第1話 大公ヴラド、戦場に舞う
地平線の彼方から、鉄の匂いが風に乗って運ばれてくる。
常夜の公国『ヴァルデリス』の国境沿いに広がる冥府平原。そこは今、松明の火と魔法の光、そして飛び散る鮮血によって、不気味な極彩色に染まっていた。
鋼の鎧に身を包んだ人間たちの軍勢が、地響きを立てて押し寄せる。対するは、漆黒の外套をなびかせた吸血鬼の精鋭たち。
数では圧倒的に勝る人間側だが、その表情には隠しきれない恐怖が張り付いていた。
◇◆◇
【ヴラド視点】
ふむ。やはり、夜の空気はこうでなくてはな。
私は戦場の中央、小高い丘の上で一人、静かに眼下の光景を眺めていた。
隣国――聖教国エルダイトの連中か。神の加護を盾に、我が領土を侵そうとする不届き者たち。彼らにとって、我ら吸血鬼は滅ぼすべき悪なのだろう。
だが、私にとっては、この戦いすらも長く退屈な生を紛らわせるための、少々騒がしい余興に過ぎない。
(……とはいえ、あちらも相応の準備はしてきたようだな)
視線を向ければ、人間たちの陣営の中央に、ひときわ強い魔力を放つ者たちがいた。
聖銀の剣を振るう若き戦士、神聖魔法の結界を張る老僧侶、そして火球を雨あられと降らせる魔導師。
彼ら『勇士』と呼ばれる者たちは、並の吸血鬼であれば数秒で灰に変える力を持っている。事実、我が軍の若者たちが、聖なる光に焼かれて後退を余儀なくされていた。
「大公様、前線が押し込まれております。ここは我らガランド騎士団にお任せを!」
傍らに控えていたラインハルトが、銀髪を振り乱して進言してくる。彼は相変わらず真面目すぎる。部下を思うあまり、自分が行きたくてたまらないといった様子だ。
「よい、ラインハルト。お前は予備兵力を束ねておけ。……たまには、私が羽を伸ばさせてもらう」
「しかし! まだ太陽が昇る刻限ではございませんが、万が一ということも――」
「案ずるな。忘れたか? 私はすでに、あの忌々しい陽光を克服している」
私は静かに一歩、前へ踏み出した。
本来、吸血鬼にとって太陽は死の象徴だ。だが、数千年の時を経て、私はその理すらも塗り替えた。私は超克者なのだ。
私は丘から、重力など存在しないかのように軽やかに飛び降りた。
◇◆◇
戦場の中心に降り立った私を、人間たちの兵士が包囲する。
「化け物め! 死ねぇ!」
一人の戦士が、叫び声とともに聖水に浸した槍を突き出してきた。
私はそれを避けることすらしない。指先一つで槍の穂先を弾くと、そのまま彼の喉元を軽く撫でた。
「――が、はっ……」
鮮やかな赤が宙を舞う。
人間という生き物は、実にもろい。ほんの少し触れただけで、その命の灯火は容易く消えてしまう。
「ひ、退くな! 相手はたった一人だ! 神の御名において、この魔王を討て!」
先ほどの若き戦士――カイルと名乗っていたか――が、大剣を構えて斬りかかってくる。背後からは僧侶の祈りによる、不快なほどに眩しい光が私を包み込む。
だが、無駄だ。
「勇ましいな。だが、その正義とやらは、私に届くほど鋭くはない」
私は外套を大きく広げた。
次の瞬間、私の影から無数の漆黒の蝙蝠が飛び出し、嵐となって人間たちを飲み込んでいく。
「ぎゃああああ!」
「助けてくれ、腕が、腕がぁ!」
悲鳴と絶叫が平原に響き渡る。
剣士の放った一撃を、私は素手で受け止めた。ミシミシと鋼が軋む音がする。カイルの顔が驚愕に染まった。
「……ありえない。聖なる加護を受けたこの剣を、素手で……!?」
「人間よ。お前たちが生まれる前から、私はこの地を統治している。数十年しか生きぬ者に、私の何が理解できるというのだ?」
私は優雅に微笑み、力を込めた。
パキィン、と乾いた音を立てて大剣が砕け散る。
戦意を喪失し、尻餅をつくカイル。私はその首筋に手を伸ばしかけて、ふと空を見上げた。
東の空が、わずかに白み始めている。
(……おっと、そろそろ時間か)
太陽を克服しているとはいえ、直射日光の下で戦うのは服が痛むし、何より趣味ではない。朝食の紅茶を淹れる時間には戻りたいものだ。
「引き上げだ、諸君。今日のところは、この平原を彼らの墓標にしてやろう」
私の言葉とともに、吸血鬼たちは一斉に闇へと溶けていく。
後に残されたのは、血に染まった平原と、絶望に打ちひしがれた人間たちの残骸だけだった。
◇◆◇
ヴァルデリスの居城に戻った私は、自室の椅子に深く腰を下ろした。
戦場での高揚感はすでに消え、心地よい疲れと、それ以上の虚無感が私を包む。
扉がノックされ、老執事のアリスターが入ってきた。
「お帰りなさいませ、大公様。戦果は上々のご様子で」
「ああ。退屈しのぎにはなったよ。それより、アリスター。例のものは届いているか?」
「はっ。人間界から取り寄せた最新のボードゲーム、『モノダーク』というものだそうでございます。すでにサロンに準備してありますよ」
私の瞳が、戦場で見せた冷酷な輝きとは別の意味で光った。
「そうか! よし、ユリウスを呼んでこい。あいつの胃に穴が空く前に、一勝負してやらねばな」
悠久の時を生きる我らにとって、戦場よりも、この小さな盤上での戦いの方が、時に重要だったりするのだ。
外では太陽が昇り始めている。
窓にはよろい戸が閉められ、遮光の黒いカーテンをかけられた。
吸血鬼の国に、新しい一日という名の、変わらぬ夜が訪れようとしていた。
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