第七話 視えない痕跡を追って ③
東棟の空気は静まり返っていた。壁に掛けられた肖像画は、湿気と香気の滞留でくすんでいた。カーペットの織り目も重たく沈み、歩くたびにわずかに足音が吸われる。
グラントは後ろを歩いていた。彼の歩調が半歩後ろで一致していることが、無言の信頼のようにも感じられた。
ジャックはグラントの横顔を盗み見るようにして訊いた。
「あの……どうして燐香のことを知ってたんですか」
グラントは肩をすくめた。
「証拠品として扱うことが多いってだけだ。おれは香特だからな」
さらりと返されて、ジャックは思わず聞き返した。
「コウトク? ――香異特定局?」
「ああ。香印の暴走を力技で止めるのはおれの専門ってわけだな」
ジャックはしばらく絶句していたが、やがてグラントに詰め寄った。
「なんで言ってくれなかったんですか?」
「肩書きの話は好きじゃなくてな」
ジャックは口を開きかけて、言葉に詰まった。いろいろ言いたいことはあったが、うまくまとまらなかった。
「……ずるいですよ、それ」
グラントを責めるというよりは、どこか拗ねたような言い方だった。
「まあ、でも、助かりました。ほんとに」
「だろ?」
グラントは、片方の口角だけを上げて笑った。
部屋の中に、じわりと沈黙が戻ってくる。
燐香の匂いは、まだ壁の向こうで呼吸を塞いでいる。ジャックは、無意識にその方向へと歩みを進めていた。
気配に引き寄せられるように、扉に近寄る。
金属の取っ手に触れた瞬間、その冷たさに指が跳ねた。
不穏だった。だが、引き返すわけにもいかない。
ジャックは、手のひらで一度だけ深く押し込むようにして、扉を開けた。
ぶわりと、煙が吹き出した。
甘く、鈍い匂いが鼻腔を突き刺し、肺に焼きつく。視界が白く濁り、室内に何があるのかさえ見えない。
グラントの腕が即座に伸び、ジャックの肩を引いた。
「下がれ。燐香だ」
グラントは袖口で鼻を覆ったが、ジャックは眉をひそめながらも鼻をかばわなかった。
すでに、室内の煙は薄れはじめている。
「樹脂香。もう燃え尽きてる。でも、これは……」
その甘さには、不穏な発酵の気配があった。煙を掻き分けるように、室内へと足を踏み入れる。
ジャックは鼻腔に意識を集中させながら続けた。
「……香調の出方が、おかしい。順序が、逆転してる……?」
普通なら最初に立つはずの揮発成分が沈み、後に来るべき残香が先に鼻を打つ。
ベリーのような果実香に紛れて、焦げた皮脂の酸味。煙の甘苦さが滞留し、タンニンめいた渋みが粘膜にへばりつく。それらの順序も、濃度も、おかしい。
揮発していくはずの香りが、沈殿している。
まるで、逆流しているかのように。
ありえない。処方ミスの次元ではない。単なる燻香なら、ここまでノートが崩れるはずがない。
香りが、内側から壊されている。
――香印に反応して、構造そのものが変質している……?
部屋の奥で、かすかに衣擦れの音がした気がして、ジャックは薄闇の中で目をこらした。
何も見えなかった。
「こんなところにずっといたら胸焼けしちまう」
ジャックに続いて部屋に入ったグラントが、辟易したように言った。わずかに目を細め、喉を押さえる仕草を見せた。
呼吸のリズムまで奪う匂いだ。どれほど腕に覚えがあっても、呼吸と切り離せない匂いの暴力にはなす術もない。
(……グラントさんに無理をさせないためにも、早くオブリエを見つけなければ)
ひどく甘ったるい匂いの中で、ジャックは鼻から息を深く吸って、口から吐いた。
調香師は香りに触れる〝時間〟を設計する職業でもある。本来なら数分以上の曝露は避けるべきだった。香りを作る者が、香りで壊れてしまっては話にならない。
だが今は、感覚を犠牲にしてでも、彼女の痕跡を拾わなければならなかった。壊れる覚悟でなければ匂いは感じ取れず、オブリエのかすかな香印を捉えることもできない。
頭痛が、ひどくなってきた。
目に見えるのは、肘掛け椅子と机が置かれたなんの変哲もない部屋だ。どれだけ目をこらしても、ただの空き部屋にしか、見えない。
――だが、香りが、皮膚と空気の隙間を這うようにすり抜けていく。
にわかに、人の気配を感じた。
影はない。
だが、捉えようとするほど遠のく、かすかな匂いがある。灰と苔の匂いが絡み、霧のように拡がっては、すぐ沈んで消える。触れられそうで、常に一層奥にある。
閉め切って香を焚いた部屋には、決してあるはずがない匂いだ。
あるはずがない。
その言葉に、記憶がひとつ、呼び起こされた。
六年前の夏。灯りの落ちた廊下。膝を抱えてうずくまる少女に、たしかこう声をかけた――
『こんな暑い日には季節外れな香りだ。どこに隠れても無駄だよ、オブリエ』
そのときと同じ違和感が、いまこの部屋に漂っている。
一瞬、カーテンの揺れが、風よりも遅く感じられた。香りが、その空間の一角を、過去の断片のように浮かび上がらせる。
香気が触れたのは鼻腔ではない。もっと奥、記憶と感覚が接する、脳の裏側だった。
あの夜の彼女が纏っていた空気が、いまここにあった。
ジャックは、確信を持って、胸から息を吐いた。
「……ああ、この部屋だ。ここにいる」
「ここにか?」
グラントがのろのろと部屋を見渡す。誰もいない、空室である。
「幻覚でも見えたか? よくあることだ」
「いいえ。グラントさん、香りを追ってみてください。ここに似つかわしくない匂いを探してみてほしいんです」
「はあ? なんだそれ?」
グラントが疲れたように言った。
「すがすがしい森の香りです。秋の早朝、薄霧の森を走るときの澄んだ冷気みたいな……でも、崩れてる。香料じゃない」
畳みかけるジャックに、グラントはお手上げだと言わんばかりに両手を上げた。
「勘弁してくれ。何言ってんだ? そんなのわかんねえよ」
「あの棚の前です。そこを深く吸って。彼女の気配が沈んでる」
グラントの顔が歪む。濁った空気を呑み込む不快さに顔をしかめている。
「クソ、空気に殴られてるみてえだ……」
グラントは呼吸というよりも覚悟のように、ゆっくりと息を吸い込んだ。
……この密閉された空間に、なぜか外気を思わせる透明な香気が入り込んでくる。
密室であるはずなのに、空間そのものに隙間が空いているかのように。
「……。まじかよ……」
グラントの喉奥から、かすれるような声が漏れた。
自分の感覚を疑っているようだった。だがその視線は、部屋の一角から離れなかった。
そこに漂う、白いドレスの裾。空気の層が波のように揺れ、その中央に彼女の形が浮かび上がる。
香りが、空気に重みを与えていく。空気を染め、質量を塗りつけ、輪郭を浮かび上がらせていく。
淡い色合いの髪が、静かに揺れていた。
「……幻覚、じゃねえな」
グラントは慌てなかった。ただ怪訝そうな表情で、だが一切の迷いなく、腰元に吊した拳銃に手を置いた。