悪魔が来りて皮を剥ぐ
穴に入りたい。
昨日のことを思い出す度に紗綾はそう思ってきた。
消えてしまいたいとさえ思いながらも昼休みになり、紗綾は学食で席を取り、香澄を待っていた。
人のいるところはあまり得意ではないが、香澄がいれば安心だった。
不意に見詰めていたテーブルに影が落ち、紗綾は香澄が随分と早く戻ってきたのだと思ったが、そうではなかった。
「隣いいっスか? 紗綾先輩」
声、口調、思い当たる後輩は一人しかいない。
いいよ、と言おうとして顔を上げた紗綾だったが、相手の顔を見て戸惑う。
「えっと……」
言葉が出なくなったのは目の前にいたのが思い浮かべた人物ではなかったからだ。
鮮やかなオレンジに染められた髪、着崩した制服、胸元にはシルバーのネックレスが輝き、明らかな不良だ。
紗綾の交友関係にはまずいない人種である。
「まさか、俺のこと忘れた?」
悪戯っぽく輝くブラウンの瞳だけが、昨日と変わらないように見えた。
「圭斗君……?」
そうっスよ、と彼は頷く。
やはり、予想は間違っていなかったのだ。
「ここ、空いてるっスよね?」
「あ、うん、だ、大丈夫だよ」
見た目は違っても圭斗は圭斗だ。
断る理由は無いのだが、紗綾はまだ混乱していた。
「ひどいじゃないっスか、紗綾先輩」
隣に座った圭斗は傷付いたように言うが、紗綾は困惑するしかない。
昨日見た人間を簡単に忘れるはずもない。これほど派手な外見をしているならば尚更なのだ。
だが、昨日の時点では目立つとは言ってもこれほどではなかった。
「だって、髪の毛……」
「入学式ぐらい正装しておこうと思って」
色が全然違うと紗綾は思うが、思い返せば不自然な黒であったのだ。十夜よりもずっと黒かった。
ミステリアスに感じたのもそのせいだ。スプレーで染めていたのだろう。
目印となるものが違っていれば間違ってしまうのも仕方がない。
圭斗はどこかそれを楽しんでいるようでもあった。
「もしかして、黒い方が好みっスか?」
「あ、えっと、綺麗な色だね」
じっと見詰められて戸惑いながらも、紗綾は思ったままのことを言う。
何となく光が当たったらもっと綺麗なのではないかと思ったのだ。
しかし、そんな様子を見た圭斗はクスクスと笑った。
「何か緊張してるっスね、不良は怖くて嫌いっスか?」
昨日と同じなのに、見た目だけが食い違っている。
けれど、紗綾が緊張するのはそのせいではなかった。
怖いとすれば、それは彼ではなく、この場所なのだ。
「えっ、何? そのイケメン不良」
言葉に困る紗綾の前にようやくやってきた香澄は圭斗を見るなり、驚いた顔をした。
彼と紗綾が並んでいることが信じられないとでも言いたげだった。
「えっと……生贄?」
咄嗟に言葉に困った紗綾は正直に答えてしまった。
香澄ならば事情を知っているのだから問題ないが、圭斗に少し悪い気もした。
「あんた、あれで本当に犠牲者出したとは聞いたけど、こんなイケメンを騙したの?」
「うっ……」
香澄には今年の部員は無事に確保できたと報告してある。
休み時間では足りなかったのもあるが、彼女は詳しくは聞こうとしなかった。
だから、紗綾も言わなかったのだ。しかも、彼が不良と言われても仕方ない様相であることは紗綾も今知ったところである。
「犠牲なんて思ってないっスよ、俺」
騙されてもいないんで、と圭斗が言えば香澄が眉間に皺を寄せる。彼女がそうする時は良くない傾向だと紗綾も学習している。
「あんたさ」
「榊圭斗っス」
親友が明らかに怒っている。
そんな状況にも紗綾はおろおろして二人を交互に見るしかなかった。
圭斗はあの十夜の前でも挑発的だったのだからどうしようもない。
「私は紗綾の親友の田端香澄、私の紗綾に変なことしたら容赦しないからね」
「さりげなく自分のモノ発言しないでくれません? 紗綾先輩は俺が幸せにするって決めたんスから」
「うわっ、超生意気!」
「生意気で結構」
これまで不良さえも黙らせてきた香澄の牽制も圭斗には全く効かなかった。
けれど、彼が本当に本気なのかは紗綾にもわからなかった。
「って言うか、散々イケメンとか言っておいて奈落落としなんて酷いっスね、田端先輩」
「あー、勘違いしないでくれる? 広い意味で言っただけだから」
「香澄の口癖なの」
紗綾はどうにかフォローしようと努めたつもりだった。
彼女はとにかくやたらとイケメンと言うが、彼女の好感度とは一切関係ない。
「そう。だから、全然私の好みじゃないし、入学早々調子に乗り過ぎ。怖い先輩にボッコボコにされちゃえば?」
「返り討ちにしてやるっスよ」
香澄は圭斗のことが気に食わないらしい。
彼女の広い交友関係の中には多少不良っぽい人間もいるのだが、オカ研の人間を嫌っているのだから必然なのかもしれないと紗綾は思う。
それでも、オカ研に引き込まれた紗綾を見捨てないのは理不尽な事情を知っているからであり、それだけの理由で友だちを止めるような薄情な人間ではないからだ。
「そう言えば、紗綾先輩はどうしてオカ研の生贄に?」
昨日聞けなかったんで、と思い出したように圭斗が言う。
だが、紗綾にとって一年前、自分の身に起きた不幸を口にするのは少しだけ抵抗がある。笑い事ではないからだ。
それを察した香澄が、眉を顰めたまま口を開く。
「あの男の……何だっけ? 背後霊?」
香澄は決して十夜の名前を口にしたがらない。
そして、彼のすることに一切理解を示さない。
だから、紗綾は「守護霊様だよ」と訂正する必要があった。
「どっちでもいいんだけど、何かこっくりさん的な怪しいお告げでしょ?」
「何かね、霊的なものに選ばれたらしくて、拒否権なしで……」
香澄のいい加減な説明に加えて、紗綾の説明も要領を得なかったが、圭斗は何となく納得したらしかった。
「それで超常現象、ね。いかがわしいにもほどがあるけど」
陰謀、策略、呪い、どんな言葉でも表わしきれないほど、その出来事は当時の紗綾の常識の範囲を超えていた。
最近では、オカルト的なことに、少し耐性もできてきたが、やはり、それだけは今でも不思議に思っている。
「クッキーが担任なのも運が悪いのよね。あんたって、本当、ありえないくらい貧乏くじばっかり引くわよね。一年前はそんなわけないって思ってたけど、改めて実感するわ」
香澄が言うように、十夜の暴挙を諌めるべき嵐が認めてしまったからこそ、紗綾は生贄になってしまったのだ。
生まれてから一度も紗綾は当たりくじというものを引いたことがないが、当たりたくない思うものには何度も当たってきた。
「説明会の時に名前が誤字ってて半泣きだったところをクッキーに声かけられたんだっけ?」
「だって、三つも漢字が違ってたら別人だよ……」
今でこそ笑い話になっているが、当時の紗綾には大問題だった。
完全にパニックになっているところに声をかけてくれたのが嵐だったのだ。
もしかしたら、その時から既にこの運命は決まっていたのかもしれないとさえ思うのだが。
「しかも、その後もちょいちょい間違えられてるんでしょ?」
「先生は気を付けてくれてるみたいだけど、他は……」
最早、わざとなのではないかと疑いたくもなるほどの安定の誤字率を誇っている。
さすがに三文字の間違いはないが、一つはもう当たり前である。
「大体、あの男、狐にでも取り憑かれてるんじゃないの? そういう顔してるし」
「確かに」
「やっぱりこっくりさんだったんじゃない?」
好き勝手なことを言う二人に、この場に十夜がいたら絶対に呪われると紗綾は思う。
彼こそこういう場所には現れないと知っているが、どこで耳に入るかはわからないものだ。
十夜はなかなかに地獄耳である。
「まあ、きつい顔っスよね。俺の方が断然イケメンだし」
「あんた以上のイケメンはそこら中にいるわよ。うちの部長の方がイケメンかもね」
圭斗は十夜に反感を抱いているらしかったが、香澄に対しても同じようだった。
だからこそ、紗綾は不思議に思う。
なぜ、自分には好意的なのかと。そう自分が勘違いしているだけなのだろうか。
「あー、何部なんスか?」
面倒臭そうに圭斗が問う。聞かなければならないような気がしたのだろうか。
「陸上部だけど、何か?」
圭斗はニヤリと挑発的な笑みを浮かべる。
「あー、自分の限界を超えることに喜び感じちゃう、ドMの人ね」
「せめて、逆にドSだって言いなさいよ」
どっちも他の陸上部員に失礼だと思う。
紗綾はそう言いたくもなったが、口にできるはずもなかった。
そうして、紗綾はそのまま圭斗と香澄が事あるごとに睨み合うという生きた心地のしない昼休みを過ごす羽目になってしまったのだった。
いつもと違って楽しいが、一度で十分だと言いたいほどだった。