『鮎原夢の追憶』
支配するのは恐怖だった、かじかんだ手を連想させるこの手は一向に静止とは無縁だ。強く握り締めても、胸の前で両手を縋るように包み合わせても、止まらない。
この手だけは別の意思を通わせている錯覚に悩み、苦しむ。
もうどれだけの時間が経過しただろうか、幾多夜を越えたのか。
それと比例して光を感じたのもどれ程だったか。
膝を抱え部屋の隅で怯えている私は何て醜いのだろう。
元々から醜いのだ、この体も心も何もかもが醜悪で――。
怖い、私はもうあんなことは嫌だ。
――あいつなんかに、あいつなんかに。
心細い、誰か私を抱き締めて欲しい。
――あいつなんかに、あいつなんかに。
私の思い人、私の大好きな彼に……側にいて欲しい。
でも、私は醜い。
こんな私を見ないで、見ないでよ。
「……十夜」
私はどうしたら良いの?
「……お兄ちゃん、教えてよ……」
深く、瞼を閉じて過ぎた時間を閲覧する。
――あいつなんかに、あいつなんかに……幸せを壊されたくない。
また膝を抱え瞑想に更ける。
掬い上げた映像に映るのは小さな自分だ、ならば同化し記憶を追体験しよう。
現実から逃げる為に私は過去の自分になる。
私の名前は荒沢夢、四人家族の一番末っ子だ。
家族を紹介すると、ビシッとした格好良いスーツを着こなしてお仕事に出掛けて行く人がお父さん、良く分からないけど会社では何人もの部下がいてエリートって聞かされたな。
それを教えてくれたのがお母さん、オレンジ色のエプロンを着けて毎日美味しいご飯を作ってくれる優しいお母さん。
私は世界の誰よりもお母さんが大好きだ、お母さんの笑顔が大好き、私の頭を撫でてくれるのが堪らなく好きなんだ。
そして私の家族はまだいる、二つ年上の信也お兄ちゃん。信也お兄ちゃんはいつも私を可愛がってくれる、お母さんと同じくらい大好き。
『信也、夢、ご飯が出来ましたよ、こっちにいらっしゃい』
『うん、オレお腹ペコペコなんだ! ほらご飯に行くよ夢!』
『うん! お母さん、今日のご飯は何~?』
大きな青い屋根が特長で白い清潔感溢れる外装が一段と青を引き立てる建物が私達の家、二階から駆け下りながらお母さんの場所を目指す。
リビンクに行くとテーブルには私の大好きなお母さん特製のオムライスがあった。
『わわ! 夢の大好きなオムライスだ!』
『ほら二人とも、ご飯の前には?』
『顔を洗う!』
『違うよ夢! 手を洗うんだよ!』
すっかり忘れていたので慌ただしく手を洗い席に着いた。三人で手を合わせていただきますと声を合唱させる。
『信也、学校の宿題は終わったの?』
『まだだよ、だってサッカーしたかったから』
『あ、お兄ちゃんが庭の置物にボールを当てて壊しちゃったよ?』
『わ! 夢それを言わないでっていったのに!』
『あらあら、後でお説教ね。夢、他に何か知らない?』
『えっとねぇ、お兄ちゃん公園でおともだちのスカートめくってたよ』
『まあ、信也ったらエッチなのね、そんなことしたらダメでしょ?』
『うーー、ごめんなさい』
何気ない会話は絶えない笑い声を飛ばしては食卓を漂い温かな空間が増幅する、お母さんの美味しいオムライスが更に旨さを引き立てる調味料が私達の周りに漂っていた。
こんな風景は当たり前でずっと続いて行くと幼心に思うのだった、そう信じている。
『夢、幼稚園は楽しい? 今日は何をしたのかな?』
『うんとね、ねんどで夢はウサギさんを作ったんだよ! 幼稚園の先生がね、夢のウサギさんは可愛いって言ってくれたよ!』
『そう、良かったわね褒めてもらえて、きっと夢が一生懸命に作ったから可愛いウサギさんが出来たんだよ』
『えっへへ、夢頑張ったもん!』
三人での楽しい食事、物心ついてからも変わらない。
ただ、いつからだっただろうか、四人家族なのに何故三人でしか食べないのかと疑問に思ったのは。
『……お父さんいつも遅いね』
『仕方ないだろ、お父さんはお仕事で忙しいってお母さんが言ってたじゃないか』
『うん……でもね、お友達はねお父さんもお母さんもみんなで一緒にご飯食べるって言ってたよ?』
いつもお父さんの椅子は空席でテーブルが欠けたような錯覚に違和感を覚える。
私の記憶を辿っても家族が揃って食事した記録は一切ない。
友達は一緒に食べるのに何故なのかと不思議だった。
そんな話をしてお母さんの顔が悲しそうに見えた気がした。
『夢、信也、お父さんは私達の為に頑張ってお仕事しているの、お父さんがお仕事するからご飯が食べられるのよ? だからお父さんを応援してあげようね?』
『うん、分かったよ! 夢も分かったよな?』
『うん、お母さんがそう言うなら夢はお父さんを応援する!』
頑張っているお父さんを応援しよう、私達の為に頑張っているのだから。
これをお母さんは口癖のように言っていた、少しだけ悲しそうに。
お父さんは仕事が生き甲斐で楽しいらしい、小さな私には分からないことだけど毎日真夜中に帰って来ては朝早くに会社へ。たまの休みで家にいる時も書斎で何か仕事をしていた、まともに会話したことがあっただろうか。
そんな私達は少し寂しさを感じながら暮らしていた、お兄ちゃんは小学校に入学したばかり、学校の友達と良く遊び休日は朝から夕方までサッカーにのめり込んでいた。
私はお兄ちゃんが遊んでくれなくて詰まらなかったけど、お母さんの側にいられるだけで良かったのだ。
一緒に買い物に行ったり、家事の真似ごとを温く見守ってくれたり。
いつだったかある時テレビに映ったとある映像が不思議でお母さんに訊いたことがあったな。
最初それは何をしているのか分からなかった、でも何だか見つめていると恥ずかしく思ったその映像は何なのか。
『お母さん、テレビの中の人は何をしてるの?』
男の人と女の人が自分の唇を重ね合わせている姿、何をしていて何故あんなことをするのか。
幼い私には理解出来なかった。でもお母さんが優しく諭すように話してくれた。
『夢、この人達がしているのはね、キスって言う行為なの』
『キス?』
『そうキスよ……これはね大切な人に私は貴方のことが大好きですって伝えるとっても大切な行為なの』
『ふーーん……じゃあお母さんにキスする! 夢はお母さんが大切だよ!』
そう言うとお母さんは首を横に振る、どうしてと問い掛けるとまた優しく語る。
『お母さんにキスをしたいだなんて嬉しい。でもね、今テレビでしていた口と口でするキスは夢がお母さんを大切に思う好きとはちょっと違うの……ん~何て言うのかな……。
夢がこれから男の人を好きになる日が来ると思うの、別の誰かに興味を持ってその人のことが知りたくて知りたくて堪らなくなったらそれが恋。その恋をした人を受け入れても良いと思ったらキスしても良いと思うわ。ちょっと夢にはまだ早過ぎたかしら?
でもねこれだけは覚えておいてね? 本当に大好きになった人だけにしか口と口のキスはしちゃダメだよ? むやみにいろんな人にしちゃダメ、家族以外で大切な人が出来たら……その時口と口でキスをするのよ? 大切な人にだけ許された合図なの、私は貴方が大好きですって合図。いつか夢にそんな人が出来たらしてあげなさい』
お母さんが何を話しているのかよく分からなかった、でも最後の言葉だけは頭にすんなりと入ってゆく。
本当に大切な人にだけ口と口のキスをする、大好きだって伝える為に。
『うん分かった、夢は家族以外の大切な人とだけキスする!』
『うん……でもね?』
と次の瞬間温かい感触が私を包む、お母さんがギュッと抱き締めてくれたのだ。
それから小さな私のほっぺにお母さんがキスした。何だかむず痒い感じがする。
『口以外のキスは家族にしても良いと私は思うよ? おでこでもほっぺたでも、私も夢が大好き! だから特別に教えてあげるね? こうやってギュッとしてあげるだけでも大好きって伝えられるの、これなら夢だって出来るでしょ?』
私の頭を撫でながらお母さんは笑顔でそう話す。
ギュッとされるとお母さんを感じられる、いっぱいいっぱい感じられる。
お母さんが大好き、大好きだからお返しに大きなほっぺにキスした。
それからお母さんを抱き締め返す。
『えっへへ、夢はお母さん大好き!』
『私も大好きだよ』
お母さんはすっごく良い匂いがする、黒くて腰まで伸びた髪もさらさらしていて大好き。
私もお母さんのように髪を伸ばそうかな。
『ただいまーー!』
『あ、お兄ちゃんが帰って来た!』
名残惜しかったけどお母さんから離れてお兄ちゃんのところへ向かう、教えてもらったことを実践してみたくて。
サッカーボールを携えたお兄ちゃんに力一杯正面から抱き付いた、ギュッとすることは大好きって伝えることだから。
『な、なんだよ夢、抱き付いたら歩き辛いよう、どうかしたの?』
『えっへへ、内緒!』
お母さんと二人だけの会話で得たものは何だか特別に思えて秘密にしてみた。
私とお母さんだけが知っている真実、それが何とも魅力的で嬉しかった。
『あらあら、二人は仲良しさんね?』
『う~、動きにくいよ夢~、退いてよ~』
『えっへへ、やだよーーだ!』
お兄ちゃんの次はお父さんにしてみたくなった、私達の為に頑張るお父さんに大好きだよって伝えたくて。
ある日の休日に書斎から出て来たお父さんの足に抱き付く、強く強くギュッと気持ちを伝える。
きっとお母さんと同じように笑ってくれると信じて顔を見上げた。
『どうかしたのか夢?』
それはまるで道端に落ちている小石を見るような無機質な顔。
血の通ってない人形を思わせる喜怒哀楽を忘れた顔。
どうしてだろう、お父さんが怖く見えるよ。
『……あ、あのねお父さん、夢この前ね……』
『おっといかん、ファイルの作成をするのを忘れていた、明日会議で使うから忘れてはならんな。ああそれから先日の例の件で先方に電話をしないとな……ん? まだ何かあるのか夢? お父さんは忙しいからお母さんに遊んで貰いなさい』
肩に付いた埃を落とすように私を引き剥がしまた書斎へ籠ってしまう。私はただお母さんが教えてくれた大好きって合図を送ってだけなのに。
お父さん、どうして分からないの?
『あら、夢どうかしたの?』
『お母さん……』
書斎の前で立ち尽くす私を見つけたお母さんが声を掛けてくる、不安なこの気持ちをぶちまけた。
『あのね、お父さんにね、ギュッってしたの。でもお父さん笑ってくれなかったよ? 夢のこと……嫌いなのかな?』
『……そ、そんなことないわよ夢、お父さんはちょっと今お仕事が忙しくて大変だから分からなかったのよ、大丈夫、お父さんだって夢のこと大好きだからね』
『うん、分かった……じゃあお父さんはいつお仕事忙しく無くなるの?』
このセリフに困った顔で言葉が引っ掛かってしまうお母さんはどう答えたら良いのか分からないみたいだった。
『……きっとその内に忙しく無くなるのわよ……きっと』
自分に言い聞かせるように呟く。
その夜、私達が寝静まった頃にお父さんとお母さんが何かを話し合っていたらしい、私はトイレに起きてリビンクの横を通り掛かった時にそれが飛び込んで来て目が覚める。
何の話をしているのか興味に背中を押されてそっと隠れながら覗く。
『……新一さん、もう少し子供達に構って欲しいんです、忙しいのは分かってはいますけど……』
『またその話か桜、お前に家のことは任せている筈だぞ? それには子供も入っている……今は大事なプロジェクトを抱えている、そんなことに構ってはいられん』
『そんなこと? そんなことって……あんまりな言い方です! 信也も夢も新一さんの子供ですよ! 私達の大切な子供達なんですよ! それをそんなことだなんて……』
『一々そんなことくらいで怒るな、大体誰のおかげで飯が食べられると思っているんだ。この立派な家もそうだ、あのデカいテレビだって、お前の洋服だってブランド物だぞ? 信也や夢だってこれから良い中学、高校、大学に進学だってさせるんだ! それが出来るのは誰のおかげなんだ!』
怒鳴るお父さんが怖かった、吐き出した激しい言葉はお母さんを萎縮させる。
私は何か見てはいけないものを見ているような感覚に陥っていたが目が離せなかった。
『……何ですかそれ、確かに新一さんのお陰で何不自由無く暮らして行けます、でも私はいつ高級なブランド物を欲しがりましたか? 一言だって言ってません…………新一さんは変わってしまいましたね、初めて会ったあの頃は新米の社会人で初々しくて……人の気持ちがちゃんと分かっていました』
『おれが気持ちを理解出来ない人間だと言いたいのか? おれはお前達の為に頑張って来たんだぞ? その結果がこの家であり車、それに……』
『そんな形だけで固めた勲章に価値なんて無いですよ……哀れに見えます。本当に大切なのは家族との絆何ですよ! 今日夢が何て言ったのか知ってますか! お父さんは自分を嫌いなのかって悲しそうに言ってたんですよ! まだ小さな夢にそんな悲しいことを言わせたんですよ!』
『っ! …………夢を嫌いな訳無いだろ』
視線を逸らしたお父さんにお母さんの言葉が追撃する。
『何故目を逸らすんですか、逸らす必要は無いでしょう? 夢や信也や……私を愛して無いんですか?』
『……愛しているに決まってる…………もう良い、これ以上話しても時間の無駄だ。明日は早い、もう寝ることにする』
『時間の無駄!? 逃げるんですか! 私は信也と夢、それに新一さんだって愛しています、なのに時間の無駄だ何て…………酷いですよ』
お母さんが泣いてる、お母さんが私の大好きなお母さんが。
『……はぁ、もうお前も休め、明日に支障を来たす』
『……明日に支障ですか、そんなに会社が大事ですか家族よりも…………新一さんの言う家族って……遊びですよね、ごっこ遊び……家族ごっこして周囲の目を気にしているだけなんでしょ!』
まるでそれは雷光の如き速さで、まるでそれは爆撃の如き轟音で、まるでそれは映画の如き展開で。
イスをなぎ倒し、テーブルをずらし、落ちて来る食器が雨となる。
乾いた音だった。
食器の破片を浴びて蹲るお母さん、突き出した手が空に漂うお父さん。
あれ、あれあれ、どうして?
お父さんがお母さんを叩いた、大きな手でほっぺたをびんたしたよ?
そんなことしたらすっごく痛いのに、お母さんがすっごく痛いのに。
『ううっ……痛……』
『ごっこ遊びだと!? 今その口が言ったのか、お前のその口から言ったのか! ふざけるな! おれが今までどんな苦労をして来たのかお前は分かっているだろう! 良い大学を出なかったおれが会社でどんな苦労をして来たか! 見下されても這い上がって天辺を目指したんだ! ずっと一緒に寄り添って来たお前なら知っているだろうが! おれはお前を……桜、お前を愛している、心底な! それだけは何があっても変わらないのに……なのに何故お前は分からないんだ! お前だけが居てくれれば良い、本当は子供何て……』
『止めてよ!』
私は駆け出した、大好きなお母さんを守る為に戦場へ。
『お母さんを苛めちゃダメーー! 叩いたら痛いよ! すっごく痛いんだよ! 仲良くしなきゃダメぇーー!』
『なっ! ゆ、夢! ううっ……は、話を聞いていたの?』
食器の欠片から這い出て来たお母さんの額から異端なる赤が生まれていた。
あっと言う間に額から頬へ線を引いて床や服をその色で染めて行く、ポタポタと雫が落ちる度に私は怖くなる。
お母さんが怪我をした、あんなにいっぱい血を流している、嫌だ、嫌だ、お母さんが死んじゃうよ。
お母さんが居なくなったら嫌だ!
『……くっ、夢! お前はまだ寝ていなかったのか! さっさと寝ろ! …………桜、おれは寝る……叩いて……悪かった』
そう言い残して部屋を去るお父さんが凄く怖くて縮こまってしまい目頭が熱くなるのを感じて震えだけ。
どうしてこんなことになっているの? どうして?
『……夢』
不意に飛び込むお母さんの声に自分を取り戻すことが出来た、声を辿ると未だに赤く染まるお母さんが頭を手で押さえて痛そうだ。
お母さん、死んじゃ嫌だ、嫌だ嫌だ! 嫌だよ! 駆け寄ろうとしたが手で制されてしまう。
『待って夢、こっちに来たら足怪我しちゃうから……』
『うぇ……グスッ、グスッ……お母さん、死なないで、死んだら嫌だよう……グスッ』
『ごめんね夢、怖い思いをさせて……大丈夫、私は死なないから、だから泣かないで? 私は夢が笑った顔が好きだな、ほらお母さんに笑った顔を見せて? そうしたらもう大丈夫だから、……ね? 笑って夢……』
笑ったら大丈夫? 笑ったらお母さんは助かるの?
だったら笑う、頑張って笑う。涙でグシャグシャの顔を無理矢理笑顔へと変えた、お母さんが助かるなら笑うよ。
『とっても可愛いよ、やっぱり夢は笑顔が一番可愛いわ、さ、もう夜も遅いから寝ましょうね』
ゆっくりと立ち上がり欠片を避け、エプロンで赤を拭って私の側にやって来る。
でもせっかくの綺麗なオレンジ色をしたエプロンが赤で台無しになった、好きだったのになお母さんのエプロン。
『お、お母さん!』
信也お兄ちゃんがリビンクへ入って来た、あんなに大きな音がしたんだ、起きて来てもおかしくない。
心配そうに駆け寄って来て額を覗く。拭ったのにも関わらずまた赤が落ちて床を汚す。
『何があったの! 痛いの!? 病院に行かなきゃ!』
『大丈夫よ信也、頭ってね小さな傷でもいっぱい血が出ちゃうからこれくらいヘッチャラよ。夢も信也もお母さんを心配してくれて……ありがとう。こんな私を心配してくれてありがとう』
お母さんが涙ぐんで声を震わせてしまう、まだ痛いの?
『お母さん、まだ痛いの? お医者さんに行く?』
『私は大丈夫よ夢、大丈夫、大丈夫……さあ寝ましょうね?』
この晩から急に世界が反転したように幸せだった家族はゆっくりと落下を始めたような気がする。
それからお父さんとお母さんが夜遅くに言い争いを始めるようになってしまった。
私は怖かった、怒鳴り合う声が怖くて怖くて堪らない。
喧嘩がある度に私はそこへ割は行ってお母さんを守ろうとしたけど必ずお父さんに怒られる。
お父さんの顔が鬼みたいに見えて震えが止まらなかった、どうして喧嘩するの? 喧嘩はいけないことだって言ってたのに、それなのにどうして喧嘩をするの?
『私……もう新一さんが信じられない』
『信じられないだと? おれはお前のことを愛しているのに……なのに……』
『……もう喧嘩するのも疲れてしまいました…………子供達を連れて実家に帰ります』
『な……何を言っているんだ、おい桜……』
『私に触らないで下さい、もう新一さんへの思いは随分前から……冷めてます、取りあえず離れて暮らしましょう、しばらく時間を下さい……それからは話し合いをしましょう』
『話し合い? な、何の……話し合いだ』
一呼吸置いて伝えるべき言葉を吐いた。
『離婚の話し合いです』
『り、離婚だと……そ、そんな馬鹿な……おれは認めないぞ、そんなの認めない! 何が不満なんだ、ブランドの服や靴、化粧品だって買い与えた、何が足りないんだ? 何でも買ってやる、だから……』
『その考えを変える気も無いんですか? 分からないんですか? その思考そのものがおかしいってことに……私は温かい家庭が欲しかっただけなのに……どうして新一さんは分かってくれないんですか!』
この時の私はまだ信じていた、家族はこれから先ずっとずっと一緒に居て、お父さんのお仕事が大変じゃ無くなればみんなでご飯を食べられると。
何の疑いも無かった、だけど離婚の話が持ち上がった翌日にお母さんがお兄ちゃんと私に複雑そうな思いで話し掛けて来た。
『信也、夢、今からお婆ちゃんのお家に行くから支度をしましょうね?』
『お母さんまだ夏じゃないよ? いつもお婆ちゃんのお家は夏に行ってたよ?』
『うん、夢が不思議に思うのは分かるけど……今回は特別よ? うんと長くいることになると思うからお母さんも荷物まとめるの手伝うね?』
『え~、オレ今日友達と遊ぶ約束してたのに~』
どうしていきなりお婆ちゃんのお家に行くことになったのだろう、いつもなら何日か前に話すのに。
訳も分からないまま荷物をまとめることになった、大きな旅行鞄に服やお気に入りのくまのぬいぐるみを綺麗に入れて行くお母さんは何だか急いでいるように見えた。
『あ、くまさん夢が抱っこしていくの!』
『はい……このくまさん夢は好きね?』
『うん! お母さんがプレゼントしてくれたから! くまさんもお母さんが好きだって!』
『そう、くまさんにありがとうって伝えてね?』
元気いっぱいに返事をするとお母さんが笑ってくれた、いつもお父さんと喧嘩してたから悲しい顔ばかりだったから嬉しい。
お母さんが笑顔なら私は元気になれる、大好きだから、お母さんが大好きだから……。
『何をしている?』
太陽を遮る雲のようにその声がお母さんの笑顔を食べてしまう。振り替えると私の部屋の入口にお父さんが立っていた、怖い顔で。
『新一さん! ど、どうして……さっき出勤して行ったのに』
『資料を忘れて取り帰りに来た……そんなことはどうでもいい、おれは何をしていると訊いている』
『…………出て行くんです。信矢と夢を連れて』
鼓膜が切り裂かれたかのように轟音が、入口付近にあった私のおもちゃ箱が蹴り飛ばされ中身が散乱する。お絵描きセットにおままごとの皿、可愛らしい動物のぬいぐるみが床を独占して行く。
お父さんがおもちゃ箱を蹴った、思いっ切り遠慮なしに八つ当たる。
『ふざけるなぁ! 桜、お前は何様だ! おれが養ってやってるのにその態度はなんだ! 今まで誰の金で飯を食って来たんだ! 言ってみろ! 出て行くだと? 甘えるのも大概にしろ!』
『確かに自分勝手ですよ私は……でも新一さんだって勝手にして来たじゃないですか! 仕事仕事仕事仕事! 大切なのは分かります、でも家族をないがしろにしてまでやらなければならないんですか!』
まただ、お母さんが悲しそうに染まって行く、さっきまで笑ってたのに。
私が大好きなお母さんが笑ってたのに。
『とにかく私は出て行きます! 押し付けがましい貴方には人の気持ちが分からないんですよ!』
『待て! 話は終わっていない!』
大急ぎで荷物をまとめ振り切るように出て行こうとしたお母さんの腕をお父さんが掴んだ。
『や! 手を離して下さい! 私に触らないで下さい! 気持ち悪い!』
『な、何だと……お前亭主に向かって気持ち悪いだと! おれはお前や子供達の為に仕事を……』
『自分の為でしょう!? 私や子供達なんて居ても居なくても良いって思っているんでしょ! 私達は貴方に付いているオマケじゃありません!』
『ち、違う! おれは桜、お前だけを愛している! お前だけはずっと思いながら仕事して来たんだ、本当だ、子供何か最初からいらなかった、こんなガキなんか……』
鋭き一撃が乾いた音を奏でた、赤く腫れるお父さんのほっぺに傷跡。
『今何て言いましたか? 貴方の口は何て言いましたか!』
崩れ落ちる雫がお母さんの頬に線を走らせて床に消えて行く、悲しみと怒りで染まるお母さんが思いのたけをぶつける。
『私達の子供達に……私の子供達に何て言ったんです! 貴方はどんなに思っていようと親何ですよ、どんなに綺麗事を並べてもそれは真実であって変えられない! 親が子にいらないだなんて何故そんな世界で一番残酷な台詞を言えるんですか! そればけは絶対に言っちゃダメ何ですよ!
信矢も夢も私は望んで生んだんです! いらない何て絶対に私は言わない! 言いたくも無い! 貴方は最低です、私はもう貴方何か愛していないしまだ夫婦の肩書きがあるだけでも我慢ならない! さあ手を離して下さい、触られているだけでも悍ましい。私を離しなさい!』
完全なる拒絶が胸を容赦無く貫きお父さんが目を見開き信じられないと言わんばかり顔に驚愕を浮かせた。
それから奥歯を噛み締め、そのまま動きを止めうつむく。
私はただ見ているしか出来ない、あまりの迫力に何をしたら良いのか放心してしまう。
それは廊下の向こうにいるお兄ちゃんもそうだったと思う、膠着状態は家の中を冷やして凍らせてしまったかのようだった。
そんな状態を打破したのはお父さんだ。
『桜……もうおれを…………愛して無い、のか? 本当に本当に……そうなのか?』
『……はい、偽り無く私は貴方を愛して無いです、もう貴方が何を考えているのか分からないですから……』
『そう、か。もうおれを愛して無いのか…………じゃあ』
お母さんを掴むお父さんの手に血管が浮き出る程の力が込められる。
『痛! は、離して下さ……ううっ』
あまりの力に苦痛を漏らすお母さんの顔が歪む、一向に下を向いたままのお父さんが顔を上げる。
『愛して無いなら……また作らなきゃな』
何を思ったのか突如お父さんがお母さんの腕を無理矢理引っ張って何処かへと連れて行く、力任せに。抵抗するがやはり男の力に勝てない。
『は、離して……下さい! 嫌! 痛い!』
『無いなら作れば良い、また一からお前と……』
『お、お母さん!』
状況は今どうなっているのか分からないけど黙って行かせてはダメだと思った。お兄ちゃんと一緒にお母さん達を追いかける。
お父さんは乱暴に自分の書斎へお母さんを連れて入室、必死に抵抗するお母さんだったけど敢え無く努力は無駄だった。
中に連れ込まれて扉が閉じた、鍵が掛かる音が幽閉を教えた。
扉の向こうから二人の話し声が外に漏れ出す。
『離して下さい! 痛い、な、何をするんです!』
『作るのさ、お前との繋がりを……お前が無くしてしまった愛を取り戻すのさ、そうしたらまたおれ達は元に戻る……』
『な、何を言って……むぐっ! んんっ……ん……んん! ……あ、嫌あ!』
お兄ちゃんと私はただ立ち尽くすしか出来ない、部屋内部から何かが破れる音が響く。
布が裂ける音、ビリビリって音が不安をもたらす。
『や! 嫌あ! や、止めて下さい! あ……い……や……痛い……嫌ああああ!』
『おれはお前が何処をどうしたらどうなるか熟知している、ほら、お前はここが堪らないんだったな?』
『はぐっ、ぐぅ……止めて、私に触らないで……ううっ、う……』
苦痛なる声がお母さんの危機だと私は扉を思い切り叩く、お兄ちゃんも叩く。バンバンと鳴らせながら叫ぶ。
『お母さん! お母さん!』
『汚らわしい! 触らないで! や、やめて、嫌ああああ!』
何度も何度も扉を叩く、手が赤くなろうとも、痛くなろうとも。
でも閉ざされた部屋は開いてはくれない。
『あははは、どうだ、これでおれ達は元の関係だ! 桜、お前も嬉しいだろう?』
『ううっ……こんなことされたって私は……ぐっ……嫌! 嫌ああああああああああ!』
『お母さん!』
悲鳴が家中を走り回って苦しみを充満させ、お兄ちゃんと私を地獄に叩き落とす。お母さんが苦しんでいるのに叫ぶしか出来ない、扉を叩くしか出来ない。
そんな無力な行為を始めてどれ程時間が経っただろうか、呻くお母さんの声と笑うお父さんの声が永遠に続くみたいに再生されている。
それが終わった時には中から泣き声が染み出ていた、お母さんが泣いている、お母さんが。
『……ふぅ、初めて会社を休んでしまったな、まあ良いお前と楽しむことが出来ただけで良しとしよう……桜、腹が減った、久し振りに家族でご飯を食べようか、何か食べたいものは無いか? ん? どうなんだ?』
扉を擦り抜けて澄んだ声が響く、けど優しい声なのに怖い気がするのは何で?
お母さんはどうなったの? まだすすり泣く声が聞こえているのに。
『ほら答えないか、……答えないのか? …………答えろよ、答えろって言っているのが聞こえないのかぁ!』
『ぎゃ! や、痛い、止めて……下さい! 蹴らないで、蹴らないで……』
『おれが返事を求めているのに何故黙っている、おれは亭主何だぞ! おれを馬鹿にしているのか! ええ!』
『あぅ! がっ、ぐあ! す、すみません、すみません……ああ! すみません! すみません!』
何度も何度も鈍い音がする度に悲鳴が、さっきまでと質の違う苦痛が。
もうやめて、お母さんを苦しめないでよ。
『はぁ、はぁ、はぁ……桜、腹が減った、何か食べたいものは無いか?』
『ううっ……うっ……わ、私が……な、何かを作ります、作りますから……』
『そうか、なら買い物に行かないとな? 信也や夢はお腹減っているだろう、昼だし丁度良い。行って来てくれるかな、おれは会社に電話しなければならないからな、さて何て言い訳をしようかな……ほら何をしているんだ早く行ってきなさい……ただし子供達は連れて行くな。連れて行ってそのまま出て行ったら洒落にならないからな。お前は母親の鏡みたいな奴だからまさか……二人を置いて何処にも行かないよな?』
『…………は、はい、何処にも行きません』
もう何年も閉ざされていたかのような扉が音を奏でて開く、廊下に座り込んでいた私とお兄ちゃんは立ち上がってそれを見守った。
ようやく再会を果たしたお母さんはボロボロだった、服は破かれて殆ど裸に近くて、その裸は紫や赤に変色して痣が所々に。
『お、お母さん……』
『……信也、夢、リビンクに行ってテレビでも見ててね? ごめんね、お腹減ったよね?』
『大丈夫お母さん! きゅ、救急車呼んだ方が良い?』
『……大丈夫よ信也、私は大丈夫……ほらリビンクに行ってなさい』
痛むか所を手で押さえながらお母さんは自分の部屋へ、あまりの変わり様に私は言葉を失ってしまう。
書斎の中ではお父さんが電話をしている姿が見えたが何故か嬉しそうに見えた。
お母さんに痛い思いをさせた張本人が何で笑っているの?
『いやあ参ったよ娘が酷い熱を出してしまってね、四十度以上はあってびっくりしたよ……ああ、済まないね連絡が遅れてしまって、で、あの件は…………ああ上手くいったかね、それは何よりだ、ははははは!』
どうして笑ってるの?
どうしてお母さんを苛めたの?
どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうして?
『……何だその目は』
電話を終えたお父さんが私を見詰めながらそう言葉を吐いた、私は怒りをそのまま顔に出していたのだ。
お母さんを苛めたお父さんが許せなくて。
『父親を何て目で見ているんだお前は!』
『お母さんに謝って! お母さん痛い痛いしてた! お母さん傷いっぱいあった! なのにお父さん謝らない! 謝って! お母さんに謝って!』
『このガキ……おれに説教をする気か? ふざけるな、おれは部下を何人も持つ男だ、こんな年端もいかないガキに……ふざけやがって』
ギロリと目の玉を私に向け、近付いて来る。
そのまま私は胸倉を掴まれ持ち上げられ宙吊りに。
浮遊する体はとある部分に意識を集中させる、胸倉を掴まれて首が絞まる。
息苦しくて足をバタバタともがかせるしか出来ない。
『あぅぅ……うぅ……』
『夢、貴様の父親だぞおれは! なのに何だその態度は! おれをこけにしやがって……お仕置が必要みたいだなぁ、前歯折れても自業自得だからな!』
微かに見えたのは片方の拳を後ろに引いて今にも私に殴ろうとしている姿だった。
『お、お父さん止めてよ! 夢を離してよ! 止めてよお願い!』
『信也、貴様もおれに意見か? 兄妹揃って悪い子だ!』
『あぐぅ!』
大きなお父さんの足がお兄ちゃんを蹴り飛ばす、一瞬宙に浮いて壁に激突する。
あまりの衝撃に胃の中身を廊下にぶちまけた。
『お兄……ちゃん……』
『信也ぁ、お前が悪い子だからそんな目に遭うんだ、良い子だったら苦しまなくて済むのにな、なあそうだろ夢? お前はもっともっと悪い子何だからお兄ちゃんよりも酷い目に遭わなきゃな? そうしないと数式が成り立たないもんなぁ?』
『あぅ……うぅ……お、おかあ……さんに……あやまっ……てぇ、おかあ……さんにあやま……』
『このガキぃいいい! まだ分からないのか! ああ!』
お母さんに謝って欲しかった、悪いことをしたら謝らなきゃいけないってお母さんが言ってたんだ。お母さんにいっぱい怪我をさせたのはお父さんだ、だから謝らなきゃダメなんだ。
お母さん泣いてた、嫌だってずっと言ってた、お父さんは謝らなきゃいけないんだ。
苦しいよ、それにお父さんの顔が怖いよ。
『止めて下さい!』
と、そんな叫び声が聞こえるのと同時に視界は真横からいつも見ている大好きな黒くて長い髪が生えるのを目撃する。
振りかざした拳に抱き付くお母さんが見えた、服が中途半端に乱れている姿は着替えの途中だったのだろう。
それだけ心配して駆け付けてくれたんだ。
『お願いします、子供達にだけは手を出さないで下さい! 私はどうなっても構いませんから、だからもうこれ以上信也と夢を傷付けないで下さい! お願いします!』
『離れろ桜! これは教育何だよ、制裁をしているだけだ、だから退け、退かないか!』
『お願いですからどうか殴らないで下さい! 貴方が思い切り殴ってしまったら夢が大怪我してしまいます! お願いします! 夢を殴らないでぇ!』
口論の末、私は解放され廊下に落とされた。鈍い音を木霊させてお尻から激痛が。
プツリと何かが切れたように涙が決壊し大声で泣く。今頃になって恐怖が私をあざ笑う。
『……今回だけだぞ桜、もうこんなことが無いようにちゃんと躾を徹底しろ』
『はい、ありがとうございます、ありがとうございます』
どうしてこんなに変わってしまったんだろう、世界が百八十度半回転してしまったかのような気分だ。
私はちゃんと教えられた通りにしただけなのに、悪いことをしたら謝るって教えられたのに。
私もお兄ちゃんもそしてお母さんもボロボロだった、体も心も。
この体験で得たものは恐怖、お父さんへの恐怖を植え付けられてそれが根付いたのだ。
今日を境に楽しかった日常は反転する。
家族全員にお父さんは恐怖を植え付け暴力的になってしまった、お母さんは殴られるのが怖くて逆らえなくなってしまう。
私やお兄ちゃんもそれは同じでお父さんを見掛けただけで震えてしまう。
一度だけ三人で家を出たことがある、行き先はお婆ちゃんのお家では無く小さなアパートを借りてひっそりと暮らした。
もしお婆ちゃんのお家を選んでいたら直ぐに行き先がバレてしまうしお婆ちゃんに迷惑が掛かるとお母さんが言う。
アパートで三人、新たな生活を頑張ろうとしたが直ぐに見付かってしまったのだ。
お父さんが探偵に依頼し探し当て連れ戻された。
戻された日は地獄だった、全身に痣が出来る程殴られ蹴られた、お母さんもお兄ちゃんも私も。
それからは逃げ出そうと言う気持ちさえお父さんに奪われて根付いたものが更に成長してゆく。
『はははは、やっとプロジェクトが成功してね、これからは多少だが家族で一緒に晩ご飯を食べられるようになったよ……嬉しいだろう桜? ようやく家族らしい食事が出来て?』
『……は、はい、嬉しいです』
『そうだろそうだろ、ははははは! 信也、夢、お父さんと一緒で嬉しいよな?』
声を掛けられて体がビクッと電気を流されたように反応する、その動力は恐怖。
目を合わせないように答えるのが精一杯だった。
『はい、嬉しいです』
『信也は素直な良い子だな、……夢はどうだ? ん?』
『ゆ、夢も……嬉しい』
『ん~? “嬉しい”?』
蛇を彷彿させる魔手が私に噛み付いて髪の毛を思い切り引っ張られ激痛が。お父さんが私の髪の毛を力任せに引く。
『ああ! い、痛い! 痛いよ! 痛い!』
『嬉しい、じゃあ無いだろうが、ああ? 嬉しい“です”だろ? 敬語も使えないのかお前は……それに一人称が自分の名前ってのも苛つく……今から自分のことを『私』と呼ぶんだぞ? 分かったかぁ!』
『や、止めて下さい新一さん! 夢が痛がってますから、だから……』
『桜、またお前はおれに逆らう気か!』
『ち、違います、違いますから……ゆ、夢には私が後で言って聞かせますから、だからお願いします、夢を離してやって下さい、お願いします』
蒼白になりながら訴えたお母さんは震えている、お兄ちゃんもそうだ、怖くて怖くて震えるしか出来ない。
程無くして痛みが和らぎ解放された、怖くて痛くてまた泣く。
私は泣くしか出来ない。
『ふん、ちゃんと言って聞かせろよ桜……それから今おれに盾突いた罰をしないとな? 今晩の営みは……ちょっと凄いぞ? ははははは! 大丈夫、この前の様に失神するまでは遊ばないから……』
青ざめて行くお母さん、毎晩苦痛に嘆く声が聞こえて来る、お母さんの声だ。何をされているのかは知らないけど分かるのはそれは地獄だってことだけ。
そんな悲惨な日常を過ごしていたある休日、お父さんは仕事で夜まで帰ってこない為気が楽だった。
細やかな幸せな日にお母さんがお兄ちゃんと私を呼んである提案をしてくれた。
『信也、夢、今日は三人で何処かへ出掛けようか?』
『……お母さん、えっと……大丈夫なの?』
お兄ちゃんが心配そうに伺う、何故ならお父さんが出勤する直前に何が気に入らなかったのかお母さんを痛め付けていたから。
最近は今までよりも更に酷くなった、意味不明な理由を突き付けられては殴るようになってしまっていたのだ。
私も目が合っただけで何を睨んでいると叩かれたりもした。
お母さんは私達の前では笑っているけど、服の下は傷だらけだ。さっきだって蹴られてたのに。
『お母さん大丈夫?』
『大丈夫よ、私は大丈夫……たまにはストレス発散しないといけないからね、だから何処かに行きましょうか』
『……夢は……あっ、わ、私は……』
『大丈夫よ夢、今はお父さんはいないから自分の喋りやすい風に話せば良いわよ? お母さんだって夢みたいに小さい頃は自分のことを名前で言ってたからね……段々と直して行けば良い、今は大丈夫だよ?』
どんなに酷い仕打ちに合ったとしても必ず私達の前では笑顔でいてくれる。
大好きな笑顔だけど、ほんの少し曇ったような笑顔だけど、それでも笑ってくれるお母さんが好きだった。
『じゃあ夢……動物園に行きたい! まだ行ったこと無いもん!』
『あら、夢はまだ行ってなかったかしら? 信也は行ったよね?』
『うん! オレおっきな像を見たんだぞ夢! こーーんなにおっきかったんだからな!』
『良いな、良いな! 夢も像さん見たい見たい!』
そう言ったらお母さんがまた笑顔で……。
『じゃあ動物園に行こっか!』
『うん! 賛成!』
『わーーい! 動物園だ! 像さんに会える!』
今日だけは明るくてとても楽しい一日になる、お兄ちゃんが笑ってる、お母さんも笑ってる、当然私も。
慌ただしく出掛ける準備を始めて三人で手を繋いで動物園を目指す。
『夢、像さんの他に何か見たい動物さんはいるかな? それから信也は何が見たい?』
『えっとね、えっとね……キリンさんでしょ? それからパンダさんにカバさん!』
『オレはライオン! あとはトラやクマが見たい!』
『やっぱり信也は男の子ね、ライオンってお母さんちょっと怖いな~、夢はおとなしくて優しそうな動物さんばかりで良いわね』
他愛ない話はいつまでも途切れる事は無く動物園までやって来た。
初めてだから何だかドキドキする、お母さんとお兄ちゃんが一緒だから余計にドキドキしてワクワクするこの瞬間が堪らなく嬉しい。
道路を挟んだ向こう側に動物園が見えている、信号待ちで早く青にならないかとそわそわする。
早く動物さんに会いたいな、きっとそれは楽しい時間になる筈だ。
今日くらい楽しくても良いよね?
だってお母さんがあんなに元気そうにしているんだ、お父さんに苛められない今くらい良いよね?
動物さんを見て回っておおはしゃぎして笑って三人だけの楽しい楽しい時間をいっぱい楽しむんだ。
だから神様、これは一体どう言うことなの?
どうして仲良く手を繋いでたのにお母さんの手が離れたの?
どうして耳に焦がすような異音で世間を騒がすの?
どうしてお母さんが私とお兄ちゃんを優しい手で突き飛ばすの?
どうしてお母さんがいきなり目の前から消えちゃうの?
どうして……?
どうしてお母さんがお空を飛んでいるの?
お母さん言ってたんだよ、人間は自分の力じゃ飛べないって。
なのに飛んだよ?
それが、お母さんといた最後の時間だった。
信号待ちをしていた私達に襲いかかったのは大きなトラックだ、耳が痛くなる程の爆音と共に私達に向かって突っ込んだのだ。完全な居眠り運転、巨体な鉄の塊がモンスターの如く牙を向く。
咄嗟にお母さんが私達を突き飛ばしたおかげで命は守られた。
だけどお母さんはトラックに飛ばされて飛んで行く、凄まじい速さで居なくなる。
お母さん、お母さん……。
それからは記憶が曖昧だ、訳が分からなくて呆然として、気が付けばお母さんの側に走っていて、誰か知らないおじさんに止められて、目を塞がれた。
それは優しさだったのだろう、変わり果ててしまった母親を子供達に見せないようにと。
見知らずの他人がくれた細やかな優しさ。
でもおじさんが邪魔で泣いて、もがいて、優しさに気が付かずに暴れるしか出来ない。一刻も早くお母さんの側に行きたくて。お兄ちゃんも知らない人に止められていたな、同じ理由だろうか?
記憶にノイズが走る、電撃に似た効果音を体感すると場面が切り替わり目の前に写真があった、それは遺影。
黒い服を着た人で溢れている、そんな中にお母さんの遺影を持っているお兄ちゃんは泣いていた、鼻水を垂らしながら。
お父さんも泣いている、他の人も泣いている。
お母さんは箱の中、見たことも無いような車に乗せられてる風景は私に火を点けた。
『どうしてお母さんを連れて行っちゃうの? 夢お母さんと離れたくないよ、お母さんにご本読んで貰う約束してたんだよ? 動物園もまだ行ってないよ? 夢良い子になるから……良い子になるから連れてかないでよ……お母さん連れてっちゃ嫌だよう!』
悲痛なる叫びは虚しく空に食われて消える、車は出発して行く。
追い掛けようとすると誰かに抱き締められてそれが出来なくなった。
『ううっ……お姉ちゃん……ううっ……』
お母さんの妹、椿おばちゃんが私を抱き締めて泣いていた。
椿おばちゃんが必死に私を抱き締めている、止めど無く地に吸われて行く雫は雨みたいに落ちて消える。
もがく私の側にお婆ちゃんがハンカチで涙を拭いて震えている姿があった。
無情にもお母さんを乗せた車は走り出して小さくなって行くのだ、私の嘆きを無視して。嫌だ、嫌だ、お母さんを連れて行かないで。
『お母さん!』
また記憶にノイズ、場面は私の家だ。目の前にお母さんの遺影が飾られていて傍らに線香の火と煙が。お兄ちゃんが泣いてる、お父さんも。
『桜ぁ……何でだ、何でおれを置いて行くんだぁ……桜ぁ……桜……ぐぅうううう』
どうしてだろう、お母さんはまだ生きているような気がする。帰って来ると信じているのに、お兄ちゃんもお父さんも椿おばちゃんもお婆ちゃんも泣いていた……。
そう思ったら自然と悲しみの結晶が頬を濡らして私を突き落とす。幼心に刻まれたのかもしれない、お母さんはもう戻って来ないって。
ようやく私も泣いた、三人で皮肉にも仲良く泣きじゃくった。
何日も何日も悲しみは続く、夜ベッドに入るといつもご本を読んでくれたのに。朝起きるとリズミカルな包丁とまな板の音楽を奏でる後ろ姿はもう虚無としか言えない。
そんな場面に出くわすと必ず泣いてしまう、お兄ちゃんもそうだ。お母さんが大好きだったから、世界の誰よりも大好きだったから余計に悲しい。
そんな日常にある変化が起きた、いつも仕事に行っていたお父さんが仕事に行かなくなってしまったのだ。
お母さんが死んで放心状態だったけど何日かして仕事に行ってたのに、数日前から行かなくなっていた。
それに、自分の書斎に籠るようになって顔を合わせなくもなった、お母さんを苛めていた頃は嫌でもたまに会っていたのに今では殆ど顔を見て無い。
その間お婆ちゃんがご飯を作りに来てくれたりしていたんだけど、お父さんが全く働かなくなってお婆ちゃんは心配していたらしい。
こんな話を切り出す。
『信也、夢、しばらくお婆ちゃんのお家で暮らさない? そうしないとご飯とか食べられないからね……』
『夢はやだ、お母さんと一緒にいたお家だもん、離れたくない』
『オレもやだよ……』
『ずっとって訳じゃないのよ? お父さんが元気になるまでだから、ね? 少しの間だけだからお婆ちゃんのお家に行きましょう?』
数分に及び説得をされて渋々お婆ちゃんのお家に行くことになったけど今日はここで寝たいって言ったらお婆ちゃんが了承してくれた。
しばらく帰って来れないから今日はお兄ちゃんと一緒にお母さんのベッドで眠りにつく、お母さんの匂いがしてまるで抱き締められているような感覚が寂しさを紛らわすのだった。
明日お婆ちゃんが迎えに来る、ちょっと遅くなるって言ってたな。でもやっぱりお母さんといたお家を少しの間だけだけど離れるのは寂しいよ。
優しい匂いに包まれながらお兄ちゃんと寄り添って眠る。
久し振りに安らかな眠りを出来と思う、お母さんの匂いがくれたプレゼントなのかもしれない。
目が覚めるとまだ外は少し薄暗い、太陽が寝坊しているのかな? 早朝、尿意にトイレへと向かい事を済まして部屋に戻る途中お父さんの書斎に差し掛かって気が付いたことがある。
少しだけ扉が開いている、好奇心に手を引かれて中を覗き込むと、お父さんが背をこちらに向けたまま床に座っている姿があった。
何か手を動かしているようだけど何をしているのかここからじゃ分からない。でも、お父さんの側に何かが置いてある、何処かで見掛けたことがある。
とある物体がお父さんの横に。
『誰だ?』
急な問い掛けが眠気を吹き飛ばして不安を連れて来てしまった、視線が絡む、私とお父さんの視線が。目の下にくまが出来てしまっているお父さんは何だか痩せたような気がする。
また殴られてしまう、そう思ったらがたがたと震え出してしまう。
でも、
『何だ夢か、どうしたんだいこんな朝早くに? 早起きしたの?』
『……あ、あぅ……』
『どうしたんだい夢? 怖い夢でも見たのかい?』
どうしてだろう、お父さんが優しい声で話しかけて来る。
それは初めての経験だった、お父さんに優しい声で話し掛けられたことがなかったから。
どうしたら良いのか分からなくなってしまった。
『そんなところにいないでこっちにお出で?』
優しい笑顔、それを見ているとお母さんを思い出して自然と足が歩き出す。
お母さんを苛めてたのに、でも何だか痩せた細ったお父さんを見てたら多分哀れみが生まれてしまったのかもしれない。
恐る恐る近付いて行くとお父さんが笑って私の頭を撫でた、少しゴツゴツした感触でどうしたら良いのか困惑してしまう。
今まで撫でるこの手は私の髪を引っ張ったり殴ったりするだけの凶器だったのに。
どうしてそれが優しく撫でて来るの?
『夢の髪はサラサラしていて綺麗だね、きっと大きくなったら美人になるよお前は……』
何気ない会話が始まった、最初は怖くて言葉を発せなかったけど少しづつ言葉を返せるようになっていく。
どうして急に優しいお父さんになったんだろう?
『……夢、お父さんはダメな奴だよな? 桜をたくさん傷付けてしまった……信也もお前も……ごめんな、悪いお父さんでごめんな、もう桜に謝ることも出来ない…………本当にごめんな夢……』
それは初めて見るお父さんの涙、震えながら何度も何度も謝っていた。
お母さんが言ってた、悪いことをしたら謝らなきゃダメだって、謝ったら許してあげなきゃダメだって。
『お母さんがね言ってたよ? 謝ったら許してあげなきゃいけないって、だから夢許すよ? 苛めたり叩いたりしたら謝らなきゃって言ってたもん』
『そっか、そうだよな? 悪いことをしたら謝らなきゃ行けないんだよな?』
それから温もりが私を包む、お父さんが私を強く抱き締めて泣いている。
お母さんが教えてくれた、ギュッとするのは好きだって教えるんだって、だからお父さんは夢が好きなんだ。
もっと早くそうなっていたら良かったのに、そうなっていたらもしかしたらお母さんは……。現在の私はそう思うが昔の私はお父さんに包まれていることが嬉しい、いっぱい叩かれた、いっぱい蹴られたけど謝ったんだもん、許してあげなきゃ。
だから抱き締め返さなきゃ、本当はこうしたかったから。
『……夢は優しいね』
抱き締め合ってからしばらくすると優しく頭を撫でてくるお父さんがそう話した。
『ごめんと言えば許される、か。もしもそうならば戦争何て起きないよな?』
『お父さん……?』
『いくら謝ってももう桜は帰って来ない……本当におれは愚かだった…………が、おれは間違ってたって思うのは負けを意味するんじゃないのかな? 多分そうだと思う、だって信念を貫いたからこそこの家や車や馬鹿でかいテレビが買えたんじゃないのか? そうだよ、うんうんそうだよな? だから前言撤回を要求しようか、そうした方が良いよな? うん凄く良いと思う、だって間違って無かったからさ、おれは間違っちゃい無いよ。そうだろ? それなのに会社の上役共はおれをクビにしたんだぞ? 何が派閥争いだ、断っただけで全てがパァ、人生の全てを注いだのに何でおれを切りやがったんだ……。大丈夫だって、また一から始めよう! そんなの出来る分けないだろうが! もう桜はいないんだ! 桜がいないとおれはダメなんだよ、ダメ何だよぉ……桜ぁ、桜ぁああああああああああああ……』
焦点が定まらない眼球、ブツブツと自分に話し掛けて自分で答える姿はもう異常としか言えないだろう。
ピタリと頭を撫でる手が止まってお父さんは“お父さん”と話すのに忙しくなった。
何だか怖くなって視線をずらす、すると書斎に入って来た時にお父さんの横にあったとある物に目が止まる。
どうしてこんなものがここにあるんだろう? 細長くて透明で、それから先の方に銀色のもっと細長くいものがくっついてる。それはお医者さんが持っている私が嫌いなものだ。
――注射器。
小さな私には分からなかったけど現在の私ならそれが何故ここにあるのか理解出来る。
そう、お父さんはお母さんが死んで会社をクビになってから麻薬に手を出してしまっていたのだ。
でも幼い私が分かる訳も無い。
『桜はね、すっごくスタイルが良くてね、毎晩毎晩それを拝めるのが堪らなく嬉しかったんだよ。そっか、だったらもう見られないんだね? うん、だから嫌なんだよ、桜がいないと、桜がいないと……』
不意に頭を撫でていた手が背中へと移動し、そのまま下へ。
私のお尻を撫で回す。
『ああ、こんな風に桜のお尻を弄んだんだよ……弾力があって最高だったなあ。じゃあもう味わえないね? 可哀相に。可哀相? 可哀相っておれを見下しているのか! 違うよ違うよ! 見下してなんか無いよ! うるさい! おれを馬鹿にしやがって!』
段々気持ち悪くなって来た、ずっと私のお尻を撫でながらブツブツと話している姿は暴力的だったあのお父さんとはまた別の怖さを感じる。
本能が私に離れろと指示を飛ばす。
振り払おうともがくが大人の男の腕は強くて私の力くらいじゃびくともしない。動かない私は悍ましい手の感触を体感するしか出来ない。
気持ち悪いよ。
『や、やだよ……お父さん止めてよ!』
『止めてよ? 夢、お父さんは何を止めないといけないんだい? 会社はもう行かなくて良いし、……止める? 止める止める止める。ううっ、桜に会いたい、愛してるんだよ、おれは桜を……。でもいないじゃないか。桜がいない! いないいないいないいないいないいないいない! 桜、桜ぁ……』
お母さんの名前を何度も呼ぶ、でも不意にそれが止んだのだ。
『そっか、そっかそっかそっか、分かったよ分かった。桜がいない、桜はもういない……でも……』
ギロリと血走る眼球が私を捉えた。
『桜の血を引く……夢がいるじゃないか』
背筋が凍るかの如く悪寒が走る、半笑いするお父さんが私をじっと見つめてる。
あれだけうるさく喋っていたのに今は無言、その無が恐怖を駆り立ててしまう。
『桜の小さい頃の写真に瓜二つだ、ああなんだ桜は直ぐ側にいたのか……夢、今日からお前は桜だ、分かったな? 桜何だからおれの言うことを聞かなきゃダメだぞ?』
『お父さん……?』
『ほら、お父さんがお前を一人前にしてやるからな? そうしたら桜になれるぞお前は……嬉しいだろ? お前は桜になるんだよ』
その時急に視界がブレた、世界が回っているかのように走り、次の瞬間に背中に痛みが。床に押し倒された。
『さあ夢、一人前になって桜になろうな?』
『お母さんになるの? 夢はお母さんになるの?』
『そうだよ、そうなんだよ夢……』
それが何なのか最初は理解出来なくてただ事の行く末を見守るしか出来ないと思った。
そんなことをして何になるの? 分からなくて、くすぐったくてもどかしさに似た感覚が広がって行く。
邪魔な物は排除されて行く、そしてそれが繰り返されてここで私は自身を振り返ってみる。
するとお着替えする時の姿になっていた。
最初は服の上から、そしてパジャマを退かして、お父さんの指が体に這う。
――キモチワルイ。
負の感情が一気に駆け回る、私はお父さんの顔を蹴ったり叩いたりして起き上がって逃げ出す。
でもお父さんは直ぐに私を捕まえて力任せに床へと押さえ付けた。
オトウサンガオカシイ。
オゾマシイカンショクガ。
ジタバタシテモウゴケナイ。
コワイ、コワイ、コワイ。
ソシテ、オトウサンハワタシヲジゴクニヒキズリコム。
『いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!』
コノヨノ、モノトハ、オモエナイ、ゲキツウガ……。
痛い痛い痛い!
助けて、お母さん助けて!
痛い痛い痛い!
助けて、お兄ちゃん助けて!
痛い痛い痛い!
助けて、椿おばちゃん助けて!
痛い痛い痛い!
助けて、お婆ちゃん助けて!
痛い痛い痛い!
止めて、お父さん止めて!
痛いよ、すっごく痛いんだよ、だから止めてよ。
何でこんなことするの?
お父さんごめんなさいって言ったのに。
『桜ぁ、桜ぁ~……ははははは、桜桜桜桜桜! ははははは!』
気の遠くなる程の時間は私にとっての拷問、泣こうが喚こうが止まることを知らない。
助けて、助けてよお母さん。
お母さん、お母さん……。
気が付けば、私はおもちゃの様に床に転がっていた。
お父さんはイスに座って私を見下ろす。
醜悪に染まった笑顔で。
激痛だけを残して。
夕方になってお婆ちゃんがやって来た、だけどお父さんは今まで閉じ籠っていたのが嘘の様に書斎から出て来ていた。
何やら楽しそうにも見えるのが怖かった。
『新一さん、もう……大丈夫なの?』
『はい、心配をお掛けしましたお義母さん、あまりにもショックなことが立て続けに起こってしまったから引き籠もってしまいましたがもう大丈夫ですよ。桜はいなくなってしまったけど、今は信也と……夢がいますからね、もう塞ぎ込んで何かいられませんよ』
『そうですか……本当は今日信也と夢を家に連れて行こうと思ってましたが……』
『あははは、お恥ずかしいです全く。もうその心配はありませんよ、明日から仕事探しを始めます、大丈夫ですおれはもうダイジョウブですから……だから子供達はこのままでお願いします』
嫌だ。
『じゃあ信也と夢を頼みますね?』
嫌だ。
『任せといて下さい、おれは父親ですから』
嫌だ。
『じゃあ信也、夢、お婆ちゃん帰るけどしっかりしてね? 信也、夢を守ってあげてね?』
『うん、夢はオレが守るよ』
『じゃあね夢、ばいばい』
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、お婆ちゃん行かないで! 私を置いて行かないで! 助けて、助けてよ! もうやだよ、アンナコトはもうやだよ!
そう口走ってお婆ちゃんに駆け寄ろうとしたがお父さんがお婆ちゃんにバレないように睨む。
怖い、怖い怖い怖い怖い、体が震えて竦む。
私の両肩にお父さんが手を置いて強く握る。食い込むように、抉るように。
『じゃあ帰ります』
『はい、お気を付けてお義母さん』
無情に扉は閉まる、お婆ちゃんを食べてしまったかのように。
『信也、お前は自分の部屋に戻っていろ。夢……お父さんとお風呂に入ろうか?』
助けて……。
ーー地獄は続く。
いつになったら終わるのだろうか。
――早く終わって。
空を眺めた、窓越しで少し歪んだ青色。でも綺麗だと思う。
眺めていればこの光景を見なくて済む。
――早く終わって。
雲一つ無い空が羨ましいなんて思ってみたり、みなかったり。
明日は良いことがあるだろうか、出来ることならお母さんに会いたい。
――早く終わって。
でもそれは無理だ。なんでこんなことをしているのだろう、何処で狂ったのだろう。
誰か教えてほしい、出来るなら今直ぐ。
――早く終わって。
もう一度空を眺める。
うん、やっぱり綺麗だよ。
今の自分よりも……。
――早く終わって。
何も考えない。
それが唯一の抵抗だった。
お母さん、お母さん……。
私、すっごく汚くなっちゃったよ。
『夢、信也が今のお前の姿を見たらどう思うかな? それにお婆ちゃんや椿ちゃんもそうだ、きっと今の夢を見たらみんなお前を嫌いになるだろうな? 嫌らしいお前を見たらみんな大っ嫌いになって知らん振りされてしまうよ?』
やだ、そんなのやだ!
『そうだろう? だからこれは二人だけの秘密だよ? お父さんと夢だけの秘密……さ、こっちにおいで?』
嫌だ、もう嫌だよ、アンナコトはもう嫌だよ。
『そっか、じゃあ今度は信也で遊ぼうかな、信也はサッカーが好きだから一緒にサッカーをしようかな。もちろんサッカーのボールは信也だ、お父さんが蹴って信也は蹴られるだけ、痛いだろうな~、夢がわがまま言うから信也がボールになっちゃうんだよ?』
お兄ちゃんに痛い痛いしないで!
『じゃあ夢……こっちにおいでよ』
アンナコトはもう嫌だ、でもアンナコトしないとお兄ちゃんがボールにされてしまう。誰かに助けて欲しいのに、こんな姿を見られたらみんなが私を嫌いになっちゃう。
私を一人にしないでよ、一人は寂しいよ。
お母さん、お母さん……。
会いたいよ、お母さんに会いたいよ、そうしたらきっとまた幸せになれる。お母さんがいて、お兄ちゃんもいて、お婆ちゃんや椿おばちゃんも。
お父さんはいらない。
お父さんは私に痛い痛いしてくる、止めてって言ってるのに。
お父さん嫌い、嫌い嫌い嫌い。でも逃げられない。
また醜悪に染まった笑顔が手招きをしている、それは悪魔にしか見えない。
また汚される、醜く醜く。
私は醜く。
私は汚い。
私は逃げられない。
もう嫌だよ。
そんな惨めな日々を無機質に過ごしてどれくらい時間が経過しただろうか。
その日も相も変わらずアンナコトが行われている昼下がり、人形のように無表情な私をお父さんは気に入らなかったらしい。
『夢、お前は桜何だからもっとそれらしい顔をしなさい』
沼に沈めるように、冷やし固まって行くように、心を深く閉じている。
アンナコトの最中は私は人形になる、何も考えない。
『……ああ、そうか。ごめんね夢、お父さんすっかり忘れてたよ、やっぱりこれから始めるのが普通だよね?』
もがく、水面を目指して必死に。早く体を解凍しなくては。
そうしないと大切な物が失われてしまうから。
お父さんが私の唇に自身の唇を近付けて来た。それが堪らなく嫌で首を横に動かして避けた。
『何故避ける? 愛し合う行為はキスから始まるものだぞ? ほら、こっちを向け』
また迫る唇を避けた、深々と冷たくなった心の底に根付いた言葉が私をつき動かす原動だった。
過ぎてしまった幸せだった日々において、いつか話してくれたあの言葉、お母さんが私に教えてくれた大切な言葉がお父さんを拒ませる。
――本当に大好きになった人だけにしか口と口のキスはしちゃダメだよ?
むやみにいろんな人にしちゃダメ、家族以外で大切な人が出来たら……その時口と口でキスをするのよ?
大切な人にだけ許された合図なの、私は貴方が大好きですって合図。
いつか夢にそんな人が出来たらしてあげなさい――
お母さんはそう言った、いつか私が大好きになった人にだけに許された合図なんだ。
貴方のことが大好きですって教える為の大切で尊い合図。
だからこんな奴にキスは絶対に嫌だ、私はお父さんなんか嫌い、大っ嫌い。
好きなんかじゃない、私がいつか好きになった人にだけ許された行為、お母さんが教えてくれた大切なことだから。
好きになる人、今は分からないけど、貴方の為に私はこの唇を守るよ。
守り切れたらいっぱい好きになる人にキスをするんだ、大好きだっていっぱいいっぱい教えてあげるんだ。
そんな大切な存在が現れる日が来れば良いな。
『夢! 貴様は何故おれのキスを拒むんだ! 桜なんだから拒む筈は無い、おれと桜は愛し合っているんだからなぁ……』
『ゆ、夢は……お母さんじゃ無いよ? 夢は夢だよ……』
『お前は桜なんだ! おれの物なんだ、この体も唇もな! さあよこせ!』
迫る顔を避ける、何度も何度も。その度に顔を殴られた、お腹も殴られた。痛くて痛くて溢れる涙が更に痛覚を増加させる気がするけど、我慢出来なくて泣き出す。
それでもキスを拒んだ、鬼のように歪んで行くお父さんが本物の鬼見えて怖い。怖いし痛い、でも私は戦う。
お母さんの教えを守る為に。
いつか好きになる人にいっぱいキスする為に。
でも、その努力は泡となってしまう。
『いい加減にしろよ、そんなに嫌か? おれとキスするのが嫌か? …………だったら考えがあるぞ? 力尽くでキスしてやる、そして再教育をしてやるよ、今までのが天国だったって思い知らせてやろうか? ああ!』
急激に痛みが頭を襲う、それはお父さんの両手、がっちりと私の頭を掴んで固定する。
動かない、首がピクリとも動かない。
止めて、こっちに来ないで。
『これでもう逃げられない、残念だったな夢……さあ、キスしようか? お前は桜になるんだ、俺の為に桜にな。桜ならおれとキスするのは当たり前何だ……ははははは、ははははは』
迫る口が気味が悪くて暴れるけど動かない、こんな奴何かとキスしたくない。
強い思いを持っているのに私は無力だ、抗うことすら出来ない。
『……や』
動け、動かなきゃ私は……。
『やだ、いやだ……』
お母さんが言ってたんだ、大切な人とじゃなきゃキスしちゃダメだって。
『来ないでよ……いや!』
汚れてしまったけど、これだけは綺麗でありたい。
『いやだ! いやあああああ!』
だから、縋る意思を肉親へ願ったのは自然なことだったのかも知れない。
『やだ、やだよ! いやあああああ! 助けて! お母さん助けて……助けてお兄ちゃん!』
知っていたのだろうか、それとも偶然なのか。
突如として開放される書斎の扉に縋りを求めた人物が現れたのだ。ただ勢い良く真っ直ぐにお父さんに突撃して行く姿は必死だった。
体当たりをするけど子供が力で大人に適う筈が無かった。
でもお父さんは動きを止め、侵入者を睨む。
『信也……貴様、これはどう言うことだ? おれに盾突くのか?』
『夢を離せ! 約束したんだ! お婆ちゃんと約束したんだ! 夢を守るって約束したんだ! お父さんはいつも夢を苛めてた! オレ怖くてしらんぷりしちゃった……でも夢がオレに助けてって言ったんだ! だから夢を離せ!』
『こいつ……ガキの癖に親に逆らうのか、おれに逆らうのか! お前も会社の奴等同じようにおれを見下すのか! ふざけやがって……ふざけやがって!』
まるでそれはゾンビのようにゆらりと立ち上がりお兄ちゃんを睨む、その顔が怖くて私は震えるしか出来ない。
でもお兄ちゃんは違った、いつもなら私と同じように怖がるだけだったのに、睨み返している。でも体が震えている、お兄ちゃんだって本当は怖いんだ。だけど私の為に戦ってくれている、幼い私にもそれだけは分かった。
『おれを見下す奴は許さない、許さないぞ……クソガキがぁ、これだから、これだからガキは作りたくなかったんだ! お前何か生まれて来なければ良かった! おれはただ桜と一緒に居たかっただけなのに……でも、今は夢がいる、ははははは、夢はこれから桜になるんだ……だから……邪魔だよ信也、お前邪魔邪魔邪魔、もうお前はいらないや……信也、お前サッカーが好きだったな?』
サッカーが好きだったなとの問い掛けの後にそれは来た、鈍い音が飛び込んで来る。
お兄ちゃんがお父さんに蹴られて書斎の壁に激突している姿が。
『信也~、これからおれがサッカーをして遊んでやるよ。生憎、ボールは持って無いからお前がボールになれ……ほら丸まってみろよ、どうした、んん?』
『お兄ちゃん!』
『ゆ、夢……オレ大丈夫だよ……オレが守ってやるからな……オレが……夢を守るんだ!』
一蹴り、二蹴り、三蹴り。その度に家具をなぎ倒しながら転がって行くお兄ちゃんは腕や膝、それに何処かで引っ掛けたのか頭から血が噴き出して痛々しい。
『お父さん止めて! お兄ちゃん痛い痛いしてるよ! お怪我したから治さなきゃ! だから止めてよ!』
『……なんだ夢、お前またおれに逆らうのか?』
視界が一瞬ブレて床に倒された、平手打ちをほっぺたに食らってジンジンと痛みが蠢いている。
凄く痛くてまた私は泣く、それが引き金だったのかお兄ちゃんが素早く起き上がってお父さんの腕に噛み付く。
『ぐっ! こ、このガキぃいいいいい! 離さないか!』
遠慮無しに固く握り締められた拳がお兄ちゃんを襲う、凄まじい威力に歯が腕を離れて飛ばされてしまう。
ギロリとお父さんが雄叫びを上げながらお兄ちゃんを踏み付けた。
『こいつおれに噛み付きやがったな? 見ろ歯形が出来てしまったじゃないか! ふざけやがって、ふざけやがって! このガキめ、この! この!』
『ああっ! あう、ああああああ!』
『や、止めてよ……お兄ちゃん痛い痛いしてるんだよ! 止めてよ!』
泣いて懇願するしか出来ない私はそれに縋るしかない、止めてと何度も何度も声を枯らす程に叫びをぶつける。
でもまたお父さんに殴られた、そしたらお兄ちゃんを足で踏み付けて苦痛を捩じ込んでゆく。
このままじゃお兄ちゃんが……。
そう思った途端に体が書斎の外へと向かっていた、悲しいけど私じゃ助けることが出来ない。だから誰かに助けを求めに走った。
お兄ちゃんを助けてと何度も心で繰り返しながら駆ける。
『何処に行く気だ夢! 逃げる気か! おれを見限るのか!』
追って来る、お父さんが鬼になって捕まえに来た。必死に外を目指す、水中で溺れ水面を目指すように。
走って、走って走って走って、ようやく玄関を視界が捉える、もう少しで外だ。
お兄ちゃん待っててね、直ぐに助けを呼んで来るからね。
私にはこんなことしか出来ないけど、お兄ちゃんのことが好きだから、大好きだから。
お母さん、会いたいよ。
お母さん、寂しいよ。
お母さん、辛いよ。
あれ、どうしてだろう走っても走っても玄関が近付いて来ないよ? それに腕がすっごく痛い。
『お仕置しなきゃな夢……お前は桜何だから何処にも行っちゃいけなかったよな? 忘れたのか? 桜はおれの物、だからお前はおれの物だ……』
お父さんの大きな手が腕を力一杯に握り締めて痛みを植え付ける。それと恐怖もお土産に持参しながら。
『夢、何か言うことは無いのか?』
『あ……ああ……』
『夢、今日はどんなお仕置をしようか? ん? ああそうだ、今日は徹夜しよう。眠る時間は与えないように遊ぼうか?』
『あ……あう、ああ……ご、ごめん、なさい……ごめんなさい』
『謝ったってダメだ。先ずは逃げたお仕置を先にしようか、躾は夜だからね?』
大きな手がそれを掴み、思い切り引っ張った。その途端激痛が頭上に巣を作り、私をあざ笑う。
苦痛はまた私を困らせて楽しむ、止めて欲しいのに止めない。
『ああああああ!』
『夢はまた悪い子に戻っちゃったね? こんなんじゃ桜になれないよ? ほら、このまま部屋に行くぞ?』
髪を掴まれ引っ張られる激痛は逆らう気力さえ奪い取る、手を外そうと自らの手で解除を試みても力が入らない。
『夢、お前は誰のものなんだ? ん? ほら答えないともっと力を入れるぞ?』
『ああああああ!』
『ほらほらちゃんと言わないからそんな目に合っちゃうんだ。さあ答えなさい、お前は誰のものだ?』
『あうああああああ! ああっ、ゆ、夢は……ああ! 夢は……お、おお……お父さんの……物……です……ああああ!』
『ははははは! 良い子だね夢は、じゃあご褒美にキスをしてあげよう。愛する二人は誓いのキスをする、これはセオリーだ』
髪を掴んだまま顔を近付けて来た、キスだけはさせない。でも痛くて動けないよ。
無我夢中で手を振り回す、すると一撃顔面に入った。
弱々しい打撃だったけど導火線に火を点けるには丁度良かったらしい。髪を下に引っ張って廊下に叩き付けられてしまう。
『あがあああ!』
『またまた悪い子になったなぁ、ほらお仕置だ……』
何をされるのか分からない、ただ分かるのは苦痛を感じると言うことだけ。
拳を作り、高らかと天に上げて今にも落としそうだった。
『夢はオレが守るんだぁああああああああああああ!』
『ぎゃあああ!』
それは唐突だった、お兄ちゃんの声がしたと思ったらお父さんは頭を押さえていて、指の隙間から血が流出す光景が。それをやってのけたのは細長くて銀色のゴルフクラブだった、お父さんの書斎に置いてあった奴だ。
お兄ちゃんがクラブでお父さんの頭を思い切り叩いたんだ。
『お兄……ちゃん』
『待ってて夢! オレが助けるからね! お婆ちゃんと約束したんだ、約束したんだぁああああああ!』
もう一度クラブを振り降ろす、風を切る音が発生して次はお父さんの顔面、特に鼻にヒットする。すると鼻血を流してまた吠える。
でも、お父さんは三回目の攻撃を腕で防いでお兄ちゃんを捕まえてしまう。
『ガキが、このガキがあ! ふざけやがって!』
大きな手が小さな首にスルリと侵入し、力を増幅させて酸素を塞き止めた。
見る見るとお兄ちゃんの顔が赤く血液が走り回る、顔をしかめて。
『あ……あがっ…………あ……』
『いらないいらない、お前はいらない、夢だけいれば良い、夢は桜にしておれは永遠に幸せだ、幸せで幸せで幸せで! だからお前はいらないいらないいらない』
『お兄ちゃん! 止めて! お兄ちゃんが、お兄ちゃんが!』
白目をむくお兄ちゃんが段々と力が無くなっていって――。
『きゃあああああああああ!』
それは突然の第三者の叫びだった、お父さんがその悲鳴の方を向く。
私もそこへ視線を、場所は玄関で扉が開いていて、誰かが立っている。
『何をしているんですか!』
それはお母さんの妹、鮎原椿。おばちゃんが手で口を押さえながら目を剥き出しにして愕然と私達を見ていた。
地面にスーパーの袋が落とされていて、中には食べ物がいっぱい。おばちゃんは私達を心配して来てくれたんだ。
『し、信也くんに何を……や、止めて下さい!』
椿おばちゃんが土足のまま家に上がり駆ける、お父さんを止める為に。勢いをつけて飛び掛かった、そのまま三人は廊下に倒れる。
お兄ちゃんが解放されてぐったりとしている、直ぐにおばちゃんが起き上がってお兄ちゃんの側に。
『信也くん! 信也くん! 大丈夫! 信也くん!』
『お兄ちゃん、お兄ちゃん!』
私も駆け寄ってお兄ちゃんの体を揺さぶりながら幾度と名前を呼んだ。
お父さんは冷ややかな目で私達を観察している。
『お兄ちゃん! お兄ちゃん!』
『信也くん! 信也くん目を覚まして、信也くん! 信也……く、ん、…………信也くん? ……嘘……い、嫌! い、息、息……してない……し、信也くん……信也くん!』
『……は、はは、ははははは、はははははははははは! 信也は死んだか? ははははは! 邪魔者が消えた消えた消えた! ははははは! これで夢と二人だけだ、さあ邪魔者は後一人……』
お父さんが椿おばちゃんを睨む。
『ひ、人……殺し! 何で、何でこんなことを……自分の子供なのに、何で……おかしいわよこんなの……』
『おかしい? 何故? だって信也がいなくなれば夢といてまでも二人きり何だ、そして夢を桜にして幸せに暮らすんだ……ははははは、桜はね、おれの大切な存在だ、桜桜桜、ふふっ、桜桜桜……』
不気味に笑うお父さんは何かに取り付かれているみたいだった。身の危険を感じたおばちゃんは素早く私を抱き抱えてそのまま家の外へ。
お父さんはそれに激怒、側に落ちていた自分の血に染まるゴルフクラブを握り締めて後を追って来る。
『夢を返せ! 泥棒め、お前も桜が目当てか! おれの邪魔をするなら殺してやる! ははははは! 信也と同じように! はははははははははは!』
迫る狂気を私は眼に焼き付けながらおばちゃんに身を預けていた、怖い、怖いよ、来ないで、来ないで!
もしあれに捕まったらまた私は汚されちゃう、嫌だ、もうアンナコトだけは嫌だよ。
そんな恐怖する最中、突然世界が揺れた。
気が付くと地面に倒れていた、おばちゃんに目を向けると汗だくになって息を切らしながら倒れている姿が映った。
大人でも女性、子供を抱えて男から逃げるのは相当苦しい。
早く逃げなきゃ、逃げないとお父さんが……あいつが来ちゃう。
でも何故だろう、さっきまで晴だったのに曇りになっちゃった、影に私は飲まれているけどおばちゃんは明るいところにいるよ? 見上げるとその雲はあいつにそっくりだった。
『ははは、夢だ、夢が戻って来たぞ! ははははは! じゃあ、邪魔者を消しちゃおっか、そうしたら夢、帰っておれとキスして愛の契りの続きをしようね?』
『はぁ、はぁ、はぁ……ぐっ、はぁ、はぁ……夢ちゃん、逃げなさい、逃げて……』
『逃げては無いだろう? どうして夢が逃げなければならないんだい? だって夢は桜何だから、桜とおれは夫婦、いつだって一緒に愛を囁くもの何だぞ? あ、そっか、分かったぞ、お前は桜を堕落させる気なんだな? そして桜を手に入れるって手筈か? 嫌らしい売女め、桜はそんな女何かじゃ無いぞ! お仕置だ、桜を狙ったことを後悔させてやる! そうさ、桜はおれだけの物なんだ……ふふっ、ふふふっ、はははははははははは! じゃあさようなら、このズル賢くて卑しくて汚ならしい売女め!』
振り上げるクラブ、頭上でそれを止めて、一気に……。
『おばちゃん! やだ、やだよ、止めてーー!』
ここで記憶にノイズが走る。砂嵐となってしまった映像はこの後がどうなったのかを必死に思い出そうと奮闘している。
椿姉はどうなったのか、私は? お兄ちゃんは? あいつは?
結末が上映され始めた、嵐が薄まり静けさを広めてクリアな記憶を流す。私は抱き締められていた、柔らかな感触とお母さんに何処か似た匂いを感じながら。
彼女は震えていた、それが体に伝わってどれだけ恐怖に苛まれていたのかを物語る。椿おばちゃんは震えて私を強く強く抱き締めている、涙を流して。
あいつはどうなったの?
懸命に瞳は動き回ってあいつを探す。居場所はすんなりと見付け出せることが出来た、徒歩五歩分先の地面に俯せて倒れている。
いや、正確には倒されていたのだ。
ここは町中である、行き交う人々、唸り走る車、そして私達の周りに人だかりが。
あいつはここに居合わせた人達に取り押さえられていた、あれだけクラブを掲げて追い掛け回し、最後にはおばちゃんを殺そうと行動した。
野次馬の中にも良心を持つ人がいたっておかしくは無い。
『くそ! 離せ! 貴様らも夢が目当てか! ふざけやがって! 殺してやる! 桜は誰にも渡さない! 夢、こっちに来い! お前はおれの物何だぞ! ははははは! 今夜も楽しい時間を共有しようじゃないか! はははははははははは!』
程無くして警官が駆け付けて来て連れて行かれる。
それが最後に見たあいつの哀れな姿、この時はただ怖くておばちゃんに縋り付いて震えるだけのか弱い存在だった。
その後、警官におばちゃんと私は保護されて色々事情を訊かれてた、おばちゃんが震えながら説明しているみたいだったけど気掛かりな事が。
お兄ちゃんはどうしたの? おばちゃんは直ぐに家に救急車をと警官に叫んでいたみたいだけど。
それからの記憶がまた曖昧だ、途切れ途切れの映像は私の悲しみで荒れてしまったかのようだ。
あれ、どうして悲しみを感じたのだろう?
それにこれはなに?
どうしてお母さんみたいになってるの?
お兄ちゃん、どうして動かないの?
お兄ちゃん、あいつはもう居なくなったんだよ?
どうして動かないの?
眠ってるの?
疲れちゃったの?
白い部屋に白いベッドの上で全く動かないお兄ちゃん、傍らには椿おばちゃんとお婆ちゃんが泣いてる。
お兄ちゃん、お兄ちゃん……。
『あ……ああ……お兄ちゃん……同じ……お母さんと……同じ? 夢を置いて行っちゃうの? ……お母さんみたいに? ……夢、独りぼっち? お兄ちゃん……お兄ちゃん! お兄ちゃん! あ、あう……ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!』
独りぼっちになった私はお婆ちゃんに引き取られた、自室を用意してくれて、ここに来てから自室の隅に縮こまって部屋からは出なくなってしまう。
こうしていればあいつは来ない、ここは私の部屋、まるで籠城だった。
あいつが警察に捕まって裁判になっているとは知らず、震えて籠った。
ここは私の殻だ、自身を守る殻なんだ。
籠っている間色んなことを考えた。
でもその大半はお母さんとお兄ちゃんのことばかり。お兄ちゃんはお母さんのところへ行っちゃった。どうしてこんなことになっちゃったんだろう、何処でおかしくなったんだろう。
あの時、私が無理矢理あいつにキスされそうになった時にお兄ちゃんに助けを求めた。
もし私がお兄ちゃんを呼ばなかったらお兄ちゃんは無事だったかも知れない。
『ぐすっ……お兄ちゃん……』
私は凄く汚ならしくて醜い、あいつに体を汚されてしまったから。
私は凄く浅ましくて醜い、お兄ちゃんを頼り死なせてしまったから。
体も心も汚くて、汚らわしくて、気味が悪くて。
もう嫌だ、こんなの嫌だよ。
こんな『私』はいらない。
『違う私』になりたい。
醜い醜い私は奥底に押し込めて、私は新しい『私』になるんだ。
でも、どんな『私』になったら良いのか分からない。
『違う私』何ていきなり過ぎて分からない。だったら何も一つに絞らなくても良いじゃないか。
複数の『私』をこれから演じよう、醜い私じゃ無かったら何でも良い。
どんな『私』になろうかな?
最初のは決まっている、私のお母さんのような優しくて甲斐甲斐しい私になる。
次はお兄ちゃん、遊ぶことが大好きで、ちょっとエッチで男の子みたいなオレになる。
最後はお母さんと一緒の時を過ごした私、甘えん坊でわがままな夢になる。
今日からはこの三人が『私』なんだ。
汚れた私にさようならしよう。
今日から、髪型も変えよう、口調や性格は最初だと苦労しそうだけど慣れて来る。
私は私を捨てて、別の私を得たんだ。
もう醜い私は出さない。絶対に。
やっぱりお婆ちゃんも椿おばちゃんも私の変化に驚いていた、しばらく『違う私』に戸惑っていた二人は私を病院に連れて行ったりした。
でも小学校に入る頃には戸惑っていた二人は次第に普通に接してくれるようになる、時々とても悲しそうに見て来るけど。
あいつが起こした事件以降、『違う私』になってから何故か視力が弱り始めてしまう。この頃から眼鏡を掛けていた、もしかしたらいつもあいつに殴られていた影響なのだろうか? 今では分からない。
そんな私は小学校で『違う私』は受けいられなかった、気持ち悪い、変な子、頭がおかしいと苛められたりした。それが嫌でクラスメイトから距離を置き独りを選ぶ。ここでも独り。
無口で何も喋らない番外な私が生まれる、でも嫌な私よりマシだと思った。
そんな虚しい日常に変化が訪れた、新しい学年になった時に私に興味を持った子が現れたのだ。
後藤めい、彼女は何かと気に掛けてくれて正直それが嬉しかった、『違う私』を見せても最初は物珍しそうに見て来た。けど普通に接してくれた、そう、めいちゃんが初めての友達。
いつも助けてくれる彼女、小中高全部同じ学校へ通うくらいいつも一緒、側にいてくれて和む存在だ。
中学生の頃に私の過去を話してみたけど真剣に聞いてくれて、軽蔑はしなかった、逆に抱き締めてくれる。本当に良い友達に恵まれたと思う。
時は流れて大学を受験して合格を貰う、これから大学生になるんだ、めいちゃんとは離れ離れだけど時々は会って遊んでいたから寂しくは無い。
二度と会えない訳じゃないから。
大学から新たな気持ちで勉学に励もうとコンタクトにした、最初は目に物を入れることに恐れを感じたが『違う私』と同じように慣れてゆく。
将来は何を目指そうか何て分からないままに受けた大学、こんな私の未来何て想像出来ない。
不安な日常をただ過ごす中である出会いが待っていたことをまだ知らない。
そう、彼が現れたのだ。
白原十夜、異性を好きになった初めての相手、しかし出会いはやや非現実的なものだ。
とある昼下がり、買い物をしようと道を歩いていると妙な男に声を掛けた。ナンパと言うのか私が急いでいると言っても突っ掛かって纏わりつく。
気持ち悪いと思い強気な態度で止めてと言おうと良く見て無かった顔を拝んだ。戦慄が走る、その男は若いがあいつにそっくりだった。
体が震える、声が止まる、足が竦む、また私を弄ぶ気なのか、そんなことを考えてしまい震えるしか出来ない。
男は何も言って来ないことに味をしめたのか手を握り私を何処かへ連れて行こうとする。
ここは人気が少ない場所であり周りに木々が程よく植え付けられた場所、男は何か妙なことをする気だったのかも知れない。
抵抗も出来ないまま何処かへ連れて行かれそうになった時、それが起こった。
一段上の道にガードレールがあるのだが、そこから何かが飛び出す。自転車に跨がった男性が空に舞い、一回転しながらそのままナンパ男に落ちる。
ナンパ男は気絶、自転車の男性は無傷。どうやらナンパ男がクッションの役割を果たしたらしい。
震えていたのにいつの間にか男性を唖然と見詰めていた。
自転車はボロボロ、ナンパ男は気絶、そんな状況で彼は一言こう言った。
『……あの、お怪我はしてませんか?』
『あ……えっと……はい、私は大丈夫ですけど……』
『……じ、自転車……生きてますか?』
『…………粗大ゴミです』
変な会話である。
どう接したら良いのか分からずにうろたえていると彼は粗大ゴミ化した自転車を一瞥した後、寂しそうにそれを回収してがっかりと肩を落とす。
何だか可哀相なので励ましてあげたくなってしまった。
『が、頑張って下さい』
『はい?』
どうやら意図が掴めないらしくクエスチョンマークを浮かべてしまったらしい。
何故か焦燥に取り付かれて如く慰めを続けてみた。
『あの、えっと……自転車は世界に何十何万台とあります!』
『へ? ……あ、ああ! そうですよね?』
やっと意図が伝わった。
『はい! だから気を落とさないで下さい!』
『……でもこれ借り物何ですよ』
『あぅ! えっとえっと、ごめんなさいをして、可能なら修理を……』
『修理する技術は生憎欠落してます……はい』
どん詰まりだ。
『じ、じゃあ……えっと、自転車のお葬式をしてあげたらどうでしょうか!』
『壊した本人がですか?』
『あぅ、あぅ……じゃあ、じゃあ……』
あれ? どうしてこんなことで私は一生懸命になっているのだろうか。
それに根本的に論点がズレている。
ナンパした男の上に容赦無く立っている彼、そしてそんな彼を応援する私。
変だ、ものすごく変だ。それに男性とこんなに会話したこと何て初めてだ。多分あいつの影響もあるのだろう、男性と会話するのが怖いと思っていた。
でもあまりにもこの風景は変で、気が動転していたのも作用したのかも知れない。
いつの間にか男性と普通に会話が出来てしまっていた。
それに何故か彼の瞳を見ていると奥にしまい込んだ悲しい光を垣間見た気がする。
何だか彼は私に似ているような気がする。
身長は頭一個分私より高くてスリムな体型、顔は優男と言うのか綺麗に整っている。髪型はちょっと風変わりかな。
私から見て左側の前髪だけが長くなっていて右目が全く見えない。左目だけが姿を晒す。
何だか不思議な人だな。
『あの、僕の顔に何か付いてますか? 先程から熱心に観察されてるみたいですが』
『え! あ、顔に目と鼻と口が付いてます! 後ほっぺたとか顎とか額とか!』
『た、確かに……迂闊でした、そんなことにも気が付かない何て』
また変な会話だ、何を言っているんだろう私は。
とにかく成り行きはどうあれ助けてくれたのは事実じゃないか。
『あの、助けて下さってありがとうごさいました!』
『え? 助けた? ……あれ、この人はどなたですか?』
ようやく踏み付けている人物に気が付いた、それ程焦っていたのか。
妙な出会いで妙な会話をして、妙なことが続き、何だかおかしくなって来た。
彼が真剣におかしなことを言ってる姿が更に笑いを連れて来てしまい等々爆発してしまう。
おかしくて、本当におかしくて大声で笑ってしまう私、彼は目を丸くしている。お構いなしに腹の底から笑った。
思えばこんなにも笑ったのは初めてかも知れない。あいつに支配されていた日々は無表情を貫いた、居なくなってからも学校で苛めにあってたりして。
だからこんなにも笑っている私自身が信じられない。
『……あの、僕何かおかしいですか?』
『はぁ、はぁ、……ご、ごめんなさい、でも……ふふっ、あははははは!』
落ち着いたのは数分後、我に返り笑ったことを謝罪した。
私の経緯を説明して踏んでいる男から助けてくれたことを教え、お礼を言った。
これが白原十夜との出会い。
その日から彼に興味を持った。
お礼がしたいと食事に誘って彼のことを色々と聞き出してみた、カメラマンを目指していることや一人暮らしってこと、その他諸々。
その勢いで電話番号を聞き出した、このまま別れたらもう会えない気がして小さな繋がりを求めたのだ。
電話をして、彼と話して、知らず知らずの内にそれが楽しみになって。
私、彼のことばかりを考えている自分を感じている。
『違う私』を驚いていた、それは当たり前だ。いつか必ず話す、だから今はそれに触れないで欲しいと頼んだ。
醜い私を知られたくなかったから。知ったらきっと彼は私を軽蔑する。
それが堪らなく嫌だった。
何度かデートを重ねる内にようやく彼が笑ってくれた。
いつも無表情だったから迷惑に感じてたのかと心配したけど、笑ってくれたのだ。
彼が笑った日に付き合おうと言って来たのには驚いてしまう。
いつも彼を考えていた、会う度にある感情が成長していくのも感じていた、その感情こそが異性を好きになるってことなんだとこの日に悟る。
これが好きになるってことだったんだ、いつもいつも頭から離れない彼の顔、日を増すごとに思いは強くなる。
何をしてても彼ばかりを思うのだ。これが恋なのかな?
最初は興味本位だったのに、それなのに胸が熱い。
『……訊かないんですか? 私の『違う』を』
『最初は驚きました、でも何か事情があるみたいだし、凄く悲しそうに見えましたから……だからいつか話す気になったらその時で良いですよ。その時は僕の過去も打ち明けますから……いつの間にか貴女と一緒にいると笑っていられるって初めて思えたんです……こんなことは初めてだったから…………もっと一緒にいたいって思ったんです』
彼にも何か負の感情を孕む過去があるみたいだ、初めて会った時に目の奥に感じた悲しみがそれだったのかも知れない。
ならば約束しよう、いつか必ず話すと。
でもその時彼は私を受け入れてくれるだろうか?
これだけは不安だった。
『じゃあこれから私達は恋人ですね?』
『そうなりますね……』
『……じゃあ白原さん……あ、えっと……と、十夜! 目を瞑って下さい!』
お母さん、ようやく会えたよ。
キスしても良い相手に。
私は貴方が大好きです。
足りない身長を背伸びして彼に唇を届ける、触れた瞬間に涙が落ちる。
この日を待っていたんだ、お母さんが教えてくれたキスをする日が。
『……どうでしたか十夜?』
『えっと……よ、良かったです』
『……じゃあもっとしましょう! えい!』
『むぐぅ!』
これからいっぱいキスをする、大好きだって伝える為に。
そして白原十夜と幸せな未来を一緒に歩みたいと願った。
付き合ってからは毎日のようにキスをした、その度に十夜は赤くなって恥ずかしがる姿が可愛いと思った。
楽しい日々は互いをより深い感情を育んでゆく。
もっともっと好きになる、きっと十夜も私を好きになってくれていると信じている。
怖い大家さんに騒がしい姉妹や十夜の仕事先の先生、かれんちゃんさんや竹崎さん。
様々な人達と出会って、本当に楽しいと心の底から思っていたんだ。
だから、世界はそれを反転と呼ぶ――。
あいつが、私を狂わせたあいつが脱獄した。
何で?
また私を困らせる気なの?
私は、人形じゃない。
過去が膨れ上がり刺を生やす、それが食い込みズキズキと苦痛を置いて行く。
止めて、私の楽しい日常を壊さないで、嫌だ、醜い私を引き摺り出さないで。
怖い、怖いよ……。
どれだけの時間を消費したのだろう、果てが無いかのような追体験はようやく終焉へ。
いつの間にか眠っていたらしい、時計を覗くと本の一時間程経過していることに驚愕を覚える。
あの悪夢がたったの一時間?
私はたったそれだけの間に人生を再体験したと言うのか。
自室の隅で膝を抱えている哀れな私は自分が愚かだと気が付く。
馬鹿だった、現実逃避の為に記憶を追体験する何て。それでは過去を思い出してまた苦しむだけだと言うのに。
「……でもお母さんに会えて良かったな、それに……お兄ちゃんにも」
荒沢新一、そいつは私の父親。でも父親何て認めない。
大丈夫、こうやって閉じ籠っていればあいつは手出しが出来ない。
ここは殻、守護する殻なのだから。
でも、恐怖は逃げ去らない。
いつまでもいつまでも見下して笑うのみ。
「……お母さん……お兄ちゃん…………十夜……私、怖いよ……」