狙われるネギ鴨とシラサギ(詐欺)
狙われるネギ鴨とシラサギ(詐欺)
――春の河川敷、或いは欺瞞の代償
第一章:泥を啜る「白き死神」
春の陽光は、残酷なまでに無防備だった。
小川のせせらぎが銀色の鱗のように跳ね、
土手には菜の花が爆ぜたような黄色を撒き散らしている。
だが、その平和を一枚剥げば、
そこには「捕食」という名の血生臭い歯車が回っていた。
川辺の密集した蘆の茂みに、その「異形」は潜んでいた。
本来ならば、雪の結晶を繋ぎ合わせたような
純白の毛並みを持つはずの猫、シロ。
しかし今の彼に、高貴な面影はない。
その顔面にはドブ川の黒泥と、
すり潰したヨモギの緑汁が幾何学模様に塗りたくられていた。
軍隊で言うところの「フェイスペイント」。
即ち、隠密行動用の迷彩である。
【猫の挙動:無音の匍匐】
シロは前足を一歩出すごとに、
肉球にかかる荷重をミリ単位で調整していた。
まず外側の端を接地させ、ゆっくりと重心を移す。
枯れ葉一枚、小石一つ鳴らすことは許されない。
肘を外側に張り出し、
腹毛を地面に擦りつけるようにして移動するその姿は、
猫というよりは、獲物の息の根を止めるためだけに最適化された蛇に近い。
「(……クシュッ、……クシュンッ!)」
その時、春の悪戯か。
タンポポの綿毛が一本、シロの鼻先を掠めた。
鼻腔の奥に走る、強烈な電気信号。
くしゃみの予兆。
ハンターにとって、音は死を意味する。
【猫の挙動:くしゃみの封印】
シロは咄嗟に前足の甲を鼻腔に押し当てた。
顔面を獅子舞のように歪め、全身の筋肉を石のように硬直させる。
肺から漏れ出そうとする呼気を、
逆流させるようにして喉の奥で飲み込んだ。
涙目で痙攣しながら、彼はそのまま三十秒間、石像と化した。
「(……まだだ。まだ、ホシの『交付』が完了していない……)」
その眼光は、空腹に喘ぐ野良猫のそれとは決定的に異なっていた。
そこにあるのは、冷徹な法への執着――。
第二章:ネギと詐欺師の円舞曲
シロが狙う「獲物」たちは、あまりに無知で、あまりに滑稽だった。
ターゲットの一羽、マガモの「カモ公」は、
今日も今日とて立派な泥付きの深谷ネギを背負っていた。
それも、高級な組紐で「背負い袋」のように固定されている。
文字通り、歩く鍋セット。
日本全土の食いしん坊が泣いて喜ぶ
「カモネギ」の完成形がそこにあった。
「いやあ、旦那。そのネギ、実に『立って』ますなあ。
角度にして八十五度。まさにネギ界のエベレストだ」
カモに擦り寄るのは、全身の羽を白く膨らませたシラサギだった。
特筆すべきは、その胸元だ。
白い羽毛を無理やり染め抜いたのか、
おどろおどろしいフォントで**「詐欺」**という二文字が刻まれている。
自らの職業をこれほど誠実に、
かつ威圧的に宣伝する悪党が他にいるだろうか。
「まあねぇ。これがないと、どうも背中が寒くて。
でも、最近は首筋がバキバキなんだよ。
飛ぶ時も風の抵抗がすごくて、右に曲がっちゃうんだ」
カモは溜息をつき、自慢のネギを揺らした。
「でしょう! そこで旦那、ご提案があるんです。
この最新式の『全宇宙共通・無限決済・徳積みゴールドカード』。
これを見てください」
白鷺は翼の隙間から、プラスチックの破片を取り出した。
それはどこからどう見ても、
十数年前に有効期限が切れたスーパーのポイントカードであった。
「……これ、ただの板じゃないのかい?」
「おっと、旦那、見かけに騙されちゃいけない。
これは『ナノ・テクノロジー』の結晶です。
このカードを水面にピッとかざすだけで、
上流から流れてくる魚がすべて旦那の胃袋に直行する」
「……」
「しかも暗証番号は不要。
旦那の『人徳』で引き落とされる仕組みですから」
「人徳? 僕、そんなに貯まってるかな……」
「貯まってますとも!
その立派なネギを背負い続ける忍耐力、それこそが徳の源泉だ。
さあ、その重くて時代遅れのネギと、この未来の鍵を交換しましょう!」
第三章:捕食の瞬間、或いは法の行使
二羽のやり取りが最高潮に達し、
カモが「それもそうだなあ」と背中の組紐に嘴をかけたその瞬間。
草むらの中、シロの意識が沸騰した。
【猫の挙動:予備動作】
シロの後ろ足が、交互に細かく地面を蹴り始めた。
腰を左右に振り、
飛び出しの瞬間に地面を完璧にグリップするための最終調整。
瞳孔は限界まで見開き、世界から色が消え、
白鷺の細い首筋だけが赤く強調されて浮かび上がる。
「(――取引成立。即ち、既遂の瞬間だ!)」
【猫の挙動:爆発的跳躍】
シロの身体が、圧縮されたバネのように弾けた。
蘆の茂みを暴力的に掻き分け、迷彩色の影が春の空を切り裂く。
「ギ、ギャッ!? 殺されるっ!!」
白鷺が絶叫し、カードを放り出して飛び上がろうとする。
しかし、シロの運動神経は物理法則を嘲笑っていた。
空中で身体を捻り、白鷺の逃げ道を塞ぐ。
そして――。
「そこまでだッ! 泥棒鷺め!」
シロの鋭い前足が、白鷺の首を完璧なホールドで捉えた。
誰もが、鋭い牙がその喉笛を食い破るのを予感した。
だが、シロが動かしたのは牙ではなかった。
カチリ。
静寂を貫く、無機質な金属音。
白鷺の首に嵌まっていたのは、死の刻印ではなく、
警察官が所持する「特注小型手錠」であった。
エピローグ:汚名をそそいだ英雄
翌日の警察署グランド。
泥にまみれた「悪魔」の姿はどこにもなかった。
そこには、入念なグルーミングによって
真珠のような輝きを取り戻した、一匹の白猫が立っていた。
特注の紺色の制服に身を包み、階級章を誇らしげに掲げた彼は、
今やこの街の「正義」そのものだった。
「シロ巡査長! 君の変装捜査は、全国の警察動物の鑑である!」
署長の声が響き、シロの首に金色のメダルがかけられる。
【猫の挙動:警察官の矜持】
シロは一瞬、公衆の面前で
ペロリと前足を舐め、耳の後ろを二、三回こすった。
本能的な癖が出かけたが、すぐにハッと気づいたように姿勢を正し、
ビシッと敬礼を繰り出す。
そのギャップに、参列した観衆たちからは
「可愛い……」という悲鳴にも似た溜息が漏れた。
壇下の端には、縄で亀甲縛りにされた白鷺が、
己の胸に刻まれた「詐欺」の文字を呪うように地面を突いていた。
そして署内の池では、
相変わらずネギを背負ったカモが、のんきに泳いでいた。
「やっぱりネギは、重いけど美味いんだよね。ははは」
カモののんきな独り言を背に、シロは春の空を見上げた。
迷彩を落としたその視界には、
ただ一点の曇りもない青空が広がっていた。
(完)




