第二十一章:発狂
「名前……、な…まえ……。
わ、わた……、わたし……は……」
女性はガクガクと震えながら、よく聞き取れない単語をうわ言の様に呟いている。
その顔面は蒼白で、その様子は誰がどう見ても明らかに異常だった。
「!? ち、ちょっと、大丈夫?」
流石に心配になって、僕は、落ち着かせるように彼女の肩に手を伸ばした。
だが、彼女の震えは全く止まらず、それどころか段々と強くなっていっている。
「……や」
「?」
――そして。
やがて、彼女は口を開き――。
「いやぁぁああああ!!!!
あ、悪魔!! 悪魔!!!!
やだ、やだやだやだやだ!! やめて!! こっち来ないでっ!!!!」
――はっきりと。
僕を見て、発狂していた。
「な、ちょっと……」
意味が分からない。
意図が分からない。
分からないから、ただ彼女の肩に手を伸ばす。
「いやぁぁああアア!!!!」
彼女は涙を流し、そして顔を歪めながら、近くにあったナニかを振った。
――ナイフだ。
僕の手当に使われたその刃は、鈍く光りながら僕の脇腹を掠めて、あっさりとシャツを切り裂いた。
薄皮と血痕が、ビリッ、とナイフに引っかかるようにして散っていく。
「ッ……!!」
脇腹を抑えて、反射的に二歩下がる。
そして、その間に。
彼女は金切り声を上げながら走りだしていた。
「な、待て!!」
――マズい。
あっちは、彼女が向かっているあの道は、まだ一度も通った事が無い。
あんな風に、闇雲に走ったりしたら――、
「!?」
――瞬間。僕は、前方に雨の様なモノが降り始めたのを見た。
アレは、スプリンクラーだろうか?
シャワーの様な放水が、ザァザァと音を立てながら、彼女の頭の上に降り掛かっていく。
「や、いやいやいやいや!!
痛い!!
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッッ!!!!」
だが、彼女の悲痛な叫び声だけが。
ソレが、ただの水なんかじゃ無い事を物語っていた。
降りしきる雨が、彼女の身体を爛れさせていく。
初めに変化が起きたのは、真っ先に雨に当たった髪の毛だった。
腰まであった長い黒髪が、のたうつウジ虫の様にウゾウゾぞわぞわと巻き上がり、使用期限の切れたスライムみたいなドロドロの塊へと変わっていく。
滴り落ちた雫は、あっという間に彼女の服をトロかした。
白いシャツが濡れたトイレットペーパーの様にトロリ、と溶けて、水滴は無遠慮にも、中に包まれた彼女の身体そのものに対してまで侵食を始める。
綺麗な皮膚が、万有引力の法則に従ってベロン、とめくれた。腐ったトマトの中身を絞り出すように、破れた皮の合間から、イチゴ味のゼリーの様な赤黒い汚濁がボトボトボトボトと落ちていく。
大きく開いてしまった、白い背中。それが見る間にピンク色のケロイドへと変わっていき、壊れてしまった脂肪層や筋繊維の混ざった、可愛らしい色をした液体になって、肋骨や背骨から糸を引きながらトロトロと床に滴っていく――。
「あ……?」
そして、彼女は。
その、もう原型を留めないくらいドロドロになってしまった自分の手を、どこか惚けた様な顔で眺めていた。
――何らかの未練があったのかもしれない。
壊れた人形の様に口元を歪め、彼女はその、生焼けの牛肉みたいになってしまった指先で、スルスルと髪を梳こうと努力している。
あんなに綺麗だった黒髪は、それだけで、ゴッソリと彼女の頭から抜け落ちていた。
イヤな音を立てながら。
頭皮ごと、ズルリと――。
「あ……、あはは……、あははははははは!!
あは!! あッはははははははははははは!!!!
アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――!!!!」
狂ってしまった様に笑いながら。
彼女は、手近な扉のナカへと入っていった。




