悪魔も時には優しく
何やら話し合いが続いていた廊下が静かになり、十夜、圭斗、嵐が戻ってくる。
紗綾はほっとしたのも束の間、続いて入ってきたリアムの姿を見て、ギュッとクッションを抱き締めた。
「貴様でも役に立つ日が来るとはな」
そう言った十夜の顔からは不機嫌さが薄れているように見えた。
「おい、貴様。生贄から解放してやってもいいぞ。いや、むしろ、貴様はいらん。今すぐ帰れ」
十夜は圭斗を見て言う。こういう時は少しだけ機嫌が良いと紗綾は知っている。
だが、その理由はわからなかった。
「なら、紗綾先輩も解放して下さいよ。そうしたら、辞めるっス」
紗綾は十夜にそう言われれば圭斗も素直に辞めてしまうと思っていた。
魔王に逆らう人間は数少ないのだが、圭斗は強気な態度で条件を提示す。
しかし、十夜は紗綾を一瞥して、首を横に振る。
「これは駄目だ」
「何でっスか? 役立たずなんスよね? それなら、辞めたっていいじゃないっスか。むしろ、辞めてくれた方が部長は都合がいいんじゃないっスか?」
「生贄は一年に一人必要だ。こいつがいなくなると次の運営が危うくなる」
「とか何とか言っちゃって、本当は結構気に入っちゃったりしてるの。いざ、辞めるって言うとそれらしい言い訳で引き留めちゃうんだから」
嵐はこの状況をひどく楽しんでいるように見えた。
けれど、気に入っているというのは絶対に違うと紗綾は思う。
紗綾もこれまでに何度か部を辞めたいと言ったことがあり、その度に引きとめられてきたのは事実だ。
しかし、それが部の決まりだというのが十夜の回答だった。
そして、十夜が彼なりに部を守ろうとしているのだと気付いてからは、どんなことがあっても辞めたいとは言わないと紗綾は決めたのだ。
「なるほど、素直じゃない男って嫌っスね」
「そうそう。素直じゃない子なんだよ、うちの十夜君」
「何だかんだ言いながら律義に帰り送ってるし」
圭斗が言う通り、紗綾は部活の帰りはいつも十夜に送ってもらっていた。
もちろん、遠慮したのだが、帰り道が同じであり、最終的には顧問命令ということで落ち着いていた。
尤も、先日から圭斗も加わっている。
「一緒に歩いてるだけ、でしょ?」
「まあ、死神くっついてるみたいな。俺が送るから先に帰っていいって言ったのに、結局、俺のことが信用できないとか言うんスよね」
嵐と圭斗は好き勝手なことを言う。
事実であることは否定できないが、当の本人が黙っているはずもない。
「貴様ら……」
低く唸った十夜だったが、その先は言えなかった。
「あ、呪うとか言うの、本当は照れ隠しなんだよ?」
嵐の一言により呪う発言は封じられた。
十夜よりも嵐の方が一枚も二枚も上手なのである。
「それでも、俺、引かないっスよ?」
圭斗の挑発を嵐は軽く受け流して笑う。
「まあ、ライバルはこのぐらいの方が倒し甲斐があるんだよね」
それは大人の余裕なのか、それとも、一年という差があるからなのかはわからなかった。
「とりあえず、月舘は帰っていいよ」
何を言われるか身構えていた紗綾は嵐の言葉に目を瞬かせた。
「打ち合わせは延期。これから面接するからね」
廊下でのやりとりから締め出された紗綾にはよくわからないが、つまり、いても邪魔だということだと解釈した。
「あ、榊、月舘を送ってあげて」
紗綾がクッションを鞄に持ち替えて立ち上がると嵐が圭斗に言う。
「一人で帰れます。まだ明るいですから」
担任として顧問として心配しているのか、嵐はいつも決して一人では帰らないようにと言う。
しかし、部活で遅くなったならまだしも、この時間はまだ帰宅部の人間が多く帰る時間帯である。
だが、嵐はとんでもないとばかりに表情を変えた。
「変質者は明るい内からでも出るの! 露出狂なんか暗ければ見てもらえないわけだし。それに、他の生徒だって何するかわからないんだよ! 最近の子は何を考えてるんだか……」
前半はまだわかる。だが、後半は仮にもこの学校の教師が言う言葉なのか。
「その明るい内から出る変質者が何を言う」
十夜の指摘はあまりに鋭かったが、嵐にダメージを与えることはできなかった。
「あ、勿論、狼になったら、もれなく俺が牙も爪も抜いてあげるから」
「大丈夫っスよ。俺、紳士なんで」
「紳士? それは俺みたいに大人の男のことを言うんだよ」
「はっ、どこがっスか? 変態教師なのに」
嵐と圭斗は意味深な応酬を続けていたが、十夜は紗綾にさっさと帰れと目で促してくる。
このまま不毛なやりとりが続くと迷惑だと言いたいのだろう。
「お先に失礼します」
「あ、待って下さいって!」
ぺこりと頭を下げ、紗綾は逃げるように部室を出た。
「紗綾先輩、これから、デートしません?」
紗綾が驚いて見れば圭斗は笑っている。
冗談なのか、本気なのか、紗綾にはわからない。
「あのね、圭斗君……先に帰っていいよ?」
「何でっスか?」
「あんまりこういう機会ってないから、陸上部、見学して行こうと思って……」
紗綾は断ることが苦手だ。
それでも、先に帰っていいと言われた時からそれは決めていたことだった。
今までも何度かそうしたいと思っていたのだが、どうにも機会がなかったのだ。
「じゃあ、俺もついていくっスよ」
「でも、折角早く帰れるのに……」
見学はしたいが、圭斗を付き合わせるのは何となく悪いと思ってしまうのが、紗綾の心理であった。
そして、そうなると結論が出せなくなる。
「俺がいると、嫌っスか?」
紗綾は慌てて首を横に振った。
「ううん、圭斗君がいいなら」
「じゃあ、行きましょう」
返答に満足したのか、圭斗は微笑む。
「陸上部の部長って本当にイケメンなんスか?」
グラウンドに向かう途中で圭斗は問いかけてくる。
イケメンなどと言ったのは香澄だった。
「凄くモテるって聞いたよ。優しい人だし」
「へぇ……優しい人、ね」
紗綾が答えれば、圭斗の表情は陰る。
考え込むように黙り込んで、紗綾はどうしたのかとじっと彼を見る。
「圭斗君?」
「好きなんスか?」
「え?」
「その人のこと、好きなんスか?」
なぜ、そんなことを聞かれるのか。
紗綾にはわからなかった。
どうしたら、陸上部のイケメン部長が好きなどということになるのか。
「ふ、普通だよ!」
「本当に?」
「だって、そんなによく知ってるわけじゃないし、たまにちょっと何て言っていいかわからないけど、えっと……」
紗綾は動揺していた。
それをどう解釈したのか、圭斗は溜め息を吐く。
「ねぇ、紗綾先輩。俺、希望持っていいんスよね?」
「え?」
やはり問われることの意味は紗綾にはわからない。
「だって、俺からは逃げなかったじゃないっスか。リアムに迫られて部室に逃げ込んだんスよね?」
「あ、えっと、あれは、何か、ビックリしちゃって、どうしていいかわからなくて……」
「変な外人がわけわかんないことを言い出すから?」
「だ、だって、いきなり結婚を前提とか婿養子とか……」
確かに逃げ出した。
その事実を思い出せば、胸の内に重たいものが溜まっていく気がした。
きっと、それに名前があるならば罪悪感だろう。
「あいつ……俺も本当にクラスが一緒なだけっスけど、どうにも思い込みが激しいんスよ。俺もケイトは女の子の名前だって話から始まり、こんな頭してるもんで、国籍とか聞かれたり、気が付いたらフレンド扱いっスよ」
圭斗は迷惑そうだったが、そこまで邪険にするのは可愛そうだと紗綾は思ってしまう。
けれど、そんな紗綾の心を察したのか、圭斗は暗い表情を見せた。
「俺がクラスの奴に捕まってなければ、もっと早く助けてあげられたのに……」
悔いるような圭斗に、紗綾は言葉が見つからずに困惑した。
そう言われてしまえば、思ってしまうのだ。
もしも、彼が部室にいたら、もっと十夜に迷惑をかけずに済んだかもしれないと。
「怖かったっスよね?」
優しい声音で問われれば、思わず頷いてしまう。
怖かった。だから、逃げるしかなかった。他に術を知らないから逃げるのだ。
「私、人見知り、ひどいから……」
香澄がいなければ何もできない自分をそれで良いと思っているわけではない。
けれど、状況は悪くなることはあっても良くはならない。
どうにかしようとすればするほど、空回って、逃げて、隠れてを続けている。
「俺も結構攻めてるつもりなんスけどね……まあ、気長にってことで。俺、かなり自信あるんで」
どういう意味なのかわからずに紗綾は首を傾げるが、圭斗は笑うばかりだ。
「絶対に無理はしないで下さいっス。約束っスよ?」
「うん、大丈夫だよ」
大丈夫、そう言って笑えば、気付かれないと紗綾は思っていた。
そして、自分さえも抑え込めると。