魔女と生贄姫と蔑ろ王子
車というものは移動する檻のようなものだ。
運転席に魔女、後ろには魔王という状況では嬉々として同乗したがる人間などいるはずもない。
楽しいドライブになる可能性は皆無だ。
乗ってしまったが最後、目的地まで生きた心地のしない旅が約束される。
後部座席に二人で押し込められなかっただけ幸いと思うべきなのかもしれない。
正直に言えば、ただでも乗りたくない。
否、魔女の車ならば喜んで乗る人間が一人だけ紗綾の脳裏に思い浮かぶが、特殊な例であり、一言で言ってしまえば変人だ。
紗綾はそのようにはなれない。
シートベルトをきっちり締め、高まる緊張の中、紗綾はまるで誘拐される子供の気分だった。
行き先もわからないまま、恐ろしい人間二人と同じ車に乗り合わせ、重苦しい時間を過ごす。
幸いなのは、殺されはしないということだろうか。
魔女の運転は安全運転と言っても差し支えないものだったが、緊張を解いて落ち着けるはずもない。
魔女がいる限り、リラックスというものは、まずあり得ないと言っていいだろう。
彼女は存在するだけで緊張感を与える存在だ。身が引き締まるというものではない。恐怖で硬直するのだ。
本能的に恐怖を与えるものであるのかもしれない。
何を考えてやり過ごそうか紗綾が考えた時、魔女が口を開いた。
現実逃避をしようと思ったのに、先手を打たれた気分である。いっそ、乗り込んですぐに狸寝入りを始めたほうが利口であったのかもしれない。
魔女が素直に寝かせてくれるとも思えないのだが。
「言いたいことがあるなら、遠慮なく言っていいのよ? 納得してないことがあるでしょう? あなたなら、どんな愚問も許してあげられるわ」
不満を見抜かれて、紗綾は逃げ出したい気持ちになる。
隠せるはずもなかったのだが、気付かないフリをしていてほしかった。
この状況なら言えるというものでもない。この状況だからこそ言えないといった方が正しいくらいだ。
それも愚問であるという前提では口を噤みたくなるものである。
そうだろう。彼女にとっては何もかもが愚問に過ぎない。だから、何も言いたくない。
「心の中に溜め込むのは良くないこと。クロみたいになるわよ? 若いのに、ハゲも白髪も嫌でしょう?」
それを言うのが嵐であったならば、十夜はすぐさま反論しただろう。自分にはハゲも白髪もないと。そして、あるとしたら、それは貴様のせいだと。
だが、彼は何も言わなかった。言えるはずがないからだ。
嵐と十夜は単なる顧問と生徒の関係でないが、それ以上の因縁めいたものが鈴子との間には存在する。
「……毒島さんは、答えを知っているんですよね?」
強迫的な空気に負けて、紗綾は問う。
最強の魔女ならば全てを知っているはずなのに、運命が見えているはずなのに、なぜ、それを自分に決めさせるのか。
そもそも、責任と言われても困るのだ。
圭斗とリアム、どちらも自称サイキックだが、今日一日、彼らが力を使う機会があったとして、何の力も持たない自分が能力者を選べるはずがない。
あまりに理不尽なのだ。
「さあ、どうかしら? あたしは一年前に過ちを犯した。あなたを見誤った。それは謝罪したわよね?」
くすくすと鈴子は笑う。
謝罪も心のこもったものではなかったというのに。
理不尽さを感じても紗綾が何も言えないのを彼女はわかっていてそうする。
結局、傲慢な彼女は自分の誤りを認めたくはない、認めてはいけないのかもしれない。
「あなたはあたしの目を狂わせる。いい意味でも悪い意味でも」
魔女が言うことが紗綾にはわからない。多言語のように自分が理解できない言葉を話されているように錯覚するほどだ。
彼女はいつも一方的で、一年前のこともそうだった。
「答えを出すことから逃げてはいけないわ、お姫様。それに、あなたは自分の白馬の王子様を選ぶわけじゃない。白馬には乗ってはいないけれど、運命の王子様は既にいるもの。蛙の王子様ってところかしら? だから、召使を選ぶの。とっても簡単なことでしょう?」
それはひどく見下した言い方だった。
彼女が人を人と思わないところがあることは知っていたはずだった。
それでも、納得したくはなかった。納得してしまえば、彼女と同じになってしまう。
「別に、あなたが好きな方を選んでも良いのよ? 使える方がいいに決まっているけれどね。どっちも、なんて欲張りは許されないだけ。それに、捨てるわけじゃないの。ただ片方にちょっとお仕事してもらうだけ。何を気にすることがあるの?」
結局、召使を選ぶとして、自分のものではないと紗綾はわかっていた。
生贄は全て、彼女のためのものだ。彼女がしていることを手伝わせるためのシステム、オカ研自体が彼女の鳥籠なのだ。
「嵐に相談したって無駄よ。あの男は結局何だっていいんだから。もちろん、ボンクラのクロにもね。それなら、あなたの強運に賭けた方がいい。光なら三歩歩くだけで決められるでしょうけど」
追い詰められている。紗綾はそう感じた。
できることなら、嵐や十夜に相談したかったのだ。
けれど、彼女の言葉には一つおかしなところがあった。
「私は運が物凄く悪いんです。強いとしたら悪い方にです」
鈴子はまるで良いものを引き当てるように言うが、紗綾は悪いものを引き当てることに関しては一種の才能のようなものを持っている。
その逆を選択すればいいというものではないだろう。
直感の反対を選択してみたことは何度かあったが、ことごとく外れている。
だから、こういう事態になったのではなかったか。
「逆に考えてみなさい、お姫様。それは本当に悪いことなの? あなたが、本当に、不幸な目に遭ったことが一度でも、あるって言うの?」
そう言われてしまえば、紗綾は黙るしかなくなってしまう。
確かに運は悪い。福引など、欲が出るものほど外れる。
小さいものは当たったこともあるが、ごく稀なことだ。
けれど、この世の不幸を一身に受けるようなことはなかった。大きな怪我も病気も一度もしたことがない。
だが、ここにいることは、短い人生の中で間違いなく最大の不幸だと言える気がした。
誰かがやらなければならないことだとしても、そういうことは避けたいというのが人間の心理だからだ。
「いいこと、お姫様。あなたは選ばれた特別な人間なの。私の下にいることを誇りに思いなさい」
圭斗がこの場にいたならば、先ほどのようにはっきりと言っただろうが、紗綾には真似のできないものだ。
そして、紗綾は不意に自分がこの人のことが嫌いなのだと思った。
単に苦手や恐いということではなく、激しい感情が胸の奥にあることを自覚してしまった。
気付きたくなかった自分の心の闇を知ってしまった。
紗綾は誰かを特別に好きになったことはない。誰かを特別に嫌いになったこともない。
これほどまでに強く、嫌悪したことなど、今までにはなかったのだ。
初めこそ、十夜を冷酷だと思ったが、それは嫌悪ではなく、今ではもうその感情も存在しない。
魔女にはそれもわかっているのだろうか、そんなことを考えながら、彼女がそれ以上何も言わなくなったことに安堵して、紗綾は窓の向こうの景色を見た。
今までは嵐や八千草が助けてくれていたのだと気付く。八千草は何も考えていなかったのかもしれないが、それでも嵐はできる限り遠ざけてくれていたように思う。
十夜は助けてはくれない。彼が無口であることだけが救いなのかもしれない。彼もまた魔女を嫌っている。
尤も、彼と魔女の間には複雑な問題があるのだから。
思い返せば一年前、紗綾はこんなことになるとは微塵も思っていなかった。
サイキックの存在など大して信じていなかった。
霊能者、超能力者と呼ばれる人間はテレビの向こうの世界の住人であって、自分がいる世界にはいないと思っていたのだ。
それまで自分には霊感があると言う人間は何人かいた。
しかし、それがどこまで本当なのかはわからなかった。証明する術がないからだ。
今ならわかるとも思わない。今更、知りたくもない。
視える視えない以前に、そもそも霊などというものの存在するかさえ否定していた。
否、自分の世界には幽霊などというものは存在しないと紗綾は思っていた。
けれど、今ならいると言える。信じるしかない状況にいるからだ。認めざるを得ない状況に何度か直面している。
彼らと自分の世界が違うとも、もう思わない。見えないだけ、聞こえないだけ、感じないだけで、確かにいるのだ。
そう思わなければ、嵐や十夜、八千草、将仁、マリエ達の苦悩に説明がつかない。
彼らを信じたいから、だから信じるのだ。
魔女の手下になるためではない。
世界は一つであって、感じるか感じないかの問題なのだと。