生贄のささやかな願い
わかっていた。本当はわかっていた。わかりたくなかっただけだ。
現実から目を逸らしても何も変わらない。胃の辺りを押さえても痛みは治まらない。
けれど、もし、魔法があるならば、一度だけかかっていてほしかったと紗綾は思う。
もし、神様がいるなら、ささやかな願いだけは叶えて欲しかった。
これから先、またずっと小さな不運が続くとしても。
それでも、少しだけ、ほんの少しだけ許してほしかったのだ。
自分の我が儘でしかないとわかっているとしても。
「置いてくなんてひどいじゃないっスか」
「圭斗君……」
彼は慌てた様子で追ってきた。
そうしてほしかったのか、ほしくなかったのか、紗綾にはわからない。
「俺は紗綾先輩にどこまでもついてくっつーか、一人でドMの人たち観察するドSな趣味はないっスから」
彼は本当のことをわかっていないだけなのではないか。
紗綾の中にそんな思いがあった。
だから、圭斗からも逃げ出したのかもしれない。
「でも、私と関わらない方がいいんだよ?」
生贄は部の伝統であり、近付いてきたのは彼の方だ。
けれども、割り切れないところがある。
今は良くてもいつかは辛くなるのではないかと考えてしまう。
やはり自分のせいで圭斗までもが悪く言われるのは辛いのだ。
「部室の外では話しかけるなとか絶対に言わないでくださいね」
言われて紗綾は困惑した。
思い付かなかったことだが、それが正解なのかもしれないと考える。
寂しくなるが、彼にとってはきっといいのだ
「まあ、言われても従ってあげないし、むしろ、もっとべたつくっスけど。既成事実作るぐらいの勢いで」
圭斗は笑っている。
なぜ、と思うことはある。
けれど、口にするのは怖かった。
見えていない真実を突き付けられるのはあまりに恐ろしい。
「あんなの紗綾先輩は悪くないじゃないっスか」
「私が生贄だから」
誰かが悪いとは思いたくない。仕方がないことなのだ。
きっと、誰もが悪意のはけ口を求めている。
だから、生贄なのだと紗綾は思う。
はけ口のない悪意は好ましいものではない。
「そんなのおかしいっスよ。いくらあいつに黒い噂があるからって」
圭斗は少し怒っているようだった。
「黒羽部長は悪い人じゃないから」
紗綾を生贄にしたのは十夜であって十夜ではない。
十夜でさえどうにもできなかった。彼も認めたくはなかったのだから。
彼に黒い噂が付き纏うのも、彼が何かをしたわけでもない。
彼もまた悪魔であって生贄なのだ。
「大体、あの部長さんだってゆっくり見学していいって言ったじゃないっスか」
「将也先輩は優しい人だから」
彼は優しい。来るなとは言わない、帰れとも言わないだろう。
だからと言って甘えてはすぎていけないのだと紗綾は思う。
「他人のこと気にし過ぎっスよ。俺のこと、気にしてくれるのは嬉しいっスけど、変に遠慮されるのは嬉しくないっスよ」
この一年、紗綾はずっと他人を気にして生きてきた。
それはもう癖になってしまって今更どうにもできない。抜け出せないのだ。
「圭斗君も優しいね」
「俺は……」
圭斗の表情が曇るが、それでも紗綾は続けた。
「幸せにしてあげよっかなんて言ってくれたの、圭斗君が初めてなんだよ? 嬉しかったの。からかわれているとしても」
溜め息一つから始まった出会い、その真意はまだまだわからなくなるばかりだ。
だが、そこで圭斗の表情が険しくなったのがわかった。
「それ、誰が言ったんスか?」
「え?」
「俺がからかってるって誰が言ったの? 田端先輩?」
「け、圭斗君……?」
圭斗の声は低く、そういうものだと思っていた紗綾は困惑した。
彼が指摘する通り、確かにそれは香澄に言われたことだ。だから、心を許すなと。
「無理しないでってさっき言ったのに、やっぱり色々考え込んでたっスね」
常に大丈夫だと言い聞かせている。
それを紗綾は無理だとは思っていなお。
「まあ、親友の言うことを聞くのも良いっスけどね……でも、俺のことも信じてほしいっスね。下心とか言われたかもだけど、不純な気持ちだけで怪しいところに踏み込んで自分の始まったばかりの青春を犠牲にはできないっスよ」
なぜ、圭斗が進んで生贄になろうと思ったのか。
紗綾は聞きたくても聞けなかった。
はぐらかされるような気がして、でも、真実を問い詰める勇気はない。
香澄には色々言われたが、それを見透かされていることにも驚いて、紗綾は何も言えなくなってしまった。
「ねぇ、先輩。やっぱりデートしません?」
優しい声音で言う圭斗に紗綾は首を傾げた。
「デート?」
「用があるっスか?」
「ううん、ないよ」
「じゃあ、決まりっスね」
紗綾は完全に圭斗のペースに乗せられていた。
彼は最初から強引なところがある。不思議とそこに恐怖や嫌悪感はなかった。それは今もだ。
「どこか行きたいところとかあるっスか?」
「えっと、どこでもいいよ」
「なら、今度は俺の寄り道に付き合って下さいっス」
強引ながらも、彼は意思を尊重してくれようとする。
求められたところで紗綾にはあまり主張がない。それでも強要はしてこない。
もしかしたら、そういうところが楽なのかもしれない。
香澄もそうだ。いつもどこかへ引っ張って行ってくれる。
ずるい生き方だとわかっていても、彼女についていくのは心地よくて、楽しくて縋っていたかったのだ。
「俺が本気だってことちゃんと教えてあげるから」
人の本心などわからない。
今の紗綾には彼が冗談でも本気でも構わなかった。
遅かれ早かれいずれ離れていってしまうなら流されているしかないのだ。
デートとは言っても、寄り道といった方が近いものだった。
何となく駅の周辺を歩いて、気になる店を見る。紗綾も気楽についていった。
「紗綾先輩って漫画とか読みます? 少女漫画?」
本屋に入れば、新刊をチェックしながら圭斗が言う。
「少年漫画なのかな? 去年、八千草先輩が部室にいっぱい置いてて、貸してくれたからよく読んだよ」
それは去年、部活が楽しかった理由の一つだ。
八千草はいつも鞄の中に漫画とお菓子を入れていた。
「つーか、部室のヘヴィメタって誰の趣味なんスか?」
CDショップを覗けば、思い出したように圭斗が問う。
部室のドアにはメタルバンドのステッカーが貼り付けられ、部室内にもCDやDVDが置いてあるほどだ。
「先生だよ。八千草先輩より前の部長さんも凄かったらしいけど」
「まあ、あの人、ちょっとロックな感じあるっスけどね」
なぜ、ヘヴィメタなのかは紗綾にもよくわからない。
もしかしたら、心霊的なものなのかもしれないと思って質問したこともある。だが、何か良からぬものが録音されていたり映り込んでいたりするわけでもなく、ただの趣味だと言われてしまった。
どうやら、授業のない時に嵐がくつろぎながら視聴していることがあるらしい。
十夜は不良教師だと言ったが、嵐もなかなかにストレスを溜めているのかもしれず、紗綾はそれ以上の追及を躊躇ってしまった。
「何か紗綾先輩ってファストフードとか食べなさそうっスよね」
ファストフード店の前を通り過ぎて、圭斗が言う。
どういうイメージを持たれているのだろうかと気にもなるが、まだまだ互いのことは知らない。
「たまに香澄と来るよ?」
「マジっスか?」
「でも、ハンバーガーとか苦手だから、いつも香澄にポテト分けてもらったり、ナゲット半分ずつしたり」
「ああ、そういうことっスか」
頻度を考えれば食べないと言った方が近いのかもしれない。
「圭斗君は?」
「好きってほどでもないっスね。見た目不良だからってそんなに不健康じゃないっスから安心して下さいっス」
実のところ、紗綾は圭斗をそれほど不良だと思っているわけではない。
彼は見た目こそ派手だが、怖いとは思わないのだ。
もし、生贄を確保できなかったら、と考える方が恐ろしいくらいだ。
初めて会った時は黒髪だった、というのが影響しているのかもしれない。
最初の出会いがこの状態だったなら、紗綾はそれこそ逃げ出していたかもわからない。
「紗綾先輩って料理が得意そうな感じがするんスよね。毎日自分でお弁当作って持ってきそうな」
「あんまり得意じゃないよ? 何回かに一回は失敗するし、要領悪いし。どうしても、変なところにこだわっちゃって……」
「健康とか?」
「ううん、何かメーカーとか原産国とか……だから、あんまりお弁当とか作らないよ」
嘘は言っていないが、本当のことも言っていない。
正直な話、毎朝弁当を作るのは苦痛だ。
一年の間に弁当を作った事など数えるほどしかない。
「いいじゃないっスか。そういうこだわり。期待しておくっス」
圭斗がニヤリと笑い、紗綾は思う。たまにはお弁当を作ってみようかなと考えてしまう自分は案外単純なのかもしれないと。