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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ドアマット幼女は屋根裏部屋から虐待を叫ぶ

作者: はなまる

 皆さまこんにちは。


 わたしはエルシャ・グリーンウッド、六歳。そこそこ裕福な子爵家の長女として生まれました。


 昨年、長く患っていた母が儚くなり、しばらくすると父親の愛人が後妻として家にやって来ました。後妻にはわたしの三歳年上の娘がいて、そこからは絵に描いたようなドアマット生活がはじまりました。


 ドアマットというのは、ドアの前に置かれた敷物のことです。ドアを開けて入ってくる誰もが、敷物を踏みつけ、靴の汚れを落とす。


 踏みつけられ虐げられる存在を誰かが『まるでドアマットのように』と称したそうです。


 そう。わたくし、虐待されております。


 家族の食事に呼ばれなくなり、私室を取り上げられ、後妻とその娘に折檻されることが日常となり、ついに屋根裏部屋へと押し込められたのは三ヶ月ほど前のこと。


 すでに昔からの使用人はひとりも見当たらなくなっています。一応、血が繋がっているはずの父親には半年以上、名前を呼ばれることさえありません。


 反論したり、泣いたりすると余計に殴られる日々の中、心はすっかり折れてしまいました。毎日のように『あんたが悪いのよ!』と罵られれば、次第にこの状況は自業自得のような気がしてくるものです。


 埃の舞う屋根裏部屋でひとり、空腹とストレスでキリキリと痛む胃をギュッと押さえながら、うつらうつらとしていた時に、それは突然やってきました。


 頭の中が、凄まじい量の情報に埋め尽くされたのです。


 それは見たこともない女性の人生であり、その女性の知識でした。社会や福祉が成熟してゆく歴史、倫理観が更新された世界、その世界で自由気ままに暮らす生活。


 それはわたしの壊れかけた自我が見せた妄想かも知れません。ですがふと、生存本能が必死にかき集めた、わたしの魂の過去の姿だったのかも知れないとも思いました。


 人は死に瀕した時に『走馬灯』のように人生を振り返るといいます。それは今までの経験の中から、この危機を乗り越える手段を脳が高速処理で探しているのだそうです。


 おそらくわたしの脳は、六年という少ない経験の中から、有効な手段を見つけられなかったのでしょう。そうして困った脳は、奥へ奥へと手を伸ばし、魂の記憶にたどり着いた。


 物語の主人公たちが、前世を思い出すのはきっとそういうことなのではないでしょうか。


 とにもかくにも。


 その情報は、六歳の心と身体には処理しきれないものでした。わたしは瞼の裏側でスパークする光と色彩に翻弄されながら、まどろむように意識を手放したのです。


 意識の途切れるその刹那に、今は亡き母様の子守唄を聞いた気がしました。けれどもそれも、わたしの幼い心を守るために、脳が作った幻聴だったのかも知れません。




 気がつくと屋根裏部屋はすっかり夕闇に呑み込まれていました。ぼんやりと小さな窓から、街灯と付近の家々の窓から漏れる温かな灯りを見ていたら、自分の置かれた境遇のあまりの悲惨さに涙が溢れました。


 こんなのは正しくない。わたしは何も悪くない。


 悪いのは娯楽のようにわたしを虐待している後妻とその娘です。実の娘が虐待されているのを見ているだけの父親です。


 この状況は、あと九年間続く(・・・・・・・)


 わたしの頭に流れ込んだ知識の中に、『陽だまりのエルシャ』という物語がありました。


 昔から読み継がれて来た古典文学であり、映像作品として何度も取り上げられた名作です。


 幼い頃から虐げられた『エルシャ』はその境遇に負けずに心優しい少女に育ちます。エルシャが十五歳の時に祖父母が迎えに来て、ようやく虐待環境から抜け出すことができるのです。


 明るく優しいエルシャは祖父母や周囲の人々に愛されながら努力を重ねて、幼い頃からの夢であった動物学者になる……というサクセスストーリーです。祖父母の家で出会った従兄弟との淡い初恋も紆余曲折の末に成就し、めでたしめでたしとなります。


 その物語の舞台となる街や通りの名前、登場人物の名前や年齢や容姿、母の病名や葬式の様子。父親の役職や後妻の経歴。全てが今のわたしの現実とピッタリと合致しています。


 言葉にすると荒唐無稽ですが、不思議と心は事実だと納得できてしまう。


 わたしは『陽だまりのエルシャ』という物語の主人公、『エルシャ』として生きている。


「あと……九年……?」


 エルシャが助け出されるのは、まだまだ先の話です。例えばその先の幸せが確約しているとしても、九年はあまりにも長い。


 後妻とその娘の暴力や罵倒、憂さ晴らしで言いつけられる無意味な労働、使用人たちの見下した嘲りの言葉、父親の無関心。


 そんな日々の中で、どうやって優しく明るい人間に育てというのでしょう。


 踏みつけられ続けたドアマットに、自尊心などが芽生えるはずがありません。動物学者? 自己肯定感のない人間が、夢など持てるのでしょうか。


 物語のエルシャはどうして後妻やその娘を憎まずにいられたのでしょう。少しも庇ってくれずに虐待を見ている父親を、恨まずにいられる理由は何なのでしょう。


 今のわたしならば、体力さえあれば夜中に父親の首を絞めるくらいはしてしまいそうです。


 そもそも、使用人の食べ残しのようなものしか与えられない子供が、九年後に健康でいられるのでしょうか。現に体調不良で倒れた時もこの屋根裏部屋に放置されただけでした。古ぼけた毛布だけで、目前に迫った冬を越せるのでしょうか。


「無理! 絶対無理! あと九年も耐えられっこない……!!!」


 そう考えたわたしは、すでに『エルシャ』ではないのでしょう。ですが、そのことを少しも残念だとは思いません。


 わたしは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を袖口でぬぐって立ち上がりました。六歳の幼女の身体でも出来ることはあるはずです。



 * * *



 家人が寝静まるのを待ち、まずは屋根裏部屋に登るための取り付け型のハシゴを、部屋の中へと引っ張り上げます。幼女の腕力では大仕事ではありましたが、慎重に時間をかけてなんとかやり遂げました。


 次に部屋の隅あった古い本棚と底の抜けかけたベッドで入り口を塞ぎます。これからのわたしの行動を、邪魔されるわけにはいかないのです。


 かなり大きな音がしてしまいヒヤヒヤしましたが、誰かが様子を見に来ることはありませんでした。真夜中に厄介者のためにわざわざ起き出す人間は、この屋敷にはいないのです。


 大きく深呼吸して中身を取り出した木箱を持ち上げ、小窓に向かって思い切り投げつけます。


『ガッシャーン!』という大きな音を立てて、窓ガラスが砕け散りました。真夜中の静寂を破ったその音は、思いのほか清々しくわたしの胸に響きました。


 木箱が中庭の花壇へと落ち、また大きな音がしました。これは反撃の狼煙であり、突撃ラッパでもあるのです。派手にやってやります。


 わたしは何も悪くない。わたしはわたしを大切にする。十年もわたしのことを考えずに過ごす、祖父母の助けなど待ったりはしない。


「助けて下さい! 助けて下さい! わたしはエルシャ・グリーンウッド、六歳! この家の全ての人間に虐待されています!!!」


 わたしは窓から身を乗り出して、声の限り叫びました。


「父親の名前は、エドワード・グリーンウッド! 後妻のキャサリンとその娘エミリーに毎日暴力を振るわれています! 今日はキャサリンに紅茶を頭からかけられて、ティーカップを投げつけられました! エミリーには背中を蹴られて手のひらを踏まれました! 父親のエドワードは、ため息をついて見ていました!」


 わたしの叫び声に、いくつかの家に灯りが灯ります。よし、イケる!


「助けて下さい! 助けて下さい! 誰か警ら隊を呼んで下さい! お願いします! 助けて下さい!」


 このまま助けが来なかったら、この騒ぎを起こしたわたしを後妻は許さないでしょう。名指しされた父親も後妻の味方をするかも知れません。


 もう、後戻りは出来ない。そしてするつもりもない。


「一日に一度しか食事をさせてもらえません! 使用人の食べ残しのスープだけです! 熱を出して倒れても医者を呼んでもらえません! このままでは殺されてしまいます!」


 使用人が起きて来て、塞いだ入り口を何かで叩きながら『叫ぶのをやめろ!』と怒鳴っています。


「下男のジョンが来ました! 後妻のキャサリンの愛人です! 捕まったらまた蹴られます! 閉じ込められてしまいます! どうか早く警ら隊を呼んで下さい!」


 後妻の金切り声が聞こえます。不貞がバレて癇癪を起こしているのようです。後妻の娘の泣き叫ぶ声も聞こえます。『学校へ行けなくなる』と言っています。わたしは庭へすら出してもらえていません。


「使用人のリサは、わたしが殴られるのをいつも笑って見ています! アンナは自分の仕事をわたしに押し付けて遊んでいます!」


 父親も来たようです。『やめろ! 降りて来い!』と怒鳴っています。


「父親のエドワードが『やめろ』と怒鳴っています! 半年ぶりに声をかけられました! わたしが後妻のキャサリンに殴られても、エミリーに蹴られても、一度も庇ってくれなかった父親の名前は、エドワード・グリーンウッドです! 母が死んで半年で浮気相手を後妻にした父親の名前は、エドワード・グリーンウッドです!」


 恨み骨髄の父親の名前は、何度も叫んでやります。『陽だまりの……』と称される主人公と、今のわたしの行動は程遠いのでしょう。ですが、叫ぶごとに気分が晴れやかになってゆきます。


『黙れ! 性悪め!』と父親が怒鳴りました。


 当たり前ではないでしょうか。虐げられれば心は歪むのです。物語のエルシャが真っ直ぐに育ったのは、フィクションだからです。


 近所の人が屋敷の前に集まって来ました。門番が起きて来て対応しているのが見えます。そのうち誰かが警ら隊を呼んでくれることでしょう。



 まだまだ叫ぶことは山ほどあります。



 わたしは警ら隊が保護してくれるまでの二時間。屋根裏部屋の窓から虐待の詳細と、この家の全ての人間の醜聞を名指しで、声の限り叫び続けました。




                   おしまい




《その後のエルシャ》


 警ら隊に保護されたエルシャは、もう一度虐待の詳細を洗いざらいぶちまけます。この世界でも虐待は犯罪なので、父親と後妻、後妻の愛人は起訴され裁判で有罪判決を受けます。


 事件は近所の噂話だけでなく新聞記事にもなり、大きな社会問題となりました。父親は仕事と信用を失い後妻とも離婚したそうですが、その後の消息を含めて幼いエルシャには知らされることはありませんでした。


 父親の無関心の理由は裁判では明かされましたが、エルシャの知るところではありません。例え理由があったとしても許されるものではありませんし、エルシャ自身も謝罪されることすら望まなかったため、あの屋根裏部屋から叫んだ日以来、二度と顔を合わせることはありませんでした。


 物語の主人公は母方の祖父母に引き取られますが、エルシャはそれも拒否しました。母親の葬式にも顔を出さず、十年もの長い間放置した孫をなぜ急に迎えに来たのか? 物語には描写されていなかった裏の事情への不信感が大きかったからです。手のひらを返したような溺愛ぶりも気持ち悪いと感じました。


 エルシャは信用のおける養護施設で暮らすことを選び、その二年後に穏やかな養父母に引き取られることになります。


 養父母になったのは、月に何度も面会に訪れて、エルシャの心と身体の傷が癒える手助けをしてくれた優しい子供のいない夫婦です。


 二人のもとで、エルシャはようやく笑えるようになりました。その笑顔を、義両親は『まるで陽だまりのようだ』と称してくれます。


 動物学者に今のところ興味はありません。従兄弟には出会いそうもないし、甘酸っぱい初恋とも縁がありませんが、ここまでの全ては自分が勝ち取ったものなので少しの不満もありません。


 エルシャ八歳、人生まだまだ序盤。


 ここから陽だまり目指して邁進する所存です。






読んで下さりありがとうございました。面白かったら☆評価お願いします! そして、良かったら他作品も覗いてみて下さると喜びます。作者名→作品と遷移して下さい。正体不明の毛玉のお話とかがおすすめです笑


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― 新着の感想 ―
この世界でもとありますが、地球では子供の人権なんて中世でも近代でも無かったですよ 現代、戦後になって出来た概念です
ドアマットヒロインからの這い上がり方が新鮮❗祖父母に引き取られるかと思いきや、10年放置したソコでなく、養護施設に行くところ。葬式にも出ず放置したあとの溺愛への醒めた目線や、自己肯定感のない人間が夢な…
ガッツだぜ!
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