第六十二章:嘆息
――少し、現状を整理する必要があるだろう。
先ず問題になるのが、先ほど氷室に何が起こったのかだ。
幸いにして、それはほぼ特定出来ている。
腕の亀裂を見る限り、氷室はあの滅菌室に仕掛けられていた細菌兵器に感染してしまったのだと考えて間違いは無いだろう。
僕が滅菌室で見た彼ほどは症状が進行してはいなかったようだが、直前に見た資料とも符合しているし、何より皮膚を内側から食い破る病気なんか他に聞いた事も無い。
すると次は、氷室がそれに感染したのはどこだったのかという疑問に突き当たる。
やはり、滅菌室から細菌が漏れていたと考えるのが自然だろうか?
いや、曲がりなりにもここは研究施設だ。
一連の設備を見た感じ、設備そのものに不備があったとは思えないし、何より同じ部屋に居た僕が未だ無事であることの説明がつかない。
――彼が、どこか他の場所で罠に掛かった可能性はないか?
いや、これもおそらくは無いだろう。
滅菌室を出てからは、氷室は僕とずっと一緒だったわけだし、僕は彼の行動に不審な点は一切見つける事が出来なかった。
そうなると彼が細菌に感染出来るチャンスは、僕と出会う前しか無いという事になるのだが――。
初めて氷室の様子がおかしくなった時、彼は「馬鹿な」と呟いたのだ。
聡明なあの男が、僕と出会う前に安々と罠に掛かった挙句、その事実にすら気づかずに行動し続けるなんてことがあり得るのだろうか――?
……、結論が出ない。
この問題は、一時保留すべきだろう。
あとの問題は、細菌の性質そのものだ。
あれだけ派手で非人道的な症状を引き起こす以上、まさかコソコソ隠れて使う事を意図した物とも思えない。
テロや戦争に使う事を念頭に開発された細菌兵器だと考えるのが妥当だろう。
そしてこれらの用途に使う場合、絶対条件として“ある性質”が無くては話にならないという帰結が導かれる。
言うまでもなく“空気感染”だ。
つまりは彼と行動を共にしていた僕たちも、知らぬ間にあの悪魔の兵器に身体を蝕まれている可能性があるという事。
……潜伏期間は分からないが、感染者の二人の進行速度を見る限り、恐らくはそう長い物でも無いのだろう。
「……、大丈夫?」
僕が独りで考えをまとめていると、不意に彼女が声を掛けてきた。
その声には、いつもの快活さを微塵も感じない。
場に満ちる空気は重く、彼女も相当に参っている事が僕でも分かる。
「うん、今のところはね」
なんとなく気後れしてしまい、僕は視線を床に落としたまま答えた。
……、分かっている。これは、僕が気に病むような事では無い。
だから彼女と目が合わせ辛いのも、全ては僕のエゴに過ぎない。
「……考え事? もしかして、邪魔しちゃった?」
僕の隣に腰を下ろして、彼女は不安げに言う。
「いや、大方終わったところだよ。
……今、もう一つ増えたところだけどね」
「?」
彼女は、何のことか分からないといった様子で僕を見ていた。
まあ、分からないように言ったのだから当然だ。
そして、それでいい。こんな事を言ったって、何の足しにもならないって事くらい、僕はとっくに打算で弾き出している。
「……、さっきは、ゴメン」
「……、へ?」
あ~、何を宣ってるんだか。
……まったく、柄でもない。
「氷室が君に掴みかかろうとした時、助けたのは船橋だっただろ? 何でだったと思う?
氷室が感染してるって分かった時、僕は危険を感じて一番遠くに離れたのに、アイツは一番危ない所に突っ込んでいったからなんだよ。
……僕の、悪いクセなんだ。
目の前でナニか危ない事が起きそうだったら、咄嗟にリスクと原因を勘定して、自分だけ一番安全な所に逃げようとする」
――、そう。
結局のところ、それが僕という人間の本質だ。
いつだって自分の身が一番可愛くて、無意識の内にリスクを他人に押し付けてしまう。
だから誰かを助けようと思った時、その願いだけは絶対に叶わない。
……後悔出来るのはいつも、全てが終わってしまった後なんだ。
「はぁ……」
彼女はそんな僕を見て、呆れたようにため息を零した。
――、それでいい。
愛想を尽かしてくれたほうが、僕としても負い目を感じなくて――、
「ぎっ……!!!!」
――瞬間。
バッチーンと、音が鳴るくらい。
彼女は、思いっきり僕の背中をぶっ叩いていた。




