仮面の向こう側
「ストックホルム症候群、って知ってる?」
不意に海斗は問いかけてくる。
首を傾げる紗綾を見て、彼はクスリと笑った。
「君は近いのかもしれない。能力もないくせに彼らに生贄として捧げられて、ずっと怖かっただろう? 彼に気に入られれば危害を加えられることはない」
「危害なんて加えられる人じゃあありません」
十夜は霊にこそ手をあげようとしても人間には決してしない。怒りを覚えても拳を握りしめて震えるだけだ。
「でも、君が迫害されることを知っていた。そうなることをわかっていて、自分達と違う君を引き込んだ。自分達と同じようには割り切れない君を」
何も言えなくなるのはそれが事実だからか。
紗綾は否定したいのに、彼の言うことが正しく思えてしまう。
香澄の怒りを思い出す。生贄になったばかりの頃のこと、最初から割り切れたわけではない。
受け入れることよりも諦めだった。
それらは否定しようがない。彼には見抜かれてしまっている。
「そして、彼は君を決して助けようとはしなかっただろう? 優しい言葉もなく、見てもいなかった」
確かにそういう点では十夜は見て見ぬ振りだった。
だが、それはきっと、どうにもできなかったからだ。
このまま海斗の話術にはまってはいけない。紗綾は自分に言い聞かせる。
気を抜けば、何度でも誘導してくるだろう。
「これは、君が最早どうしようもなく彼に依存してしまっていることを計りきれなかった俺の敗北だ」
何を言っているのか紗綾にはわからなかった。
諦めたということなのだろうか。
「たとえば君を恐怖で支配することができるとして、それは俺の望むことじゃない。依存なんてまっぴらだ。あんなの、もうごめんだ」
心を操ること、それが彼にできるというのだろうか。
誘導はわかっているつもりだった。けれども、抗えるかはわからない。
彼が本気を出したら、簡単にコントロールされてしまうのかもしれない。
「正直、君は期待はずれだった。大人しそうに見えるのに、まさか反抗するなんてね。それも君の守りなのかな? だけど、忠告してあげよう」
反抗、これはそういうことなのかと、紗綾はぼんやり考える。
自分でも、ここまで言えるなどとは思っていなかった。
今でもどうして言えたのかわからないくらいだ。
「自惚れるんじゃない。君が、ただ何も知らず恩恵を貪ってきただけの君が、彼の支えになれるなんて、なってきたなんて思うんじゃない。勘違いも甚だしい。他人に頼ってばかりで、君は何もしていないし、できない」
海斗は厳しい言葉を投げかけてくる。でも、実際その通りだ。否定する言葉が見付かるはずもない。
十夜は、ただいればいいと言った。
人知れず傷付く彼が支えを求めていたと、それが自分だったと、存在することで少しは彼の救いになれたのではと思うのは自惚れなのだろうか。
自惚れに違いない。十夜の言葉の真意はわからない。彼に直接聞くまでは。
聞いたところで答えてくれるかもわからない。
「それでも、私はまだ要らないと言われたわけじゃないですから」
十夜は紗綾を連れ戻そうとした。それは単にオカ研のルールに則ってのことだったのかもしれない。
何だかんだと言いながらも彼はルールには逆らえない。尤も、オカ研に縛られているのは彼だ。
彼に役立たずと言われたことは何度もある。数え切れないくらいに。
極稀にそうでないとも言われた。不要だとは言われていない。
全ては希望的観測に過ぎなくても、はっきりさせなければならないことがある。
「あなたこそ優しさを捨てたフリをするのはやめたらどうですか?」
最早優しくする必要はないとばかりに海斗は冷たい言葉を投げかけてくる。
だが、そうされて初めてわかった。
それは心からの冷たさではない。
まだ踏み止まっているのかもしれない。彼は無理をしている。
やめさせなければ、きっと彼が壊れてしまうだろう。彼だってやめたいと思っているかもしれないのに。
「勘違いできるのはお幸せなことだ。親切で言ったんじゃない。意地悪だ。俺は君や圭斗みたいに苦悩を知らない人間が嫌いだ。大嫌いだ。本当に憎いよ。神からの贈り物を享受するだけの奴が堪らなく疎ましい」
それは本音なのかもしれないが、全てではない。
現実を受け入れたい思いと受け入れたくない思い、受け入れなければならないと義務付けることで心をごまかして、バラバラになりそうになっている。
「まるで俺は悪魔と身に覚えのない契約を結んだみたいじゃないか」
どうして俺がこんなに苦しまなきゃいけないんだ、小さな声で海斗は漏らした。紗綾には聞こえた。
サイキックであるが故の苦悩、理解されず、都合のいい時だけ必要とされ、望ましい結果が出なければ非難される。
孤独で、逃げ場がない。
十夜は普段から人を遠ざけるようにしている。嵐には教師という職業がある。鈴子や永遠子、久遠は自分の力に誇りを持っている。
圭斗は祖母に言われたように力を隠しているが、時折は解放しているのだろう。救えないとわかっていても、自分が危なくなるかもしれないとわかっていても、ただの人にはなれない。
「あなたは悪い人じゃありません。悪いことに力を使おうとはしていないから」
使おうと思えばいくらでも使い道はあるだろう。今、彼がしていることはあくまでボランティアで高額な報酬を求めることもない。
「そんなこと、君にわかるわけがないだろう? してきたとしたら?」
「いいえ、あなたは誰かを救いたくてさまよっていたんです」
突然、いなくなって、そして、戻ってきた。
「でも、あなたは、本当は人と接するのが怖い。見ることが怖い。心を置き去りにしている。無理して見ようとしないでください。まずは自分の心を見てあげてください」
恋人のことで目を背けてから、彼はずっと前を見ることを止めてしまったように思える。戻ってきたのは彼なりに足掻いて、前に進もうとしたのかもしれない。
何の権限があって、口出ししているのかはわからないのに紗綾は漠然と思う。
「……やはり俺の敗北は覆らないか」
ぽつりと海斗が呟く。何のことかはわからないが、彼は続ける。
「だけど、まだ認めるわけにはいかない」
「負けとかそういうことじゃないと思います」
よくわからないながらにも違うと感じる。
勝ち負けとかそういうことではなかったはずなのだ。
紗綾は彼と勝負をしているつもりはない。これはゲームではない。
「君はずっと諦めていただろう? 俺が出口をこじ開けてやるまで」
今度は海斗の反撃なのかもしれない。
余計なことを言い過ぎたのかもしれない。
そして、何より彼の言う通りだ。紗綾は本来海斗のことに口出しできるような立場ではない。
「実際、その出口は今、君の手によって塞がれたが」
紗綾は彼が出口を作ってくれたとは思わない。
それは彼にとっての出口でしかなかった。それも真実の出口ではなかったが。
「手の打ちようがないと、身動きがとれないと、逃れられないと、板挟みだと、どっちにも転べないと、行き詰まりのところで進むのを止めただろう?」
紗綾はただ流されていた。そうしていればいいのだと思っていた。何も考えなくていいと思っていた。
だから、彼の存在によって光が見えたのは事実だと言える。
これから進めるのかもわからないのに、もう進むしかなくなってしまった。
「だけど、もし、君が出口を見付けたら……」
海斗は言いかけて止めたようだ。その声は小さくてよく聞こえなかったのだが。
「じゃあ、今日はありがとう。感謝はしてるよ」
海斗は微笑む。それは作ったものより、いくらか自然に思えた。
「送ろうか?」
「結構です」
これ以上、海斗といたところで互いに良い結果は生まれないだろう。すぐに一人になりたいという気持ちもあった。
家に帰って、紗綾は携帯電話を開く。だが、迷ってから結局閉じた。
メールではいけない。電話でもいけない。直接会って話さなければならないのだと思ったのだ。
本当は今すぐ、決心が揺らぐ前に、会いたかった。
明日になったら迷うかもしれない。それが怖いのに、今、電話をして会って話がしたいと言って拒絶されるのも怖かった。
香澄や将也にも話すべきだろう。先がいいのか、後がいいのか。
それも迷ってどうしたらいいかわからなくなる。
彼らには今回随分と迷惑をかけてしまった。きちんと話さなければならない。それから、圭斗のこともそうだ。
明日、全ての決着を付けよう。そう決意して紗綾は眠ることにした。眠ればきっと混乱した頭がすっきりするはずだった。




