第三十三章:激昂
「ほう? 貴様がそんな反応をするとは、些か意外であるな」
氷室は、さして興味の無い様子でそんな感想を漏らす。
「そうかな? 僕は、人間として至極当然の反応だと思うけど?」
僕は氷室の方に振り向き、嫌悪感を顕にしながら言った。
――吐き気がする。
背後の彼に対してじゃ無い。
腐ってしまった彼よりも、目の前に佇むこの男の方に、反吐が出る程の不快感を覚える。
「殺してやるのが慈悲だって?
アンタが本当にそう考えているなら、じゃあどうして僕が来る前にソレをしなかったんだ?
“私が最初に見た時”と言ったって事は、最低でも“次に見た時”があったってことだ。
――もしかしたら、“その次”も」
言って、今にも奥歯を噛み砕きそうになった。
――この男は、見ていた。
彼がああなっていく様を、ずっと見ていた筈なのだ。
「アンタには、僕が来るまで十分に過ぎるほどの時間があった筈だ。
ソレをしなかったとしたら、その理由はたった一つ。
アンタは彼を、細菌の効果を確かめる為の実験台にしたかった。
アンタの頭にあったのは、それだけなんだ。
だからこそ、細菌の効果と“ああなる”までの時間を把握できた今、あんたは“用済み”になった実験材料を“処分”しようとしている。
――アンタには初めから、彼を救ってやろうなんて気持ちはこれっぽっちも無かったんだろう!!
なるほどね。
確かにアンタは、こんな施設に入れらてるのがふさわしい人間だよ!!!!」
「おかしな事を言うのだな。貴様とて、それは大して変わらんだろう」
「そ……」
――そんな事は無い、と言おうとして、断言出来ない自分に気が付いた。
未だ取り戻せない記憶。
何一つ分からない、この施設に居る理由。
蟻に喰われた彼女の怯えた顔が、何度消そうとしても、脳にこびり付いて取れてくれない――。
「もう、分かっているのではないのか?
そこの汚物とて、自らの娘を虐待した挙句に一家心中を決め込んだクズだ。
ああして這い蹲っているのだって、ある意味では因果応報とも言えよう。
……分かるか?
私を嫌うのは勝手だ。だが貴様とて、この施設に居るという事は、その私と同程度のクズだという事ではないか」
「……、ち、違う!!
僕は……、僕はアンタとは違う!!
僕はそんな人間じゃ無い!!」
「ほう? 何が違うというのだ?
詳細を意図的に省いて説明したという事は、貴様の連れがくたばった一因は貴様にあるのだろう?
――それ。やっている事は、私と大して変わるまい。
むしろ自覚が無い分、私より質が悪いくらいだ」
「――――ッ」
――グニャリ、と、視界が歪んだのを見た気がした。
氷室の声が、聞こえない。
自分が誰なのかも分からなくなる。
何のためにここに居て、ナニをすればいいのか。
そんな基本的な事すらも、全てが曖昧になっていくようだった。
――“悪魔”と、僕をそう呼んだ人が居た。
理由は、今となっては分からない。
僕のせいで――僕のせいで罠に掛かって、墓にも入れられないような、小さな欠片になって散らばってしまったからだ。
でも、もしかしたら。
その言葉は、僕自身の本質を指していたのかもしれないのだ――。
扉の向こうには、もう人間で無くなってしまった“彼”が居る。
自分の娘を虐待した上に一家心中を決め込んだという、しかもここに居るという事は、少なくとも自分だけは生き残ってしまったという“彼”。
――なるほど、文句無しに最低の人間だ。
だが、それでも。
同じようにここに居る僕が、どうして僕だけが、彼よりも上等な人間だなんて言い切れる?
彼と僕を隔てている、重苦しい鋼鉄の扉。
その位置が逆だった可能性が無いだなんて、どうして僕は言い切れる?
グチャグチャに掻き回された頭の中に。
ほんの一つだけ、確かな言葉だけが残った。
「…………。
……、救済」
――それだけだった。
僕がどんな人間だったとしても。
彼が、どんな人間だったとしても。
今の僕に出来る事は、結局その一つだけしか存在してはいなかった。
チカチカと明滅する視界を無理矢理に殺して。
僕は、手元にあるその小さなスイッチを押した――。




