第二十七章:氷室椿樹
扉の中から聞こえたのは、男の声だった。
全く感情というモノが感じられない、氷の様に冷たい声。
僕は、その声に従って扉へと手を伸ばし――。
一度、その手を止める事にした。
「分かったよ。
でも生憎、ちょっと怪我をしちゃってね。
手を動かすのが辛いんだ。
出来れば、そっちから開けてくれると助かるんだけど」
彼の声から察した違和感と、それへの解釈。
その結果から、僕のこの要請に対する返答を幾通りか予測し、暫し相手の出方を探る。
――七割方、この男は扉を開けない。
そして、もしも“そう”でさえあるのなら、お互いにとってはまだ吉だ。
縋るように、僕は頭の中でそう計算した――。
それから、数秒の後。
予想に反して、扉はあっさりと開いてしまった。
「……ふん。ようやく人が来たかと思えば、随分と食えない男のようだな。
その様子では、扉を引くくらいは何の問題もあるまい」
現れた男は、僕の全身をジロリと観察しながら、訝しげな表情を浮かべた。
身長は高く、細身。目つきが鋭く、眼鏡を掛けた、博士の様な雰囲気の男である。
「……、嘘はついてないよ。
実際、右手もちょっと擦り剥いてしまってね。
動かすのが辛いっていうのは本当さ」
「ほう、なるほどな。
たが、それなら足で引けばよかろう」
「行儀が悪いとね、妹に怒られるんだよ」
その返答がツボにはまったのだろうか。
男は、僕の言葉を聞くなりクツクツと笑いを零していた。
――、よくわかったよ。
その様子を見ながら、僕の頭の中での方針は固まった。
――この男には、絶対に気を許してはいけない。
「……ふん、まあいい。
さて、ともかく中に入りたまえ。
ナニか役に立つ物が見つかるかもしれんぞ?」
内心の読めない眼光で睨みつつ、男は中に戻ろうとする。
――と、何故か。突然ピタリと立ち止まった。
「……、そうだったな。
先ずは、貴様の名前を聞いておかねばなるまい。
何と呼べばよいのか困るからな」
特に興味など無いといった体で、男は非常に事務的な様子で問う。
……なんとも分かりやすい建前だ。
本音はおそらく、僕が二階堂のように、名の知れた犯罪者である可能性を考慮しての事だろう。
名前だけでも記憶を取り戻す手掛かりにはなるかもしれないし、僕が犯罪者だとした場合、罪状によってはとても信用など出来ないからだ。
「……相原 翔太。大学生だよ」
とはいえ、本音を言えば、この男の態度には幾分救われたところもあった。
何しろここまで興味が無さそうだということは、少なくとも、僕は凶悪犯になんか見えないという事なのだから――。
「……翔太、か。
何ともまた、草食動物の様な名が飛び出たものだな。
私の名は、氷室 椿樹。
覚えにくければ、忘れてくれても構わん」
男――氷室は名前を交換するなり、さっさと室内に戻っていく。
警戒を緩めないように気を張り、僕も無言でそれに続いた。




