【短編】土の中
じっとりとまとわりつく湿気に嫌気がさしていた。まだ五月だというのに、初夏だというのに、梅雨なのかと認めざるを得ない。まだ夏にもなっていないのに、セミにションベンをかけられた。出てくるのが早い。俺がセミなら、ずっと土の中でもいい。その方が、死ななくてすむからな。
認めれば、受け入れることになる。受け入れれば、その事象を自分の中に組み込むことになる。花粉症然り、風邪然り、犯罪然り。
俺は、ある男にかけられた冤罪のおかげで自分の犯した罪を免れている。いつも冤罪を問う時に、裁判制度や取り調べの在り方ばかりに目が行くが、真犯人を取り逃がしていることには目をつむりがちだ。マスコミですら報道しない。
報道しないと言うことは、その冤罪を冤罪として支持していないのかと我ながら思う。
真犯人と仰々しいネーミングに、シン・犯人とすればふざけても見える。そうやって、今をやり過ごし、俺は俺の罪を、見知らぬ男に背負わせている。俺の家から三駅隣の、田園地帯は富豪地帯とも言われている。国策による農地売却ができず、開き直った農家が新しい品種を開発したというのだ。キャベツ、ほうれん草、レタス、ネギ、玉ねぎ、白菜、ブロッコリー、きゅうり、ナス、トマト、ピーマン、大根、ニンジン、里芋、ジャガイモといった指定野菜たちだ。
指定野菜とは国が特に重要と位置づけている野菜のことだ。消費量が多く、国民の生活に欠かせないため、価格が大きく下がった際には、生産者を支援する制度の対象になるらしい。
俺は、野菜ドロボウだ。この富豪地帯の農家から野菜収穫時に頂戴する。決まって深夜二時、丑三つ時だ。背負ったリュックは、60リットルもので、工夫すれば相当に入る。これは二つ隣りの駅にある、アーケード商店街から盗んだものだ。ドームタイプの幌はボロボロに破れ、錆びた骨組みには燕が巣を作っている。糞害がひどいので、天候に関わらず傘を差した方が無難だ。盗んだ野菜はこの商店街に露店を出して、売りさばく。だから俺も傘は手放せない。ちなみに露店の出店権利証は目の不自由な婆さんから盗んだ。婆さんは出店権利証を失くしたとかで、翌日からみかけることはなくなったが。
どれも盗んだものばかりで、生計を立てているが、独り身ゆえに、捕まってもいいやぐらいの気概が幸いしているのか。開き直りが顔にも出てきて、顔が締まらない。頬がたるみ、頭頂部はハゲてきている。手は皺だらけに、足の裏は角質でゴリゴリだ。腹は出ていないが、スタイルがいいとはいえない。
いわゆる、中年の四十代なのだ。最近は目も見えにくくなっているし、廃ビルの新居で横向きで寝ると咳が止まらない。
俺が盗んだ野菜たち、傘、露店の出店権利証に、廃ビルの不法占拠。まぁ、他にも布団やら歯ブラシ、シャンプーに、ティッシュなどの日曜雑貨も盗んだものだ。
自分のものなどひとつもない、と言えば大げさか。唯一自分のものだ! と胸を張って言えるのはこの身体だけだ。最近はガタが来ているが、これは俺のものだ。間違いない。
廃ビルは取り壊しが中座していて、その中でもまだ使えそうな一室に俺は住み着いている。十人ぐらいがいたようなオフィスのようで、デスクに反対にしたデスクを重ねている。キャスター付きの椅子は一か所に固められている。クッションフロアに青のビニルシートを広げ、その上に布団を敷いて暮らしている。
思えば若い頃から、働いたことはないし、ほぼ盗み一本で暮らしてきた。ゲームの世界なら盗賊だ、なんて高らかに名乗りをあげることもあろうが、まぁドロボウなんて人に言える仕事じゃない。いや、そもそもそんなものは仕事でも何でもない。いつ捕まるのか、下校途中の小学生たちが俺を監視しているのかもしれないと思うぐらいに、猜疑心溢れて心が病むのだ。自分のなかに、犯罪者であるというインクを滲ませていく作業。それならインクが滲み切ってくれる方がありがたい。中途半端である方が、心苦しいのだ。
商店街の端にある、レトロな行きつけの喫茶店でモーニングを喰う。六十を過ぎたマスターが趣味で始めたような店だ。五卓あるテーブル席とカウンターだけ。カウンターには客が少ないのか、仕入れたコーヒー豆らしき段ボールが無造作に置かれている。いつ来ても客の入りは、芳しくないようだ。
ここに来る理由は、長居できるからだけじゃない。ありていだが、新聞がタダで読めるからだ。何気に新聞に目を通すと、俺が盗んだ野菜やら、日用雑貨やら、小さいスペースながらも記事になっている。そしてそれらには個別にいつも犯人がいて、逮捕されたというのだ。真犯人は俺だよ、と言いたくもなるほどに警察はマヌケに誤認逮捕を繰り返している。たまに地方版のテレビニュースでも報道されたこともある。そのたびに、俺は腹の底から湧き出る笑いが止まらなくなるのだ。
馬鹿だ! こいつらそろいも揃って。
あぁ、叫びたい。その衝動を抑えるのもセットで楽しんでいる。
こうした新聞記事にしても、テレビニュースにしても、逮捕までしか報じない。ニュースの価値は、そこまでであり、その後どうなったかなんて、追いかけないものだ。よっぽどの凶悪事件でもない限り。逮捕されたニュースだけで、終わる。
人々が知りたいのは、その事件の背景やそれが自分にも降りかからないかである。そして、安全なところからその事件を追体験するのだ。あくまでも傍観者の立場で。
だから驚いたのだ。追っかけ記事が、今日の新聞には載っている。それもいくつも。逮捕された冤罪の犯人たちが、「自白」したというのだ。そもそも、その無実の俺の代わりたちのなかには「自首」してきたものもいると言う。記事は簡潔で、新聞文法的で、結論から逆三角形型に内容が深まる。ディテールは読み進めないとわからない。
どういうことだ、自白はまだしも、自首なんて。その中に目を疑う一文を見つけた。
野菜ドロボウは、自分だと名乗りあげたのがあの盲目の婆さんだった。顔写真付きだ。視覚障がい者と書かれている。そして、その婆さんの露店出店権利証を盗んだのは、俺だ。
他にも、傘泥棒の件はいつも俺の店に来るアトピー性皮膚炎の女が捕まったと。ボリボリと掻きむしりながら、野菜を選ぶから注意をしたせいでよく覚えている。
過去の新聞にも目を通すため、俺は図書館に向かった。市民税すら払っていない俺に利用資格があるかは疑わしいが、なにも本を盗むわけでもない。受付では特に身分証明を提示する必要もなかった。壁のクロスを張り替えたばかりなのか、シミひとつない清廉とした図書館らしい図書館だった。
平日のわりに、人が多いがよく見ると年寄りばかりだ。居眠りしているものや、ノートを取りながら文献をあさっているもの、四人テーブルを陣取って私物のリュックをどんと置き、スマホ画面を眺めているもの。さまざまだ。新聞コーナーから、過去一月分の新聞を引っ張り出す。
地方版のコーナーに刺さるほどの強い視線で目を通す。俺が盗んだブツの記事を探しているのだ。唾を人差し指と親指にねっとりと付けて、新聞をめくる隣の爺さんが俺をじっと見る。俺が束ねてこれから読むつもりの新聞を狙っているようだ。俺は読み終えた新聞を棚に戻さず、その爺さんに渡していった。
爺さんから黙礼され、俺は「あぁ」と声にならない声で返事した。
気が付いたら三時間経っていた。もう昼の二時過ぎだ。驚いた、俺の犯罪の追っかけ記事の多いこと。確認できただけで二十八件の事件に対して、全て犯人がいるのだ。もちろん冤罪だ。俺が犯人なのだから。身代わりたちの刑期までは記載されていない。裁判がまだ始まっていないからだ。傷害事件などではないから、ほとんどが執行猶予がつくのか、はたまたなぜか「不起訴」になるのか。
いずれにしても、社会的なペナルティは受けるものの、再起不能にまで陥ることもなさそうだ。
隣りの爺さんが俺と同じく三時間、新聞読みに没頭していた。
「アンタ、他になにか悪さしてないのかい?」
襟のついたシャツに、アイロンがかかったグレーのスラックス。白の靴下。顔はシミだらけだが、清潔さを維持する気概には溢れている爺さんだ。
「何を唐突に。失礼ですね」
俺は常識的な社会人として振舞う。
「いいんだよ、それより、悪さしてるならワシが引き受けるぞ。こいつ等みたいに」
爺さんは、新聞を開き、俺の事件を指さした。この場所に記事が載っていると、暗記しているかのように、ピタリ指が吸い付くように導かれた。新聞の端は乾いた唾でよれている。気持ち悪い。
「なんなんだよ」
「だから、ワシが代わってやるよ。自首してやるから。野菜、まだ盗んでるんだろ?」
新たな脅しか、詐欺か、カマシか。相手はジジイだ。なんとでもなる。ヒマつぶしでもあり、この気味悪い事態も解明したい気持ちが先走る。
この箱を開けてはいけない、この扉を開けてはいけない、誰にも言ってはいけない、すべて昔話から今に脈々と引き継がれる「してはいけない」。
押すな押すなと同じだ。押せということなのだ。どうしてもこの不可思議な扉を俺は開けてみたくなったのだ。
―なぜ、俺の罪をかぶるのか?
「じゃぁ爺さん。この罪をかぶってくれよ。俺がこんな盗人暮らしをしているのも、もとはと言えば、誘拐事件に手を染めたからだ。小学生の男の子、誘拐して見つからなかったろ。あれは俺がやった」
爺さんは、うんうんと相槌の間が小気味よく、絞り出すように話をさせられる。
「じゃぁ、殺したのかい」
「そんな単刀直入に聴くね、爺さんも。まぁ、そういうことだ」
「それでどうしたんだい?」
「そんなに詳しく、聴きたいのか?」
「そりゃぁ、ワシがやったと自首するんだから。詳細を知らないと、今時の刑事さんの取り調べは一貫性とやらが重要だと、新聞でも読んだからな」
確かに、ディテールこそ命だからな。自白は。時系列で矛盾なく。動機も、衝動的にしてもそこにはある一定の「合理性」が潜んでいるものだ。突発的にと言う事象すら、突発する前後の状況が合理性を支える背景になる。
この疑問の扉が開かないことには、ディテール、誘拐殺人の告白なんてできない。
―なぜ、俺の罪をかぶるのか?
爺さんは腑に落ちない俺をじっと見て、察したように話し始めた。
「身代わりには対価が発生する。お前さんの罪をかぶると、代わりにお前さんから身体の一部を頂くことができるってわけだ」
相槌を打つも、理解が追い付かない。
「どういうことだ?」
「あの婆さんの記事、ワシも良く知ってる。知り合いだからな。後日談は報じられていないだろ」
野菜ドロボウの罪をかぶった、しかも俺から露店の権利証を盗まれた婆さん。
「目が見えるようになったんだと」
腕を組みながら、得意げに話した。
目が見える? 俺の心の声が図書館中に響いた。司書の若い女性がこっちに目線を送る。メガネが天井の蛍光灯に反射して、表情が掴めない。睨まれているのか、ただ見られただけなのか。
「最近、目が見にくく感じないか?」
俺に言っているのか? 爺さんの言葉が耳からすり抜ける。ほとんど呆気に取られている様子に爺さんは畳みかけてきた。
「頭部の毛が薄くなったり、右側の肺が苦しかったり、皮膚がアトピーぽくなっちゃいないか?」
爺さんは俺の首元を見ながら尋ねた。
確かに、最近右目が見えにくい。寝る時には咳が止まらないし、皮膚炎ぽく湿疹が出てきてもいる。
身代わり、なのか。
「対価だからの。今度のその誘拐殺人、ワシが引き受ける。老い先も長くない。むしろ健康で死にたい。獄中であっても。死刑になるにしても、裁判してるうちに寿命に達する。再審請求も使えば、裁判自体も長引かせられるからな。その間ワシはお前さんの身体から一部頂いて、健康になるってわけだ」
「どこを対価とするんだ?」
俺は、薄くなった頭頂部を手で確認しながら聴いた。
「なぁに、骨じゃよ。膝の軟骨に背骨、頚椎がちと痛んでてな。股関節も具合が悪うてな。とにかく、まっすぐ歩けん。歩けんのは辛いぞ」
「それを差し出したら、俺が歩けなくなるんじゃないのか?」
もっともな俺の問いに、爺さんは予め用意していたようにしたり顔で答えた。
「目、見にくいだけで失明しとらんだろうに。頭頂部、薄くなってもまた生えてきとるだろ? それに、咳しがちでもそりゃぁ日にち薬で治る。最初の頃よりましになっとるはず」
確かに、罪と交換する対価としては俺の方がレートがいい。誘拐殺人と骨を交換、骨はいずれ回復していくというものなのか。
これで俺が追われるということから解放されると言うのも魅力だ。俺は、しばらく逡巡したが、爺さんの申し出を受けることにした。
事件の詳細についてそこから二時間かけて説明した。誘い出した方法、日時、殺害手順に動機。遺体の運び出しと埋めた正確な場所。
ありとあらゆるディテールについて自白した。
爺さんに話していると、不思議なもんで自分の罪が洗い流されている感覚に陥る。もっともこの罪は、いまから爺さんがかぶるのだが。
図書館の閉館時間が近づく、気が付くと周囲にいた他の年寄りたちが少し増えている気がする。いつの間に? こんなに?
図書館司書が俺の近くにやってきて、間もなく閉館だと告げた。と、同時にするりと後ろに回り込んだ。後ろ手で手錠を掛けられた。
「伏せて。はい、あなたには黙秘権はありますが、自白しちゃったから、我々がいまから改めて取り調べる必要はないかもね」
「定義さん、お手数かけました」
その図書館司書の女は爺さんに敬礼する。
「定年制度が伸びたからって、年寄りこき使うのは良くないよぉ」
爺さんは、自嘲しながら女に言った。
周りの年寄りたちが慌ただしく、無線機を使って連絡を取り合っている。
俺は? どうなったのか?
「だまして悪かったね。自白のとおり、捜索したらご遺体が見つかったよ。白骨化してたけどその一部で十分。鑑識がすぐ、身元を照合してくれるからさ」
爺さんは俺の胸ポケットに向かって、顎をしゃくった。胸ポケットの前に取り付けられていた白いボタンを、女は乱暴に引き剝がした。
「盗んだシャツってのが、盲点だな。最近は便利だな、柏木さん。場所も声も、全部拾えるからな」
女は白いボタンを黒パンツのポケットにしまい込み、コクリと頷いた。
「敢えて、盗ませた。敢えて、新聞記事にした。敢えて、身代わりの自首記事まで作った。新聞社巻き込むのは大変だったぜ」
定義と呼ばれた爺さんは、得意げに話す。
「ま、待てよ。じゃぁ全部ウソだったのかよ」
「当たり前だろ、お前の身代わりに自首する奴もいないし、対価? 代わりに身体の一部をもらうなんてそんなオカルトめいたこと。なんだ、お前、UFOとか幽霊信じるヤツなのか?」
と爺さんはタバコをくゆらせながら、うまそうに一服していた。
「定義さん、ここ図書館です。禁煙ですよ」
若い刑事が爺さんを指先でつつきながら諫めた。
「なんだよ、課長。いいじゃないか、五年越しのヤマだったんだからよ」
「じゃぁ、俺の目が見にくくなったり、頭がハゲてきたり、ほら、咳き込んだり、アトピーぽくなったりはなんだんだよ」
「それは、お前の不摂生だろうな。アトピーぽくなったのは、通りがかりにうちのやつが、ほら、漆でもぶっかけてくれたおかげかもな」
まだ夏にもなっていないのに、セミのションベンがかかった、アレか。
「クソッ、まんまとヤラレタ。土の中にいれば良かった。畜生め」
「土の中?」
「セミの幼虫だよ、そんなことも知らないのかよ。ジジイのくせに」
俺の悪態に、定義という爺さんが諭すでもなく言った。
「土の中から出られないと、死ぬんだぞ。セミの幼虫ってのは」
ぷかっとうまそうに煙を鼻から出し切ると、
「まぁ、よかったじゃないか。土の中から出て、死ねるんだからよ」
と予め考えていたキメ台詞みたいにして、カッコつけて言っていた。
(おわり)
認めれば、受け入れることになる。受け入れれば、その事象を自分の中に組み込むことになる。花粉症然り、風邪然り、犯罪然り。
俺は、ある男にかけられた冤罪のおかげで自分の犯した罪を免れている。いつも冤罪を問う時に、裁判制度や取り調べの在り方ばかりに目が行くが、真犯人を取り逃がしていることには目をつむりがちだ。マスコミですら報道しない。
報道しないと言うことは、その冤罪を冤罪として支持していないのかと我ながら思う。
真犯人と仰々しいネーミングに、シン・犯人とすればふざけても見える。そうやって、今をやり過ごし、俺は俺の罪を、見知らぬ男に背負わせている。俺の家から三駅隣の、田園地帯は富豪地帯とも言われている。国策による農地売却ができず、開き直った農家が新しい品種を開発したというのだ。キャベツ、ほうれん草、レタス、ネギ、玉ねぎ、白菜、ブロッコリー、きゅうり、ナス、トマト、ピーマン、大根、ニンジン、里芋、ジャガイモといった指定野菜たちだ。
指定野菜とは国が特に重要と位置づけている野菜のことだ。消費量が多く、国民の生活に欠かせないため、価格が大きく下がった際には、生産者を支援する制度の対象になるらしい。
俺は、野菜ドロボウだ。この富豪地帯の農家から野菜収穫時に頂戴する。決まって深夜二時、丑三つ時だ。背負ったリュックは、60リットルもので、工夫すれば相当に入る。これは二つ隣りの駅にある、アーケード商店街から盗んだものだ。ドームタイプの幌はボロボロに破れ、錆びた骨組みには燕が巣を作っている。糞害がひどいので、天候に関わらず傘を差した方が無難だ。盗んだ野菜はこの商店街に露店を出して、売りさばく。だから俺も傘は手放せない。ちなみに露店の出店権利証は目の不自由な婆さんから盗んだ。婆さんは出店権利証を失くしたとかで、翌日からみかけることはなくなったが。
どれも盗んだものばかりで、生計を立てているが、独り身ゆえに、捕まってもいいやぐらいの気概が幸いしているのか。開き直りが顔にも出てきて、顔が締まらない。頬がたるみ、頭頂部はハゲてきている。手は皺だらけに、足の裏は角質でゴリゴリだ。腹は出ていないが、スタイルがいいとはいえない。
いわゆる、中年の四十代なのだ。最近は目も見えにくくなっているし、廃ビルの新居で横向きで寝ると咳が止まらない。
俺が盗んだ野菜たち、傘、露店の出店権利証に、廃ビルの不法占拠。まぁ、他にも布団やら歯ブラシ、シャンプーに、ティッシュなどの日曜雑貨も盗んだものだ。
自分のものなどひとつもない、と言えば大げさか。唯一自分のものだ! と胸を張って言えるのはこの身体だけだ。最近はガタが来ているが、これは俺のものだ。間違いない。
廃ビルは取り壊しが中座していて、その中でもまだ使えそうな一室に俺は住み着いている。十人ぐらいがいたようなオフィスのようで、デスクに反対にしたデスクを重ねている。キャスター付きの椅子は一か所に固められている。クッションフロアに青のビニルシートを広げ、その上に布団を敷いて暮らしている。
思えば若い頃から、働いたことはないし、ほぼ盗み一本で暮らしてきた。ゲームの世界なら盗賊だ、なんて高らかに名乗りをあげることもあろうが、まぁドロボウなんて人に言える仕事じゃない。いや、そもそもそんなものは仕事でも何でもない。いつ捕まるのか、下校途中の小学生たちが俺を監視しているのかもしれないと思うぐらいに、猜疑心溢れて心が病むのだ。自分のなかに、犯罪者であるというインクを滲ませていく作業。それならインクが滲み切ってくれる方がありがたい。中途半端である方が、心苦しいのだ。
商店街の端にある、レトロな行きつけの喫茶店でモーニングを喰う。六十を過ぎたマスターが趣味で始めたような店だ。五卓あるテーブル席とカウンターだけ。カウンターには客が少ないのか、仕入れたコーヒー豆らしき段ボールが無造作に置かれている。いつ来ても客の入りは、芳しくないようだ。
ここに来る理由は、長居できるからだけじゃない。ありていだが、新聞がタダで読めるからだ。何気に新聞に目を通すと、俺が盗んだ野菜やら、日用雑貨やら、小さいスペースながらも記事になっている。そしてそれらには個別にいつも犯人がいて、逮捕されたというのだ。真犯人は俺だよ、と言いたくもなるほどに警察はマヌケに誤認逮捕を繰り返している。たまに地方版のテレビニュースでも報道されたこともある。そのたびに、俺は腹の底から湧き出る笑いが止まらなくなるのだ。
馬鹿だ! こいつらそろいも揃って。
あぁ、叫びたい。その衝動を抑えるのもセットで楽しんでいる。
こうした新聞記事にしても、テレビニュースにしても、逮捕までしか報じない。ニュースの価値は、そこまでであり、その後どうなったかなんて、追いかけないものだ。よっぽどの凶悪事件でもない限り。逮捕されたニュースだけで、終わる。
人々が知りたいのは、その事件の背景やそれが自分にも降りかからないかである。そして、安全なところからその事件を追体験するのだ。あくまでも傍観者の立場で。
だから驚いたのだ。追っかけ記事が、今日の新聞には載っている。それもいくつも。逮捕された冤罪の犯人たちが、「自白」したというのだ。そもそも、その無実の俺の代わりたちのなかには「自首」してきたものもいると言う。記事は簡潔で、新聞文法的で、結論から逆三角形型に内容が深まる。ディテールは読み進めないとわからない。
どういうことだ、自白はまだしも、自首なんて。その中に目を疑う一文を見つけた。
野菜ドロボウは、自分だと名乗りあげたのがあの盲目の婆さんだった。顔写真付きだ。視覚障がい者と書かれている。そして、その婆さんの露店出店権利証を盗んだのは、いつも俺の店に来るアトピー性皮膚炎の女だ。ボリボリと掻きむしりながら、野菜を選ぶから注意をした記憶がある。
過去の新聞にも目を通すため、俺は図書館に向かった。市民税すら払っていない俺に利用資格があるかは疑わしいが、なにも本を盗むわけでもない。受付では特に身分証明を提示する必要もなかった。壁のクロスを張り替えたばかりなのか、シミひとつない清廉とした図書館らしい図書館だった。
平日のわりに、人が多いがよく見ると年寄りばかりだ。居眠りしているものや、ノートを取りながら文献をあさっているもの、四人テーブルを陣取って私物のリュックをどんと置き、スマホ画面を眺めているもの。さまざまだ。新聞コーナーから、過去一月分の新聞を引っ張り出す。
地方版のコーナーに刺さるほどの強い視線で目を通す。俺が盗んだブツの記事を探しているのだ。唾を人差し指と親指にねっとりと付けて、新聞をめくる隣の爺さんが俺をじっと見る。俺が束ねてこれから読むつもりの新聞を狙っているようだ。俺は読み終えた新聞を棚に戻さず、その爺さんに渡していった。
爺さんから黙礼され、俺は「あぁ」と声にならない声で返事した。
気が付いたら三時間経っていた。もう昼の二時過ぎだ。驚いた、俺の犯罪の追っかけ記事の多いこと。確認できただけで二十八件の事件に対して、全て犯人がいるのだ。もちろん冤罪だ。俺が犯人なのだから。身代わりたちの刑期までは記載されていない。裁判がまだ始まっていないからだ。傷害事件などではないから、ほとんどが執行猶予がつくのか、はたまたなぜか「不起訴」になるのか。
いずれにしても、社会的なペナルティは受けるものの、再起不能にまで陥ることもなさそうだ。
隣りの爺さんが俺と同じく三時間、新聞読みに没頭していた。
「アンタ、他になにか悪さしてないのかい?」
襟のついたシャツに、アイロンがかかったグレーのスラックス。白の靴下。顔はシミだらけだが、清潔さを維持する気概には溢れている爺さんだ。
「何を唐突に。失礼ですね」
俺は常識的な社会人として振舞う。
「いいんだよ、それより、悪さしてるならワシが引き受けるぞ。こいつ等みたいに」
爺さんは、新聞を開き、俺の事件を指さした。この場所に記事が載っていると、暗記しているかのように、ピタリ指が吸い付くように導かれた。新聞の端は乾いた唾でよれている。気持ち悪い。
「なんなんだよ」
「だから、ワシが代わってやるよ。自首してやるから。野菜、まだ盗んでるんだろ?」
新たな脅しか、詐欺か、カマシか。相手はジジイだ。なんとでもなる。ヒマつぶしでもあり、この気味悪い事態も解明したい気持ちが先走る。
この箱を開けてはいけない、この扉を開けてはいけない、誰にも言ってはいけない、すべて昔話から今に脈々と引き継がれる「してはいけない」。
押すな押すなと同じだ。押せということなのだ。どうしてもこの不可思議な扉を俺は開けてみたくなったのだ。
―なぜ、俺の罪をかぶるのか?
「じゃぁ爺さん。この罪をかぶってくれよ。俺がこんな盗人暮らしをしているのも、もとはと言えば、誘拐事件に手を染めたからだ。小学生の男の子、誘拐して見つからなかったろ。あれは俺がやった」
爺さんは、うんうんと相槌の間が小気味よく、絞り出すように話をさせられる。
「じゃぁ、殺したのかい」
「そんな単刀直入に聴くね、爺さんも。まぁ、そういうことだ」
「それでどうしたんだい?」
「そんなに詳しく、聴きたいのか?」
「そりゃぁ、ワシがやったと自首するんだから。詳細を知らないと、今時の刑事さんの取り調べは一貫性とやらが重要だと、新聞でも読んだからな」
確かに、ディテールこそ命だからな。自白は。時系列で矛盾なく。動機も、衝動的にしてもそこにはある一定の「合理性」が潜んでいるものだ。突発的にと言う事象すら、突発する前後の状況が合理性を支える背景になる。
この疑問の扉が開かないことには、ディテール、誘拐殺人の告白なんてできない。
―なぜ、俺の罪をかぶるのか?
爺さんは腑に落ちない俺をじっと見て、察したように話し始めた。
「身代わりには対価が発生する。お前さんの罪をかぶると、代わりにお前さんから身体の一部を頂くことができるってわけだ」
相槌を打つも、理解が追い付かない。
「どういうことだ?」
「あの婆さんの記事、ワシも良く知ってる。知り合いだからな。後日談は報じられていないだろ」
野菜ドロボウの罪をかぶった、しかも俺から露店の権利証を盗まれた婆さん。
「目が見えるようになったんだと」
腕を組みながら、得意げに話した。
目が見える? 俺の心の声が図書館中に響いた。司書の若い女性がこっちに目線を送る。メガネが天井の蛍光灯に反射して、表情が掴めない。睨まれているのか、ただ見られただけなのか。
「最近、目が見にくく感じないか?」
俺に言っているのか? 爺さんの言葉が耳からすり抜ける。ほとんど呆気に取られている様子に爺さんは畳みかけてきた。
「頭部の毛が薄くなったり、右側の肺が苦しかったり、皮膚がアトピーぽくなっちゃいないか?」
爺さんは俺の首元を見ながら尋ねた。
確かに、最近右目が見えにくい。寝る時には咳が止まらないし、皮膚炎ぽく湿疹が出てきてもいる。
身代わり、なのか。
「対価だからの。今度のその誘拐殺人、ワシが引き受ける。老い先も長くない。むしろ健康で死にたい。獄中であっても。死刑になるにしても、裁判してるうちに寿命に達する。再審請求も使えば、裁判自体も長引かせられるからな。その間ワシはお前さんの身体から一部頂いて、健康になるってわけだ」
「どこを対価とするんだ?」
俺は、薄くなった頭頂部を手で確認しながら聴いた。
「なぁに、骨じゃよ。膝の軟骨に背骨、頚椎がちと痛んでてな。股関節も具合が悪うてな。とにかく、まっすぐ歩けん。歩けんのは辛いぞ」
「それを差し出したら、俺が歩けなくなるんじゃないのか?」
もっともな俺の問いに、爺さんは予め用意していたようにしたり顔で答えた。
「目、見にくいだけで失明しとらんだろうに。頭頂部、薄くなってもまた生えてきとるだろ? それに、咳しがちでもそりゃぁ日にち薬で治る。最初の頃よりましになっとるはず」
確かに、罪と交換する対価としては俺の方がレートがいい。誘拐殺人と骨を交換、骨はいずれ回復していくというものなのか。
これで俺が追われるということから解放されると言うのも魅力だ。俺は、しばらく逡巡したが、爺さんの申し出を受けることにした。
事件の詳細についてそこから二時間かけて説明した。誘い出した方法、日時、殺害手順に動機。遺体の運び出しと埋めた正確な場所。
ありとあらゆるディテールについて自白した。
爺さんに話していると、不思議なもんで自分の罪が洗い流されている感覚に陥る。もっともこの罪は、いまから爺さんがかぶるのだが。
図書館の閉館時間が近づく、気が付くと周囲にいた他の年寄りたちが少し増えている気がする。いつの間に? こんなに?
図書館司書が俺の近くにやってきて、間もなく閉館だと告げた。と、同時にするりと後ろに回り込んだ。後ろ手で手錠を掛けられた。
「伏せて。はい、あなたには黙秘権はありますが、自白しちゃったから、我々がいまから改めて取り調べる必要はないかもね」
「定義さん、お手数かけました」
その図書館司書の女は爺さんに敬礼する。
「定年制度が伸びたからって、年寄りこき使うのは良くないよぉ」
爺さんは、自嘲しながら女に言った。
周りの年寄りたちが慌ただしく、無線機を使って連絡を取り合っている。
俺は? どうなったのか?
「だまして悪かったね。自白のとおり、捜索したらご遺体が見つかったよ。白骨化してたけどその一部で十分。鑑識がすぐ、身元を照合してくれるからさ」
爺さんは俺の胸ポケットに向かって、顎をしゃくった。胸ポケットの前に取り付けられていた白いボタンを、女は乱暴に引き剝がした。
「盗んだシャツってのが、盲点だな。最近は便利だな、柏木さん。場所も声も、全部拾えるからな」
女は白いボタンを黒パンツのポケットにしまい込み、コクリと頷いた。
「敢えて、盗ませた。敢えて、新聞記事にした。敢えて、身代わりの自首記事まで作った。新聞社巻き込むのは大変だったぜ」
定義と呼ばれた爺さんは、得意げに話す。
「ま、待てよ。じゃぁ全部ウソだったのかよ」
「当たり前だろ、お前の身代わりに自首する奴もいないし、対価? 代わりに身体の一部をもらうなんてそんなオカルトめいたこと。なんだ、お前、UFOとか幽霊信じるヤツなのか?」
と爺さんはタバコをくゆらせながら、うまそうに一服していた。
「定義さん、ここ図書館です。禁煙ですよ」
若い刑事が爺さんを指先でつつきながら諫めた。
「なんだよ、課長。いいじゃないか、五年越しのヤマだったんだからよ」
「じゃぁ、俺の目が見にくくなったり、頭がハゲてきたり、ほら、咳き込んだり、アトピーぽくなったりはなんだんだよ」
「それは、お前の不摂生だろうな。アトピーぽくなったのは、通りがかりにうちのやつが、ほら、漆でもぶっかけてくれたおかげかもな」
まだ夏にもなっていないのに、セミのションベンがかかった、アレか。
「クソッ、まんまとヤラレタ。土の中にいれば良かった。畜生め」
「土の中?」
「セミの幼虫だよ、そんなことも知らないのかよ。ジジイのくせに」
俺の悪態に、定義という爺さんが諭すでもなく言った。
「土の中から出られないと、死ぬんだぞ。セミの幼虫ってのは」
ぷかっとうまそうに煙を鼻から出し切ると、
「まぁ、よかったじゃないか。土の中から出て、死ねるんだからよ」
と予め考えていたキメ台詞みたいにして、カッコつけて言っていた。




