『その声が開幕を告げる』
扉を隔てた会話から三日が過ぎていた、夢ちゃんは自室から出てようやく笑顔を見せるようになり、幸子さんと椿さんは大いにそれを喜んだ。
しかしまだ全てが終わった訳ではない、脱獄した荒沢新一が不安の種である。刑務所がある場所はここから数百キロ以上離れた場所であり、果たしてここまでやって来てしまうのだろうか。
しかし油断は出来ない、夢ちゃんの過去を聞いた時にその不安が倍増した。
荒沢新一は逸脱した思考から夢ちゃんを自分の妻の代わりにしようとしていた、つまり捕まってから未練があると言う訳だ。
だから奴から会いに来る確率が高い。
その前に捕まってくれれば良いんだけど。
胸騒ぎがする、とても嫌なことが起こりそうな不安な衝動に狂わされそうになる。
そんなものに負けない、僕が彼女を守ると誓いを立てたのだから。
「一難去ってまた一難みたいね白原」
空月九十九先生がそう言った。
先生の事務所で現在仕事中なのだがどうも集中出来ない、夢ちゃんが心配で仕方がないのだ。
ようやく互いを理解し合い、更に絆を深めたと言うのに脱獄犯に悩まされるとは。
「先生、もし先生が脱獄犯だったとして肉親……家族に危険を犯してまで会いに来ますか?」
「わたしを脱獄犯呼ばわりとは例え話でも酷いわね……ま、状況によるわね、肉親への思いが薄れていれば逃げることに全力を注ぐでしょうね……もし狂う程の思いがあれば……」
「来る、と?」
「ああ。わたしだったら狂う程に思いを寄せる者がいたならば危険を承知で会いに行くわ」
そうかも知れない、僕が脱獄犯だったなら夢ちゃんに会いたくて無謀な面会を求めると思う。
そう考えたならまた不安が増した。
「何か対策は無いものでしょうかね、何だか胸騒ぎが治まらなくて」
「……ふむ、そうね……ここまで来ると犯罪者とは対極を抑止力にするべきかしら。ま、彼等も動いてるとは思うけどね」
「えっと、それは一体何の話ですか?」
「犯罪者の対極……つまりは警察よ、脱獄した犯人が家族に会いに行く確率は低くても決してゼロじゃない、だから家族を見張って犯人が来るのを待ち伏せている……かも知れないわよ?」
もしそれが本当に行われているのなら警察が居るだけで抑止力として簡単には近づけさせないかも知れない。
一応は安心出来るけど。
「もしも心配なら警察に相談して何人か見張りをつけてもらえば少しは安心だと思うわよ? わたしにはアドバイスしか出来ないけど、何かあったら力になりたいと思ってる、白原、貴方は一人じゃないんだからね? いつでも頼ってよ」
「ありがとうございます」
一人ではない、この言葉に勇気が湧き出す。そのまま仕事に打ち込み気が付けば夕方、そろそろ仕事も終わりの時間だ。
今日はこのまま夢ちゃんの家に行くことになっている、今出来ることは彼女の側にいることだと思うから。
「はいお疲れ様、やっぱり白原が居てくれると仕事が早く終わるわね」
「ありがとうございます、有り難くその言葉を貰っておきます」
「はっははは、貰っときなさい貰っときなさい、わたしが他人を褒めるのってそうそうないんだからね……じゃ、気を付けて帰りなさい」
「はい、お疲れ様でした」
事務所を後にし車を走らせる、目指すは夢ちゃんの家だ。
とその時携帯電話が鳴り響く、路肩に止め通話ボタンを押す。
「はい白原です」
『あ、お兄ちゃん? わたしわたし』
「ああ鏡ちゃんですか、何か用ですか?」
『えっとね、暇だから電話したの』
暇だから電話か、多分僕の予想が当たっているのならば夢ちゃんを心配して電話をして来たのだろう。
二人は仲が良かったから。
『えっとね、その……夢お姉ちゃん元気にしてるかな?』
「ええ、元気にしていますよ」
『そっか、良かったよ』
「心配してくれてありがとうございます、鏡ちゃんは優しいですね」
そうだ、夢ちゃんを心配しているのは僕だけじゃないんだ。
そう言う意味でも一人ではないのだ。
『べ、別に心配なんかしてないもん……でも元気ならいいや』
安堵を纏う声、やっぱり心配だったんだな。
『ところでお兄ちゃん、今何色のパンツ穿いてるの?』
「……はい?」
『パンツの色だよ色! ちなみにわたしは白だよ!』
えっとこれはもしかしていわゆるいつものお約束ではないだろうか。
桜井鏡による悪戯だ。何だか久しぶりのような気もするが、それよりも自分の下着の色を躊躇無く言い切るとは。恥じらいはないのかな?
「鏡ちゃんは女の子何ですからそんなこと聞いちゃ駄目ですよ」
『え? どうして?』
「どうしてって……」
どう言おうか迷っていると電話相手が交代し、桜井姉妹の姉、水面さんに代わった。
『あらあらまあまあ、鏡には本当に困ったものですね白原さん、この子ったら微妙にずれているんですよ恥じらいとかが、平気で男の人の前で服を着替えちゃうような子何です……わたし心配ですよ』
「そうなんですか、それは直した方が良いですよ」
『全くその通りです。もう鏡ったら白原さんのパンツは黒のボクサーパンツですよ?』
そうそう黒のボクサーパンツ……。
「な、何で知ってるんですか!」
『別に不思議じゃないですよ、部屋が隣、洗濯物も何を干しているのか把握してますので……白原さんだってわたし達の下着が干してあるのを食い入るように見てたんじゃないですか? くひひ』
ああそうか、これは水面さんの悪戯だ。これは水面話術と言ってしまっても良いかも知れない。負けないぞ、今まで水面さんや鏡ちゃんにからかわれて来たが今日こそは返り討ちだ。
「ええじっくりと見せて貰いましたよ、二人の下着は把握してますので」
『まあ、白原さんってやらしくてスケベで変態さん何ですね』
「男はみんな変態ですよ……ちなみに水面さんの今日の下着は何ですか?」
答えられないだろう、恥ずかしいだろう、負けないぞ。
『ふふふ、今日は何も付けてないんです……スースーして気持ち良いんですよ?』
「な!」
『あ、今ノーパンなわたしを想像しやがりましたね? 白原さんのエッチ』
「い、いえ、けけ決してそんなことは……」
あ、しまった、動揺してしまった。
『白原さんもまだまだ甘いですね、今の全部嘘なのに』
敗北した、やはり水面さんには勝てなかったか。
『ふふっ、ようやく声に元気が出て来ましたね』
「え?」
『鏡が白原さんの声に元気がないって言ってたんです……今の白原さんはいつもの白原さんです』
ああそうか、この悪戯は僕に元気を出させようとしていたのか。
これは本当に桜井姉妹には適わないな。
『白原さんはわたし達の恩人です、勿論鮎原さんも。二人が元気でいてくれないと悲しいんですよ』
「水面さん……」
『本当に鮎原さんが羨ましいですね、こんなにも想われているんですから。残念です、白原さんが独り身だったらわたし放っておかないんですけどね……あ、あはは、わたしったら何を言っているんでしょうね、今の忘れて下さい』
今の台詞はまるで水面さんが僕のことを……。
『とにかくファイトです!』
「はい、ありがとうございます勇気付けてくれて」
『いえいえ……では鏡に代わりますね?』
すぐさま鏡ちゃんが電話に出た。
『お兄ちゃん元気出た? お兄ちゃんは笑ってないと駄目だからね!』
「はい、ありがとう鏡ちゃん」
荒沢新一が何だ、絶対に夢ちゃんには近付かせない。
僕の意志が盤石へと変化する。
『あ、そうそう、大事なことを教えてあげるよ』
「大事なことですか?」
『うん、お姉ちゃんの今日のパンツはイチゴだよ! イチゴパンツ!』
爆弾発言後、電話の向こうで激しい物音が発生する。
二人が暴れ始めたらしい。
『こ、こら鏡! な、何てことを言うの!』
『良いじゃない別に減るもんじゃ無いじゃない』
『減るの! わたしの心とかが減っちゃうの!』
『何よ、わたしだって白って教えたんだよ? お姉ちゃんのも教えないと不公平じゃない』
何やら食器が割れる音が。
『ああそっか、子供っぽいの穿いてるのが恥ずかしいんだ! お兄ちゃんに知られたくなかったんだね、お姉ちゃん本当はお兄ちゃんのこと……』
『か、鏡!』
激しく舞う騒音、姉妹喧嘩はなかなかに激戦である。
それを止めたのは大家さんだった。
『なんばしよっとね! せからしか! 部屋ん中ばなおしなっせ!』
その一括後、電話が途切れてしまう。
とにかく姉妹に勇気付けられた、それだけは紛れもない事実だった。
姉妹からの電話から数分、ようやく夢ちゃんの家に到着出来た。家の前に駐車をしてから降りてインターホンのボタンを押す。
椿さんの声がし、僕だと伝えると直ぐに扉が開いた。
「いらっしゃい十夜くんお仕事お疲れ様」
「こんばんは椿さん。夢ちゃんはどうしてます?」
「どうしてると思う?」
ニヤリとした表情から繰り出された今の台詞、嫌な予感がするのだが。
「十夜くんとの甘い夜のために体を磨いている最中よん! あんなところやそんなところを丹念に磨いて……その内我慢出来なくて一人で……」
「椿姉、私はそんなにいやらしく無いけど?」
椿さんの後ろに夢ちゃんが立っていた、腕を組んで。
「あ、あら、もう体磨きは終わったの?」
「ただのお風呂って何で言えないのかな、私はそんなことしないよ!」
「そんなことってどんなこと?」
「……し、知らない! 椿姉のスケベ! すけすけスケベ!」
あの日以来夢ちゃんは三つの“違う”を止め、本当の自分を前へ前へと出す努力を始めた。
最初は不安で堪らないと僕に打ち明けてくれたが僕が側に居てくれるだけで頑張れると言っていた、なら出来るだけ側にいようと決めた。
違う夢ちゃんを見れないのはちょっと寂しい気がするが、寂しがることはなかった。
「ち、ちょっとたんま! ゲンコツは痛いから止めてよ夢!」
「じゃあ謝る?」
「は、はい、ごめんなさい!」
「ごめんね十夜、椿姉が迷惑掛けて……お詫びするね? えい!」
鮎原夢が飛ぶ、僕目掛けて。そのままの勢いで僕らは地面へダイブ。
そして彼女からのキスが。
「……ぷはぁ! えっへへ、仕事ご苦労様」
「ありがとうございます」
「うわ、人前でイチャついちゃって……本当に二人は仲良しね」
そう、違う夢ちゃんを少しずつ継承しているのだ。
これは僕の仮説なのだが違う様々な彼女を演じてきたけど、それぞれに少しだけ本当の彼女が滲み出ていたのではないだろうか。
本人が気が付かないだけで自分を出していたのかも知れない、と言うことは今の夢ちゃんはその集合体、それが本当の彼女なのかも知れない。
「ラブラブチュッチュはそのくらいにして早く中へ入ったらお二人さん」
「そうだよね……じゃあ十夜上がって」
「お邪魔します……」
中へ招かれ痛む後頭部をさすりながら次襲われるなら畳が良いよね地面よりもとあやす。
客間へと通されるとそこに幸子さんの姿が。
「あらあらいらっしゃい白原くん、お仕事ご苦労様です、お腹空いたでしょう? 直ぐにご飯にしますから」
「ありがとうございます、ご馳走になります」
最近はよく夕飯を一緒に食べていた、幸子さんの里芋の煮っ転がしや、ちょっと珍しい手作りのジャガイモの佃煮が絶品だ。
ちなみに椿さんはなんと中華料理が得意で自前の中華鍋を持っているほどである。
夢ちゃんもそうだけどみんな料理が上手だ。
「じゃあご飯が出来るまで私の部屋に……」
「ほほう、まだラブラブチュッチュが足りなかったのね夢、このスケベ」
「私はスケベじゃない! 椿姉こそドスケベじゃない!」
「ドスケベとは失礼ね! だったら夢は淫乱よ!」
喧嘩が勃発、喧嘩するほど仲が良いと昔からの言われにこの光景を微笑ましく見ていた。
「淫乱!? だったら椿姉は○○○○じゃない!」
「ひゃあ! 夢が放送禁止用語を! なんていやらしい! わたしっだって負けないわ、この○○○○○!」
「きゃ! 椿姉の変態!」
そろそろ止めた方が良いかな。どうにか互いを静め夢ちゃんの部屋へ向かう。
最近自分の仲裁レベルが上がったみたいだ。すんなり騒動が治まった。
「……元気になったよね夢」
「ええ、白原くんのおかげね」
「後は何も起きなきゃそれで良いんだけどね」
そんな会話をしているとは知らずに彼女の部屋へ立ち入る。
彼女の部屋へ入室を果たし暫く時間を共有しあった、二人切りの時の彼女は捕まえていないと消えてしまいそうな程儚くて弱々しい。
それは過去の恐怖が引き起こす害だった、トラウマの根源は今何処にいるのか。
奴さえ捕まればきっと不安は解消されると信じている。
「十夜、ずっと私の側に居てくれる?」
「はい、何があってもずっと一緒です」
「……だったら私は頑張れる、向かい風に耐えられる……」
本当に今にも崩れてしまいそうでそっと肩を寄せて僕の直ぐ側に引き寄せた。
僕よりも一回りも二回りも小さな体、力を加えるだけで割れてしまいそうな程の華奢さ、それは愛おしさに変換して行きある意志を宿らせた。
守るんだ、と力をみなぎらせて彼女の髪を梳いた。
「……夢ちゃん、問題が解決したらまた二人で旅行に行きませんか?」
「……次はどこに行くの?」
「まだ決めてませんけど、でも二人で行く場所は何処だろうと楽しい筈ですよ」
二人なら何処だって。
「……あ、行きたいところあった」
「何処ですか?」
「ん……まだ内緒にしとく、珍しくない場所だけど、でも今なら行ける気がするから」
一つの謎を孕んだ、彼女が行きたい場所とは何処なのか。
その答えはベッドに座っているくまのぬいぐるみが知っているような気がした。
不意にドアがノックされ食事の時間を教える。
「ご飯の準備が出来たよん、ラブラブチュッチュを一旦中断して二人の激しい夜の為に栄養を取るべし」
「もうまたそんなこと言ってるの椿姉は、そんなんだから彼氏が出来ないんだよ」
「はっはっはっは! 情報が古いぞ夢、今やわたしっにはそんな台詞では怒りは表れないわ!」
はて、いつもならもう喧嘩に発展していると思うのだが。
椿さんが何故か誇らしげにしている。
「椿姉もしかして」
「ふっふ~ん、わたしっに彼氏が出来たのです! 年下だけど……彼すっごく可愛らしくてピュアで……へへっ」
「……笑い方が気持ち悪いよ」
「良いも~ん、へへっ」
幸福に満ちた笑顔を放つ椿さんはどこか浮かれていて幸せなんだと主張しているみたいだった。
好きな人が出来るって自分の世界を鮮やかにさせる、僕もそうだったから。
「もう水臭いよ椿姉、早く教えて欲しかったのに」
「まあここのところゴタゴタしてたしね……ふふん、その内家に連れてくるよ……マジで可愛いんだって、へへっ」
「その時はちゃんと紹介してね?」
「任せときなさいよ、……へへっ」
椿さんの彼氏の話で盛り上がっていると幸子さんが呆れたようにご飯だと呼びに来た。
前もこんなことがあった気がする。
「全く椿はまともに二人を呼びに来れないのかしら」
「……うう、言い返せない、面目ない」
「自業自得だよ椿姉」
「ま、まあまあ、それよりもご飯が冷めてしまいますよ」
とフォローを入れたのは間違いだった。
「む、十夜は椿姉の味方になるつもりなの?」
「まあ、白原くんは夢がいるのに他に乗り換えちゃうのね」
「へ? いや、違いますよ……」
何だかおかしな方に話が傾いているぞ、これは危ないような気がする。
「やだ、そうだったのね十夜きゅん、わたしっの魅力に参っていた何て……はぁ罪深い女ねわたしって、でもダメよ、わたしっには心に決めた人がいるんだから。……あ、でも体と体のスキンシップならいつでも……」
「椿姉の不潔! 十夜を誘惑するなんて!」
「ふっふ~ん、モテる女は違うのよ」
とその時、素早く椿さんの背後に回り込んだ夢ちゃんは細い腕で椿さんの首をロックした。
「はぎ! く、苦しい!」
「椿姉お仕置き!」
「ち、ちょっと、待ってよ、最初に夢が、十夜きゅんを、疑って、…………ごめん、なさい、わたしっ、が、悪かった、です……」
「はい一件落着みたいね、じゃあご飯にしましょう」
幸子さんの号令に従いみんな食卓へ。
「ううっ、夢をからかうのは命がけよ~」
と呟く椿さんは何だかんだで嬉しそうな顔だった。
夢ちゃんが元気になってくれたから。
「ねえ十夜くん」
不意に椿さんに呼ばれそこへ視線を向ける、すると真剣な眼差しを放つ彼女が鮎原夢の家族として、叔母として、姉役としての彼女が気持ちを漏らした。
「夢は貴方が居ない間は不安にかられて時々笑顔を失うことがあるわ、貴方の前ではそれを見せないように努力してる。最大のトラウマが夢を苦しめてる……どうか夢を守って上げて欲しい。もちろんわたしっだってあの子を守るつもりだけど、貴方にしか理解出来ない夢がいると思うの、家族でも理解仕切れない部分はある。だから心の痛みを知る貴方ならあの子を、夢を守れるって信じてる。……だからお願いします、夢を守って上げて下さい」
「はい、分かりました。僕は夢ちゃんを守ると誓います……でも椿さん、家族にしか分からないことだってありますよ? だからその部分は椿さんや幸子さんに任せます。みんなで夢ちゃんを守りましょう」
「……ありがとう」
その後食事をご馳走になり楽しい一時を過ごした、温かい家庭、笑顔溢れる談話、僕は今自らが望んだものに囲まれている。
大切な人と共に。そこに魔手が忍び寄ろうと言うのなら僕は戦う、この笑顔を壊さぬように、温かさを冷まさないように。
そんな決意を固めた頃に来客が現れた。
身分証を持参した彼らを僕らは玄関で出迎えた。
「夜分遅く申し訳ないですね、警察の者です……え~ご存じとは思いますが荒沢新一が逃走しましてね、何かご存じでしたら教えて頂きたいのです、一応その血縁者と一緒に住まわれていますからその関係で出向いてきたのです」
「何も知らないわよ、わたしっ達も迷惑してんだから、あんた達は何やってんのよ、早く捕まえてくれれば……」
「椿止めない。すいません娘が失礼なことを……」
「いえ、慣れてますから」
とにかくこちらの状況を知らせて何らかの対策を打って貰わないといけないだろう。それは幸子さんと椿さんに伝えている、それを幸子さんが語り始めるのは当然予測出来た。
荒沢新一は夢ちゃんに固執していること、もしかしたらここに来る可能性があることを。
「……分かりました、なら警官を数人家の近くに配置して警護させましょう、警官がいるだけで抑止力にもなりますし有事の場合は応援も呼べますからね」
「ありがとうございます」
「では我々はここで失礼します、何かありましたら警察署に電話を下さい。では……」
こうして警察は帰って行った、取り敢えず警官を配置して貰えるのなら一安心だ。
しかし完全に脅威は去ったわけではない。
「警察は本当に当てになるのかしら、居ないよりはマシだけど」
「椿、今警察に頼るのがベストなのよ、愚痴っても始まらないわ」
「……十夜」
「はい、何ですか夢ちゃん」
「今日は泊まっていってくれないかな……えっと、一人でいるのが何だかその……」
心細いと言おうとしたのだろうが弱い自分を口に出してしまったら本当に弱くなってしまう、僕にはそう見えた。警察が訪れて改めて自分の状況を実感出来たらしい、潜む魔手は気を抜けばあっと言う間に腕を引き闇に引きずり込むだろう。
そうなってしまったら取り返しの付かない事態になる。
確信は無いけど何故かそう思うのだ。
「分かりました、今日はずっと一緒にいますよ」
「ありがとう……」
今出来るのは不安を緩和させること、完全に吹き飛ぶまで、いや、ずっと一緒いる。
ずっとずっと彼女の傍らに居続けると誓う。
こうして今晩は夢ちゃんの家で一夜を共にし朝を迎えた。
翌日、今日は仕事為早く家を出なければならなかった、仕事場までここからだと結構離れているからのんびりはしていられなかった。
「休日なのに仕事って大変だね」
「今日は大事な仕事があると先生が言ってましたからね、仕方ないですよ」
「そっか……私も大学にちょっと用事で出掛けなきゃならないの」
「夢ちゃん、決して一人では出歩かないで下さいね」
一人では色々と心配だ、用心に越したことはないだろう。
「大丈夫だよ、椿姉と一緒に行くから」
「そうですか……もし何かあったら直ぐに電話して下さい、飛んでいきますから」
「うん、分かったよ」
車に乗り込みエンジンを始動させる、窓を開けると視界が埋め尽くされた。
柔らかな感触が唇に、彼女のキスだ。
彼女を感じる行為、温かくて、柔らかくて、ずっとこうしていたいと魅了される。
愛おしさを感じながら唇が離れた。
「いってらっしゃい十夜」
「はい、行って来ます」
アクセルを踏み、車がうなり声を上げて走り出す、段々と小さくなる彼女を何度もバックミラーから覗く。
何故だろう、胸騒ぎが止まない。まるでこのまま……。
いや、不吉なこと考えては駄目だ。そう考えてしまったら現実化してしまうかも知れない、不安はいくらでま溢れ出すもの、それを止めるのは自身の意志だけなのだから。
気をしっかりと持て不安を打ち払わなければ現実に現れるかも知れない。
意志を強固へと固め、仕事場へ向け更にアクセルを踏み込む。
気が付けば彼女の姿はもう見えなくなっていた。
休日出勤は別に珍しいことではない、空月先生は人気のカメラマンな為忙しい。が、休日出勤の場合午前中で終わることもある。今日はそれに該当したらしい、午後を少し過ぎた頃に仕事は片付いた。
「白原お疲れ様、今日はもう上がって良いわよ」
「はい、お疲れ様でした」
さて帰り支度を始めるか。机周りを片付け、ついでに掃除も。
一通り終えて帰ろうとすると携帯電話が鳴る。
「はいもしもし……」
『久しいな白原十夜、俺の声が認識出来るか?』
「その妙な口調は龍士、一体何の用ですか?」
『うむ、大した事柄出はないのだが今暇か? 暇ならお前の家にお邪魔させてくれないか?』
それはつまり遊びに来たいと言うわけだろうか。
「あまり時間は取れませんよ?」
『良いのだ、多少で構わん。その方が都合が……いやいや、何でもないぞこっちの話だ、記憶から削除しておいてくれ』
怪しい。
何だか変だな、元から変なのは知ってはいるが今日はもっと変だ。これは何かを企んでいる、そう直感する。
「何か隠してませんか?」
『ぬぅ……隠し事とは人聞きが悪い、俺は白原十夜とのより良き交流をだな……』
「家に来なくて良いですから、さようなら」
『待て待て待て!? 分かった、俺の心を晒け出そう出はないか! とにかくアパートまで行くぞ? と言うかもう目と鼻の先に待機している、事情は帰り次第伝えよう!』
もうアパートの前まで来ていたのか、何だか計画的な気がする。ま、もう来てしまっているのなら帰すのは可哀相だ。
「はあ、しょうがないですね、直ぐに戻りますよ」
『おお、感謝するぞ! それでこそ親友! ならば直ぐに帰宅を求む、待っているぞ!』
と言って電話が切れた、怪しい、実に怪しい。
アパートに戻ると龍士は直ぐに現れた、妙に嬉しそうにしているところがますます怪しさを増幅させて行く。
端から見れば不審者に間違われても文句は言えないだろう。
「おお我が友よ遅かったではないか」
「……龍士、一体何を企んでいるんです?」
「まあ慌てるな、立ち話でもあれだ、部屋で話そうか」
不安を抱え部屋へと向かう、階段を上がり自室を開けた瞬間お隣さんの扉が勢い良く開く。
桜井姉妹の妹が元気に飛び出した。
「お兄ちゃんお帰り! ……げ、変人も一緒か」
「ぬ、変人とは失敬だぞロリ中学生、俺には竹崎龍士との名が刻まれている」
「はいはいおめでとう。それよりもロリ中学生って何よ、もっとマシなあだ名はないの!」
「ふむ……ならばこれはどうだ、生意気中学生」
次の瞬間鏡ちゃんの跳び蹴りが龍士のとある部品に直撃する、そこは男の急所でありその場に倒れ込む。
言葉にならない呻き声を上げてのたうち回っている。ご愁傷様。
「帰れ変人!」
「ぬぅううう、ぐをぉおおお、ぴょーーう、ぬぅううう」
「げ、キモ、お兄ちゃんこいつ生ゴミかなそれとも粗大ゴミ? とにかく捨てといてよ」
「僕もそうしたいのですが一応友人ですから、こんなんでも」
騒がしくしていたのを聞きつけたのか隣から水面さんが現れた。
これだけ騒げば誰だって出て来る。
「あらあらまあまあ、何の騒ぎですか? また鏡が何かしでかしましたか?」
「聞いてよお姉ちゃん、この生ゴミが……」
変人から生ゴミに格下げとなった龍士を指さすがそこは無人であった。
龍士はなんと復活を遂げ立ち上がり何事もなかったように振る舞う。若干震えてるのは見なかったことにしてあげよう。
「えっと確か白原さんのお友達の……」
「はい、竹崎龍士と申します。どうも」
ん? 龍士の喋り方に違和感を覚える。
「ああ、竹崎さんでしたね、今日は白原さんのところに遊びに来られたんですか?」
「ええ、やはり友人とは良いものです。白原くんはボクがいないと何も出来ませんからね」
ボク? 白原くん?
喋り方もいつもの龍士出はない、おかしいぞこいつ。
「お兄ちゃん、生ゴミが変だよ……ま、元から変だけど」
「え、ええ、確かに変です……元から変ですが」
鏡ちゃんとひそひそと話して変になった(元から変だけど)龍士を観察する。
急に変わった態度、水面さんが現れてからだ。それに龍士の鼻の下が伸びている。
ああそうか、どうりでいきなり遊びに来たいと言ったわけか。
「生ゴミめ、お姉ちゃんに惚れたな」
「そうみたいですね」
「くひひ、そっかぁ、お姉ちゃんに惚れてんのかぁ」
鏡ちゃんが何やら良からぬことを思い付いたらしい。
先に言ってこう、龍士ご愁傷様。
「お姉ちゃん」
「あら、どうかしたの鏡?」
「あのね、さっきこの生ゴ……龍士お兄ちゃんがわたしを手込めにしようとしたんだよ……わたし怖かったよぉ……」
「何ですって?」
にこやかだった水面さんが冷たくて鋭い目つきをする、見ているこっちが怖いと思うほどに強烈であった。
その対照に慌てる龍士はこれから地獄を見るのだけは間違いない。
「ち、違いますよ! ボクはそんなことは……」
「黙りなさいこの恥知らず、わたしの可愛い妹に良くも迫ってくれましたね、汚らしい!」
「迫ってなんかないです! ちびっ子興味は無いですから!」
「はぁ! わたしちびっ子じゃないもん! この生ゴミめ、絶対に許さないんだから!」
一言多かったらしく完全に桜井姉妹を敵に回してしまった、こうなってはお手上げだ。
龍士、昔からのよしみで骨だけは拾ってやろう。
「違う! 違うのだ! ロリ中学生は……」
「ロリ中学生? 鏡のことですか? あ、貴方はまさかそっちの趣味ですか? なる程、鏡が魅力的だったんですねこの変人!」
「ぐぅ、ち、違うのだ! 俺が好きなのは桜井水面さん、貴女だ!」
どさくさに紛れて告白した龍士、何で今のタイミングで言うのか。
「生理的に無理です」
「ぬわああああああああああああああああああああああ!」
精神にダメージ大、しかし諦めない龍士は再度アタック。
「もう一度考え直してはくれまいか! 俺は貴女を幸せにしたい!」
「……幸せにしたいなら良い方法があります」
「な、何ですかそれは!」
「ふふっ、死んで下さい」
これがトドメだった、龍士は真っ白に燃え散ったのだった。
少し可哀相になってきたな。
「鏡ちゃん、ちょっとやりすぎですよ?」
「う、だってムカついたんだもん」
「……一体二人は何の話をしているの?」
事情を説明すると龍士のロリータコンプレックスの疑惑が晴れ、鏡ちゃんの悪戯も明らかになる。
「あらあらまあまあ、そうだったの? もう鏡、悪戯はダメよ? 竹崎さんを再起不能にさせちゃったじゃない」
「お姉ちゃんに言われても説得力無いよ」
「あら? 何か言いやがりましたか鏡?」
「何でもないよ! あはははは!」
良かったな龍士、誤解は解けたぞ? とにかく龍士を僕の部屋まで引きずって行く。
全く、早く夢ちゃんに会いに行きたいのに。
「あ、白原さん、竹崎さんが起きたら伝えておいて下さい、やっぱり生理的に無理です」
「ええ!」
「くひひ、冗談ですよ、ごめんなさいと伝えて下さい」
びっくりした。
部屋に引きずりながら入り、取り敢えず顔目掛けてコップに注いだ水をかける。
すると意識を取り戻し素早く起き上がったのだった。
「ぬぅ? ここはどこだ!」
「僕の部屋ですよ……まさか何も覚えていないんじゃ」
「馬鹿にするなよ、ちゃんと記憶は蓄積させているのだ、ほら良く思い返せば…………ううっ、桜井水面さんに嫌われたぁ……」
誤解は解けているが暫く様子を見ていようか、水面さんに会いたくて僕を利用した罰だ。
「ぬをおおおお! 我が恋も散ったのか、ぬをおおおお!」
「相変わらず豪快な泣き声ですね、とにかく落ち着きなさい」
「……ぬ、それはそうだな」
意外と素直だった、さてと適当に慰めて早く帰って貰おう。
夢ちゃんに会いに行くのだから。
適当に元気付けると本来ポジティブな思考を有している龍士は復活を遂げた、お騒がせな奴である。
しかもまだ水面さんを諦めてはいない様子、また騒動が起きそうだ。
「なあ白原十夜よ、水面さんの情報を提供してはくれまいか」
「……例えばどんなことが知りたいんですか?」
「スリ……おほん、何でも構わんぞ」
何でもって言うのが一番困る、さて何を教えるべきか。
「えっと、水面さんはプリンが好きみたいですよ」
「何とプリンか! よし今度は土産を持参出来る。ぬはははは!」
上機嫌だがここは壁が薄い、隣に丸聞こえなのだが。
面白そうなので敢えて教えなかった。
「で、龍士は水面さんのどこが気に入ったんです?」
「うむ……何と言おうか、一目惚れだったのだ……甲斐甲斐しくて美しくまるで母を思い出させる包容力、俺が求めていた女性だ、あんな女は他には居まい、最高の女神だ」
「大絶賛ですね」
龍士がこれ程に女性に夢中になるとは驚いた、今までこいつは女性とは無縁とも言いきって良い程全く女っ気がなかった。
そんな龍士が水面さんに惚れるとは。
「そんな訳だ、だから協力を要請するぞ白原十夜」
「協力って……そもそもどんな訳ですか」
「ふ、俺とお前はベストフレンドと申しても異論は飛ばないだろう、友は友を助けるのは昔からの摂理、つまり白原十夜よ、俺の恋を手伝う義務が発生するのだ!」
何と自己中心的な考え方なのだろうか、ちょっとムカついたので意地悪することにした。
「龍士、水面さんには好きな人がいるんですよ」
「な、何だ……と? それは真実なのか! 一体誰なのだ!」
「さぁ、それは知りませんよ」
困ってる困ってる、さてと、そろそろお帰り頂こうか。
「龍士、すいませんがこれから用事があります」
「ま、まて、見捨てる気か!」
今にも泣き出しそうな顔で懇願して来る、何とかそれを宥めて静寂を手に入れた。
「ぬぅ……出直すのも作戦の内か……ぬぅ……」
「そうですよ、態勢を整えてから改めて挑んで下さい」
「そうだな、水面さんは逃げないのだからな!」
逃げるかも知れないと思ったが敢えて教えないことにした。
取り敢えずこれは片付いた、そう安堵していると携帯電話が鳴り始める、着信は夢ちゃんからだ。ちょうど良かった、仕事が早く終わったことを伝えられる。
ボタンを押し電話に出た、彼女の声が飛び込んでくるのだが、ある言葉に頭を真っ白に塗りたくられ目を見開く。
どうして彼女がこんなセリフを言う、そう言わざる終えない状況なのかと理解するしかないのか。
一言だった、そして電話が切れた。
彼女の名を呼ぶ、切れていると分かっていても呼ぶ。
彼女のセリフ、小さくて今にも壊れてしまいそうな心細い声で……。
『助けて……』
そう言ったのだ。
これが、この声が、開幕を告げる。