魔窟へのお誘いは突然に
高校への入学は紗綾にとって期待よりも遙かに不安が大きかった。
説明会の時に余計不安になるようなことがあったというのもある。
しかしながら、渦巻く不安を吹き飛ばす友人はすぐにできた。その友人こそ後に親友となる香澄である。
出席番号が前後であったことがきっかけとなり、彼女の方から話しかけてくれたのだ。
香澄が気さくだったおかげで人見知りする紗綾もすっかり安心していた。
それほど長い時間ではないが、出身中学や住んでいる所など、他愛もない話をする内にすっかり意気投合してしまったのだ。
彼女は決して大人しいタイプではなかったが、紗綾が苦手とするタイプでもなかった。色気より食い気、さばさばとして、アクティブだった。
はっきりと物事を言うが、嫌なことなどなかった。
何より、たとえ、紗綾がもたもたと喋ってしまっても、苛立つ素振りを見せずに聞いてくれるのだ。
それでも、魔の手は確実に迫っていたとでも言うべきなのかもしれない。
紗綾とて部活に入ることを全く考えていなかったわけではない。各部の紹介を見て、香澄とどこがいいかなど話していた。
放課後、勇気を出してどこかを覗いてみようかなどとも思っていたが、結局、それはかなわなかった。
香澄も陸上部に入ることは心に決めていたようだが、一緒に見て回ってもいいと言ってくれたのだ。
だが、それはHRが終った時に起きた。
あるいは、紗綾が気付いていなかっただけで最中から始まっていたのかもしれない。
帰って行く生徒、残って話をする生徒、終わりを待っていたかのように彼はやってきた。
どの学年の色でもない黒のネクタイ、男にしては白い肌と顔の半分近くを隠す漆黒の髪、鋭い瞳がターゲットを探るように周囲を見渡して、紗綾を見た。
「月舘紗綾、貴様だな?」
低い声、冷たい声、見下ろす黒い瞳は片目だけでも射貫くようで声も出なくなる。
「知り合い?」
香澄に問われ、紗綾は首を振るので精一杯であった。
相手は自分を知っているのか。けれど、確実なのは、自分は知らないということだ。
何かしてしまったのかと思っても、全く心当たりがない。これほどの人間を知っていたならば、忘れるはずがない。
周りの女子達は遠目に見ながら、彼を格好良いなどと言っている。
確かに端正な顔であると言えなくもないが、不気味でもある。
本人はそれを気にするわけでもなく、紗綾が感じられるのは恐ろしいほどの威圧感だけだった。
その目は人を黙らせる力を持っていると思った。
何も寄せ付けようとしない拒絶の目、それがただ紗綾だけを見ていた。
「俺と来い」
「ちょっと、何なの!」
有無を言わせない男に堪らず香澄は声を荒らげた。
だが、彼は興味もないと言った様子で彼女を一瞥する。それでも香澄は退かない。
「貴様には関係ない」
「関係なくない!」
香澄が彼を睨み、彼は意に介する素振りも見せなかったが、紗綾は困った。
このままでいいはずもないが、助けを呼べるはずもない。香澄からは今にも威嚇の唸り声が聞こえそうでもあった。
蛇とマングース、そんな言葉が紗綾の脳裏に浮かぶ。どちらがどちらかなどどうでもいい。とにかく緊迫しているのだ。
「ちょっとちょっと!」
香澄と彼の間に割って入ったのは、女生徒達に囲まれていた担任の嵐だった。
「黒羽、俺の可愛い生徒に何してくれちゃってんの」
「先生、この不審人物、何なんですか?」
困り顔の嵐は彼を知っているようで、すかさず香澄は問う。
「不審って……いや、まあ、限りなく、本当に限りなく近いけど、近いんだけどさぁ……黒羽十夜君って言う二年生なんだよ」
嵐の返答は歯切れが悪く、周囲を気にしているようでもあった。
何かを隠していることは紗綾でもわかる。彼にとってとても不都合があるようだ。
「俺は俺の役目を果たしにきただけだ」
彼ははっきりと言うが、その意味がわかっているのは嵐だけのようだった。
「律儀だねぇ。いつも素直だと俺の気苦労が減って嬉しいんだけど」
ニヤニヤと笑いながら嵐が言えば、十夜は「黙れ」と凄む。
教師に向かってそんな言動をする時点でただ者ではないのはわかる。
そして、彼らの関係が単なる教師と問題児でないことも。
「とにかく、俺はやり遂げる」
よくわからない覚悟を見せる十夜に香澄は不快感を露に顔を顰めた。
「いや、あのですね、全然話が見えないんですけど」
「貴様には関係ない。俺は月舘紗綾に用がある」
全く恐れない香澄を十夜はもう一度睨む。
紗綾はなぜ、こんな怖い人間に自分が呼ばれるのかがわからずにいた。
「ちょっと待って、黒羽、どうして月舘なのさ? 俺には聞く義務がある。だって、担任だし」
嵐が問えば、十夜は一枚のコインを差し出す。ただの外国のコインのようである。
それだけで嵐は納得したようだったが、香澄の疑いの眼差しに肩を竦める。
「まあ、とりあえず、ここじゃ物凄く話しにくいから、部室に来てくれないかな?」
困り顔で言う担任に紗綾はどうしたらいいかわからなくなる。
すると香澄が紗綾の腕をしっかり掴んで、二人をきっと睨んだ。
「部室? いかがわしいところに紗綾を連れ込む気ですか?」
「いやいや、まさか。部活動ですよ、部活動のちょっと変わった勧誘」
「部活は強制するものじゃないと思いますけど」
香澄は凄いと紗綾は思う。これほどまでにはっきりと物を言えるのは尊敬に値する。
「そんなに疑うなら、君もついてくる?」
「もちろん、私、紗綾の保護者ですから」
回避不可能だと思ったのか、香澄は頷く。紗綾も話を聞くぐらいなら、と思っていた。
それに香澄がついてきてくれるなら、これほど安心できることもない。
「おい、部外者を入れるな」
「お前が悪いんだよ。お前が状況を物凄く悪くしてんの」
不満げな十夜に睨まれて、それでも嵐はへらへらと笑っていた。
何の部活かも告げられないまま、紗綾と香澄は嵐達の後ろを歩いていた。
時折向けられる好奇の視線に香澄は不快感を露わにしていたが、それでもずっと紗綾の手を握って安心させようとしているらしかった。
「って言うか、田端と月舘ってさ、中学違うよね? 住んでる所も違うみたいだし、古い友達?」
歩きながら、資料を見ていた嵐は言う。
「出会ったばっかりですけど、何か問題でも?」
香澄は敵意を剥き出しとも言える様子で答える。
お互いのことはほとんど知らない。
なぜ、香澄がこんなにも親切にしてくれるのかは紗綾にはわからなかった。
「まあ、仲が良いのは素晴らしいことだよ、クラス内で早速深い友情が育まれるのは担任として喜ばしいことだからね」
嵐はうんうんと頷くが、香澄は疑いの眼差しを送ったようだった。
「そうですか?」
「当然でしょ?」
「先生って、何かとっても胡散臭いですから」
「か、香澄……」
なぜ、そうもはっきり言ってしまうのか。
紗綾は慌てたが、嵐の意識は別の方に向いていた。
「うわっ、黒羽、今、笑った? お前、笑っただろ!?」
「事実だからな」
紗綾には十夜が笑ったようには見えなかった。笑い声さえ聞かなかった。
じっと見詰めても、その背中は壁を作っているようで何も読み取ることはできない。
「俺のどこが不良教師だって言うの!?」
「そう言われてるんですか? 九鬼先生?」
嵐は心外だと言いたいようだったが、香澄はその隙を見逃さなかった。
「いや、ほら、俺ってちょっとロックな男に見えるらしいからさぁ……ね?」
嵐は必死に取り繕おうとしたが、それで納得する香澄でもなかった。
若く、イケメン教師と言われるような男だが、どことなく軽いのだ。それが香澄の言う胡散臭さに繋がっているに違いない。
更に追及するように嵐を睨み、そんな中、十夜は口を開く。
「この男はいん……」
「黒羽、お前、無口なくせにこういう時ばっかり喋ろうとするんだよ!? 一番、まずいの言おうとしただろ! そんなに俺が嫌いか! 日頃の恨みか! 俺の方が恨みたいってのに!」
ひどく慌てた様子で、嵐はその言葉を遮った。
けれど、それによって彼らの関係が益々怪しくなるものである。
「いん? 何ですか?」
「聞かなくていい、聞かないで、聞いちゃダメ。こいつはろくなこと言わないんだよ。俺が誤解されるようなことばっかり言うの。ああ、俺って可愛そう。顧問辞めたい」
香澄は続きを聞こうとしたが、嵐はそれ以上言わせようとしなかった。
校舎の奥に近付き、助かったとばかりに嵐は足を止め、目の前の扉を開ける。
黒い紙の貼られたガラス窓、何やらベタベタと貼り付けられているが、じっくり見ている暇はなかった。
掲げられたプレートさえ見ることはなかった。