『消えた少女と嘆く姉と』
あの出来事から数日、鏡ちゃんはいつもの調子に戻っていた、らしい。らしいと言うのは水面さんがいつもの妹だと教えてくれたのだ。
この頃仕事が忙しくなって来たので帰りはいつも夜遅くなり鏡ちゃんとは会ってない。たまたま夜中ベランダで水面さんと話、鏡ちゃんの情報を頂いたと言う訳である。
「あーー疲れたわね白原、ようやく今日で一段落よ」
「そうですね、良い写真が撮れましたみたいですから」
我が愛車たる軽自動車の助手席で空月九十九先生が背を伸ばし欠伸を。
とある仕事で僕が運転手として先生の送り迎えをしていて今帰るところだ。
「今日は早く帰れるわよ白原、良かったら飲みにでも行く?」
「僕はあまり飲めませんし、今日はゆっくりとするつもりです」
「はっはは、わたしの誘いを断るなんて良い度胸ね? ま、ここのところ忙しかったし、明日は休みだし、ゆっくりしたいって訳か」
事務所に先生を送り届ければ今日の仕事はお終い、後は自由時間となる訳だ。さてどうしたものかな、このまま帰ってゆっくりゴロゴロでも良いし何処かに行く、と言うのも悪くはない。
「運転ご苦労白原、気を付けて帰りなさい?」
「はい、お疲れ様でした」
「ほいほいお疲れ~」
一人となった車内でアパートへと向かう。ま、最近忙しかったから家でゴロゴロしてみようか。お風呂入って、夢ちゃんにメールして、テレビ見て、早めに寝ようかな。
途中スーパーで夕飯の買い物を済ませてアパートに到着、まだ4時過ぎで明るいな。荷物を抱え車を降りると人影を発見した、このアパートの大家さんだ。丁度ほうきで掃除していたらしい、僕に気付き声を放った。
「何ねもう仕事終わったとね? 早かね~、ま、家賃の為にがまだしてくれれば何も文句はなかばってんね!」
「あ、あははは、頑張ります」
二、三言葉を交わしてから二階への階段を上り自分の部屋へと到着。ようやくゆっくり出来るな、買った食材を冷蔵庫にぶち込み畳の上で大の字で寝転がり背を伸ばす。
まだ4時か、暇なので夢ちゃんにメールでもしようか、等と思っていると狙ったかのように夢ちゃんから電話が。
タイミングが良いなと思いながら通話ボタンをぽちり。
「はいもしもし?」
『オレだ十夜、今日も仕事忙しいのか?』
「いえ、もう終わってアパートにいますよ?」
『何! 良し待ってろそこを動くんじゃ無いぞ!』
と言って切れた、そこを動くなって僕の住まいなんだけどなここは。夢ちゃんとも数日ぶりだから会うのは楽しみだけど、あの口調は当然ポニーテールバージョンの夢ちゃんだろう。
一荒れしそうな予感だ。
約一時間後、空が夕方に変わる頃に我が恋人たる鮎原夢が到着を果たす。
何やらビニール袋を携えているみたいだが。
「来てやったぞ十夜、直ぐに電話に出たのを見ると……全く、オレに会えなくて寂しかったんだろ? 寂しがり屋だな十夜は。ま、そんなところが可愛らしいけどな!」
いつの間にか寂しがり屋の称号を頂き甘えん坊に認定されたらしい。若干納得いかないが、会えなくて寂しかったのは事実だけど夢ちゃんに黙っておこう。恥ずかしいから。
「この頃忙しそうだったからな、オレが晩飯作ってやるよ、有り難く思え!」
「本当ですか? それは嬉しいです、ありがとうございます」
「照れるぜ直球なありがとうは! じゃあ今から調理するから台所借りるぞ? ……それとオレが調理で手が離せないからって悪戯すんなよ?」
「……悪戯とは?」
「そりゃあ……『ダメだ十夜、今包丁使ってるから危な……ま、待て、そこを触るな! やだ!』とか、『待て、ここでするのか? え? 両手を離すなだって? あ、馬鹿、そこは大切な……んんっ!』とか、いろんなシチュエーションを試そうとかは……」
「しません!」
何てすけすけすけべな妄想を爆発させるのだ夢ちゃんは、想像力が豊かと言うべきなのか。こうなったら本当にしてしまおうか? 等と羞恥極まりない提案を脳内で掲げたが敢え無く理性がそれを破り捨てる。
何を考えたんだ僕は、頭の中で穴を掘って叫ぶ、恥ずかしくて。
「と、十夜……お前本当にする気なのか?」
「え? わあ!」
いつの間にか包丁をまな板で舞わし始めていた彼女の後ろに急接近していた。
男勝りバージョンの夢ちゃんが顔を赤くし照れている、ああ理性が飛びそう。
「十夜……オレ信じているから」
「はっ! あ、えっと、その……な、何か手伝おうかと思っただけですよ! あははは……」
笑って誤魔化す。嫌々、あれはヤバかったかな。
夢ちゃんを見つめていたら抱き締めたい感情に飲まれそうだった。
「そうなのか? それにしては妙な顔で見てやがったぞ? 憂いているような、悲しげって言うような顔だ」
悲しげ? どうして僕がそんな表情をしなければならないんだろうか、強がって見せるが多分思い出していたのだ。
家族って奴を。
「……夢ちゃん、僕シャワー浴びて来ます」
「へ? あ、ああ、行って来いよ……」
そのままシャワー室へ着替えを持参して浴びる、お湯に打たれながらしばらく頭を空っぽにして過ごす。夢ちゃんの後ろ姿を見ていたら母さんを思い出してしまった、あの抱き締めたい衝動はきっと愛しさからでは無く……寂しさなのかも知れない。
最近昔を頻繁に思い出すな、鏡ちゃんの一件以来。
忘れよう。あれはもう変えることは出来ないのだから。
浴び終えシャワー室から出ると深刻そうな顔の夢ちゃんが待っていた。
「どうかしたのか十夜? 何か変だぞ?」
「……ちょっと昔を思い出したんです。いつの日かきっと貴女に話します、だから……今は何も訊かないでくれませんか?」
「……そう、か。分かった、オレも同じだからな…………ご飯出来てるぞ?」
「頂きます」
美味な夕飯を有り難く食し、いつもの日常を過ごす。ある意味この日常は仮初なのかも知れない。
彼女は毎回“違う”自分の理由を語れないが今だけは笑顔。
僕も自分の過去を話さずに今だけは笑顔。
ほら、仮初らしいだろ?
何かの拍子で脆く崩れさってしまうような日常、ほころびるかの如く不安定な時間。
怖いな、それが解ける瞬間が訪れることが。
そんな思いを胸にしまい今は夢ちゃんと笑い合う……。
時間はあっと言う間に過ぎ去り気が付けば夜が空を染めていた。
時刻は7時過ぎ、まだ寝るには早過ぎる時間帯だ。
「おい十夜、キスするか!」
「ぶっ!」
口に含んだお茶を噴き出してしまった、素早くそれらをテッシュで拭き取りながら夢ちゃんを一瞥。
「いきなり何ですか、いつも有無を問わずにして来るじゃ無いですか」
「いやな、たまには予告してみるのも面白いかと思ってな! 目論見通り十夜おかしかったぜ?」
以前にも目を瞑れと言われたがその延長戦か? 見事に引っ掛かってしまう自分が情けなかった。
「あははは、今の顔はおかしかったぜ! 十夜は最高だな!」
「……酷いですよ」
「あれ? 何だよ拗ねたのかよ十夜、許せよ十夜、オレが悪かったよ…………オレのパンツ見るか?」
と醜悪染みた笑みを僕に刺して来るのだった、案の定あたふたしながら彼女にウブたる僕の感情を弄ばれる始末。
と、そんな時にインターホンが鳴り響く。
「誰でしょうか? ちょっと待ってて下さい夢ちゃん」
「ああ、分かったエロ十夜」
「僕はエロじゃありません!」
玄関へ向かい扉を開く、するとそこにはお隣さんたる存在、桜井水面さんが現れたのだ。
「あ、水面さんでしたか、こんばんは」
「こ、こんばんは……」
あれ、気の所為か水面さんの様子がおかしいような気が。
気の所為なら良いのだが、一体何の用だろうか?
「何か用事ですか?」
「あ、あの、か、鏡がこちらにお邪魔していませんか?」
「え? 鏡ちゃんまだ戻って来て無いんですか?」
「ええ、いつもなら遅くても6時くらいには帰って来るんですけど……もしかしたら白原さんのところではないかと思ったのですけど……居ないんですね?」
もう外は真っ暗だ、まだ戻って来てないなんて心配だ。
こんな時はどうしたら良いのだろうか? 探しに行くべきか待つか。
「……あ、水面さん、鏡ちゃんの学校に電話して訊いてみたらどうですか? もしかしたら学校行事で遅れている可能性だってあります」
「そ、そうですね、電話して来ます!」
素早く隣りに駆け込んで行く水面さんを見つめた、学校にいてくれることを願うしかない。
そうであったなら嫌な想像をしなくて済む。
「あのちびっこ大丈夫……だよな?」
やはり夢ちゃんも心配そうにこちらへと歩み寄って来た。
僕は情けないが気休めしか言えない。
数分後、水面さんが慌てて走る姿を目撃してしまう。出来れば見たくなかった姿だ。
「み、水面さん、鏡ちゃんは?」
「か、鏡は……今日学校に登校してないって担任の先生が……か、鏡は面倒臭がりですけど……学校をサボったことなんて今まで無かったのに……」
動揺が水面さんを締め上げ手を震わさせて顔色を蒼白へと着色し始める。
とにかく今は探す方が懸命だ。
「落ち着いて下さい水面さん、とにかく探しましょう。鏡ちゃんが良く行く場所を教えてくれませんか? そこを重点的に探しましょう。逐一携帯で連絡を取り合いましょう、申し訳ないけど夢ちゃんは……」
「ふざけんな、オレも探すに決まってんだろうが! 人数は多い方が効率的なんだ、大丈夫必ず探し出してやる!」
「……あ、ありがとうございます鮎原さん、白原さん……」
手分けして鏡ちゃんを探すことになり水面さんに良く行くであろう場所を聞き、そこへ向かう。水面さんは家の周辺を、夢ちゃんは鏡ちゃんの学校周辺、そして僕は町へと駆けた。
走り回り良く行くショッピングセンターや洋服店等を探し回る。
しかし空振り、疲労だけが蓄積されて行く。
不意に携帯が鳴る、出てみると夢ちゃんからだった。
『どうだ十夜いたか?!』
「いえ、まだ見つかりません……その分じゃ夢ちゃんも見つからないみたいですね」
『ああ……学校から近くの公園とか探したんだがな……』
何処に行ってしまったんだ、まさか誘拐とかじゃ無いだろうか? 悲しいが物騒な世の中だ、前に女子高生を連れさって数年監禁した男が逮捕されたニュースを見た。
まさか鏡ちゃんもそうだと言うのか?
「とにかくもう少し探しましょう。今から水面さんに連絡を取りますから」
『分かった、ならまた後でな!』
素早く水面さんの携帯に連絡を入れる。
「水面さんですか? 今……」
『鏡見つかりましたか!』
「い、いえ、まだです……すいません、状況を訊こうと思いましたが水面さんも……」
『み、見つからないんです、近所のスーパー、コンビニ、色々探しましたけど……鏡がいない、鏡がもしいなくなったらわたし、生きる希望が無いですよ……鏡がいたから辛いことを乗り越えて来られた、鏡の笑顔がどんなにわたしの支えになったか……』
震える声を漏らし、如何に妹であり家族である鏡ちゃんが大切なのかを知らしめた。大丈夫だと言うのが精一杯だった、必ず見つかると伝えるしか出来ない。
それからしばらく探し回りもしかしたら帰って来ているのではないかとアパートに集合することになった。
微かな希望は落胆に飲み込まれて消えて行く。全員がアパートに戻ったのだが、鏡ちゃんの姿は無い。無人の部屋を呆然と立ち尽くして膝が地面へと落下し力が奪われたかの如く水面さんが脱力に襲われていた。
「大丈夫ですか水面さん!」
「お、おい、しっかりしろ!」
「鏡……どうして帰って来ないの? まさか事故に合ってるんじゃ……もしかしたら事件に巻き込まれて……鏡、鏡……」
もう一度探しに行こう、それでも見つからなかったら警察に捜索を頼むしかない。
そんな提案を口にする前に音がそれを阻む。
何処からか聞こえて来るそれは水面さんの方から。
慌てて取り出した音の発生源たる携帯電話が鳴り続けていた。素早く水面が出る。
「もしもし……? ……か、鏡なの?」
咄嗟に僕は失礼だったが水面さんの携帯に耳を寄せ話を聞くことにした。心配だったから余計にそうさせたのかもしれない。
『……お姉ちゃん』
「鏡なのね? 貴女無事なの? 何処にいるの? 直ぐに迎えに行くから場所を……」
『お姉ちゃん、今までありがとう。わたしお姉ちゃんに感謝してるんだ』
「……鏡?」
様子がおかしい、一体どうしたんだ鏡ちゃんは?
『わたしね、叔父さん叔母さんと一緒に住むことにしたんだよ』
「え? 何を言って……だって叔母は貴女を……」
『だから突然居なくなってごめんなさい。今までありがとうお姉ちゃん……大好きだったよ? バイバイ……』
「ま、待って鏡、わたし訳が分からないよ、鏡、鏡! かが……」
無情にも通話はそこで途切れた、今にも涙が決壊しそうな顔で姉は固まる。
程無く手から携帯を地面へと落とし虚しく音が反響を。
「どうしたんだよ、十夜今の電話は妹からだったのか?」
「……え、ええ、そうですけど……」
虚無が水面さんを支配していた、何も考えられないような気の抜けた表情なのか、或いはショックで全てが吹き飛んだのか。
見ているこっちが悲しくなりそうな程に無で、銅像の如くその場に縫い付けられていたのだった。
「み、水面さん、大丈夫……ですか?」
「……どう、して、鏡は……どうして……どうして……」
壊れた機械を連想させるように『どうして』と呟き続けて行く。思考を拒み、現実を受け入れないかのようだった。
あの電話はおかしい、鏡ちゃんが叔母と暮らしたい等と思う訳が無い。数日前、叔母に責められた姿がそうだと断言させるのだ。
あれは鏡ちゃん自らによる意思だったのか? それとも……。
「しっかりして下さい水面さん! 落ち着いて考えて下さい、鏡ちゃんがあの叔母のところへ戻るなんておかしいと思いませんか!? もしかしたら……」
「……叔母に、何かされた、もしくは何かを言われたかも、ですか?」
「そうとしか考えられませんよ、僕は叔母の非道を目の当たりにしています、だからその可能性を示すことが出来る。だから行きましょう、これから叔母のいる家に、きっと、いや絶対鏡ちゃんがいる筈です」
もし強要されて叔母と暮らすと言ったのなら今現在その叔母の家に鏡ちゃんがいる筈。
もうこれ以上鏡ちゃんと水面さんの悲しい顔何か見たくない。
「水面さん、僕が連れて行きます。だから鏡ちゃんを迎えに行きましょう、鏡ちゃんは水面さんにとって大切な家族何ですから」
「白原さん…………分かりました、守るわたしがいつまでもいじけていたら格好悪いですよね? 行きます、鏡はわたしの大切な大切な家族で妹何ですから!」
そうとなったら善は急げだ。直ぐに水面さんを車に乗せ夜の世界へと発進させる。助手席はいつも夢ちゃんなのだが今回は水面さんだ。
後ろの座席には夢ちゃんが拳を鳴らしながら気合いを入れている。
「オレが性悪女をボッコボコにしてちびっこを助けてやるよ!」
「ゆ、夢ちゃん暴力はダメですよ。でも鏡ちゃんを傷つ付た報いだけはきっちりと取らせませんとね」
「何か十夜の方が危ない発言してるような気がするぞ?」
そんないつもの僕らを水面さんは見つめていた、疑問に思いながら。
僕をじっと見つめてから水面さんが問う。
「ありがとうございます白原さん、鮎原さん、わたし達姉妹の為にここまでしてくれるなんて。でもわたし分からないことがあります、どうしてそこまで必死になってくれるんでしょうか白原さんは? わたし達はただお隣りだけの間柄なのに」
「……少しですけど鏡ちゃんを見ていたら昔の自分とダブって見えて人事じゃないみたいに心配してしまったんです。親近感と言いましょうか……なんだかじっとしていられなかったんです。それに鏡ちゃんをあんなに酷い目にされて目撃した僕にはもう他人事では無くなっていた気がしたんですよ」
「そうですか……白原さんも同じような経験を? ……あ、ごめんなさい、わたしったら図々しいですね貴方の過去を聞こうだなんて」
「気にしないで下さい、水面さんは話してくれましたから話すのは礼儀だとは思うんですが……まだ夢ちゃんにも話してないので卑怯ですけどいつか話します。とにかく今は鏡ちゃんが先決ですよ」
誰しも過去は存在する、幸福かそれとも不幸だったのか。
ただそれだけの違い。いつの日か語る時が来るのだろうか? 今更ながら。
車を走らせて数時間が経過しただろうか、数県離れた場所に水面さんの叔父夫婦の家があるのだ。高速道路を駆け走り、ようやく叔父夫婦が住まう県に突入した。
窮屈な車内で長く過ごした所為か体が何だか痛い。しかしそれが何なのだ、水面さんの大切な家族を助けに行くのだ、それくらいでへこたれてどうする。
一度喝を入れ再び気合いを入れ直す。そのまま水面さんの誘導で車を走らせて数十分、ようやく叔父夫婦が暮らす家の前にやって来た。
「ここが叔父夫婦の家ですね?」
「はい、もう何年ぶりですけど全く変わって無いあの家です」
「良し、殴り込みだ! 準備しろ十夜! 桜井姉!」
「夢ちゃん落ち着いて下さい。とにかく行きましょうか、鏡ちゃんを助けないと」
そうして一番最初に車を降りたのは水面さんだった。妹を助ける為に気負う。
直ぐに僕らも降り、聳える家を視界に納めた、昔ながらたる瓦屋根の木造住宅、二階建てで今はそこに明かりは無く、変わりに一階の居間らしき窓から光が漏れていた。
周りは山や田んぼや畑が目立ち、農家が多いと見える。民家は多少距離がありお隣りが随分向こうで生活の灯を揺らめかせている。ここはもう村と言っても良いのかも知れない。ここで水面さんと鏡ちゃんが一時住んでいたのか。
すっかり闇に支配されたここは虫の鳴き声が合唱し合い調べを生む。
「……じゃあ行きましょう、鏡を助けなきゃ」
「そうですね、行きまし……」
それは不意と捉えて何の問題も無いと思う、何かが空気中を振動させながら鼓膜を震えさす。
それの正体は物音。
何だ? 何かが倒れたような音が家の中から発生し、瞬時に嫌な予感が駆け回り汗を滲まさせた。それから数秒後誰かの声が僕らに届く。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!』
「か、鏡の声! 鏡!」
「あ、待って水面さん!」
玄関を有無なく開け放ち上がり込む。急いで僕らも後を追うことに。廊下を駆け一番最初の畳部屋へと駆け込むと安堵と怒りの感情が同時に抉る。
会いたかった人物がいた、桜井鏡ちゃん。彼女がそこにいたのだ。しかしここに鏡ちゃんがいるのならば叔母もいるのが通り。
地に頭を両手で抱えて震える鏡ちゃんを踏み付ける叔母の姿が忌まわしく飛び込む。
「鏡!」
「なんだいあんた達は! 勝手に入って来やがって!」
「鏡に何をしてるのよ! その汚い足を退けなさい!」
正に鬼の形相と表現しても間違いでは無い、水面さんは怒りに顔を歪める。
妹を守る、その意思が強固となって具現化した形相。
「水面、あんたよくもいけしゃあしゃあとあたしの前に出て来れたねぇ、このメス豚が! お前が鏡を連れて逃げ出すから近所から笑われ者さ! 夫に上手く説明しなくちゃならなかったし大変だったんだ! くそが!」
「ひぎぃい!」
再度鏡ちゃんを踏み付ける叔母、痛がる鏡ちゃんを目の当たりにし水面さんが動く。叔母に体当たりを食らわせ二人で畳に落ちた。そのまま取っ組み合いとなる。
髪を引っ張り合いながらの取っ組み合い、黙って見ていられる僕では無かった。
「水面さん! 夢ちゃんは鏡ちゃんをお願いします!」
「わ、分かった!」
直ぐ二人に駆け寄り中へ割って入る、確かに鏡ちゃんに酷い仕打ちを目撃したら黙っていられる訳は無い。しかし取っ組み合いを行えば感情が爆発的な上昇を伴い、下手をしたら人を殺し兼ねない。
こんな奴は死んだ方が良いと思うかも知れないが裁かれるべき場所で罰を与えるべきだ。だから先ずはこれを止めなくてはならない、いくら虐待を受けてそれを理由に殺人を犯してしまえば法は味方になってはくれない。
法が味方になって初めて被害者なのだ、加害者では誰も優しくは無い。
それでは水面さんも鏡ちゃんも不幸になるだけだ。
「止めて下さい! とにかく落ち着いて下さい!」
「邪魔しないで下さい白原さん! わたしはこいつが許せないんですよ! 鏡を傷付けたこいつが憎い、憎い、憎い!」
「キィイイイイイ! 水面のくせに生意気、生意気ぃ! 鏡の保護者はあたしさ! あたしの“物”を取るのが我慢ならないんだよ! こんな薄汚いブタだとしてもあたしの物さね!」
「鏡は物でもブタでもないわ! わたしの可愛い妹よ! ふざけないで!」
更なる力が髪を引っ張り合い、取っ組み合いが激しさを増す。
強引に二人の間へと割り入り力強く引き離す。だが髪を引く力が強くて両者の毛が何本か地に降る。水面さんを抱き締める形で止めるがせっかくの綺麗だった髪の毛がグシャグシャとなり無残なことに。
それは叔母も同じでグシャグシャ、しかし僕は心の何処かでざま見ろと罵っていた。
「このメス豚がぁ!」
直ぐさま手の平を叔母に突き出し制す。
「近付けば次は僕が相手です!」
と睨み付けてやると一応動きを止めたが叔母は怒り狂っていた。
「何だいお前は! 関係ないだろうが! 生意気、生意気ぃ! そうやって前も邪魔しやがって!」
「確かに関係ないですよ、でもね、いたいけな女の子をハイヒールで踏み付けようとする姿を誰が放っておけますか! それに今回も誘拐染みた真似をして恥ずかしくないんですか貴女は! いくら保護者だとしても平和に暮らす姉妹を引き裂こうとする蛮行は見過ごせません!」
「鏡はわたしのたった一人の家族! あんた何かに渡さない! わたしは知ってる、何故鏡を連れ去ったのか! あんたはわたし達の両親が残した遺産が欲しいだけでしょう!? 大した額では無いけれどそれが欲しくて欲しくて鏡を連れ戻した! そうですよね? わたし達のどちらかをちゃんと世話してないと貰えないと思ったんでしょ? 保護者としての実績が無いとダメだと思ったんでしょ! わたし達がいなかったら遺産は転がり込みませんからね! 何て……何て嫌らしい人かしらあんたは! そんなことの為に鏡を傷付けたんだ!」
そんな理由で鏡ちゃんを連れ去り、暴力を加えていたと言うのか? 一度夢ちゃんが介抱している鏡ちゃんを眺めた、ガタガタと震えて夢ちゃんに縋るように抱き付いていた。
良く観察すると首筋、捲られた袖から覗く腕等に浮かぶものがあった。それは痣、青く変色を遂げた皮膚がどれだけの苦痛を味合わされたかを物語る。
遺産が欲しくて鏡ちゃんを連れ去って痛め付けて、挙句にブタや物扱いだと? 滲むように、浸透するように憤怒が這い上がり心を焦がし炙り出す、怒の感情を拳に。爪が皮膚に食い込む程に握り締めるが何とかそれを押さえ込む。
そうしないと目の前の叔母を殴り殺してしまいそうで。
「ふざけないで下さい、……貴女に、貴女に鏡ちゃんを弄ぶ権利何て無い!」
「偉そうにあたしに説教をたれよってのかい! 何様何様! 大体鏡が電話で言った筈だよ! あたしと暮らすってさ、だったらあんたらに指図される覚えは無いね!」
「あんたが鏡に無理矢理言わせたんでしょうが! 鏡は絶対にそんなことを言わないわ!」
「なら本人に訊いてみなよ! 鏡! あんたはあたしと暮らしたいんだろ? どうなんだい! ええ!」
何を馬鹿なことを言っているんだこいつは、震える鏡ちゃんがそんなことを望むとは思えない。叔母の抉るような視線と罵倒に近い問い掛けが震える少女に突き刺さる。
「鏡ぃ! あたしと暮らしたいんだろ? そうなんだろ? 答えないかい!」
「脅すような言い方をしないで! 鏡が怖がって……」
水面さんの訴えを遮るかのように、妹の声が響く。
それは貫くかの如く。
「…………は、はい……わ、わたしは、叔母さんと……暮らしたいです」
「……え? 鏡、今……何て言ったの?」
「わたしは……叔母さんと……暮らしたい……です」
これは幻聴なのか? だってそうとしか考えられないじゃないか、虐待を良しと認識している奴と一緒に住む?
信じられないと言わんばかりに水面さんが妹へと駆け寄り肩に手を。
「何を言ってるの鏡、貴女今何を言ってるのか分かってるの? こんな人のところにいたら鏡は鏡で無くなっちゃうわ。鏡はわたしとずっと一緒に暮らすのよ? わたし達は姉妹何だから……ねえそうでしょ鏡?」
「わたしは、叔母さんと……暮らしたいです」
「何を言ってるの! 忘れた訳じゃ無いでしょ?! こいつが貴女に何をしたのかを! どうしちゃったの鏡、お姉ちゃんのこと嫌いになったの? 何が悪かったの? 謝るから、悪い点だって直すから、だから、だからわたしと一緒に暮らしましょうよ! 今までそうだったじゃない!」
「ははっ、あははははははははは! あははははははははははははははははははははははははははは!」
鼓膜を食いちぎられる勢いで飛び込んで来た不快なる震動がその発生点に視線を向けさせる。
あざ笑う、叔母が姉に指を差しながら不穏な空気を部屋に撒き散らす。
「鏡は姉のお前じゃなくてあたしと暮らしたいんだってさ、あはははははは! 良い顔するねえ水面、妹に裏切られたんだ無理も無い。あはははははははははははは!」
「か、鏡、どうして? どうしてそんなことを言うの? 鏡、わたし鏡が居なきゃ……楽しくないよお……」
「あははは、あははははははははは! ひひひひ! ほらもう気がすんだだろ不法侵入者! とっとと指をしゃぶって帰りな! さあ鏡、こっちにいらっしゃい?」
「……はい」
叔母へと歩き出す鏡ちゃんを取られまいと水面さんが後ろから抱き付いた。
「嫌! 行かないで鏡!」
「お姉ちゃん……離して」
「離さない、わたしは絶対に離さないから! 鏡が何を考えているのかは分からないけど、これだけは分かる、そっちに行ったら絶対に鏡が不幸になる! それだけは嫌なのよ、鏡が不幸になるって分かってるから、だから離したくない! 鏡、どうしちゃったの? どうしてそんなことを言うの? お姉ちゃんに教えて!」
必死に訴える姉、妹は無言を貫く。それが水面さんを抉るのだ。無言が長ければ長い程に悲しみを呼ぶ。
理由を喋らない、その苦痛が水面さんを切り刻む。
「何しているんだい鏡! 早くこっちに来な!」
「は、はい……」
縋る姉を退けようとする鏡ちゃんの手を今まで見ているしか出来なかった夢ちゃんが制する。力強く無言貫く妹の両肩に手を置き、夢ちゃんが諭す。
「ちびっこ、それは本当にお前の意思なのか?」
「……わ、わたしが決めたんだよ、叔母さんと一緒に暮らすって」
「本当に本当か?」
「ほ、本当だよ」
「なあちびっこ、本当だって言うならさ、何で……目を逸らすんだよ」
ビクッと鏡ちゃんが反応を見せた、それは核心を突かれたと言わんばかりに。確かにそうなのだ、鏡ちゃんは一度も誰とも目を合わせようとしない。
「くそ女が何を言ってんだい! 変な言い掛かりを付けようってのかい!」
癇に触る声がうっとうしかった、僕は素早く叔母を睨み付ける。
「何だいあんたその目は! あたしに……」
「しばらく黙れ!」
「ヒィ!」
怒鳴ってやると縮こまらせることに成功出来た、今から夢ちゃんが話すのだ、叔母には黙っていて貰う。
あまりの怒りが口調を曲げてしまったがこの際仕方が無い。
一応静かになった叔母を睨み続け牽制を。その間に夢ちゃんがまた話出す。強い意志を纏わせた視線が夢ちゃんから放たれ鏡ちゃんへと贈られる。
「ちびっこ、本当に自分の意志で決めたのなら真っ直ぐに目を見て話せる筈だろ? それが出来ないのは自分の意志では無いと言っているも同じだ……大好きなお姉ちゃんの目を真っ直ぐに見て言えるのか? 自分で決めたと言えるのか?」
「わ、わたしは……」
「鏡、お姉ちゃんは真っ直ぐに貴女の目を見て話せるわ、行って欲しくないって堂々と見つめて言えるよ? 言って欲しい、貴女がどうして叔母と暮らしたいと言ったのかお姉ちゃんに言って欲しい」
水面さんは鏡ちゃんの正面に立ち、そっと手を握り締めた。
もうここからは姉の仕事だと、夢ちゃんは離れる。
「教えて鏡、お願い」
水面さんの瞳はぶれること無く妹に視線を送る、縋るかのように。右往左往する鏡ちゃんの瞳、目を合わせられない。
しかし強い思いは確実に伝わって行く、自分を心配し愛してくれる姉を確かに感じているのだ。
とその時、妹から一筋の線が頬落ちて行く。
「……わ、わたしは……わたしは、わたしは……お姉ちゃんとずっと一緒が良い、ずっとずっとずっと、お姉ちゃんと居たいよお!」
「それが本当の気持ちね?」
「うん、うん! グスッ、うぇっ……わ、わたし、お、叔母さんに言われた……叔母さんと暮らさないと……お姉ちゃんに酷いことするって、いっぱい酷いことをするって言われた……グスッ、だからわたしは嫌だったけど……叔母さんのところに……来たんだよ、お姉ちゃんに何かあったら嫌だ! わたし従うしかなかったよぉ!」
決壊した感情が涙となって外界へと溢れ出て行く、鏡ちゃんの悲しみを胸で受け止めた水面さんは強く強く妹を腕で包む。愛しさを育む中でもう一つの感情が渦巻いて今にも暴風へとなりそうに膨らむ。
怒り、目を鋭利に変化させ妹を痛め付けて根源を睨む。体も心も、そして姉妹の絆すら傷付けた張本人を罵倒し始める。
「やはりあんたが鏡に何かを吹き込んだのね? 何て言ったのよ、妹に何を言ったぁ!」
「ふ、ふん、知られちまったら仕方ないねぇ、いいさ教えてやるわよ鏡に何て言ったのか、どんなお仕置をしてやったか、何もかもをね! あの日偶然町中で再会した鏡を見ていたら腹立たしくなってねぇ、そこの男が邪魔しなければもっと早くに連れて帰って来れたのに、だからあたしはねあの日そこの男と鏡を尾行したのさ! そうしたら住む場所を特定出来たって訳さ! 場所さえ分かれば何とかなるからね!」
尾行されていたのか、くそ何て卑劣で嫌らしい奴なんだ。
苛立たしい叔母は更に話を続けた。
「まさか会えると思って無かったからね、友人の結婚式に来てみたらこのムカつく男と鏡がいたのが驚きだったよ。あの日は場所を覚えるだけに止めて後日鏡を迎えに行ったのさ! ボロアパートから出て来た鏡を尾行して人気が無い場所で対面さ! 驚き怯える姿が面白かったねぇ、直ぐに蹴りを入れて手を焼かせてくれたお仕置をした。そのまま言う事を聞かせてもっと人気が無い路地裏へ移動して勝手に消えたお仕置をした! まあ痣が目立つと厄介だから服を着た場所だけを蹴ってやったのさ!
一時間も掛けてずっとお仕置した! はは、そいつを裸にしてみな、腹とか痣がいっぱい出来てるからさ! いっぱいお仕置して言ってやったんだよ……もしあたしと暮らさないのなら水面を痛め付けてやるってね! そこら辺のチンピラに金渡して拉致させて楽しい楽しいレイプをしてやるってね! 何日も何日も監禁させてガキを孕ませるまで苛めてやるってね! きっと水面は泣き叫んで傷付くよって言ってやったらあっさり素直になったよ、あははは! さっきまでやっていたのも教えようか? お腹はいっぱい痛め付けたから次は背中を……」
「ふざけるなぁああああああああああああああああああ!」
悪たる言葉を怒涛の如く切り裂く姉の叫びが反響する。
「あんたは人間じゃない! 人の皮を被った鬼よ! 悪魔よ! よくも、よくも鏡を……絶対に許さない! 殺してやる!」
また叔母へと飛び掛かる水面さんを阻む為両手を広げて止めた。怒りに狂う彼女の眼光が容赦無く突き刺さる。
「退きなさい! わたしはあいつを許さない! 邪魔しないで!」
「落ち着いて下さい、こんな奴の為に水面さんが人殺しに成り下がる価値は無いですよ! 怒りは理解出来ます、でも暴力に暴力で立ち向かったら水面さんも叔母と同類になってしまいます!」
「じゃあどうしろって言うんです! わたしはあいつが憎い、憎い! わたしは……」
「お姉ちゃん!」
最愛なる妹の声が怒りに焼かれた姉に届く。
憑物が落ちたかのように怒りを霧散させ、妹へと振り返る。
「お姉ちゃん、お兄ちゃんの言う通りだよ、人殺しはダメだよ……わたし、お姉ちゃんがそんなことするとこなんて見たくないよ! わたし、お姉ちゃんの……笑顔が好きなんだよ! お姉ちゃんの優しい顔が好き! だから……怖い顔しないでよ、泣かないでよぉ……グスッ、叔母さんと同じ怖い顔しないでよぉ……」
「鏡……」
消失する狂気、力を地面に奪われたように膝が落下する。
姉を思う優しい妹は駆け出し抱き付く、たった一人の家族に。
「お姉ちゃん、怖い顔しないでよ、お願い」
「かが、み……」
「ふふっ、ふふふっ、あははははははははははははははは! 何これ、何処の再放送ドラマよ! あははは、いい気味ね水面! あははは!」
「テメェ、調子に乗るんじゃねぇ!」
次は夢ちゃんに狂気が宿る、だけど手を出さない。きっと僕や鏡ちゃんの言葉を受け止めてくれたと信じた。
「確かに貴女は調子に乗っている、鏡ちゃんを傷付けて水面さんを悲しませて、夢ちゃんが怒るのは無理ないです。それに……僕も腹立たしい、本当に腹立たしい! 貴女はやり過ぎた……警察を呼びましょう。恐喝、誘拐、障害、残忍な計画性、これを法に裁いて貰いましょう」
「ふ、ふざけんじゃ無いよ! 鏡の保護者はあたしさ、警察に連絡したって……」
「しかし虐待していたのは事実です、それだけは曲げられない真実、無罪何て甘っちょろい考えは捨てるべきです」
ズボンのポケットから携帯電話を取り出し警察へ連絡を入れようとボタンを押し始めた。
「や、止めないかい!」
叫ぶ叔母、しかし僕は止めない。法の下で罪の報いを受けさせねばならないとの意思が止めさせない。
そんな最中、追い込まれた人間に“それ”はどう映ったのだろうか? 天からの導きの如くとある手段に踏み込ませる魔力を秘めたもの。
“それ”を叔母が手にし、線を走らせてた。
「ふざけんじゃ無いよ! あたしゃ警察沙汰は御免だよ!」
叔母の手にはしっかりと握られていた、凶器に成り下がった果物ナイフを。テーブルの上に置かれていた小さな笊の中にはリンゴと果物ナイフがあったのだ。それを持って僕目掛けて切り掛かった、血走る眼を見開いて。
ぎりぎりで交わすことが出来たが丁度良く携帯に衝突して部屋の隅に飛ばされる。後ボタンを一つ押すだけで良かったのだが今はそれどころでは無い。
「警察沙汰は御免さ! そんなことになったらあの人に見捨てられる、数十年連れ添った夫に見捨てられる! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! あの人と別れるなんて真っ平だよ!」
夫を愛している、それはどれ程尊い言葉だろうか。こんな曲がった形で愛を証明するとは皮肉としか思えない。興奮状態でナイフを突き出している、いつ感情を爆発させて向かって来るか分からない。
後ろには女性が三人もいる、男である僕が守らないと。
「お、落ち着いて下さい、殺傷事件を起こせば今よりももっと罪が重くなります、だからナイフを……」
「うるさいんだよさっきからベラベラ綺麗事ばかり並べやがって! あたしを馬鹿にして! 何様! 何様! お前ら何か死んじまえば良い! 生意気な男も癇に触る女も、水面も鏡も……ああそうさ鏡だよ鏡! あんたがピーピー泣くのが腹立たしかったのが悪いのさ! 親が死んだくらいで毎日毎日毎日! 毎日泣きやがって! 泣く声が聞こえる度にイライラした! お前が最初からおとなしくしてればこんなことにはならなかったんだ! 裁かれるのは鏡、お前に決まってる! 世間がどうこう言おうが構いやしない、あたしがお前を裁いてやるさ! ほら何してんだい、前に出てきなさいよブタァ、ブスリと刺してやるからぁああああ!」
「ふざけないで! 鏡は何も悪くない! 大好きな人が死んで悲しいのは当たり前よ! 親が死んだくらいで泣くなですって? あんたこそ何様! 御託を並べて全部鏡の所為みたいに言って自分が正しいって言いたいの! 鏡はわたしの大切な妹です! 可愛い妹です! 鏡を刺すって言うならわたしを刺しなさい! もう鏡に悲しい思いはさせない! 酷い目にも合わせない!」
最愛の妹を後ろへと退避させ前へと出る水面さん、ダメだ挑発したら。
今なら本当に向かって来るぞ叔母は。
「じゃあ水面、お前が裁きを受けな! 妹の不始末は姉の不始末だ!」
「刺せば良い! だけどもし鏡に傷を付けたら許さない!」
「や、止めてお姉ちゃん!」
切実な妹の叫びが引き金のように叔母が動く。
真っ直ぐにこっちに向かって来る、ナイフを突き出して。
三人の壁として身構える、迫る鋭利なる凶器に冷や汗が噴き出す。上手く捌けるだろうか、もし失敗したら腹に風穴が開く。
そんな最悪のシナリオを孕ませた事態が直ぐ目の前にあるのだ。
だから、鼓膜を激しく震わせたそれが事態を変化させると教えられた気がする。
第三者からの叫び。
「止めないか!」
その声が叔母の足を止め、視線を縫い付けた。驚愕たる叔母の眼が見開き廊下を捉えて固定されていた。それに続き僕らもそこへと振り向く。
「今日子、今の話はどう言う事だ?」
「あ、ああ……な、何で……」
「どう言う事かと訊いとるんだ! 答えないか!」
見た目40代後半の立派な口髭が特長的な男性がそこに上下灰色のスーツを纏った男が立っていた。黒の短髪、目が鋭く意外にしわが少ないダンディな人で威厳を感じる。
「水面や鏡の話は本当か! お前の話も本当なのか! どうなんだ!」
「あ、あ、あなた……」
「……叔父さん」
鏡ちゃんの呟きに気付かされた、この人が水面さんと鏡ちゃんの叔父で叔母の夫。
そうだ何で今まで失念していたのだろうか、叔父夫婦が暮らす家に叔母だけしか居ないのはおかしいではないか。
今まで何処にいたのだろうか叔父は? 手に鞄を携えている様子から仕事帰りか?
「あ、あなた、今日は仕事で会社に泊まり込むんじゃ……」
「思ったよりも早く片付いたんだ、そんなことはどうでもいい! ナイフを捨てないか! それにわしが知らないところで水面と鏡に今まで何をして来た! 全部話せ!」
「ち、違うのよ、違う違う! 水面や鏡が悪いのよ! あたしは何も悪くないわ! あたしが今までやって来たのは仕付けなの、大袈裟に二人が騒いでいるだけ、あたしは……」
ギロリと叔父の睨みが叔母を抉り怯えさせた、その影響かナイフを落とす。観念したのか崩れる形で畳に蹲ってしまう叔母が弱々しく映る。
「叔父さん」
「水面、それに鏡……いきなり家を飛び出した時はびっくりしたが今日子はお前達の母親方の祖父の家に行ったと聞かされていた……仕事が忙しくて今まで連絡すら取らなかったが……いや、これは言い訳だな。全部話してくれるね水面?」
「はい、わたしと鏡が今まで何をされて来たのかを全部話します」
悲惨な過去が今叔父に伝えられた、涙ながらに語る水面さんと悲しげに聞き入る鏡ちゃんの姿が痛々しい。僕と夢ちゃんはもう見守るしか出来なかった、後は水面さん達で解決しなければならないのだから。
全てを聞き叔父がスッと立ち上がり叔母目掛けて歩み寄って行く。胸ぐらを掴み上げ、思い切り平手打ちを。渇いた音が響く。何度も何度も続く。
「子供に何をしていたんだ! 水面も鏡も心に深い傷が残ったんだぞ! 馬鹿もんが! 馬鹿もんが!」
「ひぃ! ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「あまつさえナイフで刺そうとするとは……この馬鹿者がぁ!」
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
最早哀れとしか言えない光景が目の前で展開されて行く、叔父の叔母への怒りと無知だった自分への腹立たしさと後悔が渦巻く。
止まない打撃音が鼓膜を殴り付けるかの如く揺さぶる。
「も、もう良いよ……もう止めてよ叔父さん!」
掲げた拳を止めさせたのは傷付いた少女だった、驚き、申し訳無さ、悲しみ、そんな複雑な顔で叔父が鏡ちゃんへと振り向く。
「もう良いよ……これ以上やったら叔母さんが傷だらけになるよ……わたし、もう良いんだよ……確かに叔母さんが怖くて怖くて堪らない。でも、わたしお姉ちゃんと二人で暮らすようになって生活するってことの大変さが分かったんだよ。毎日洗濯やご飯の仕度、お風呂掃除や買い物も……みんな叔母さん一人でやって来たんだよ、そんな時にわたしが泣いてばかりいるから叔母さんがイライラするのが分かったような気がするんだ……」
ゆっくりと叔父に歩み寄りながら更に鏡ちゃんの話が続く。
「泣いてばかりいたらお父さんもお母さんも悲しいと思う、本当はわたし、強くならなくちゃいけなかったんだよ。だから今なら堂々とお父さんとお母さんに言えるよ、わたしは大丈夫だって……。
わたしはいっぱい叔母さんに苛められたけど復讐何て望んで無いよ、ただ……お姉ちゃんとずっと一緒に居たい、お姉ちゃんとずっとずっと一緒に暮らしたい、ただそれだけだよ! あの苦痛は忘れることは出来ないけど、それをやり返したらわたしも叔母さんと同じになっちゃう……だからもう叔父さん、叔母さんを叩かないでよ。叩いたらジンジンして痛いんだよ、ズキズキして苦しいんだよ、わたし、あのアパートでお姉ちゃんと暮らすだけで幸せなんだよ……だから、だから……もう叩かないでよ、お願いだよ!」
「鏡……お前は……今日子を許すのかい? 酷いことをしてきた今日子を、そして今まで気が付いてやれなかったわしを……許してくれるのかい?」
「……分かんない。でも、もうわたし達を引き裂かないで欲しいだけ。お姉ちゃんとずっと一緒に暮らしたいだけなんだよ」
「鏡……わ、わたしだって、鏡とずっと一緒に居たい、わたし達は姉妹なんだから……たった二人だけの姉妹なんだから」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
互いを愛し涙を流しながら抱き合う姉妹を美しく思えた、不謹慎だがもしこの場にカメラがあったなら撮りたい程の絶景。
憎しみは無い、ただ大好きな人と一緒に居たいだけ。それが清からな妹の心で願いだった。
「今日子、今の鏡を見てどう思う? 散々苦しめたのに願ったのはたった一つだけだ。水面と一緒に居たいとただそれだけの願い。金に目が眩んだお前に、あいつらがどう映る?」
叔父の問い掛けに一切言葉を発することが無かった、ただただ力無く俯いているだけ。
悲しげに妻を眺めた後叔父が姉妹に歩み寄り、土下座を。
「気付いてやれずに辛い目に合わせた、本当に済まなかった!」
「叔父さん、頭を上げて下さい。わたしはやっぱり鏡を苛めて来た叔母を許すことは出来ないと思います。でも鏡は復讐何か望んで無い、だから……わがままですけどわたし達をそっとしておいて下さいませんか? わたし達は辛い過去を二人で乗り越えて今まで暮らしてきました、これからだってそう。わたしは鏡と一緒に居たいだけ……ただそれだけです」
「わたしもお姉ちゃんと今までみたいに二人で暮らしたい、生活は大変だけど……あのアパートがわたし達の家だもん、お姉ちゃんと頑張って来た家だもん」
深く、黙って頭を縦に降る叔父。過去、苦痛たる出来事が傷を残した。
でも二人だけで前を向き、傷を癒し進んで来たのだ。完全に傷は癒えない、しかし二人の絆は以前にも増して強固に根付く。
家族って良いな……。
「……分かった、わしは何も言わん。だが何か困ったことが起きたなら遠慮無くわしを頼ってくれ、良いかな二人とも?」
「はい、ありがとうございます」
「叔父さんありがとう……ねえ叔父さん、叔母さんをもう叩いちゃダメだよ?」
「分かっているよ鏡。お前は本当に優しい子だな、今日子とはこれから話し合いを行う、今までのことを今日子自身に語って貰う。もちろん暴力は無しでこれからのことを話し合うよ……」
こちらに背を向けたままの叔母、今どんな表情をしているのかは分からない。鏡ちゃんの思いを尊重してもう問い質さないが、本当は憎い。
心に傷を深く付けた張本人だ。でも鏡ちゃんは復讐を望まない。叔父と叔母はこれからどうなるのか分からないが、一つだけ確かなことがある。
姉妹がずっと一緒に居たいと願ったこと、これだけは変わらない。
そのまま僕らは叔父に見送られ家を後にした、帰る間際に叔父が言った会話を頭の中で再生させる。
『あいつは今あんな状態だから何も話さないだろう。でもいつかきっと水面と鏡の前で謝らせる、謝って済む問題では無いのは重々分かっている。しかし謝ることから始めないとあいつは何も変わらないとわしは思っている……本当に済まなかった、今はあいつの分もわしが謝る、済まなかった』
車を暗夜の中で走らせて行く、バックミラーには後部座席で寄り添うように眠る姉妹が映っていた。
手を握り合い、肩を寄せ合って夢を泳ぐ。
「良かったよな、ちびっこが戻って来てさ」
助手席の夢ちゃんが二人を微笑ましそうに眺めながらそう口走る。
「ええ、無事に戻って行けて良かったですよ」
「これからが大変何だろうなこいつら、叔母が謝って来るのか疑問だ。本当はあの生意気な叔母をぶん殴りたかったんだ」
「それは僕だってそうですよ。でも鏡ちゃんがそれを望んで無い……それに暴力に暴力で立ち向かったらまた暴力が返って来ますよ」
罪を憎んで人を憎まずと言うのだろうか、しかし今回の一件で鏡ちゃんからその言葉を学んだように思う。鏡ちゃんが必死に自分の気持ちを訴えてくれなかったら今頃どうなっていただろうか。
最愛の妹を苦しめた憎き叔母に飛び掛かった姉を静ませた、それは僕らも同じ。だから鏡ちゃんの優しさが惨劇を回避させてくれたのだと信じたい。
「……今日の十夜は怖かったな」
「え? そうでしたか?」
「ああ、叔母に黙れって叫んだときオレは少しビビったくらいだ。でも必死だったのは分かる、やっぱりオレの男だな! 運転してなきゃキスしてやるのに」
顔に火が点いたような熱が走り回る、恥ずかしいことを良くぽんぽんと言えるものだ。
「夢ちゃんだって鏡ちゃんを諭したでしょ? 惚れ直しましたよ実際」
「十夜、言ってて恥ずかしくないか?」
「その言葉そっくりそのままのしを付けてお返しします」
そんないつもの日常が匂う会話をしながら数時間後、僕らはアパートに戻って来ていた。時刻はもう深夜の3時過ぎで辺りは真っ暗だ。さすがに今日は疲れた、眠気がドッと襲って来る。
いつの間にか夢ちゃんは寝息を漏らしてウトウト。可愛い寝顔をいつまでも見ていたかったが朝まで車で寝かせていたら風邪を引く。当然後ろの二人も。
「着きましたよ、起きて下さい。夢ちゃん、水面さん、鏡ちゃん、起きて下さい」
「……んっ、あれ? もう着いたんですか白原さん? ……ふぁ、……どうやら寝てしまったらしいですね」
欠伸をしながら水面さんが起き上がった、しかし鏡ちゃんと夢ちゃんはまだ起きない。
起こそうと声を掛けようとした時に水面さんに話掛けられた。
「白原さん、今日は本当に本当にありがとうございました。無事に鏡が戻ってこれました、本当にありがとうございます」
「頭を上げて下さい水面さん、あ、ほら、夢ちゃんも手伝ってくれたし水面さんが鏡ちゃんを本当に大切に思っていたから連れて帰って来れたんですよ。僕だけの力じゃないです」
「鮎原さんにだって感謝してます。でも白原さんがわたしを奮い立たせてくれた、力を貸してくれた……だから“これ”はその御礼ですよ?」
「え?」
一瞬息が止まってしまう、頭の中を真っ白なペンキに塗りたくられ思考が空白へと。
感触は柔らかいが正しいだろう、頬に柔らかな彼女の感触が。
呆気に取られる僕の左の頬に彼女が口付けを……。
「ふふっ、こんなところを鮎原さんに見つかってしまったら殺されちゃいますね?」
小悪魔化した水面さんの笑みは淫らさを含ませていると思えてならない。
水面さんが僕の頬にキスをした。
「白原さん」
「な、何ですか?」
「ご馳走様でした、顔赤いですよ? くひひ」
恥ずかしさが顔を赤に塗りたくる、茹でたタコの如く真っ赤っかである。
どうしたらいいのか途方に暮れていると夢ちゃんが起き上がり眠たそうな眼で僕らを一瞥。
「あれ、もう着いたのか?」
「えっと……はい、着きましたよ」
「そっか……何だよ二人で見つめ合いやがって何かいかがわしい事でも……ふあっ、……んんっ、十夜、オレ今日泊まってくから。ふぁ~……鍵貸せ」
下手をしたら地獄行くだったであろう、修羅場になり掛けたが眠気がそれを打破したのだ。
ぎこちなく部屋の鍵を渡すとそそくさと車から降りて僕の部屋へと向かって行く。
「危なかったですね白原さん」
「か、からかわないで下さいよ!」
「ふふっ、ごめんなさい。でもあれは御礼ですからね?」
そんな風に言われたら何も言い返せないじゃないか、いつもの悪戯だったなら言ってやるのに。
水面さんは側で眠る鏡ちゃんの肩を擦り起こそうと奮闘して妹は瞼を上げる。
「鏡、家に着いたわよ……わたし達の家に」
「……う~、眠いよ~」
「ほら車から降りないと白原さんが部屋に帰れないでしょう? 部屋まで我慢ね?」
「……うん」
姉妹が外へと降りるのを確認してから僕も外へ。車の鍵を閉め、アパートへ三人で歩いて行く。
深夜は肌寒くて多少眠気を緩和する。部屋の前まで来ると姉妹は今まで暮らして来た二人だけの空間へと踏み入る。
もう二度と離れないと手を繋ぎながら。
「白原さん、おやすみなさい」
「……お兄ちゃん、おやすみ……」
「おやすみなさい」
姉妹が部屋に入り扉を閉めたのを確かめて自室の扉を開ける。
とその時お隣りの扉が開いて鏡ちゃんが駆け寄って来た。
「鏡ちゃん?」
「御礼言うの遅れちゃった、ありがとうお兄ちゃん、わたしもう二度とお姉ちゃんから離れないから、本当にありがとう……だから“これ”は御礼だよ!」
右頬に駆け寄りジャンプした鏡ちゃんの唇が触れた。
「お兄ちゃん格好良かったよ……ありがとう」
そう口ずさみ鏡ちゃんが帰って行く、姉妹に同じ御礼を受け取り呆然とするしかなかったが、悪い気はしない。
これからも姉妹がずっと一緒にいられることを祈り、我が部屋へ。大の字で眠る夢ちゃんが出迎えてくれた。本当に今日は疲れたな、良い夢でも見たいものだ。
さしずめ仲が良い姉妹の夢を所望するとしようか。
願いは叶うだろうかと思いながら彼女に布団を掛けてやる……。