『世界はそれを反転と呼ぶ』
のどかな森林を眺めているだけで心が洗浄されるかのように清々しく、晴れ晴れとした心情が心地良い。
都会の騒音も無くただ聞こえるのは小鳥の囀りと川の音、視野は木々に仕切られた安らぐ空間だ。
「良い気分ですね……」
「はっはは、そうだろうそうだろ、わたしのお気に入りな場所だからねここ」
カメラを片手にシャッターを切る我が師とも言える空月九十九先生が笑みを絶やさずに一眼レフを操る。
「プロとアマチュアの違いって分かる白原?」
「えっと……集中力ですか? シャッターチャンスを逃がさない為に」
「まあそれも正解かもね。多分カメラマンそれぞれの理由は違うかも知れない、ただわたしが思う差ってのは……光の使い方だと思うな。写真って撮るだけなら誰にでも出来るけど光の使い方一つで同じ場面を撮っても全く別の写真が生まれるわ」
九十九先生が熱く写真を語る、それはこれからカメラマンを目指す僕にとって貴重な言葉であり、一字一句聞き漏らさぬように集中する。
ここは先生の事務所裏の山奥であり、良くこの場所に二人で仕事の合間に写真を撮りに来るのだ。
時には自由気ままに写真を撮りたい、そんな先生に付き合って僕もシャッターを押す。
「先生、光の使い方ってどうやれば良いんです?」
「それは内緒、自分でその方法を見つけ出すのも面白いものよ? 技は盗みなさい、何事も模倣から入るんだから……白原はセンスあるんだから後は努力しだいね」
「やっぱり手厳しいですね……分かりました、先生からたくさん盗みますから覚悟しておいて下さい」
「はっはは、お~怖い怖い」
さて、そろそろ戻らないと仕事に支障が出てしまうな。
「先生そろそろ戻らないと午後からの仕事に支障が出ますよ」
「もうそんな時間? それじゃあとっとと戻りましょうか」
山道を下り事務所へと戻って来るのはそんなに時間は掛からなかった、戻るなり身支度を済ませ仕事場所へと向かう為に車に乗り込み出発。
それにしてもいい天気だな、これなら帰りは綺麗な夕日が見れるかも知れないな。良い写真が撮れそうだ。確か僕が初めて撮った写真はじいちゃんだったな、あの時の写真って何処にやったっけ? 帰ったら探してみようかな。
「良い青空ね、仕事サボって日向ぼっこも悪くないかもね」
「先生サボりはダメですよ」
「はっははは、白原は真面目くんね~。まあそこがいいところでもある訳だけどね」
ふと疑問がいきなり飛び付いて来たらしい、そう言えば先生ってどうしてカメラマンになったんだろう。
「先生、訊いてみたいことがあるんですけど良いですか?」
「スリーサイズ?」
「違いますよ……先生ってどうしてカメラマンを目指したのかなあって思いまして」
「……ああそんな質問か。まあ自然に思う疑問よね」
しばらく車内に沈黙が居座り幅を利かす、もしかして触れてはならない話題だったのだろうか?
だとしたら迂闊だったかも知れない。
「良いわよ教えて上げましょう、わたしが何故カメラマンを目指したのか」
「え、良いんですか?」
「訊いて来たのは白原でしょう? もう白々しいな……おっほん、実はねわたしの父がカメラマンだったのよ」
ああなる程、カメラマンだった父親を尊敬して同じ仕事になったのか。
「先生はお父さんのことが好きで同じ仕事になったんですね?」
「はっはは、ぶっぶ~ハズレ。わたしは父を世界で一番嫌いなの」
「え? 今何て言いましたか?」
「だから、わたしは世界で一番父が嫌いだって言ってんの」
お父さんが嫌い? そりゃあ家庭の事情だから何かあったのかもしれないけど、だったらどうして嫌いだったお父さんの仕事を先生はやっているのだろうか?
何が先生をカメラマンへと向かわせたのか。
「……実はさ、わたしの父は紛争写真を撮ってたのよ。紛争地域に出向いては写真を撮りまくった、負傷した子供、片足を無くした青年、死体の側で泣きじゃくる赤ちゃん……そんな写真を撮ってた。わたしが物心がつく頃から世界中を飛び回っていて初めて父の顔を認識したのは写真だったな、母がこれが貴女のお父さんよ……って具合に、はっはは、ちょっとおかしよね?」
笑い声を奏でているが何処か影を孕んだように聞こえた。
「滅多に帰らない父、やっぱり寂しかったわね正直に言うと。でも母がいたからそんなのはへっちゃらだった。でもある時母が体を悪くして……そのまま天国。父は葬式にも帰って来なかったんだ。
許せなかった、散々母に苦労をさせたのにどうして葬式くらい出てやらないのかって、数日遅れで帰国した父に詰め寄って……数年口を聞かなかった。それから父は戦地で流れ弾に当たって死んじゃったわ、お母さんに苦労をかけた天罰だって思ったけど……何故か涙が止まらなかった。
父の葬式の日に遺品のカメラを手に取って見たんだけど……すっごく古いカメラ何だけど……綺麗に使われたんだよね。
父はこのカメラで写真を撮って何を感じていたのだろうか、何が父をつき動かしていたのだろうか……父のカメラを覗いて見たけど分からなくて、だから知りたいと思った、父はこのカメラで何を感じていたのか知りたかった……だからわたしはカメラマンになろうと決意したのよ。嫌い、父何て嫌い、でも父を理解出来たならこの負の感情は変わるのか知りたくなったのよ」
先生の横顔を一瞥すると僅かに微笑んでいるように見えた気がした。
「もしかしたらこれは父との決闘なのかも知れないわね、嫌いな父を理解出来たなら父の勝ち、分からなかったらわたしの勝ち……様々なジャンルの仕事をこなしたわ、でもただ一つだけやってないのがある。それは紛争写真、父がシャッターを切った戦場はまだなの。……躊躇しているのかもねわたしは、父との決闘なのに父を知るのが怖いと何処かで考えている弱いわたしがわたしを束縛する。
でもね、いつか必ず行こうと思う、父が向かった戦場にわたしも。そこが本当の決戦の地になると思う。父はそこで何を見たのか……。はっははは、悪い悪いわたしばかり話して、何だか話してたら感情的になってしまったわ」
「いえ…………いつか行くんですね先生の戦場に」
「ええ……父を理解する為にね。まあその前に白原を一人前にするのが先ね、そうじゃないとわたしがいなくなったら食い扶持が無くなっちゃうから一人で食っていけるくらいにしてあげるから心配しないように」
「ありがとうございます先生」
初めて先生の過去を知ってどんな思いで今までシャッターを切って来たのかが熱く伝わり今まで以上に先生を尊敬出来ると思う。
過去は今を形成する糧、だけど今は直ぐに昔に変わる。
前へ前へと過去を塗り潰しながら進んで行く、だけど昔を忘れて良いことにはならないと僕は思うんだ。
過去は教訓だから、それを踏み台により良く生きて行かなくては。
僕もそうしなければならない。
「白原、お前はどうなんだ?」
「……え?」
「何でカメラマンを目指したのかって話よ」
「…………僕は写真が羨ましかっただけなのかも知れません。今を囲って半永久的にフィルムに焼き付けて残す写真を……羨ましがった」
過去には戻れない。だけど写真は過去を残す、色あせることもあるけど笑顔をそのままで残すのだ。
望んだのはたった一つだけ。
“貴方達”に望んだのはたった一つだけ。
それは成就されなかった、たった一つの願い。
だから僕は……。
時が過ぎ夕刻、仕事を終え先生と分かれて帰宅の途中だ。いつもの日常が流れて行く、仕事に疲れて疲労に抱き付かれた体を携えて車は進みアパートへと戻る。
駐車スペースを掃除していた大家さんに挨拶をして、学校から戻って来た隣人の妹と他愛なく話、部屋へ。
直ぐにシャワーを浴び体を清め、部屋に座り一息を。
これもいつもの日常だ。愛し止まない日常劇の舞台。
そこにいてくれなければ困る、君がいてくれなければ困る。
「おーーい、オレ様が来てやったぞ十夜! 会いたかったかコノヤロー!」
この舞台に君が、夢ちゃんがいてくれないと僕は……。
「ん? どうしたんだよ十夜、オレが遊びに来たんだぞ? もっと嬉しそうにしろよ、笑え笑え!」
「……あははは、僕は夢ちゃんに会えて嬉しいですよ」
遊びに来た夢ちゃんに座布団を用意してやり座らせると不意打ちキスが僕を襲う。
してやったりと得意げにしている彼女は可愛らしい。
「十夜お腹減った、何か作れ!」
「じゃあ粉骨砕身、心を込めてカップラーメンを作りますね」
「インスタントの介入は認めないぞ!」
「美味しいんですよカップラーメンも……分かりました降参です、そんなに睨まれたら適いません」
なのでチャーハンを作ってみるが見事にご飯はベチャベチャでパラパラ感ゼロのチャーハンもどきが完成、いやいやチャーハンは難しい。
「どうですか夢ちゃん、卵とハムのシンプルなチャーハンです」
「これがチャーハンなのか? ご飯が粘ついているぞ?」
「そ、それは僕のチャーハンスキルが皆無だったってことですね……面目無いです」
「でもオレの為に作ってくれたからな、それは嬉しい……ありがとうな十夜、ほれお礼を食らえ!」
柔らかな唇の触感が。本日二度目の口付けでもやっぱり恥ずかしい。
でも嬉しい。
「おいおい、何だよ今日はすっごく嬉しそうにしやがって。そんなにオレのキスが良かったのか?」
「え、僕そんな顔をさてましたか?」
「ああ、今もニヤついてるぞ? そんな顔されたらキスのしがいがあるってもんだ。ようやく十夜もキス魔に目覚めたか」
「ち、違いますよ」
そんなにニヤ付いた顔をしていただろうか? 自分でも気が付かない内に。
顔の筋肉が緩んでいるのか、ただ浮かれているのか。
多分後者なのだろう。
『……では続いてのニュースです』
テレビから流れるニュースは坦々と出来事を流している、僕もこれくらいあしらうスキルを上げれば夢ちゃんにからかわれないかも知れないな。
『……との事です、では続いてのニュースです。今日午後四時頃に○○県○○市にある刑務所から懲役中の荒沢新一受刑者が脱獄しました、建物の老朽化の為新たな刑務所へ移動中に隙を突き逃げ出した模様です……』
「○○県ってけっこう近いですね……脱獄って本当に出来るもの何ですね夢ちゃん」
問い掛けに数秒の間が出来てしまう、テレビから彼女へ視線を向けると夢ちゃんは目を見開いていた。
夢ちゃん?
カシャンと夢ちゃんの手に包まれていた筈のスプーンがテーブルに落下し不快音を奏でた。
「はぁ……はぁ……う、嘘……嘘……」
「夢ちゃん? どうかしましたか? ……夢ちゃん?」
徐々に青ざめて行く彼女の顔、そして体が震え出して尋常では無いと物語っていた。
様子がおかしい、いくら話し掛けても聞こえていない、ずっと嘘と繰り返し呟いて汗が噴き出している。
「ゆ、夢ちゃんどうしたんですか! 大丈夫ですか!」
彼女の肩に手をやった瞬間にそれは来た。
「嫌あああ!」
ジンジンと赤く腫れて行く手、痛い……。
夢ちゃんに手をはたかれた。
僕を見る目は悍ましい化け物を見るような、そんな恐怖の瞳が僕を焼く。
夢ちゃん?
「触らないで! 嫌ああああああ!」
「ご……ごめんなさい夢ちゃん……」
「はぁ、はぁ…………あ……ち、違、違う、私は……夢は……オレは……違う、違う!」
震えは未だに止まっていない、ガタガタとまるで突如豪雪地域に放り込まれたような震え。
両腕を抱きながら怯えている、そうだ怯えているんだ。
唇は朱を飲み込み青が浸食し、零れ落ちる水滴、止まない汗。
僕に怯えている? それとも別の何かか、あるいは……あのニュースか。
「ゆ、夢ちゃん落ち着いて下さい。分かりますか? 僕です、十夜です」
「はぁ、はぁ、はぁ…………ご、ごめんなさい、わた……あ、オレは帰る……き、今日は帰る……帰らなきゃ……」
「夢ちゃん?」
ゆっくりと立ち上がるがふらふらで歩きが危なっかしい、何がどうなっているのか分からない。
「あ、危ないですよ、帰るなら僕が車で送って行きますから無茶はしないで下さい」
「……いい、一人で帰る」
「で、でも……」
「うるさい!」
胸にナイフが侵入したような痛みが僕を焦がす、伸ばした手は切り刻まれた。
さっきまで僕らは笑い合っていたのにどうしてだ、いつも近くに彼女を感じていたのに今は遠い。
果てしなく遠い。
「あ……ご、ごめん、ごめんなさい十夜、ち、違うの、その……えっと……私も分からないんだよ、どうしたらいいか……分からない」
「何があったんですか? 良ければ話してくれませんか? あのニュースから様子がおかしいですよ……脱獄の……」
「嫌ああああああ!」
彼女の手が両耳を塞ぎ音を断絶させてしまう。
何をやっているんだ僕は、ニュースでおかしくなったのにそれを思い出させるような真似をしてしまった。
「嫌だ、嫌嫌嫌! もうやだよ、あんなの嫌だよ、お母さん、お母さん、助けて、助けて、助けて……お母さん……」
頭を抱え地に膝を付いて何度もお母さんと繰り返す夢ちゃんに哀れみが纏わりつく。
僕が手を伸ばせば怯えてしまう、近付けば更に震える。
「ゆ、夢……ちゃん」
何て無力何だ、彼女はあんなに震えて何かに怯えているのに何も出来ないなんて。
やっぱり僕は誰も助けることは出来ない、あの二人を助けられなかった、またただ見ているだけ。
「どうかしたんですか白原さん!」
慌ただしく玄関の扉が開くと隣人の水面さんが血相を変えて飛び込んで来た、それに続き鏡ちゃんも。
ああそうか、壁が薄いんだ今までの会話は筒抜けか。
「鮎原さん? どうしたんですか? 鮎原さん? ……白原さんこれは一体」
「夢姉ちゃん大丈夫!」
「……とにかく落ち着かせないと行けませんね」
水面さんはゆっくりと夢ちゃんに近付き優しく語りかけ背中をあやす。
どう言う訳か水面さんには拒絶反応を示さなかった。
「お母さん、お母さん……助けて、あんなのやだよ……助けて……」
「落ち着いて鮎原さん、ここには貴女を傷付ける人はいませんから、みんな味方ですから……」
「はぁ、はぁ……いない? いないの? あいつはいないの?」
「はい、いませんからね、だから落ち着いて下さいね」
燃える炎は鎮火の傾向を表し段々と静かに包まれて行く。
「お兄ちゃん布団敷いて! 夢姉ちゃんを寝かせなきゃ!」
「あ……はい」
無力な自分は布団を敷くしか出来ないのか。
慌ただしく敷き落ち着いた夢ちゃんを水面さんが誘い寝かせると直ぐに寝息を立て眠り付く。
一応一安心だが……。
「落ち着きましたね白原さん」
「はい、ありがとうございました」
「……鏡、ちょっと鮎原さんを見ててくれる? わたしは白原さんとお話がありますから」
「分かったよ、夢姉ちゃんはわたしが見てるから」
水面さんに連れられ外へと出て扉を閉めると一気に闇に飲まれた。
アパート近くの街灯と部屋から漏れる光が唯一の灯であり、何だか侘しさを覚える。
「本当にありがとうございました水面さん、良く夢ちゃんを落ち着かせられましたね」
「まあその……昔の鏡と同じようになっていましたから鮎原さんが。多分あれは目には見えない傷の所為だと思います……白原さんは人を傷付けるような人ではないことは知ってます、だから教えて下さい、何があったんですか? いきなり鮎原さんの悲鳴が聞こえてしまったので気になって」
「……その僕も良く分からないんですよ。ただニュースを見ていたらあんな感じになって」
確か変になったのは脱獄がどうこうってニュースだったと思う、確か脱獄犯の名前は荒沢新一だったかな。
これは仮定だけどもしかしたらその男が夢ちゃんが変になった原因では無いだろうか? それを水面さんへと伝えた。
「白原さんも見ていたんですかそのニュース、わたし達も見てました……荒沢新一、白原さんの仮説通りならその男が鍵を握っていると思います」
「一体そいつは誰で夢ちゃんと何の関係なんでしょう……」
あんなに夢ちゃんを怯えさせた男は一体何者なんだ。震えてた、今はいない母親に助けを求める程の恐怖。
許せない、夢ちゃんから笑顔を奪い去るそいつが許せない。
「とにかく今は何も出来ないと思いますからわたし達は部屋に戻りますね?」
「あ……はい、本当にありがとうございました」
「お礼何て良いですよ白原さん……鏡を助けてくれたから逆にわたし力になりたいんですよ……鮎原さんにも感謝していますから、だから何か出来る事があったなら遠慮無く言って下さい」
その言葉が有り難いと強く思った、これが人の繋がりなのかと思うと決して僕は一人では無いと認識出来る。
本当にありがとうと感謝の意をまた彼女に述べて部屋へ。
「鏡、後は白原さんに任せて戻りましょう」
「うん分かったよ。お兄ちゃん、何かあったら呼ぶんだよ!」
「はい、ありがとう鏡ちゃん」
やっぱり姉妹何だな、言ってることがそっくりだ。
桜井姉妹は自分の部屋へ帰り眠る彼女と二人切りになって部屋は静かに居座られた。
こうして傍らで彼女を眺めているとあの騒ぎが嘘だったかの如く穏やかな寝顔を浮かべている。
起こせばいつものように愛くるしい笑みを見せてくれるのだろうか?
僕は彼女のことを何も知らない。
同時に彼女は僕を知らない。
僕らに共通しているのは『過去』を知らないという点であり、互いはいつか話すと約束をしていること。あんなに取り乱して、苦しんで、震えて、何がここまでさせるのか。
もう時が来たのかも知れない、互いの過去を語る日が。逃げていた過去に立ち向かう日が。そして重荷を取り払い呪縛から彼女を解放させてやりたい。
だから決意を固めた、僕の過去を彼女に話そう。今まで彼女から話すのを待っていた情けない自分を滅するんだ。
そうしたら彼女は自身の過去を話してくれるだろうか?
僕はどんなことになっても夢ちゃんの味方でありたい、味方でいたい。
差し延べる手に掴まってくれるか心配だけど、全力で握り変えしたなら僕は彼女の過去と戦うと誓う。
もう悲しい顔はたくさんだから……。
彼女の寝顔を眺めているといつの間にか真夜中になっていた、夜がだいぶ深くなり静かな空間には秒針の声だけが騒がしいくらい居座った。
深夜の策略か眠気が突如として瞼を占拠し閉じさせようと必死だ。
意識を手放したのはそれから数分後のことだった。
――夢を見た。
ただそうするしかなかった、それ以上に何が出来たのだ。
それを無心に視界へと捩じ込み徐々に奪われて行く大切なものは霧散して消えるだけ。
僕は助けられなかった、無力な子供に何が出来たのか。
それでも助けられなかったのだ、たがらそれはゆらりゆらりと浮遊して刻む。
深く、ただ深く土足で刻んで来る。
ねえ、その手は僕を撫でてくれたことはあったかい?
ねえ、その口は僕にひだまりを唱えたかい?
――どうして僕を置いて行くの?
衝撃のような覚醒をしてしまった、今僕は何を……。
「はぁ、はぁ、はぁ……夢……?」
呼吸が荒い、手が震える、汗が落ちる、またあの夢を見てしまったのか。
あの日を夢で掘り起こす何てどれだけ記憶って奴は意地悪なのだろうか、映像そのものを完全に削除出来れば苦しまなくて済むのに。
負の感情に押し潰されそうな弱々しい心は極小な光を求め眼球に探索を命じた。
その過程において秒針に興味を持ち時間を知ることになる。
「……五時半、ですか」
そう言えば窓の向こうに光が僅かに漏れて増幅してゆく景色が顔を覗く。
求めたものに縋る、早く日よ上れ。光で僕を包んで欲しい、不安を削ぎ落としてくれ。
太陽が頭を浮上させて一気に色が沸き出してまた一日を幕開けさせた。
光が負を吹き飛ばして行くのを体感する。ゆとりを設けることに成功出来たのであることを思い出す。
夢ちゃんの具合はどうだろうか。
「…………え?」
見開いた瞳は情報を絶えず送信するばかりでそれに関心がないのか疑いたい。
送られた情報を分析し蓄積、そして理解を。
見間違えか? いやそうじゃない、なら何なのか。
白い布団のシーツが無造作なしわを並べていて肝心なものを隠したのか。
空っぽだった。
そこに横たわっている筈の彼女がいない。
「夢……ちゃん?」
まさか僕が寝ている間に起きて部屋を出て行ったのか?
素早く立ち上がり風呂場やトイレを開け放つが無人だった。
落ち着け。
「そうだ電話だ!」
携帯を取り出し彼女へ通話を求めるが拒絶か通話不能、電源を切っているらしい。
取り乱した彼女が脳裏を掠め不安を煽ってしまう。
心配だと直ぐに外へ、多分家に帰ったのかもしれない。あの時帰らなきゃと呟いていたから。
僕は迷うことなく彼女を追いかけた、もしかしたらまだ近くに居るのかもしれないと希望に縋って。
自分自身を制御出来ずに震えて怯えた彼女の姿がヘドロになって心に居座られて苦しい。
ーー彼女の笑顔を好きになった。
三つの“違う”彼女は僕に笑いの絶えない日常を連れて来てくれた。
本当は最初びっくりしたよ、だって会う度に違っていたのだから。
でも気が付いたんだ。
彼女がいると僕は笑える。
もっと彼女と一緒にいたい、もっともっと彼女の側にいたい。
もう彼女がいない世界何と考えられない、それにまだ知らないのだ、本当の彼女を。
息が切れる、風が切れて行く。風景は線になって心臓の鼓動がいやにデカい。
どれだけ走ったろうか、気が付くと背中が見えた。彼女、鮎原夢の背中が。
「夢ちゃん!」
掛け声は彼女を止めることが出来た、ぴたりと止まっている姿が映ったからそう判断する。
でもこちらに振り向かない。
「夢ちゃん!」
もう一度名を呼ぶ、振り向き笑顔を見せてくれると信じて。
「……いで」
「はぁ、はぁ、夢ちゃ……」
「こっちに来ないで!」
反響する叫びは一点に凝縮して刺されるイメージが湧く、僕に向けられた明らかな拒絶はイメージ通りだと物語る。
だからこれ以上前に進めない、足が止まる、動かない。
「夢……ちゃん、どうしてですか? 僕を……嫌いになったんですか?」
「違う」
「だ、だったら僕が何か夢ちゃんの気に触ることをしでかしてしまいましたか? だったら謝りますから、だから……」
「違う!」
苛立ちが少しづつ僕を蝕んでゆくのを感じる、どうして僕を避ける?
あのニュースからおかしくなった、何故僕を避けるんだ。
「……私は……私は…………醜くて汚ならしいから……」
「何を言ってるんですか、夢ちゃんは醜くもないし汚らしくもない!」
「……私は醜いよ。……それに怖い、怖いんだよ……私、私……どうしたら良いのか自分でも分からないよ!」
また震える、彼女の背中がとても小さくなったような錯覚に陥りながら駆け寄って抱き締めたい衝動を押さえるのに必死だ。
明らかな拒絶を示す彼女に近付いて僕らの関係が崩壊したらと思うと動けない。
「……帰らなきゃ、安全な場所に帰らなきゃ…………お母さん、私を助けて……」
今にも潰れそうな心を引きずって歩き出す彼女、予感が走る。
このまま行かせたらもう会えないんじゃないかって、そんな嫌な予感。
「ま……待って下さい!」
「来ないで! 醜い私を見ないで! お願いだから……今の私を見ないで!」
呪いが込められたかのように足が動かなくなって焦燥する心すらも吹き飛ばす。
今の私を見ないでと切実な望みが更に強固な壁を構築する、遥かに高い鉄壁を彷彿させる絶望。
「……帰らなきゃ、私帰らなきゃ……」
「夢……ちゃん……」
ようやく気が付く、ここは彼女の家の前だった。
こんなにも近くに彼女の帰る場所があったなんて。
まるでスローモーションのように彼女は扉を開け放ち、一度も振り向くことなく扉は無味に閉じる。
バタンとしまる音色は絶望の鐘を思わせる。
分からない、分からない分からない分からない分からない分からない!
何がこうも彼女を変えてしまったのか。
「……荒沢新一」
こいつが夢ちゃんを変貌させた根源、お前は一体誰なんだ。
彼女の心を蝕むこいつは誰なんだ!
「何が起きてるんだ……くそ!」
遠い日に決別した口調で罵った。
誰に向けた言葉だったろうか。
彼女か荒沢新一か、それとも自分か……。
ただ立ち尽くす、これだけが僕の許された行為だった。