第五章:蜘蛛
「――おっと、そうだ」
ドアノブに手を掛けながら、二階堂は思い出したかのように呟いた。
ニヤッと、その口元がイタズラっぽく緩んでいる。
「相原。お前、いま彼女とかいんの?」
「…………、はぁ?」
……一瞬、確実に思考が停止した。
こんな時に、一体ナニを訳の分からないコトを聞いているのだろうかこの能天気は。
呆れ返る僕に、二階堂はニッと、更に人懐っこい笑みを深めた。
「“数合わせ”だよ。“数合わせ”。
ほら。お前、けっこういいツラしてんじゃん?
お前のことけっこう気に入ったしよ。もし彼女いねーんなら、ここ出たら一緒に合コンでも行かね?」
「…………」
……この男の辞書には、“緊張感”という言葉が存在しないのだろうか。
一体どういう神経でどういう思考過程を経れば、今この場でそんな場所に誘うなどという選択肢が生まれてしまうのか、僕の拙い脳細胞ではちょっと理解出来そうにない。
もしやこの男、ヒトの皮を被った異星人かナニかなのではあるまいか。
「…………、いや、まあ。別にいいけどさ」
――だが、気が付くと。
何故か、ため息混じりにも賛成してしまっている自分が居た。
本当に、この男はお気楽で、とことん場違いだ。
ただ、それでも。きっとそんなヤツだからこそ、僕だって今、こうして冷静を保っていられるところもあるのだろう。
……それに、実際のところ。
彼とは、良い友人になれそうな気がしないでも無いし。
「ただ、僕はあんまり酒には強くないから、その辺りには少し配慮してくれると助か――」
――皮肉気に、返事をしようとした時。
僕は、視界で光る“ソレ”の存在に気が付いた。
真っ直ぐに、真っ直ぐに。
濁って白濁したような、灰白色のドアから虚空に浮かぶ、蜘蛛の糸の様な不気味な線。
線は、ピン、と張り詰める様に伸びており、先端は僕の居る位置からではよく見えない暗闇の中へと溶けていた。
――そういえば昔、本か何かで読んだ記憶がある。
ある種の蜘蛛は、常に巣に居る訳じゃ無い。
糸が透明でも、蜘蛛自身は見えてしまうから、いつもはどこか物陰に隠れて巣の様子を伺っているのだという。
手元には一本だけ、巣から連絡用の糸を伸ばしておいて、それから伝わる振動によって獲物が巣に掛かった事を知る。
そして、哀れな犠牲者がぶら下がって弱り切ったタイミングを見計らって、彼らは糸を伝って“食事”に現れるのだ。
――おかしいな。
どうして今、僕はコンナコトを思い出しているのか。
「待――」
嫌な予感がして、声を掛けた時にはもう遅かった。
二階堂がドアノブを回した瞬間に、暗闇の奥から現れる、無数の黒い鎖の群れ。
鎖は視認すら困難な速度で、僕にはまるで、それが獲物に襲い掛かる巨大な蜘蛛の脚の様に見えた。
脚は、容赦無く二階堂の身体を壊していく。
先ずはドアに伸ばされた左腕。
肉が弾けて骨が見え、ピンク色のナニかがビチビチビチビチ飛び散っていく。
脚からは鶏肉みたいに骨が飛び出し、掻っ捌かれた腹からは赤黒い腸がボロリ、と溢れ、潰れた内蔵から噴水の様に鮮血が散る。
肺みたいなモノが、僕の方まで飛んで来た。
――二階堂は、悲鳴も挙げない。
悲鳴を挙げるべきその口は、とっくに頭ごと、柔らかくフヤケたスイカの様に砕かれてしまっている。
彼だったモノが血溜まりの中に沈むまで、蜘蛛は二階堂の身体を壊し続けた。
――これが、僕がこの施設で初めて見た惨劇。
グチャグチャに壊れた青年の亡骸を見ながらも、僕は希望を捨てきれなかったのだろう。
本当の絶望を、未だ知らなかったが故に――。