第九十三章:血煙
今にも壊れてしまいそうなくらい、全身を震わせて。
彼女は――。
遠夜 亜希は、自らが殺人者であると語った。
「……う、ウソだ!!」
僕は、必死に言葉を紡いだ。
だって――、
「だって君は、さっきまで……」
さっきまであんなに、自分は無実だと言い張っていたじゃないか、と。
「…………っ!!!!」
下段から振るわれた鉈を、左足だけで床を蹴って何とか躱す。
――混乱していたのがマズかった。
躱し切れず、鋭い痛みと共に、抉られた腹から噴水みたいに鮮血が吹き出した。
「お姉ちゃんの姿を見た時に、全部思い出したの。
……お姉ちゃんは、病気だった。
治療費なんかあっという間に底をついちゃって、次の手術の為のお金がぜんぜん足りなくて――!!」
――硬い床を転がる。
ボロボロの身体はもう満足に動かなくて、何度も何度も肉を抉られながら、血溜まりになった床をイモムシみたいに転げ回る。
「……あたしは、あの子を誘拐した。
あたしたちの親を殺して、ウチをこんなに追い詰めたのにのうのうと生きてた、あの家族の子供を誘拐したの!!
……ちょっとで良かった。
ちょっとだけお金を貸してくれれば、一生かけてでも返すつもりだったのに!!」
血が流れていく――。
血痕が床とか壁とか天井とかに飛び散って、激痛でチカチカと光る視界をモダン風な絵画みたいに真っ赤に染めている。
……怒りは、無かった。
だって、一度だけ見えた彼女の顔は。
あちこちを真っ赤な返り血に染めているのに、まるで自分の身が斬られているみたいに悲痛で、それを洗い流すみたいに止めどなく涙を流し続けていたのだから――。
「――でも、ダメだった。
あたし、あの子に顔見られちゃって……。
それにあの子、逃げ出そうとして、暴れて……、
――あんな、あんなつもりじゃなかったのに――!!!!」
肩で息をする彼女は、そこで一度動きを止めた。
嗚咽を噛み殺すように肩を震わせて、懺悔するように項垂れている。
そして、全てに疲れきったような表情で。
自嘲するように、口元を緩めた。
「……でも、それって悪いこと?
あたしは、何も望んでなんかいなかった。
ただお姉ちゃんと二人だけで暮らしていけたら、それだけで十分幸せだった。
なのに……。
それって、こんな目に合わなきゃいけないほど悪い事なの!!??」
確かな激昂を宿した瞳で、彼女は僕を見据えていた。
そして、そのどうしようも無く哀しそうな、酷く辛そうな目を覗いた時。
僕は、僕には彼女を説得なんて出来ない事を悟った。
――殺意っていうのは、人に言葉で説明出来るほど味気ない物じゃない。
怒り、恨み、悔恨、懺悔。
切っ掛けは一言で言えてしまう物だとしても、そこに至るまでに積み重なる感情は、その人のそれまでの人生が統括されて反映されている。
彼女はきっと、幾度と無く辛い現実に打ちのめされてきたのだろう。
両親を亡くして姉妹だけで生きるっていうのは、他人に語れるほど生易しい人生では無かったはずだ。
――それでも彼女は、彼女なりに前を向いて生きてきた。
大好きな姉が居たから。
親は居なくなってしまったけれど、掛け替えの無い家族が居るのだから、それでも自分は十分以上に幸せなのだと信じて――。
彼女の怒りは、僕だけに対する物じゃ無い。
――両親を失った過去。
――復讐も姉の救済も許さなかった、理不尽な現実。
──最愛の姉を惨たらしく失った悲しみ。
それらがどうしようも無く残酷で、どうしようも無いくらい悲しくて、だからその溢れた感情を、彼女は目の前の僕に向けざるを得なくなっているのだろう。
……だったら、僕には彼女を説得する事なんか出来ない。
誰にも僕の人生を語る事は出来ないように。
僕には彼女の辛さを、本当の意味で理解してあげる事なんて出来ないのだから――。
彼女は、鉈を振り上げた。
今までよりも大きく、大きく、更に大きく。
ひときわ鮮明で、スローモーションのように目の前を流れるその光景に、“ああ、これで最期なんだな”と、僕は漠然とそう理解した。
そして、
「…………な」
――何かを、言った気がした。
「…………えだって」
――口が動く。
意識してもいないのに、何かに取り憑かれたかのように唇が言葉を紡ぐ。
そして――、
「お前だって、人殺しのくせに──!!!!」
――瞬間。
目の前で、赤い、赤い、真っ赤な血煙が上がって。
僕の視界が、完全に遮られた――。




