扉の向こうは地獄の三丁目
とにかく周囲からの視線が痛い。
このまま逃げ出してしまいたいと思いながらも、いつしか紗綾は部室の前に立っていた。
部室もまた独特の雰囲気を醸し出すのが、オカルト研究部だ。
ドアの窓には中が覗けないように黒い紙が張られ、色々なものが貼り付けられている。その大半はなぜかメタルバンドのステッカーであったりする。
控え目にノックし、紗綾はドアを開け、圭斗も続いて入る。
そして、二人に冷たい視線が突き刺さる。
「あ、あの、生贄、です」
「フン、貴様でも役に立つ日が来ると思ったが……やはり役立たずだ」
部屋の中央に置かれたソファーから二人を一瞥して、言い放つのはまるで人形のような男だ。
白い肌、鋭い瞳、漆黒の髪は長く、前髪が顔の半分近くを隠している。
学年によってネクタイの色は違うのだが、彼はどの学年とも違う黒いネクタイをしている。
「す、すみません……」
紗綾は萎縮しながら小さな声で言った。
黒羽十夜、このオカ研の部長であり、香澄の言う性悪男だ。
部員であり、一応、副部長である紗綾への優しさはほとんど見られない。
「お前さぁ、どうして月舘にはそう冷たく当たるかな?」
十夜の向かいから彼は声を発した。
ナチュラルな黒髪に穏やかな光を宿した瞳、口元に笑みを浮かべた若い男、長い足を持て余していることからも長身であることが窺える。
黒いカジュアルなスーツを纏い、イケメン教師と言ってもおそらく反論はないだろう。
彼こそオカルト研究部の顧問であり、紗綾と香澄の担任、クッキーの愛称で親しまれる九鬼嵐である。
「わかりきっていることを聞くな。役に立たないからだ」
十夜はむすっとした表情で吐き捨てる。その不遜な態度は嵐を教師として扱っていないというわけではない。
嵐は敬意を払う対象ではないというだけだ。
「いい子、いい子、ノルマは達成だよ。どうせ、生贄は一人いればいいんだし、誰だっていいの」
嵐はソファーから立ち上がり、紗綾の前に立つと、目を細め、頭を撫でてくる。
正直、紗綾としてはやめてほしいと思っているのだが、言えるはずもない。嫌悪があるかと言えばそうではない。単純に恥ずかしく、どうしたらいいかわからないのだ。
「他に部員いないんスか?」
「うん、いないよ。これだけー」
圭斗の問いに嵐は極めて軽い調子で答える。
部室ではいつもこうなのだ。
「廃部の危機とかないんスか?」
「大丈夫、良からぬ力が働くから。一年に一人入れれば問題なし」
オカルト研究部に廃部の二文字は無縁である。
三年の十夜、二年の紗綾、そして、一年の圭斗、これで今年も問題なしというわけだ。
尤も、嵐がいる限り、たとえ、部員が一人でもこの部が消えることはまずありえない。
「この人が策士?」
こっそりと問いかけてくる圭斗に紗綾は小さく頷く。
若いが、落ち着きがあり、優しい印象のこの男は案外計算高いのだ。
それでも香澄が恐れるほどではないと紗綾は思っていた。
基本的に生徒には優しいのだ。悪ささえしなければ。自分に不利益がなければ、と言った方が正しいのかもしれないが。
「あ、俺、顧問の九鬼嵐、ちなみに月舘の担任の先生。よろしくー」
にこりと嵐は笑みを見せる。
だが、笑みを返した圭斗には何か含みがあるようだったが、紗綾にはよくわからなかった。
「それと、あっちが一応部長」
「黒羽十夜だ。部を汚すなら俺が呪ってやる」
嵐が指せば、十夜はソファーに座ったまま視線だけを圭斗に向ける。
「やれるものなら、どうぞ」
挑発的に圭斗が笑うのだから、紗綾はどうしたらいいかわからなくなる。
どうにも部内の空気が険悪なものになっている気がするのだ。
「いいね、頼もしいよ。えーっと」
「榊圭斗っス」
「よし、榊。この入部届けにサインして。俺が偽造しちゃってもいいけどさ」
「いいっスよ。生贄になったとは思ってないんで」
嵐から差し出された入部届けを受け取った圭斗はさらさらと記入する。
これを書いてしまったが最後だと紗綾は知っている。
逃げるという道は既にないのだが。
「おい、貴様、いつまでそんな格好をしている? 早く着替えてこい、目障りだ」
圭斗が入部届けという名の契約書にサインしたのを見届けたところで十夜は紗綾を睨む。
すみませんと一礼して紗綾は部屋の隅に置いた制服を取ろうとしたが、腕を掴まれてできなかった。
「えー、いいじゃんいいじゃん、ゴスロリ! 今日はまだこの格好でいいじゃん! 眼福眼福」
「貴様、教師の言うことか!」
紗綾の腕を掴み、嵐は子供のように主張したが、それを聞き入れる十夜ではない。
部内での二人の立場は対等、あるいは十夜の方が上である。複雑な事情に由来するものであるのだ。
「この素晴らしさがわからないなんて! ムッツリスケベのくせに」
嵐は後ろから紗綾の両肩を掴み、ずいっと前に出すが、十夜をより一層不機嫌にさせるものでしかなかった。
「貴様にだけは言われたくない言葉だ」
端正な顔が険しくなり、ただでさえ愛想がないのにより恐ろしくなる。
その視線が自分の背後に立つ人物に向けられているとしても、紗綾はその目を直視することができずに俯くしかない。
「残念、俺はオープンだよ」
クスリと背後で嵐が笑い、手が離されると、紗綾はほっとした。
一年経ってもこの二人には慣れられないでいる。
「俺はいつでも辞表を持ち歩いてるの。あと、婚姻届」
嵐はふふっと意味深な笑みを零す。
またか、と紗綾は内心呆れて振り返る。
予想通り嵐は懐から白いものをちらつかせている。
「婚姻届?」
首を傾げたのは圭斗だ。
紗綾も初めこそ驚いていたが、一年も経てば驚くこともなくなった。
「あとは月舘がさらさらーっと書いてくれるだけでいいんだよ?」
ニコリと嵐が笑い、圭斗の視線が自分に突き刺さるのを感じながら紗綾は溜め息を吐いた。
「あの、先生……誤解されるような冗談はやめてください」
紗綾はいつものパターンだとわかっているが、圭斗は違う。
よく笑う嵐の笑みの種類の違い、その意味を理解するには時間が要る。
「冗談なの?」
じっと自分を見つめて問う圭斗に紗綾はこくりと頷く。
嵐があの笑みを見せる時はいつもドキリとする。
けれど、冗談でしかありえないのだ。
「いや、マジだよ。激しくマジだよ?」
真顔で嵐が主張すれば、また圭斗が紗綾に視線を向けてくる。
「先生はいつもこうだから気にしないでね」
この男と一々まともに取り合っていたら、身が持たないのだ。
紗綾でも聞き流すことが一番だと学習したほどだ。
「いつも、っていいんスか? 教師なのに」
「だって、俺の生徒だし?」
「そういう問題じゃないでしょ」
信じられないといった様子の圭斗に嵐はさらりと言う。
ここが嵐の恐ろしいところなのだ。
「あのね、相手にすると先生喜んじゃうから適当に流さなきゃダメだって、先輩が言ってたの」
上手く顧問と付き合う秘訣を伝授するのも先輩としての役目だ。
紗綾は自分が先輩から教えられたことを必死に思い出して言う。
「いやいや、本当に月舘にだけは特別な感情を抱いてるんだけど」
「それ、告白しちゃまずいっしょ」
何げなく嵐が言えば、圭斗の冷たい突っ込みが入る。
嵐の表情は楽しげで、十夜は疎か自分も相手にしなくなったのだから、無理もないのかもしれないと紗綾は思う。
「大体、さっきの、吹き込んだのって八千草でしょ? あいつの言うことこそ適当に聞き流さなきゃダメだって!」
そう言われても……と紗綾は思う。
嵐が言うことを一々真に受けて困惑していた紗綾に対処法を教えたのは香澄ではない。
彼女がいるところでは嵐も露骨なことは言わないから困るのだ。
「でも、八千草先輩は面白いです」
「お願いだから、さりげなく俺が面白くないみたいなこと言わないで。あれは奇人変人なの、ちょーが付くド変人なの。奇行師なの。近付くと損しちゃうの。まさか今でも連絡取ってるとかないよね?」
「昨日、電話かかってきましたよ。今日のことが気になるみたいで。相変わらず元気みたいです」
「うわっ、絶対拒否った方がいいって。あいつの不幸もらっちゃうから」
そこまで変な人じゃないと紗綾は思うのだが、嵐がかなり迷惑がっていたことは知っている。
その不幸に巻き込まれて損をしてきたのは嵐達だ。
「ねぇ、八千草って誰?」
自分が蚊帳の外なのが気に食わないのか圭斗は問いかけてくる。
「前の部長さん。凄く面白い人なの」
「確かに強烈だけどね。あの黒羽も滅茶苦茶振り回されてさ」
卒業した先代の部長八千草は部の中心人物だったと紗綾は思っている。
十夜でさえ不遜な態度を取れなかったという貴重な人物なのだ。
その十夜はずっと黙っていたが、自分の名前が出たことにより、紗綾に視線を投げた。これ以上余計なことは喋るなという無言の威圧に紗綾は一時的に逃げ出すことを決意した。
「わ、私、着替えて来ます」
今度こそ制服を掴み、紗綾は部室を出ようとした。
しかし、阻止されてしまった。腕を掴まれ、そのままぐいっと引き寄せられ、紗綾はバランスを崩す。
「――その前に、記念撮影ってことで」
よろめく体を抱き留められたかと思えば、目の前に携帯電話が突き出され、パシャリとシャッターが切られる音がした。
「け、圭斗君!?」
不意打ちにもほどがある。恐ろしい早業である。
紗綾は驚いて圭斗を見たが、今度はまた別の腕に引かれた。
「ずるい! 俺も撮る!」
「先生!」
今度はメロディーと共にシャッターが切られた。
写真映り悪いから写真は嫌いだと紗綾は思うものの、二人はお構いなしに撮影会を始めてしまう。
そうなれば止められる人物は一人しか存在しない。
「……貴様ら、呪うぞ」
相変わらず、ソファーに座ったまま十夜は視線だけを向けてくる。
不機嫌なオーラが全開である。
「黒羽も撮ってあげよっか?」
嵐はニヤニヤと笑ったが、「いらん」と十夜は即答する。
彼だけが常識人であることに安堵してから、紗綾は重大な問題に気付く。
「って言うか、消して下さい!」
「嫌」
「俺も嫌っスよ」
紗綾の精一杯の願いも虚しく、嵐はしっかりと保存したらしく、携帯をポケットに収めた。圭斗も同じだ。
そうされると紗綾も奪い取れない。
「いいじゃんいいじゃん。今度ご飯奢ってあげるから」
「結構です!」
教師のくせに不謹慎だが、嵐には無意味な言葉でもある。
適当に聞き流すのが一番なのだが、この状態で落ち着いて対処できていたら、生贄になることもまずなかったはずなのだ。
「じゃあ、今度俺とデートしましょうよ。甘酸っぱい青春っスよ」
そもそも、初対面の下級生にまでいじられる自分は一体何なんだと、紗綾はガックリと肩を落とした。
魔の巣窟に加わったのはやはり悪魔、自分は生贄のまま、味方はいないらしいと悟ったのだ。