昼休みに降臨する大天使
翌日の昼休み、紗綾は教室で香澄と昼食を食べようとしていた。
いつも学食に行くわけではない。教室で済ませることの方が多いくらいだ。
不意にぴたりと教室の喧噪が止み、何事かと紗綾は入り口の方を見た。
「ぶ、部長!?」
「ま、将也先輩……?」
香澄と同時に紗綾も驚きの声を上げた。
教室内がおかしな空気になった根源は将也だったのだ。
彼はゆっくりと教室内に入ってきて、また教室内はざわめきに包まれる。
将也は少し困ったように眉を下げて、それでもいつも通り穏やかに微笑んでいた。
「やあ、田端君、紗綾ちゃん。ご一緒しても構わないかな?」
手には弁当の包み、紗綾は思わず香澄と顔を見合わせた。
学食で遭遇し、昼食を共にしたことは何度かある。陸上部の面々が一緒だったことも彼だけだったこともある。
しかし、今まで彼が教室にやってきたことはなかった。
「それとも、教室まで押し掛けて女の子同士の楽しいランチタイムを妨害するのは無粋かな?」
微笑まれて、追い返すことなどできるはずもなかった。少なくとも紗綾には不可能だ。 近くの席のクラスメイトが気を利かせて席を譲り、将也は笑顔を浮かべた。
昨日のことかもしれない。紗綾は身構え、香澄は眉間に皺を寄せ、首を傾げていた。
「急にどうしたんですか?」
「まあ、ちょっとね……お詫びも兼ねてってことで」
やっぱり、と紗綾は心の中で呟く。
昨日のことが関係しているのではないかと思ったのだ。彼はとても律儀なところがある。
「お詫び?」
「昨日、折角、見学に来てくれたのに嫌な思いをさせてしまったからね」
紗綾は香澄に昨日のことを言っていなかった。
彼女が切り出さなかったから黙っていたのだが、気付いていなかったようだ。
「昨日、来たの?」
「うん、色々あって、帰っていいって言われたから……」
何だか悪いことをしたような気分になりながら紗綾が言えば、香澄は何やらショックを受けたように頭を抱えた。
「嘘っ、全然、気付かなかった!」
「君もまだまだだね、田端君」
「部長だけずるいですよ!」
「ずるくないよ。まあ、集中しているっていうのはいいことだよ」
クスクスと将也が笑えば、香澄がくわっと噛み付く。
陸上部の先輩と後輩、こういったやり取りは何度か見ているが、面白いものである。
部の中でも噂が立つのも納得できるほど仲の良い二人だと紗綾は思っていた。
しかし、そこで香澄がぴたりと動きを止めた。
「でも、嫌な思いって……」
「私が悪いの……ご迷惑おかけしました」
香澄の心配そうな眼差しさえ申し訳なく思いながら、紗綾はぺこりと頭を下げた。
心配される筋合いではない。全て自分が悪いのだから。
それなのに、将也はひどく優しい笑みを浮かべる。
「迷惑なんて思ってないよ。折角、士気が上がったのに、いいところで君が帰ってしまうから、少し黒羽の言葉を借りたくなったけどね」
「……ああ、女の子達追い払ったのってそういうことだったんですか」
納得したように香澄は言うが、その表情には陰りがあり、将也の表情からも笑みが消える。
「君、嫌なところだけは見逃してくれないんだね」
将也が溜め息を吐いて、紗綾は香澄を見たが、彼女は黙ったまま何も言わない。
「とにかく、僕はうちの部だけでも君の味方でありたいと思ってるんだ。だから、君に酷いことを言って、追いやるような子たちには見学してもらいたくない。空気が淀んでしまうからね」
「でも……」
確かに昨日は知らない女生徒達にひどいことを言われたが、そんなことは既に慣れているし、わかっていた。直接言われたわけでもない。
だから、やはり、迷惑だったのだと思いたくなってしまう。その淀んだ空気の根源は間違いなく自分なのだから。
「ああ、田端君。僕は君の敵、なかなか悪くないと思うけど」
話題を変えるように、思い出したように、将也は言う。
だが、それには香澄が顔を顰めた。圭斗のことは禁句なのだ。
「どこがですか? 物凄く生意気ですよ?」
険しい顔をする香澄に対して、将也は面白そうににこにこと笑い、紗綾はどうしていいかわからなくなる。
「強い、いい目をしているからね」
「うわっ、部長ってああいうのが好みなんですか?」
信じられないと香澄が言えば、将也は困り顔で肩を竦めた。
「嫌な言い方をしないでくれるかな? 田端君」
「そう受け取れましたけど、何か?」
「君がそういうこと言うから、僕にホモ疑惑をかけられるんだよ。大体、君は例の噂だって……」
「別に深い意味なんてないですよ。部長の受け取り方が偏ってるんだと私は思いますけどね」
部内でも、将也にこれほど言える人間はいないと言う。
香澄は凄いな、と思いながら紗綾はぼんやり二人を眺めていることにした。
「少なくとも黒羽や九鬼先生よりはいいと思っただけだよ」
「まあ、あの性悪男はありえないですし、クッキーは絶対ダメですけどね」
二人は勝手なことを言っている。それもいつものことなのだが、視線が自分に向けられて紗綾はドキリとした。
「本当にあの二人に何もされてない?」
「言ったら呪うとか口止めされていないかな?」
「黒羽部長は私のことはただの役に立たない生贄としか思ってないですし、先生はああいう冗談が好きなだけですから……」
二人の心配に紗綾は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。部には心配されるようなことはないのだ。
「それとね……昨日、君が変な外国人の男の子に追いかけ回されていたのを見たってやつがいるんだけどね……いくら派手に染めてるからって、あの子じゃないみたいだしね」
「何っ、誰よ、そいつ? 私がぶっ殺してやる!」
またも思い出したように将也が言えば、香澄が即座に反応する。
その問い詰めるような眼差しに紗綾は取り調べをされているような気持ちになる。
しかし、一方で、そう言えば最近カツ丼食べてないなぁ、などと考えるような緊張感のなさも持ち合わせていた。
「ちょっと色々あって……」
「色々って何? 親友の私に言えないことなの?」
「まあまあ、田端君、君が怖がらせちゃいけないよ。きっと、言いにくいことなんだろうね。でも、僕たちは力になりたいと思っているから、だから、話してくれないかい?」
話すと面倒なことになりそうだが、話さないともっと大変な事になる。
意を決して紗綾は口を開いた。
「天使みたいな男の子がいて、凄く日本語が上手な外国人の子で、一年生で、凄く困ってて……」
紗綾の説明は明らかに要領が悪かったが、二人は真剣な表情で聞いてくれていた。
いつだって、二人はそうだった。何度か他人を苛立たせたことがある紗綾だが、二人はそういうところを見せない。
「紗綾はお人好しだから助けてあげたと」
「だって、声かけられたから……」
何に困っていたのかは省いてしまったが、紗綾の性格を熟知しているからこそ、香澄はおおよそのことを悟ったようだった。
「それで? 困っている子、助けただけじゃ追いかけ回されたりしないよね?」
気は全く進まないが、将也に促されて、紗綾は答えるしかなかった。
「その……結婚を前提にとか、婿養子とか言われて」
「はぁ? いきなりプロポーズ!?」
「大和撫子とか……何か勘違いしちゃってるのかも……」
非常に言いにくい。紗綾はぼそぼそと小さな声で答えたが、香澄の耳にはしっかりと届いていた。
彼女は険しい表情をしていて、そっと見た将也もまた難しい表情をしている。
「……あんたって、ほんと変な男に好かれるわよね。まあ、会わなきゃいいのよね。一年でしょ? 私が全力で遠ざけてあげる!」
避けてしまうのは申し訳ない気もする。でも、近付くのは怖い。
いつでも香澄が側にいれば上手くやってくれるのかもしれないが、紗綾は放課後が不安だった。
「でも、黒羽部長が喜んでたし、先生と面接してたからサイキックかもしれないし……」
サイキック、その言葉に二人は顔色を変えた。
本来オカ研の悪魔二人が欲しがる人材はそれだ。彼らもそうだからであるが、信じていない生徒も多い。
香澄もまた認めたがらないが、わかってはいる。
将也は兄将仁のことがあり、彼らのこともある程度は理解しているからこそ、その一言で通じる。
「あんたさ、絶対お祓いしてもらった方がいいって。いや、でも、絶対、あいつらの邪念の方が強い! ああ、もうっ! サイキックなんて大嫌い!」
「落ち着きなよ、田端君――まあ、困ったことがあったらいつでも相談してね」
憤慨する香澄と父親というよりは母親のようにも思える穏やかな将也を交互に見ながら紗綾は笑ってみた。
「大丈夫ですよ」
大丈夫、きっと大丈夫。
紗綾は何度も自分に言い聞かせる。
今度こそ逃げてはいけないのだと自分を叱咤しながら。