第三十ニ章:細菌
氷室の声で、僕は僅かながらも冷静さを取り戻した。
「……何があった?」
吐き気をこらえて、感情を殺して氷室に問う。
「見ての通りだ。あの男は罠に掛かった。
どうやら、こちらの部屋を不用意に探ると発動する仕掛けだったらしいな。
――ほら、右脚に足枷が付いているだろう?
アレに捕まって、あちらの部屋に引きずり込まれて行ったよ。
……全く。だから、あれほど気を付けろと言ったのにな」
――詭弁だ。
賭けてもいいが、この男は彼にまともな忠告などしてはいない。
少しでも彼の身を案じていたのなら、彼を“罠避け”呼ばわりなんかできないし、何よりそうやってにやけてなんか居られる筈が無い――。
「さて、それではあの部屋に仕掛けられていたモノだが。
どうやら、ここで作られていた細菌兵器らしいな。
ほら、床にガラス片が散らばっているだろう?
奴が部屋に入ったと同時に、滅菌室内にあった試験管が割れたのさ。
――あそこまで身体を破壊しながら、命も意識も未だに奪わないほどの手の込みよう。
……全く。作った人間は、一体どれほどの狂人なのやら」
「…………」
――同感だ。
暗殺や戦争で使用するのが目的の細菌兵器だとしても、“アレ”は明らかに度が過ぎている。
喩えどれほど時代が過ぎて、どれほど兵器が進歩しようとも、ソレを使うのはあくまでも“人間”なのだ。
あんな、使う方が躊躇いを覚えてしまう程の苦痛を与える細菌なんか、最早兵器としても扱いにくい。
「――しかし、まあ。ずいぶんと醜く変貌した物だな。
私が最初に見た時には、まだ全身に罅が入り始めている程度であった筈なのだが……」
氷室がそう言う間にも、肉塊は藻掻くように床を引っ掻いていた。
不幸にも、まだはっきりとした意識があるのだろうか。
全身がグチャグチャに腐っていく痛みに耐え、腐敗していく身体を殆ど機能していない目で捉えて、それでも尚、その地獄から抜け出したい一心で肉塊はもがき続けている。
『ナンデ、コンナコトニ……』
『●ハ、ソンナニワルイコトヲシタノ……?』
当然にして、肉塊にはもう唇なんか残っていない。
そんなハッキリと“人間”として識別できる要素なんか、とっくに全部腐って弾け飛んでいる。
でも、僕は。無力に震える彼の口が、ハッキリとそう動いたのを見た。
そう動いたのを、見たのだ――。
「……相原、といったか?
貴様の左にボタンがあるだろう?
細菌を放っておくのも面倒であるし、何よりアレは見るに耐えない。
さっさとソレを押して、部屋ごと洗浄してはくれんか?
ああなっては、殺してやるのも慈悲だろう」
氷室はクツクツと口元を歪めながら、汚物でも見るような視線を彼に向けて言う。
「――、面白いコトを言うんだね」
気が付くと僕は、感情の消えた声でそう呟いていた。




