は残酷だ、複数の足音と声が近付いているのを察知した。

 このままじゃ扉が破られる、そんなことになったら次は団体でやって来てしまう。今でも不利なのに更に状況が悪くなってしまったらもうどうすることも出来ない。

 必死で扉を押さえるが父と男達が合流したらしく荒々しい声が飛び交い私達の心を平伏へと導いていった。

 その数秒後、いとも簡単に扉は破られわらわらと男達が湧き出す。

 突破された瞬間に地面に叩きつけられたが何とか直ぐに起き上がり屋上の奥へ逃げる。

 しかし逃げ場所は無い。

「さあ開いたぞ夢、それからクソ女、痛い目に合わせてやるぞ!」

「ははっ、荒沢久し振りのシャバはやはり体に堪えるか?」

 男達のリーダー格のオールバックの男が父に話しかけた。

 そもそも父とはどんな関係なんだ。

「務所に長く居すぎたのは認めよう……ま、今はそんなのはどうでも良い……早く夢を味わいたい」

「近親物が好みか、おれには分からんよ……だがあんたには恩があるからな、手伝ってやる」

「済まんね、なら早速お願いしようか」

 オールバックの男が手下に合図をすると私達を捕らえようとニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた男達がこちらに迫る。

 端まで下がるがフェンスが背に当たり逃げ場はないと警告された気分に陥るがまだ諦めない。

「へへ、往生際が悪いなぁ、大人しく捕まれよ、優しくしてやんぜ?」

「きひひ、おこぼれにはありつけんのかなぁ、最近ご無沙汰なんだぁ」

「んなこと知るかよ、ま、若い方は無理っぽいけど気が強い女の方には脈ありだろ、泣かしてやりてぇなぁ」

「捕まえる時さ、どさくさに紛れて触らね? くっくく……」

 何ていやらしい奴らだ、女の体しか見ていない。

 こんな奴らに触られるだけでも嫌だ、私に触れて良いのは十夜だけだ!

「さぁ子猫ちゃん、大人しく捕まろうねぇ、きひひ…………ぷぎゃがっ!」

 一人の男が短い悲鳴を上げた、その直後白目を剥いて口から泡を吹かす。

 目の前に映る光景は椿姉が男の急所に蹴りを入れている姿が見えた。

「はぎぃ……ぎぎぃ……」

「女だからって甘く見るんじゃないわよ!」

「こ、この女……おい押さえつけろ!」

 男達が一斉に飛びかかって来た、椿姉はもう一度急所を狙って蹴りを放つが男は腕でそれをガードし、そのまま椿姉の足を掴んだ。そのままバランスを崩して地面に倒れてしまう。

 ここぞとばかりに男達が椿姉の体を押さえつける、体を激しく暴れさせて抵抗するが敢え無く完全に押さえ込まれた。

「ぐっ、は、離せ! くそ、汚い手を離しなさいよ! ちくしょう!」

「椿姉!」

「ち、何て女だこいつ、意外に馬鹿力だ……鉄さん少し大人しくさせたいんですが」

 鉄と呼ばれたのはリーダー格のオールバックの男だった。

 暴れる椿姉を一瞥してから父に語りかける。

「良いか?」

「……まあ仕方ないかなあ、おれを突き飛ばした罰だしね、夢には手を出すなよ」

「分かった……おい、手早くな?」

 何の話をしているの?

「へへ、許可降りたぜ、女を黙らせるにはこれが一番だからな……始めようぜ? 先ずは邪魔な服を脱がせろ!」

「くくくっ、おら大人しくしやがれ!」

「ちょ、離しなさいよ、離……あ、や、やだ、嫌ああああああ!」

 男達は椿姉の服を掴みそれを脱がそうと奮闘し始めた、必死に抵抗するが男の腕力には勝てず先ずは上着を脱がされてブラが露出してしまう。

 次にズボンを脱がせようと奴らは手を伸ばし膝元まで下げた。

「うお、黒かよ、やらしいなおい! へへ、へへへ」

「や、嫌ああ! 離して、嫌!」

「や、止めて! 椿姉には恋人がいるの! だから止めてあげて! お願い!」

「はっ、そりゃあますます良いじゃん、そうだ事が済んだら写真撮ってその恋人さんに送ってやろうぜ? くくくっ、きっと大喜びだろうぜ?」

 私の声は虚しく響くだけ、あいつらにとっては痛くも痒くもない。助けなきゃ、私しか助けられない。

 アレを使うしかない……。

 最後の要である下着を取り除こうとしたその時それを制する声が飛んで来た。

「ちょっと待てよお前ら……」

「あ? ……何だお前か、大丈夫かよ?」

 そいつは椿姉に急所を蹴られダウンしていた男だった、涙目になっているが表情は憤怒で煮えたぎっている。

 痛みを堪えて今にも倒れそうになりながら椿姉に歩み寄る。

「この女だけは許せねぇ……おい仰向けで大の字にしろよ、手足をちゃんと握ってろよ? やられた礼をたっぷりとしてやる、オレが一番最初にこいつを犯してやる!」

 言われた通りに大の字にされ身動きが出来ないまま男が近付いて行く、鼻息を荒々しく鳴らして。

 椿姉には恋人がいる、こんな奴らに幸せを汚させたくない。

 だから私は戦う。

 私達には待っている人がいる、同じなんだ。

 私は駆けた、一目散に迫る男の目の前。そして一度この目に焼き付けたそれを模倣して放つ。

 綺麗に足の軌道は男の急所を貫く。

「はぎゅ! ぺぎぃいいぃい……」

 椿姉の蹴りに比べたら微々たるものだ、けど前のダメージが蓄積していたから弱い力でも効果は抜群だった。

 前屈みになったところで男の後ろに回り込み、スカートのポケットから父が落としたナイフを取り出し、男の首筋に近付けた。

「椿姉を離して! そうしないとこの人をさ、刺します!」

 首に後ろから腕を回しながら良く見えるようにナイフを見せつける、二度の急所攻撃に男は弱っているから大人しい。

 でも他の男達は失笑していた。

「お嬢ちゃん、良い子だからそれを渡しなよ。あんたみたいな女には殺しなんか出来ないだろ? さ、ナイフを渡せ」

「そうそう、無理無理、へへ、へへへ」

「見ろよ手が震えていやがる」

 確かに今現に手が震えている、怖い、人にナイフを向けるなんて初めてだから。

 でも、椿姉には待っている人がいる、私と同じように待っている人が。

 綺麗なままで私達は帰るんだ、だからその覚悟を見せてやる。

 悪い人だけど、それでもごめんなさい。

 突き立てているナイフを強めに押し、少しスライドさせる、するとナイフは男の喉から血を出現させる。

「痛っ、……ま、待てよ……ま、まひゃか、本気きゃ?」

「もう一度だけ言います、椿姉を離して! 私は大切な人の為に鬼になる! 私は本気なんだから!」

 自分なりに凄んでみた、真剣な眼差しを送りナイフを握る手に力を込める。

 すると男達は椿姉を解放した、自由を得た椿姉は脱がされた服を拾い上げ私の背後へ退避する、だけどまだ油断は出来ない。

「大丈夫椿姉」

「え、ええ、大丈夫よ夢……ありがとう」

「うん……早く着替えて」

 脱がされた服を着直して元の状態になり私の側へ。

 後はここからの脱出するだけ、何とかなればいいけど。

「道を開けて! 退かないとこの人を……」

「ヒィ、あ、開けてやれよ……お、オレ、死にたくねぇよ」

 この人を盾にしながらジリジリと入り口まで近付いて行く、そして立ちはばかる二人が視界に映った。

 父と鉄と呼ばれたオールバッグの髪をしたヤクザだ。

「そこをどいて! そうしないとこの人を……刺しますよ!」

「ほぅ、そりゃあ面白いじゃないか、嬢ちゃん、やってみせてくれよ、嬢ちゃんが人殺しになるところをさ」

「……え?」

 この人今何て言ったの?

「おいおいどうしたんだよ嬢ちゃん、退かないと刺すんだろ? ほらさっさと刺せよ」

「……あ、えっと……退かないとこの人を……」

「それはさっき聞いたぞ? 壊れたレコードみたいに繰り返さなくてもいい、退かないと刺すんだろ? なら刺せばいい。この意味分かるか?」

 つまり退く意思はないと言っているんだ、私がもし本気だったらどうする気なの?

 人が死んじゃうのに何でそんなことが言えるの?

「予想とは違う答えで驚いているのかい嬢ちゃん? 人質を取る、悪くはないがその手はあまり利口じゃないな、手下は手下、単なる駒だ。交渉にはあまり適さないよ……それからもう一つ、おれを舐めるなよ?」

「あ……あぅ……」

 鋭利なる視線が私に突き刺さりナイフを持つ手が震え出す。

 あんなに怖い目は父以来だ、いやもしかしたら父以上の脅威かも知れない。

「ほら、刺してみなよ嬢ちゃん、退かないと刺すんだろ?」

「……ううっ」

 完全に腰が引いて眼に映る世界が歪みだし、何故こんなことをしているのだろうかと混乱し始めた。

 落ち着かなくちゃ、私はここを脱出して十夜に会いに行くんだ、そう誓ったはず、それなのに心が人の命の重みで潰れそう。

 弱気が巣を作り居座り始めた頃、椿姉がオールバッグの男に怒鳴り散らすのだった。

「この人でなし! あんたそれでも人間なの! 人の命を何とも思わないわけ!」

「くっはははは! いやぁこいつは面白い。人質をとるような輩が人の命について説教とは、くっはははは!」

「な、何よ、人を拉致しといてその言い草、これは自衛行為よ、あんたらとは違うわ!」

「ま、議論するのは面倒だ。さてとそろそろこんな茶番はとっとと終わらせるに限る……」

 言葉を終えたオールバッグの男はあるものを取り出しそれを使う。

 決定的な力の差を叩きつけられる。

 血潮が舞う。

 急激な力だ加わり前へ引きずり込まれそうになるのを必死に堪えて踏ん張りを利かせるがそれに地面に引っ張られた。

 地に落ち素早く何が起きたのか、その情報をかき集めその理由に睨まれてしまう。

 漆黒の物体が狂喜している。

 そいつが放った物が人質としていた男の足を貫き風穴を開けて痛感をくれる。映画やテレビでしか見たことがなかったそれはオールバッグの男の手の中に。

「ピ、ピストル……!」

 サイレンサーを装着したピストルが煙を上げている、人質の男の足を貫いて動きを封じたのだ。

 ピストルとナイフ、二つの凶器は向かい合う。

 だけどあまりに圧倒的な力の差を叩きつけられた、もう私を守るものは無い。

「王手だ、ほらそのナイフを捨てろ……詰みだよ」

 そんな、もう少しでここから抜け出せるところだったのに。どうして、神様がいるのならどうして無慈悲なんですかこんなにも。

 ナイフとピストル何てどう考えてもピストルが有利じゃないか。

「う……うう……」

 足を貫かれた男は血溜まりを広げながらもがき苦しんでいる。

 こうも簡単に人を撃つなんて。

「ほら嬢ちゃん、ナイフを捨てな……おれは気が短い質でね、何度も訊かない。捨てないなら死体が出来るだけだ」

 オールバッグの男が椿姉に向かって銃口を向ける。

「や、止めて!」

「止めさせられるのは嬢ちゃん次第だぞ?」

 空気中に力が放出するように私の手がナイフを拒み重力に預けた。

 カランと乾いた音が響き、もうおしまいだと告げる。

「おめでとう、嬢ちゃんは今命を救った、誇って良いよ……片付けた、後はどうする新一?」

「ふふっ、夢ぇ、こんな大事にしてぇーー、ダメじゃないか……おいで、下に降りて二人切りで過ごそう……ふふっ、躾をしてあげるよぉ……ふふっ、ふふふ……」

 父が迫る。もう逃げ場はないから絶望が全身に降り懸かりずぶ濡れにさせて思考停止を促す。

 椿姉を捕まえようと手下の男達がワラワラと腕を伸ばしてくる姿も垣間見えた。

 そして目の前にはピストルを持つ男。

 これが世に言う絶望だ。

 どうやら私は弄ばれておもちゃにされるシナリオが舌なめずりをしながら待っているらしい。

 椿姉にも汚されてしまうシナリオが待ちかまえている。

 希望を捨てずに抗った、でも駄目だったんだ。

 ああ、悔しいな、歯痒いな。

 でも、こんな状況になろうと私は諦めない。諦めたらそこで終わりなのだ、だから終わらせるわけにはいかない。

 この思いが、祈りが、決意が最後の足掻きのチャンスをくれたのかも知れない。

 けたたましく鳴り響くそれが私に力を呼び覚ます。

 ビルの外、そこに希望が集まる。

「なっ、察だと!」

 オールバッグの男が驚愕たる声を上げ大気を震わす、けたたましいサイレンが鳴り響きビルの正面入り口にパトカーが群がる。

 警察が来た、でもどうして居場所が分かったのだろうか?

 いや、今はそんなことはどうでも良い、チャンスが来たんだ。

「何故察が……まさか車を尾行されていたのか? ち、使えん駒だ」

 父や下っ端、それにオールバッグの男も顔色を青くしてパトカーに視線を集中させている。

 今だ!

 椿姉とのアイコンタクト後私達は屋上の入り口へ走る。

 振り返るな、ただ逃げることだけを考えるんだ。

「逃げたぞ!」

 下っ端の一人に見つかり逃走がバレてしまったがもう遅い、私達は入り口を潜り階段を降っている。

 止まるな、走れ、走れ!

 最後の希望に縋りながら駆けて行く。


 

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