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(仮)それって何?

「いい」って、なんだろう?

作者: 田中葵

第1話「『欲しい人材』という幻想」


 「うちはね、“欲しい人材”を明確にしています」


 そう言って、スーツの男は笑った。

 その笑顔には、何ひとつ悪意がなかった。むしろ親切だった。

 ただ、その笑顔の裏側にある「型」のようなものが、どうしても気になってしまった。


 ――“欲しい人材”とは、どんな人だろう。


 就活サイトの特集を開くと、同じような言葉が並んでいる。

 「主体的」「協調性」「柔軟性」「成長意欲」……

 どれも“いいこと”のようで、どれも“便利そう”だった。


 夏希は、カフェの窓際でその画面を見つめた。

 スマホの明かりに照らされて、コーヒーの表面がうすく揺れる。

 向かいに座る友人の奏が、ストローをくるくる回しながら言った。


 「“柔軟性”って、結局“相手に合わせられる人”って意味じゃない?」

 「まぁ、そうだよね」

 「“主体性”って、“こっちの望む方向で動ける人”ってことじゃない?」

 「……」


 二人は笑った。冗談のつもりだった。

 でも、その笑いが思いのほか、喉に引っかかった。


 会社説明会のスライドには、

 「私たちは人を大切にします」

 「若手にもチャンスがあります」

 「失敗を恐れずチャレンジを」

 と、やわらかいフォントで書かれていた。

 言葉のどれもが“いい”ように見えた。

 けれど、そこには「異論」「拒絶」「停滞」が一切存在しない世界が描かれていた。


 ――都合に合わせてくれる“いい人”しか、受け入れない世界。


 夏希は面接で、自分でも驚くほど“いい人”を演じていた。

 質問に対して即座にうなずき、求められた価値観を、自然な笑顔で返す。

 「御社の理念に深く共感しました」

 「どんな環境でも柔軟に吸収し、成長していきたいです」

 言葉が出るたび、何かが削れていく感覚があった。

 だが、面接官たちは満足そうに頷いた。


 「君みたいな人材を探してたんだよ」


 ――“欲しい人材”になれた瞬間だった。


 帰りの電車で、吊り革を握りながら、夏希は車窓に映る自分の顔を見た。

 「君みたいな人材」

 その言葉の響きが、どうにも心の奥で鈍く響く。

 “君みたいな”って、どんな?

 “人材”って、誰?


 反対側のシートに座る誰かが、小さな声で呟いた。

 「“人”じゃなくて、“材”なんだよな」


 たぶん、それは自分の心の声だった。

 夏希は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。

 ほんの少しだけ、笑みが漏れた。

 「“欲しい人材”って、つまり“扱いやすい人”のことじゃない?」


 声に出してみた瞬間、

 不思議と、胸の奥に風が通った。




第二話:「『いい調子』だけモテてる(汗)」


 「やっほ〜! 今日もテンションいいね!」

 カメラの向こうで、コメントが光る。

 “いいね”の波が、スマホの画面いっぱいに広がっていく。


 莉央は、笑顔を崩さない。

 口角、声のトーン、瞬きのリズム。

 全部、練習して身につけた。


 “明るく”“ポジティブ”“元気をもらえる”

 ――それが彼女の「キャラ」だった。


 けれど、画面の外側では、コーヒーの湯気が静かに消えていく。

 朝から胃が重かった。

 昨夜、友人の配信仲間が急に活動をやめたのだ。

 「疲れた」

 その一言を最後に、SNSのアカウントも消えた。


 コメント欄には、誰も“それ”に触れなかった。

 「また復帰してくれるといいね!」

 「休むのも大事〜♪」

 ――“いい調子”を保つことが、最大の礼儀になっていた。


 配信が終わると、莉央は笑顔のまま、カメラをオフにした。

 モニターに映る自分の顔が、ふっと静まる。

 唇の端が下がるのを見て、思わずため息が出た。


 そのとき、スマホが震えた。

 「今日の配信もサイコー!」という通知。

 「莉央ちゃん、テンション落とさないでね!」

 ――優しい言葉。だけど、妙に重かった。


 “テンションを落とさないでね”

 つまり、“気分を乱さないでね”

 つまり、“私たちの『いい空気』を壊さないでね”


 そう読み取ってしまうのは、被害妄想だろうか。

 でも、誰も“暗い話”を望んでいないのは知っていた。


 画面の中では、“共感”よりも“共鳴”がモテる。

 “わかる”より“楽しい”が優先される。

 「ノリ」を外した瞬間、フォロワーは音もなく離れていく。

 キャンセルでも炎上でもなく――ただ、静かに。


 夜。

 ベッドの上で、莉央はスマホを伏せた。

 画面の明かりが消えると、部屋が少しだけ広くなった気がした。


 “いい調子”の自分を、いったん降ろす。

 深呼吸をして、ゆっくり目を閉じる。


 ――“いいね”が付くのは、“いい調子”だけ。


 私がわかってれば、いいんだ。

 この先“おかしなこと”に、させないから。




第三話:「『いい』よ。キミは“そのまま”で♪」


 春の光が、カーテン越しに差し込んでいた。

 ベッドの上で、美月はスマホを横に置いたまま、ぼんやりと天井を見ていた。

 昨日、恋人の陽介から届いたメッセージが、まだ画面に残っている。


 > 「ほんと、美月はそのままでいいよ(ニコッ)」


 やさしい言葉だった。

 いや、やさしすぎて、少し怖かった。


 “そのままでいい”という言葉には、

 「今のあなたが好き」という肯定と、

 「これ以上、変わらないで」という命令が、

 いつも、紙一重で並んでいる。


 陽介は悪気がない。

 いつも笑って、何でも受け入れてくれる。

 だけど、美月が何か新しいことを話そうとすると、

 ほんの一瞬だけ、空気が凍る。


 「え、それって前の美月っぽくないね」

 「なんか最近、変わった?」


 その一瞬の寂しそうな表情が、

 「戻ってきて」と言っているように見えた。


 美月は自分の髪の毛を指でいじりながら、

 鏡の中に映る自分を見つめる。

 柔らかいピンクのカーディガン。

 ふわふわの前髪。

 「ほんわり」「ゆるかわ」

 そう言われると、褒められたような気がした。


 でも最近、その言葉を聞くたびに、胸の奥がざわつく。


 ――“かわいい”って、誰にとって?

 ――“そのままでいい”って、いつまで?


 夜、カフェでひとりノートを広げた。

 書きかけの詩の断片が並ぶ。

 そこに、小さく書き足す。


 > 「変わることを、やさしく許せる世界でありたい」


 書いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 まるで、長いあいだ着ていた服を脱いだように。


 翌朝、美月は髪を少し切って出かけた。

 街の風が、首すじにあたる。

 いつもと同じ道なのに、光の見え方が違った。


 駅前で、陽介に会った。

 驚いた顔をした彼に、美月は笑って言った。


 「ねえ、“そのままでいい”って言葉、

  あれ、ちょっと返すね」


 「え?」


 「“そのまま”じゃなくても、いいよ」


 そう言って、彼の横をすり抜けた。

 春の風が、やわらかく吹いた。


 “いい”という言葉は、

 誰かを縛るものにも、誰かを解き放つものにもなる。


 そして今、美月はようやく知った。

 ――“いい”は、他人の評価じゃなく、自分の温度で決めていいのだ。






> 『いい』って、なんだろう?


それは、誰かの都合に合わせるためじゃなく、

自分の輪郭を静かに取り戻すための、

もうひとつの問いだった。

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