悲しみの悪魔
バタンと扉が閉まる音が妙に大きく響いた気がした。
圭斗が目の前に立つ。
その表情は近くで見ると険しさを増しているようで怖いと感じる。
まるで何かに怒っているかのような不機嫌なオーラが出ているように見えるのだ。
「司馬先輩と何話してたんスか?」
「えっと……」
紗綾は口ごもる。
まさか、その話に彼のことが含まれていたなどと言えるはずもない。
どうしたものかと紗綾が迷えば、圭斗は肩を竦めた。
「俺も……先輩の悩みの原因なんスよね。むしろ、俺が悪いんスかね」
圭斗は自嘲気味に呟き、紗綾の胸はズキズキと痛む。
その表情を見ているのが、なぜか少し辛かった。
「いいんスよ、わかってるんス。困らせてるってことは、ずっと、わかってたんス」
何も言わなくてもいいとばかりに圭斗は制する。
それでも、紗綾は何かを言わなければと思うのに言葉が出てこない。
困っていないとは言えないのだ。
圭斗のことも含めて、困惑しているからこそ、将也と話をしたのだ。
そして、何も答えが出ないまま圭斗が現れた。
「だから、せめて今ちゃんと話をしようと思って」
どうして、彼はこんなにも辛そうな顔で言うのか紗綾にはわからない。
彼もまた答えを出すのに、苦しんでいるかのような。
「でも、もう時間……」
時計を見る。丁度、予鈴が鳴り、紗綾は一瞬でも助かったと思ってしまった。
そう思わずにはいられないほど、今の空気は少しばかり重たくて、息がし辛いような気さえするのだ。
すると、圭斗ニッコリと笑う。
「サボっちゃいません? どーせ、次、九鬼センセーの授業らしいじゃないッスか」
圭斗は軽く言うが、紗綾はサボるなどと考えたこともなかった。
それが嵐の授業となると、どうなのだろうかと思ってしまう。
担任であり、部の顧問である彼は怒るだろうか、悲しむだろうか。
そもそも、なぜ、圭斗が紗綾のクラスの時間割を知っているのか。
「あの人なら、先輩に甘いから、きっと、なかったことにしてくれるっスよ」
さすがにそれはない、と紗綾は思う。
嵐が言っていることは、冗談だと思わなければならないと思うのだ。
それは、きっと、彼なりに気遣ってくれた結果なのだと思うのだ。
たとえ、本気であったとしてもなかったことになどできるはずもない。してほしくもない。
「まあ、補習とか言われたら、絶対に逃げた方がいいっスね。って言うか、俺が全力で阻止するし、部長も許さないと思うっスけど」
「でも、部活の時間って、何しててもいいから……」
嵐なら補習と部活動を一緒にしかねないと紗綾は思うのだ。それぐらいのごまかしならばする可能性は大いにある。
「やっぱりわかってないっスね」
圭斗は笑い、紗綾は首を傾げたが、彼はその先を教えてはくれなかった。
「あー、一応、保護者公認っスけど、逃げてもいーっスよ。どっかのバカみたいに追いかけ回したりしないんで」
「保護者?」
一体、誰のことだろうか。真っ先に思い浮かぶ人物こそありえない気がした。
「田端先輩。何か上手く誤魔化してくれるらしーっスよ? ノートもとってくれるって」
ありえないと可能性を排除したばかりの人物だった。
けれど、それで全てが納得できてしまうのだ。
香澄ならば、この場所がわかっても不思議ではないし、当然時間割もわかっている。
それならば、ここで逃げ帰ると、どうなってしまうのだろうか。
香澄のお膳立てを無駄にしたということになるのだろうか。
「今、話さないとずっと話せなくなる気がするんスよね。お互いに」
確かに、圭斗の言う通りだ。そう思うからこそ、紗綾は何も言えなくなる。
今、逃げてしまえば、ずっとそうしてしまうだろう。
もしかしたら、彼を避けてしまうかもしれない。答えが出るまでなどと自分に言い訳をしながら。
「それに、確か今日、何かあるとか言ってたじゃないっスか。えーっと……」
紗綾も忘れていたわけではないが、忘れていたかったことだった。
「うん、認定式……」
「大層な……ってか、物凄く嫌な名前っスね」
歓迎会を終えた生贄が通過しなければならない儀式が認定式である。紗綾からすれば洗礼に次ぐ洗礼である。
今回に限っては、二人の内のどちらかに決めなければならい上に、その大役が紗綾に押し付けられている。
だからこそ、憂鬱なのだ。
だからこそ、その前に、彼の話は聞いておかなければならないのかもしれない。
そして、チャイムがその決断を促した。
二人で並んで、適当なところに座れば青春ドラマみたいだなどと紗綾は思う。
しかし、気分はそれほど軽やかではない。
授業をサボるなどという初めての経験にドキドキもない。
後ろめたささえ、圭斗が何を語るかの方がよほど不安で掻き消されている。
そんな中、圭斗はゆっくりと話し始める。
「俺、先輩のこと幸せにする、って言ったじゃないっスか」
紗綾はコクリと頷く。
初めて会った時、彼はそう言った。
それが始まりだった。だからこそ、鮮明に覚えている。
彼が初めてくれた言葉だった。
「それを嘘にしたりしないって誓える。これは本当」
じっと見詰めてくる圭斗の表情は真剣そのものに思えた。
もしかしたら、そんな彼に浮かれていたところもあったのかもしれない。
そこまでの言葉をくれたのは彼だけだったから嬉しかったのは本当だ。
だからこそ、見失ってしまっていたのかもしれない。
けれど、わかったこともある。
「私は……幸せになれなくてもいいの」
幸せになれるとしたら、それは嬉しいことだと紗綾も思うが、今はなれない。なるわけにはいかないのと思う。
「そんなこと言っちゃ駄目っスよ。言わないでくださいっス」
悲しげに圭斗の表情が歪む。
弱々しく首を横に振る彼を見ると切なくなるが、抱き締められるわけでもなかった。
「誰でも幸せになれる保証なんてないけど、権利までは誰にも奪えない」
「うん、わかるよ。圭斗君の言ってること」
「だったら……!」
紗綾とて諦めているわけではないのだ。
「ずっとね、みんなに視えないものがオカ研の人達には視えると思ってたの。でも、それはオカ研の人達に視えるものが私には視えないってことだってこの前気付いたの」
どちらを多数として、少数とするか。
ただの統計なら簡単だが、紗綾は自分が少数に属せないばかりか、最早多数にも入れないことに気付いてしまった。
それが生贄の宿命というものなのだと自分のことは諦められる。
そう自分のことならば簡単に諦められてしまう。
「私にだけ視えないの」
見える側の人間にとっては、多数の見えない側の人間と変わりない。
何もできないのに、そこにいるだけならばいない方がいいのかもしれない。
苦悩が見えていながら何もできないのだ。
迷惑をかけるばかりで、何にもなれない。
自分は何かになりたいのだと紗綾は思う。
どんな形であっても彼らの側になりたいのだと。
強く強く、ずっと望んできて、願いは叶わなかった。
そんなことを望むようになるとは考えもしなかったのに。
その類の力はない方がいいとわかっているはずなのに。
「視えるよ」
「え……?」
紗綾は何を言われたかわからなかった。
自分は視えない。しかし、彼には視える。それはわかっている。
「先輩にも視える」
もう一度、圭斗が言う。だから、紗綾は思わず苦笑いを零す。
「視えないよ」
視えるはずがない。
その否定を覆したところで何も変わらない。
「視える。俺がそれを証明してあげる」
圭斗は穏やかな笑みを浮かべているように見えた。
冗談を言っている風ではない。
彼は先ほどから、ふざける様子などない。否、いつだって彼は真っ直ぐだった。
眩しく目を逸らしたいほどに。
日の光を浴びてその髪は煌めいて、太陽がひどく近くにある気がした。
「手、出して」
「手?」
「うん、両手」
言われるがままに、おずおずと両手を差し出せば、圭斗の手が重なる。
「目、閉じて、集中して」
その声に誘われるように紗綾はそっと目を閉じる。
流れ込んでくるような彼の体温、繋いだ手に意識を移せば、何かが見えてくる。
犬、大きな犬が目の前にいた。
「っ……!」
驚いて紗綾は目を開けてしまった。
いるはずのないものが、見えるはずのないものが、確かに一瞬だけ見えた。
急に恥ずかしくなって、紗綾は手を引こうとしたが、目を開けた圭斗が、もう一度、と言うように微笑んで再び目を閉じる。
そして、紗綾もまた目を閉じた。
今度はゆっくりと見る。
自分を覗き込んでくる大きな動物……灰色の犬。
どこか威厳のある姿だと紗綾は思う。
神々しいとでも言えばいいのか、これが眷属というものなのだと感じた。




