『隔て越しの対峙』
静寂が三人に訪れていた、どれ程の時間を体感したのか分からない、本当に長い長い時間が経過して行ったと思う。
衝撃はやはり放たれた、僕の体の中を飛び回って今自分が置かれている状況を理解させられた。
幸子さんと椿さんに夢ちゃんの過去を話して貰い、ショックが大きかった。
荒沢新一、そいつは夢ちゃんの父親であるにも拘わらず、自分の家族に何てことを。
夢ちゃんのお兄さんを締め殺し、夢ちゃんに惨い仕打ちを……。
「……私が気が付いていたら、きっと信也は死ななかったでしょうね」
幸子さんが悔いている。
「母さんの所為じゃ無いわよ! わたしっだってあの惨劇の日まで気が付いてあげられなかったんだから……あいつよ、あいつが全部悪いわよ! お姉ちゃんを困らせて、信也や夢まで……ずっと刑務所に入っていれば良かったのに、何で今になって出て来るのよ! ちくしょう!」
孕む怒の感情を吐き出した椿さんは憎悪と後悔の狭間に挟まれて苦しそうだった。荒沢新一への憎しみと自分自身の腑甲斐無さに苛まれているようだ。
どれだけの仕打ちを夢ちゃんは味わって来たのか少し垣間見た気がする。
姪思いの椿さんをこんなにも怒らせて、荒沢新一は人間じゃない。
「……十夜くん、夢を軽蔑しないでね? あの子は何も悪くないんだから、だってそうでしょう? 当時はたったの五才だったのよ? それなのに……辛い思いをしてしまった、いや、させてしまった。わたしっは……お姉ちゃんが大好きだった、優しくて良くわたしっを可愛がってくれた。お姉ちゃんの子供が生まれた時、本当に嬉しそうにお姉ちゃんは子供を抱っこしてたっけ。お姉ちゃんにとって子供達は宝物、そんな大切な宝物を……一緒に守りたいって心から思ったわ」
亡き姉への思い、そして夢ちゃんへの思いを惜しまずに語る椿さんから家族への愛を感じたと思う。
「……でも、信也は守れなかった、ずっとそれを悔いているわ、忘れること何か出来ない、あの時の悲劇を。でも夢は生きている、妹を守ろうと戦った信也の為にも、お姉ちゃんの為にも、夢を……助けてあげたい。
これまでずっと助けようと努力した、でも答えは見付からなかったわ。心の傷って奴は目に見えないから厄介。体の傷は時が治癒してくれる、でも心の傷は時間だけじゃ治らない、根深いから。
十夜くん、腑甲斐無いけど、情けないけど、……夢を助けて。夢は貴方と付き合うようになってから良く笑顔になるようになった、貴方と一緒にいることを本当に心地が良いらしいの。きっと貴方なら助け出せると思ってる、勝手だけど……お願いします、どうか、どうか、夢を……助けて!」
「椿さん……」
「私からもお願いします、夢を助けて下さい……私の可愛い孫をどうか、どうか……」
歯痒いだろう、腑甲斐無いだろう、言わば他人に縋るしかないのだから。
強く握り締められた拳は震えている、爪が食い込む程に。
夢ちゃんを大切に思っている証を今目の前にしているのだ。
羨ましいな、こんなに良い家族がいて。
果たして僕は夢ちゃんを救えるのか、それは分からない。しかし思いをぶつけることは出来る筈だ、僕が夢ちゃんをどう思っているのか、奥底の思いを伝えに行こう。
そしてまた彼女とドタバタで楽しい日々を迎える為に。
そう、キス魔な彼女の本当を迎えに行こう。
「椿さん、幸子さん、僕行って来ます、夢ちゃんのところへ。どうなるかは分かりませんけど、自分の気持ちをぶつけます力の限り」
意思を帯びた足は立ち上がる為に力を要求する、それに応え両の足が大地に根付く。
幸子さんと椿さんを部屋に残して二階一番奥へ。
夢ちゃんに会いに行くんだ、そして彼女の闇と戦う為に。悲しくて悲惨な過去、きっと僕の想像だにしない過酷が傷となって深く刻み付けたのだろう。
勝算何て初めから無い、それでもジッとなんてしてはいられない。
夢ちゃんとの日々をもう一度取り戻す。
いや、新たに作り直すんだ。本当の彼女を知らなかった僕はこの日常をかつて仮初と呼んだ。互いの本当を知らぬまま上辺だけの日々。だから新たに作り直すんだ、本当の彼女を知って、僕を知って貰う。
お互いを理解しあってこそ、本当の恋人同士になるのではないだろうか。
僕はそう考える。
思考を吟味し、気が付けば目の前に彼女の部屋が、閉ざされた扉は古代神を彷彿させる。
さあ始めよう、彼女を知り、闇と戦う為に。
扉をノックし、声を掛けた。
「……夢ちゃん、僕です……十夜です」
返事は無い。
「久し振りになりますね、ご飯はちゃんと食べていますか?」
やはり返事は無い。
「……僕、夢ちゃんにお話があります。聞いて貰いたいこともあります……だから、中に入っても良いですか?」
無言、彼女は何も答えてはくれ無い。もう一度話を続ける、引き下がる何て出来ない。
僕は彼女を助ける為に来たのだから。
「夢ちゃん、中に入っても良いですか?」
『……止めて』
ドア越しに彼女の声が漏れた。しかし声が弱々しい。
「ゆ、夢ちゃん僕……」
『止めてよ……入って来ないで!』
明らかな拒絶の意思を提示する、覚悟はしていたじゃないか。でも実際にそれを目の前でやられると胸を締め付けられる。
体が凍り付き、その場に束縛されてしまう。
そして恐怖が纏わりつく、また彼女の拒絶に恐怖する。
臆するな、戦うと決めたのは誰だ? 彼女を助けたいと願ったのは誰だ?
他ならない自分自身じゃないか。
さあ声を出せ、彼女と対話するんだ。固唾を飲み、決心を固め、外界へ言葉を漏らす。
「夢ちゃん……僕は君を助けたいって思っています、夢ちゃんを苦しめる闇から引き上げたいって思ってます。……それをするにはやっぱり話し合わないと駄目だって思ってます……だから中に入って良いですか?」
もう一度試みる、しかし現実は甘くは無い。
やはり拒絶の意思を表した。
『止めて、止めてよ……今の私を見ないでよ……醜い私を見ないでよ……帰って、お願いだから私を放っておいてよ……』
「放っておける訳がないですよ! 夢ちゃんが苦しんでいるのに何もしてやれない何て……残酷過ぎますよ。それに夢ちゃんは醜くなんかは無いです!」
『知った様な口を利かないで! 何が分かるの? 十夜に私の何が分かるの!』
「……夢ちゃんのお父さんのことですか?」
そう口走ると一気に場が静まり返り彼女は言葉を失う。
『……ど、どうして……どうして十夜がそれを……どうして……』
「僕が幸子さんと椿さんに訊きました。夢ちゃんのお父さんがした非道やお母さんのこと、そして……お兄さんのことを。すいません、いつか話してくれると約束したのにそれを破りました……」
『そんな……』
不安な声に怯えが含まれていた、自分の過去を知られた今夢ちゃんは怖くて堪らないのだろう。
僕が夢ちゃんを軽蔑して離れて行ってしまうと、それを恐れていると思う。
「……あの日、夢ちゃんがあのニュースを見た日、どうしてあんなにも取り乱したのかようやく理解することが出来たと思います。夢ちゃんのお父さんは……」
『止めて! あいつの話をしないでよ! ……う、ううっ、私は汚れてる、醜く汚れてる……こんな私何か……嫌でしょう? 汚ならしい私何て哀れでしょ! ううっ、ぐすっ……もう何も話さないでよ……十夜が何を話すのかが怖いよ……私……十夜のこと大好きだよ……大好きだから……怖いよ、怖いの!』
僕が軽蔑して離れて行くことが怖いと言っているんだ。
そんなことする訳が無いじゃないか。
「僕は夢ちゃんを汚ならしい何て思っていません! 軽蔑だってしていない、僕だって夢ちゃんが好きです、大好きですから!」
『……嘘だよそんなの、口では何とでも言える、十夜には分からないんだよ! 自分の父親に弄ばれて! お母さんが目の前で死んで! お兄ちゃんがあいつに殺されるのを直ぐ目の前で見ていた私の気持ち何て! 笑っちゃうでしょ? 哀れな女だって見下しているんでしょ? こんな私を好きだってどうして言えるの! 私……私……ううっ、ぐすっ、うわああああああん!』
拒絶の言葉は最後に決壊し涙を噴き出させた。僕を罵倒している間夢ちゃんの声が震えていた。
本当はこんなことを言いたくない、でも言わずにはいられない。そんな感情を受けたと思う。
本当にそう思っているかは分からないけど、今彼女が泣いている。それだけは事実だ。
泣き続ける夢ちゃんを抱き締めることも出来ないのか、側にいてやることも出来ないのか。
たった一枚のドアが隔てているだけなのに、直ぐ近くに彼女はいる筈なのに。
彼女の傷は深い、僕じゃ彼女を救えないのか?
まだ泣いている、その声が聞こえる度に抉られる心は絶えるしか出来なかった。
彼女の闇は深い、だったら僕は……。
「……夢ちゃん、少しだけ昔話を聞いてくれませんか? 返事はしなくても良いです、僕が勝手に喋りますからそれに耳を傾けてくれるだけで良いです……夢ちゃんの昔を聞いてしまったから、次は僕の番です」
その場に腰を下ろして背を彼女の部屋のドアに寄り掛かけた。
本の少し長い話になってしまうかも知れないな。
「僕は父さんと母さんが大好きでした、一緒にいられるだけで幸せだと思えた……でも、どうやらそんな僕の思いは二人に通じていなかったみたいなんですよ」
いつの間にか彼女が泣きやんでいた、静かになった空間に僕の声が反響する。もしかしたら下の階にまで届いているかも知れない。
「大好きだったんですけどね父さんも母さんも、でも良く叩かれたり蹴られたりしていました、ある時はご飯を食べさせて貰わなかったり、またある時は暗い押し入れに押し込まれたり……」
『……え?』
「簡潔に言えば両親から虐待されてたんですよ僕は……」
暫く過去へ飛ぼうか。
小さい頃、僕には大好きな家族がいた、それは父さんと母さんだ。
父さんはいつも家の中でゴロゴロとして何もしない人だった、たまにフラッと何処かへ行っては帰って来る。何の仕事をしているかは分からなかった。
母さんは化粧をして綺麗な服を着込んで夜働きに出掛ける。朝には帰って来るけど必ず酔っ払っていた。でも必ず自分で作っていた、台所に立つ後ろ姿を僕は良く眺めていたのを覚えている。
ゴロゴロしている父さんはいつもテレビばかり見ていた、たまに目が合うと教育された。
『何見ていやがんだよ、ちょっと来い』
『……ご、ごめんなさい』
『謝罪は良いから来いって』
側に行くと大きな手で頭を叩かれる。
『部屋の隅っこでじっとしてろ、これは教育だからな? お前の為だ、分かったな?』
『は、はい……ありがとうございます』
いつも叩かれた後はありがとうございますと言うように躾されていた。
教育だから言わなければならない、そう教えられて来た。
母さんが部屋に入って来ると僕を一度も見ないまま父さんのところへ向かう。
すると横になっている父さんの上にのしかかり甘えた声を漏らす。
『んふふふ、ねえ、もーくん、お腹減って無い? ご飯食べるぅ?』
『腹減ったな、よーーし、じゃあユミを食べちゃおっかな~』
『あははは、やだぁ、もーくんのスケベー!』
戯れ合って凄く仲が良さそうな二人、見ていたら羨ましいくなってくる。
母さんが父さんの頭を撫でている、良いな、僕にもして欲しい。
『あれ、十夜どうかしたの?』
母さんが僕に気が付いた。
『あ、もしかして頭撫で撫でが羨ましいかったかな? おいで十夜』
直ぐに母さんの側へ、優しく微笑む母さんは綺麗な手を僕に差し延べて……。
『十夜、前に言ってたわね? ジロジロ見るなってさ』
思い切り頬を叩かれた、綺麗な手が容赦無く。
『本っ当! 鬱陶しいわね、何々、私に甘えたかったのかな十夜? はい残念、私に甘えて良いのはもーくんだけ、あんたは隅っこでじっとしてろって言ってんでしょ? あんたは悪い子だから甘えらんないの! 分かったら隅っこにいなさい』
『は、はい……ありがとうございます』
また隅っこへ。痛む頬を擦りながらそこへ座る。
そうしたらまた二人は戯れ合いを再開した。
『んっ……やだ、もーくんたら、そんなところ触っちゃダメよぅ、ふふっ』
『良いじゃん、気持ち良い癖に白々しい奴。……ほら、優しくしてやるからさ』
『もう、もーくんのスケベ』
甘い声を吐き出した後、鋭い視線が僕に向かう二人から放たれた、これもいつものことだ。
外へ行って来い、そんな合図である。
『……お外に遊びに行って来ます』
『暗くなるまで帰ってくんなよ』
『ちょっと、何してんのよ、早く行きなさいよ』
『……ごめんなさい』
素早く家を後にした、家と言っても小さなアパートでみずぼらしい外観で粗末な作りだ。
それでも僕の家だ、悪い子な僕でも帰る場所なんだ。
父さんも母さんも僕が悪い子だから可愛がってくれないんだ。だから良い子になるように毎日努力した。
部屋中のお掃除やお風呂掃除、洗濯も僕がやってるし買い物だって。お料理だけはどうしても出来なかったけど。
『あんたって頭は良いのよね』
と過去唯一母さんに褒められた台詞がこれだ。僕は嬉しかった、ようやく良い子に成れたのかなって思った。
でもやっぱりまだ悪い子らしい、買い物で一つでも買い忘れがあったらぶたれる。
掃除した後部屋に埃が少しでも残ってたら蹴られる。
『悪い子だ、お仕置しなくちゃな?』
『は、はい……ありがとうございます』
まだ足りない、良い子に成るには努力が足りない。
いつの日か父さんと母さんが良い子になった僕を可愛がってくれる日を夢見て頑張る。
それが僕の生きる理由になっていた。
そんなある日、僕はとんでもない失敗をしてしまう。父さんが大切にしていたギターを倒し、壊してしまった。
烈火の如く燃え上がり憤怒を携えて父さんが吠えた。
『このガキがぁ! これがいくらするのか分かってんのかよ! ああ!』
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』
『マジ最悪ねあんた、もーくんの命のギターを壊すなんて……本当に悪い子』
次の瞬間腹部に激痛を伴いながら吹き飛ばされ壁に激突した。
父さんが思い切り蹴り飛ばしたんだ。汚物を床にぶちまけた。
『げ、最悪ねこいつ、あんた後でちゃんと綺麗にしときなさいよ』
『クソガキがああああああ!』
後はあまり覚えて無い、ただいっぱい蹴られたり殴られたりしたのだけは分かっているけど。
多分その時なのかな? 僕の右目がぼやけて見えるんだ、それに生々しい傷跡も出来てしまっている。多分一生消えない傷だと思う。
その日から右側の前髪を伸ばし始めた、傷跡を隠す為に。右目の視力は治ることは無かった、当然眼科何かに通わせて貰えなかったから。
実質、左目だけで生活をしないといけない、最初は苦労したけど次第に慣れたと思う。
でもこれは悪い子だったからこうなってしまったんだ、早く良い子にならなくちゃ。そうしないと二人に認めて貰えない。認められないと可愛がって貰えないんだ。
ただ願ったのは僕に優しくして欲しい、笑顔を見せて欲しい、頭をいっぱい撫でて欲しい、良い子だって言って欲しい。
高価な物は要らない、望むのは些細なことだけ。
父さん、良い子だって褒めてよ。
『何見てんだクソガキが! 悪い子にはお仕置だ!』
母さん、綺麗な手で頭を撫でてよ。
『何見てんのよ気持ち悪い、お仕置よお仕置!』
ああ、僕はまだ悪い子なんだ。
悪い子な日々の中にたった一度だけ二人が僕に笑顔を見せてくれたことがあった。良くは知らないけど大儲け出来る話に有り付いたらしく二人は上機嫌だった。
『あははは、これで俺ら金持ちに慣れるかもな!』
『やったねもーくん! お祝いしよお祝い! 久し振りのお寿司だよお寿司! ステーキもあるんだから!』
『よっしゃよっしゃ! おい十夜こっちに来いよ、寿司だぞ、食え食え!』
『あははは、早く来なさいよ、あーー幸せ!』
戸惑っていた、父さんと母さんが笑顔で僕を手招きしている、それが信じられなかったんだ。
有頂天が作用している為か優しい言葉を掛けてくれるなんて。
『ほら来いって! あははは、金持ちは器がでかいんだよ!』
『ふふっ、もーくんたら可愛いこと言っちゃって! ほら十夜、ジュースもあるわよ!』
戸惑ったけど、でもそこに望んだものが沢山ある。
僕は日溜へ駆けた。笑顔を浴びる為に。
これ程幸福に満ちた時間は今まで皆無だったと思う、良い子に成る為にあらゆる努力した。
でもいつも結果は最悪を提示してまた悪い子の称号を掲げるはめになった、努力は報われない。
でも今日は違う、僕に笑顔を向けてくれる、求めた物がここにあるんだ。
理不尽かも知れない、あれだけ努力したのに笑顔は見せてはくれなかった現実に何度絶望を背負ったか。
でも、それでも良い。
父さんが笑ってご馳走を進めてくれる。
『あははは、ほらどんどん食え!』
母さんが笑って優しく頭を撫でてくれる。
『ふふっ、美味しい? あーー幸せだな、本当に幸せ!』
僕も幸せ。
満面の笑みを満開させてこの幸せを噛み締めた。
『ねえねえもーくん、カメラ持ってたよね? 写真を撮らない?』
『お、良いねそれ』
タイマー機能付きの一眼レフ、父さんは知り合いに貰っ奴だけど今まで使っている姿何て見たこと無かったな。
幸せになると今まで色褪せていた物も輝きを取り戻すのかな?
机の上に乗せられた古いカメラ、その時を待っている。
『よしピースで写ろうじゃないか』
『もーくんそれ何だか古くない?』
『何だよ王道じゃないか、写真って言ったらピースだ!』
『もう、もーくんって頑固何だから……じゃあそれで決まりね!』
そしてカメラのタイマーを作動させる、慌てて写る位置に来る父さんがおかしかった。しきりに髪を気にする母さんがおかしかった。
僕は二人の間で正座して待っている、これもおかしかったかも知れない。でも“囲う”瞬間僕らは笑顔でピース。幸福な家族を写真に囲い、半永久を手に入れた。
写真の中の僕らは幸せを手にしたのだ。
幸福な時間以降はまたいつもの調子に戻ってしまう。
また悪い子悪い子とお仕置をされた。
でも、出来上がった幸福写真を見ているだけでそれらは緩和された気がする。まだ悪い子だけど、でもいつかまたこの写真のように家族で笑い合える時がきっと来る、必ず良い子になってまた笑い合うんだ。
だから平気だ。
『おいコラ、何ニヤニヤしながらこっち見てんだよ……気持ち悪いな』
あの日を必ず掴む。
『何微笑んでるのよあんた、キモ……笑って無いで部屋の掃除をしなさい、それ終わったら夕飯の買い物よ?』
頑張る、良い子になるように一生懸命頑張るよ。
でも叩かれた。
なら努力が足りないだけだ、さあ頑張ろうよ僕。
また叩かれたよ?
まだまだ努力が足りないんだよ、ほら怠けないで。
口の中切っちゃって変な味がするよ?
だから努力が足りないんだよ。何度言わせるのさ。
自問自答の繰り返し、本当に幸福を手に入れられるのか。
そう僕自身に問い掛けられた気がした。
何を言ってるんだ、ほら写真を見てみてよ、三人で寄り添いながら笑顔でピースをしているじゃないか。父さんと母さんは肩を組んで、僕はその真ん中で正座をしながらはにかんでいる姿は正に幸せな家族じゃないか。
これが出来るならきっとまた笑い合える時がまた訪れるさ。
だったら、あれは何?
――知らない。
あれは何?
――知らないったら。
アレハナニ?
二つぶら下がっていた。
ゆらりゆらりと。
ただそれだけ。
僕はただ見ているだけ。
ただそれだけ。
嫌、見ているしか出来ない。
何これ、何なのこれ? どうして? 僕はまだ良い子に成って無いんだよ?
それなのに、どうして……。
僕を置いて行くの?
ゆらゆら揺れている二つ、地面から浮いている父さんと母さん。
紐が首に食い込まれている。
ナンダコレ?
僕は夕飯の買い物に行ってただけだよ? それだけなのに帰って来たら父さんと母さんが並んで浮いているんだ。
父さん、母さん、僕を見限って何処行くの?
後に知った事実は哀れなものだった、儲け話を持ち掛けられていた二人はそれに乗り、何かの事業に乗り出した。
しかしそれは詐欺紛いの事業で多額の負債を負ったらしい。
暴力団が絡んでいたらしくそのいざこざが二人を苛んでその果てに自殺したと聞かされた。事業の首謀者は逮捕されて借金関係はうやむやに消えたがそんなことはどうでも良かった。
もう父さんも母さんも居ない、僕の近くに居ない。
ずっと努力して来たのに、この写真のように良い子になって幸せに笑いたかったのに。
その願いは永遠に失われたのだ。
僕は……涙を流さなかった。
いや、流れなかったの間違いだ。
代わりに心が深く深く沈んで行く、底無し沼を自ら潜るように。
そうだ、この日からだ。喜怒哀楽の中から笑顔が凍結したのは。
両親が見限って逝った日、僕は笑えなくなった。
表情は笑顔を忘れる。
どう頑張っても笑顔が出来なかった。その代わり無表情を作り続けた。
父方のじいちゃんに僕は引き取られた、じいちゃんは本当に優しくて可愛がってくれたが笑顔で優しさに応えることは出来なくて、じいちゃんに笑顔を向ける日は等々訪れなかったのだ。
小学、中学、そして高校と僕は無表情のまま時を過ごす。
そんな僕だから友達など出来なかった、冷めた奴と罵られいつも一人でいた。
しかし唯一幼馴染みの竹崎龍士だけは前と変わらなく接する。
『やあご機嫌は如何だ親友白原十夜よ、快適な朝だな?』
『ああ、快適だな』
『ふっ、どうやらいつもと変わらずの心情らしいな、見方を変えればクールと言えよう』
『龍士、お前その口調は何とかならないのか?』
そう言っても無駄か。
『無論変化を期待するのは利口では無いな、これは個性だ。白原十夜、お前はレアな友を持てるのだ、喜ぶが良い』
『付き合ってられるか。授業が始まるぞ……』
鬱陶しい程毎日寄ってくる龍士だったが不思議と嫌では無かったと思う。本当は感謝していたんだ、こんな壊れた僕に見限らず側にいてくれたことに。
友達とは良いものだ。
そんな記憶の日常を掻き分けるとあの店が出現する。喫茶店『ママンの胸』、かれんちゃんが店長をしているあそこでバイトをしていた、当然表情のことを問われた。
『十夜ちゃん、貴方笑顔は出来ないの? お客様に失礼よん?』
『……すいません、苦手何です』
しかし数日後かれんちゃんが謝罪をして来たのだ、驚いたがどうやら龍士が僕の過去の断片を語ったらしい。
『知らなかったとは言え……ごめんなさいね十夜ちゃん』
『いえ、気にしてませんから』
この眼から見える世界は灰色に色褪せて見え、楽しいと思ったことは無い。
正直、生きているだけで辛い。
死んでしまおうか、そんなことを何度考えたか。でも死ぬ何て怖い、恐怖がとあるビジョンを再生させるのだ。
ぶら下がった両親の姿を。情けないのかな僕は。
父さんも母さんも悩んだ末に自ら命をたった、僕は無力で助けることが出来なかった、家族を守れなかったんだ。
この年になって考えるとあれは虐待で僕は愛されて無かったのかも知れない。でも、二人を憎めないのだ。だってたった一度だけだったけど笑顔で笑い合ったあの時間が忘れられないから。
死ねば苦しみから逃げ出せる。
でも知っている、死の虚しさを。
高校卒業をまじかに控えている頃そう悟った、自問自答の毎日だった。でも一人で悩んでいても答えは偏っていて独り善がりに成り下がる。
だから相談してみたんだいろんな人に、これから俺はどうするべきなのかを。様々な意見を聞いた、その中で一番響いた言葉は龍士の一言だった。
『死に逃げるな! 生と戦え!』
僕は逃げていたのかもしれない、死ねれば寂しい思いも辛い思いも何もかもから解放される。
でもそんな堕落した逃走に身を委ねるなら、僕は何の為に生まれて来たのか分からないじゃないか。
あるがままを受け入れてそのまま死ぬ?
僕の生きて来た意味は何なんだ?
両親のように逃げて生きた意味を無に帰すのか?
色褪せた世界?
自分から着色しようとしたのか今まで、灰色のまま終焉を迎える?
僕は何もしていないじゃないか、七色もの色を内に秘めている筈なのにそれをしまったまま埃まみれにしたのは他ならない自分なのだ。
だから龍士は戦えと言ったのだ。生きることに挑めと檄を飛ばしたのだ。
変わらなくてはならない、死は虚しい。本当の最後は生きて生きて生きて、生と戦った者に送られる安らぎであらなければならない。
自死は本当の死を汚す。
そう学んだ気がする。
だから精一杯戦おうと思った、自身を変革させなければ。
だから生まれ変わった意味で口調を変えた、丁寧な言葉の調べへと。
でも、そんな至高なる精神を内に秘めても何故か笑顔が作れなかった。まだ両親のことを引き摺っているのか、それとも他の理由か。
でも生と戦えばいつかは笑える気がする、今はそう思うしか出来なかった。
これからどんな色を生み出そうか、卒業後は何をしようか。
それを教えてくれたのはあの写真だった。
幸せを囲い半永久的に閉じ込めていつまでも笑顔を絶やさずに維持させる写真に興味を惹かれて行く。こんな幸せを囲えるカメラマンになってみたい、永遠を夢見たカメラに魅せられた。
卒業したらカメラマンになろう、幸せを囲い未来へと送る写真を残す為に。
そうして九十九先生の元へ助手として就職したんだ、先生の普段のだらしない格好と整えて余所行きの格好はギャップ差が激しくて驚愕したものだ。でも腕は一流、先生の元で色々と学んだ。早く一人前になって自分の写真集を出すんだと志して努力を続ける。
笑顔を表せないまま。
そんなある日、大家さんから借りた自転車を走らせていたらブレーキが壊れていてそのまま下り坂を落ちるようにスピードが上がる。
そしてガードレールを飛び越して下へ本当に落下した、そこで初めて知ったのは勢い良く飛び出しても人間はあまり飛ばない。
と無意味なことを考えながら宙を一回転し、人間に落ちる。無傷だったが下敷きにした人はどうなっただろうか。無事に到着した数秒後、第三者がいることに気が付く。
それが鮎原夢だった。
訳が分からずに意味不明なことを口走った気がするがよく内容を覚えていない、ただ目の前の彼女が大笑いをしていたのだ。
素敵な笑顔だな、僕が一番欲しているものを彼女は持っている、それも綺麗な笑顔、こんな風に笑えたらどんなに楽しいだろう。
彼女が羨ましいな。
そんな感情が彼女に興味を持つ切っ掛けだったのだろう、彼女と話をしてみたい、彼女を知ってみたいと願った。妙な出会いをした僕らは頻繁に会うようになるのに時間は掛からなかった。
しかし彼女は普通の女の子では無かった、会う度に髪型と性格が変わっているのだから。二重人格みたいなものかと尋ねたけど本人は違うと言う。
正直変な子だと思った。
でも一緒にいるといつも笑顔を振り撒いて灰色を打ち消し虹に染めるのだ。彼女の笑顔に僕は心を奪われていた、もっと彼女を知りたいと一緒にいることを自ら決めた、不思議な子だけど僕には無い笑顔に惹かれたのだ。
鮎原夢、彼女を知りたい。
甘えん坊な彼女。
甲斐甲斐しい彼女。
男勝りの彼女。
違う様々な彼女達の中に本当の彼女がいるのか、それともまた別の彼女がいるのか。
キス魔な彼女の本当は?
果たしてどれなのか。
週末にはデートをした、回を重ねるごとにますます彼女に引かれて行く。彼女は本当に元気な人だった、笑顔を絶やさずに話、彼女自身の魅力を振り撒いて鮮やかな虹を生むのだ。
彼女と会うことが楽しみで仕方が無い、ずっと彼女を心に描く。
三つの違う彼女だけど、その笑顔だけは違わないと信じていたから。
『違うって! オレは繊細な乙女何だぜ!』
『そうですか、僕の知る限りでは繊細な乙女はクレーンゲームの景品が取れないからと機械を蹴り飛ばさないと思いますよ?』
『ち、違う! あれは機械が悪いんだ! きっとオレの邪魔をして取れ無いようにしてんだよ!』
慌てたり、怒ったり、泣いたり、甘えて来たり、笑ったり。
喜怒哀楽に忙しい彼女を眺めながらの会話、この日のデートは何回目だったろうか。
静かな海が見渡せる展望台で彼女との談笑は楽しい。心が休まる。
『陰謀だ陰謀! オレにクレーンゲームを不利に作ってあるんだ、きっと国の陰謀だ!』
『なら夢ちゃんは特別何ですね、おめでとうございます』
『この野郎! 馬鹿にしてーー!』
『すいませんでした』
他愛ない会話で唐突に彼女が目を見開く、どうしたのだろうか?
『どうかしましたか?』
『……あ、いや、ただ……オレは嫌われて無かったんだなって』
『え?』
『だっていつもそうだっただろ? オレのことをどう思ってるか分からなかったから……怖かった』
彼女は何の話をしているのだろうか。
『夢ちゃん……?』
『十夜、やっと……笑ってくれたな』
笑ってくれた?
それって……。
僕は今笑っているのか?
一番欲した感情、憧れた人間たらしめる要素、それはひだまりのような温かさ。そっと顔に触れて疑問は確信へと変化する。
笑っている。
僕は笑っている。
『十夜って笑うと可愛いんだな、まるで子供みたいだ』
そうかも知れない、子供の頃に凍結してしまった笑顔は今動き出した。そうならば僕の笑顔は子供なのだ。ただ家族との幸せを求めて奮闘した少年の尊き笑み。
お帰り。
『ん? 何だよ十夜、オレの顔に何か付いてるか? じっと見てるけどさ』
彼女との日々が僕に笑顔を取り戻させてくれた、人間に戻してくれたのだ。
何て愛しい、直ぐ側にあったんだ、僕の笑顔は。
彼女は僕の笑顔そのもの。
それは命の恩人と何ら変わらない。
世界が七色に輝き始めていた。
もう彼女は特別な存在になっていた、もっと側に居たい。今まで以上に彼女を知りたいと願い、それを言葉に固めて解き放つ。
この日から僕らは恋人同士になった。
白原十夜たる“人間”が存在するのは鮎原夢のお陰だ。
だから……夢ちゃんが傷付いている姿に我慢が出来なかった。互いの過去を知った僕らは薄いドア越しに阻まれている。
荒沢新一、彼女の父親の脱獄騒動でトラウマが開き、恐怖が彼女を変えた。
ドアの向こうに彼女がいる、震え怯える彼女が。
「……これが僕の過去です。僕は両親に虐待されていました……だから鏡ちゃんがお祖母に虐待されていると聞いた時人事には思えなくて、助けたいと思いました」
自分を見ているような感覚になって、手を差し延べたのだ。
幸い、水面さんと鏡ちゃんが笑顔で今を生きていることに嬉しさが込み上げて来る。
笑顔を無くすのは辛いから。
「夢ちゃん、僕は貴女が居なかったら人間らしい人間になれていなかった、貴女が僕の世界を七色に染めてくれた……僕は夢ちゃんのことを心の底から好きです。汚れているとも思わない、僕らは似ている、凄惨な過去を持つ者同士ですから。
僕は夢ちゃんが好きです大好きです、夢ちゃんを脅かす敵から守ります、……いえ、守りたいんです! だから貴女の笑顔を見せてもらえませんか? 恋い焦がれた夢ちゃんの笑顔をどうか……だから部屋から出て来てもらえませんか?」
「……どうして? どうしてそんなことが言えるの? 私は今まで偽りの自分を演じて来たんだよ? それなのにどうして私のことが、私の笑顔が好きだって言い切れるの! そんなのおかしいよ……私は偽りだらけの女だから……私は……」
「…………本当にそうですか?」
もし全てが偽りだったとしたら彼女自身はその化身と化すのか。
違う、夢ちゃんはそんなものじゃない、そんな訳がない。
「もし全てが偽りだったと言うならあれも嘘になるんですか? 鏡ちゃんの為に怒りを顕わにしたあの夢ちゃんは偽りだったと言うんですか? みんなと一緒に馬鹿騒ぎをして笑ったり、泣いたり、怒ったり、その感情も偽りと言ってしまうんですか?
確かに偽りの自分を演じて来たのかもしれない、でもその時に感じたこと、顕した感情は夢ちゃん自身が感じていた本当の感情じゃないんですか? 少なくとも笑ったり怒ったり……様々な感情に偽りなんか無かったと思ってます。
それらはきっと本当の夢ちゃんの気持ちだったと思います。だから言える、僕は貴女のことが好きだと言えます! 夢ちゃんの味方であり続けると断言出来ます! 僕は……鮎原夢が好きです、大好きです……夢ちゃんを……愛しています」
僕の思いは全て伝えた、こんなにも一人の女性を愛しいと思い、助けたいと願った。
彼女がくれた笑顔、だからそれ以上の笑顔を送り返したい。
夢ちゃんの笑顔を取り返す。
反転した日に零してしまった笑顔を再び君の元に……。
話し終えて静かになってしまった、今夢ちゃんは何を感じて、何を考えているのだろう。
怖いな、この静けさは。
でももう賽は投げられた、後は待つしかない。耳鳴りが食い込んでくる、じわりじわりとあざ笑うかの如く。
それに静かに耐えて彼女の答えを待った。
どれだけの時間が流れただろうか、耳鳴りに邪魔されて暫くそれに気が付けなかったようだ。
何かが耳の奥へダイブする、初めはあやふやに聞こえ、次第に染み込みそれが何なのか徐々に理解出来た。
扉の向こうから聞こえる。
すすり泣く彼女で声が。
泣いている、夢ちゃんが声を抑えて泣いている。
それから縋るような声が扉の向こうから漏れ出す。
「……私は汚れてるよ?」
「夢ちゃんは汚れてなんかないです、貴女は綺麗ですよ」
「……私は……変な女だよ?」
「決して変じゃないですよ貴女は普通の女の子です」
解除される音が廊下に響く、扉の鍵が外れた。
迷い無く扉を開け放つ、すると目の前に夢ちゃんが立っていた、目は赤く腫れ、ボロボロと涙を落とす。
「……私、迷惑を掛けるかもしれないよ?」
「大丈夫ですよ、女の子一人くらい何てことはないです、いっぱい迷惑を掛けて下さい」
「私、私……本当はずっと十夜に側に居て欲しかった、私を抱き締めて欲しかった……でも怖くて、私を知って十夜が離れていくんじゃ無いかって……怖かった、怖かったんだよ……私、ぐすっ、私……」
もう言葉はいらない。
震える彼女を力一杯抱き締めた。その途端に声を上げて彼女が泣く。
ようやく彼女と再会を果たした、こんなにも近い距離にいる、もう離すもんか。
僕が彼女を守る、彼女を苦しめるもの全てから。
やがて鳴き声が静寂に吸収されて落ち着きを取り戻していく。
ゆっくりな速度で彼女が頭を上げる、涙でぐしゃぐしゃだったけど彼女の美しさは変わらない。
「……十夜、ありがとう。まだあいつが怖いけど、でも十夜が一緒に居てくれるだけで平気だよ……私も、十夜が好き、大好き…………酷いこと言ってごめんなさい」
「気にしてませんよ全然」
そう言うと安堵の笑みを零す、ああこれだ、僕が心奪われた笑顔だ。
そのまま自然にそれを実行する。
いつも彼女からして来た大好きだと伝える行為を始めて僕からする。
ようやく互いを理解し合って仮初めから抜け出せた。
これから本当の恋人になるんだ、今までよりも充実した二人に。
だけどまだ終わってはいなかった。
脱獄した荒沢新一の存在が彼女に迫る魔手なのだ、僕が守る、必ず。