異邦人はゴーストがお好き
煉獄――カトリック教において死者が天国に入る前に火によって罪を浄化されると信じられている場所。天国と地獄の間。
背中には地獄への扉、目の前には天使のような少年。
その状況で紗綾はここが煉獄なのかもしれないなどと考えていた。
けれど、少年が自分を天国に導いてくれる使者だとは思えなかった。
馬鹿なことを考えているとは思うが、とにかく紗綾の頭は現実逃避しようとしていた。
「サヤ」
笑顔を見せられると妙に緊張する。
金縛りのように動けないが、手は扉に触れている。
後ろ手に開けようとすれば可能だ。
けれども、悪魔に助けを求めれば、天使はどうなってしまうのか。
紗綾の脳裏に数々の犠牲者の影が浮かんだ気がした。
顔も名前もよくわからないが、彼らは隣の部屋で日本文化研究同好会を名乗り、散っていった。
存続していれば、この天使も喜んだかもしれないのに。
そんな時、ガラリと扉が開き、「おい」と不機嫌な声が降ってくる。
振り返れば十夜が眉を顰めて立っていた。普段はあまり動かないくせに、どうやら耐えかねたらしい。
「何をしている?」
「わ、わからないです」
紗綾の返答を聞くなり、十夜の表情は険しさを増した。
だが、この状況を解説して欲しいのは紗綾も同じだった。
「サヤ、あなたはボクの運命の人です!」
魔王と呼ばれ、恐れられる男を前にしてもリアムは態度を変えなかった。
新入生だろうと誰であろうと、知っていようといなかろうと、本能的な恐怖を相手に与えるこの男を前にして。
やはりただ者ではない、と紗綾は思う。
天使と悪魔の対峙、自分ではどうにもならないと判断して、紗綾はさっと十夜の後ろに隠れた。
「さっきからこんな調子で困ってるんです」
「貴様は自分では何もできないのか」
「ここに逃げ込めばどうにかなると思ったんです」
「貴様の駆け込み寺にするな」
「だって……」
十夜の言うことは尤もかもしれない。
だが、これは紗綾にとって一番使いたくない最後の手段だったのだ。
こんなことをせずに済むなら、心も痛まなかった。
「面倒事は持ち込むな。ただでさえ貴様は役に立たないんだ」
「わかってます。でも、助けてくれたっていいじゃないですか。私が廊下を歩いていて後ろ指刺されるのは先輩のせいですからね?」
「知るか。とにかく、俺の後ろに隠れるな。離れろ」
十夜は恐ろしく不機嫌だったが、紗綾は制服の裾を掴んで離れるつもりはなかった。
今、離れればどうなるかは考えられない。考えたくなかった。見放されたくはなかった。
大体、いつもは呪うなどと言うくせに、と紗綾は思う。
「今は先輩しか頼れる人がいないんです!」
そっと室内を見てももう一人の悪魔はいない。
策士は策士で後が物凄く恐いのだが、頼みやすいという利点はある。
言いたくないが、今、天使に対抗出来るのはこの悪魔だけだ。
たまには頼れるところを示して欲しいものだ。
「先生はまだなんですか?」
「知るか。貴様の担任だろう?」
「教室を出たら先生が何をしてるかなんて知らないです」
「俺とて同じだ。俺とあれの関係など忌々しいだけで貴様が思っているようなことは何一つない」
聞けば十夜の機嫌が悪くなる一方だとわかっていたが、早く嵐が来ることを祈るしかない。
「あの、ボクはサヤとお話したいです」
眉を八の字にしてリアムは目の前に立ちはだかる十夜に言う。
すると、十夜はくるりと振り返る。
「だそうだ。出て行け」
吐き出されたのは無情な言葉、紗綾は思わず心の中で「人でなし!」と叫んでみたが、効果のある言葉ではない。人の心も何も、悪魔なのだ。
オカ研の悪魔、あるいは魔王、それが一番的確だ。そう言われるだけの理由は確実にある。
「きょ、今日は打ち合わせがあるって聞きました」
「貴様がいなくても問題はない。どうせ、貴様の予定などないだろう」
「うっ……」
紗綾は反論できなかった。
打ち合わせには絶対参加が原則、特に歓迎会は部にとって重要な行事であり、これも参加必須である。
だが、最早自分の都合など完全に無視されていることを紗綾は今まで忘れていた。
「活動を妨害しなければ貴様が何をしようと関係ない。貴様はただの生贄に過ぎないからな」
今日は妙に冷たい。紗綾は思うものの、やがて気付いた。フォローする嵐がいないからそう感じるだけなのだと。
「どうしたんスか?」
ふらりと現れたのは圭斗、彼は十夜の後ろに隠れる紗綾を見て顔を顰めた後、リアムを見て更に眉間の皺を深くした。
この際、見た目が不良の圭斗なら、第三の悪魔としてどうにかしてくれるかもしれないと紗綾はこっそり思ってしまった。悪魔に縋りたいほど困った状況なのだ。
「何してんの、リアム」
「ケイト!」
「し、知り合い……?」
お互いを知っている口ぶりに紗綾は十夜の背後から顔を出す。
問えば、圭斗は顔を顰める。
「まあ、一応……ただの、クラスメイトっスけど」
「ボク達、フレンドじゃないか!」
歯切れの悪い圭斗の答え、リアムの方は納得できないようだった。
「それで、何? 何でリアムがこんなところにいるの? 紗綾先輩に何したの?」
あからさまに面倒臭そうに圭斗は問う。
フレンドと言うにはあまりに冷たい態度である。
「ボク、フォーリンラブしました」
「はぁ?」
「ヤマトナデシコ見付けました!」
リアムは興奮した面持ちで語るが、圭斗の反応は冷たいものだ。
「ああ、そう。紗綾先輩は俺達のだから帰れよ」
「ケイト、ハクジョーです!」
「薄情じゃねぇよ」
圭斗は冷たくあしらうが、リアムにはあまり効果はないようだった。
尤も、圭斗も似たようなものなのだが。
「あっれー? 何してんの?」
妙に明るい声でやってきたのは嵐だ。
部室の前には圭斗と外国人、部室には十夜とその後ろに隠れる紗綾、その状況に彼は首を傾げた。
「こいつ、紗綾先輩のストーカーっス」
ビシッと圭斗はリアムを指さす。
「ノーッ! 違います!」
リアムは叫ぶが、「ああ、そう」と嵐が呟いた瞬間、紗綾は強い力で部室の中へと追いやられた。
理由もわからずに、十夜を見ればソファーを指さされる。
そこには星の形をしたクッションが置かれている。前部長八千草が紗綾のために持ち込んだ物であり、そこが紗綾の指定席になっているのだ。
そして、ぴしゃりと扉が閉められ、後ろめたい思いのまま紗綾は大人しくソファーに座り、クッションを抱えた。
どうにも「ハウス」と言われた気分だったが、そうしているしかなかった。
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「ここね、関係者以外立ち入り禁止なんだよね」
嵐はにこりと笑むと冷たい眼差しをリアムへと向ける。
紗綾は絶対に向けられることがないからこそ気付いていないが、香澄が彼を恐れる理由はこれである。
障害を排除するために彼は手段を選ばない。
「しかも、あの子、呪われてるからさ……手を出さないでね」
「ノロワレテル?」
多くの生徒がオカ研を恐れ、敬遠する。
生贄に罪はないのだが、関わると不幸がうつると思われているものだ。
しかし、呪いの正体があるとするならば間違いなく嵐と十夜である。
だが、紗綾の不幸の正体に二人は関与していない。
「我がオカルト研究部の生贄に手を出す人間は何人たりとも無事では帰さないよ?」
「部を汚す者は呪ってもいいルールになっているからな」
嵐が怪しい笑みを浮かべ、十夜は滅多に見せない冷たい薄笑いを浮かべている。
そして、「何スか、それ……」と呆れた圭斗もすぐにニヤリと悪い笑みを見せた。
「まあ、俺も賛成っスよ? 紗綾先輩狙うなら全然フレンドじゃないし」
「俺、君のことも許してるつもりはないんだけど、自分が連れてきた生贄に何かあったら可愛そうなことになりそうだからね」
小さいながらも確実に聞き取れる声で言われ、圭斗は紗綾が嵐を策士と言ったことを思い出した。
それでもオカ研の男達はその一瞬団結していた。そのはずだった。
「ボク、ゴーストいる家住んでました!」
困った顔をしていたリアムは急に明るい表情で言い、その場の空気を固まらせた。
「それ、本当?」
嵐はすぐには信じようとしなかった。
そういう話を聞いたことがないわけではないが、何分、この少年とは初対面である。信じるに値するかどうかはわからない。
十夜も圭斗も同じだった。
「ゴースト、我儘です! 悪さすると殴ります! それでもダメなら、窓から投げ飛ばします」
リアムは笑顔で物騒なことを言い出した。
そして、圭斗の脳裏を嫌な予感が過ぎる。それはすぐに現実となった。
「……話ぐらい聞いてやろう」
うるさそうに顔を顰めていたはずの十夜が部室を示し、圭斗は思わず溜め息を吐きたくなった。
自信はあっても、彼がいると面倒なことになるのは間違いない。
だからこそ、圭斗は十夜が話を聞くだけ聞いて追い返すことを期待していた。
けれど、それが徒労に終わることも本当はわかっていた。