第九十四章:悲笑
「…………、へ?」
その声は、一体どちらの物だったのだろう。
真っ赤な血煙が晴れたその瞬間。
僕はようやく、自分が生きているという不自然さに気が付いた。
――目の前には、彼女が立っていた。
彼女――遠夜 亜希は、鉈を振り上げた姿勢のまま硬直していて、その全身はバケツごと絵の具でも被ったように真っ赤に染まってしまっている。
――その身体には、注射針のようなモノがたくさん突き刺さっていた。
針は彼女の皮膚を破って血管に突き刺さり、中空になっている芯からは、温かそうで赤くて綺麗な彼女の生命そのものが、ドクドクドクドクと鼓動と共に彼女の身体の外に漏れ出てきてしまっている。
「あ……」
彼女は、その。
すっかり変わり果ててしまった自分の身体を、不思議そうに見つめて――、
「……れ?」
そのまま、どっさりと。
赤く染まった床に、崩れ落ちた。
――何が起きたのか、分からなかった。
真っ白になってしまった、僕の頭では。
理解出来たのは、右腕に感じる、他とは少しだけ違う廊下のタイルの感触だけ――。
「……、そうか」
そこで、やっと理解した。
――ああ、そうか。
……僕は、罠に掛かったんだ。
僕の右手は圧力センサーのタイルを踏んでしまって、背後から飛んできたあの針は、僕の頭上を通り越して目の前の彼女に突き刺さったのだろう。
「グッ……!!」
殆ど死に体の身体に鞭を打って、何とか立ち上がる。
立ち上がって、倒れてしまった彼女の傍らまで歩み寄る。
――彼女は。
力の無い瞳で、真っ直ぐに僕を見上げていた――。
「あ……、あは…は……。
何……し、て……んだろ……、あたし……」
沢山の針が刺さって、赤く染まってしまった顔を僕に向けて。
彼女は掠れた声で空笑いする。
――それは、僕が今まで見た事が無いくらい。
本当に、どうしようもないくらいに悲しい笑顔だった。
「相…原……。
…………、ゴ……メ……」
彼女は、笑っていた。
酷く自嘲気味な、悲しい笑顔で、最期に何かを呟きかけていた。
そして、そのどうしようも無く悲しそうな瞳から、一筋の涙を零すと。
そのまま、ゆっくりと、目を閉じた――。
――赤く染まった、廊下での出来事だった。
もしかしたら、僕に似ていたかもしれない少女。
遠夜 亜希は、そこでひっそりと息を引き取った――。
「…………」
言葉が、出なかった。
色々な感情が頭の中でゴチャゴチャになりすぎて、自分でも今の自分の気持ちがよくわからない。
――彼女は、目の前に横たわっている。
無邪気で、緊張感が無くて、こんな時でも人を気遣えるくらい優しくて、たまに怒って、そして僕を励ましてくれた明るい少女。
遠夜 亜希は涙を零したまま、それを拭う事も無く目を閉じて眠っている。
もう、目覚める事は無い――。
「亜希……」
彼女にどんな言葉を掛ければいいのか、なんて分からない。
分からなかったから、一度だけ、僕は彼女の名前を呼んだ。
その次に続ける言葉がどうしても見つからなくって、そうやって顔を覗き込んでいると、彼女の頬に数滴、ポタポタと僕の血が垂れてしまった。
――、どうやら、血を流しすぎたみたいだ。
僕の両目から零れたその血液は、信じられないくらい色が無いくせに、拭っても拭っても、決して止まってくれそうになんてなかった――。
「……、殺してやる」
ぼやけた視界で、たった独りになってしまった廊下を見据えながら。
僕は一度だけ、決意するように怨嗟の言葉を口にした――。




