第五話 視えない痕跡を追って ①
中へ通されたジャックは、旧時代の面影を残す応接間に案内された。壁には古びた肖像画が並び、窓には重たげなベルベットのカーテンがかかっている。
空気は薄暗く、沈香に似た甘苦さが、湿った灰のような温もりと絡み合っていた。
長椅子が一台と、向かい合う形で肘掛け椅子が二つ。
ジュゼマンは片方に腰を下ろし、ジャックにも着席を促した。
何よりも印象的だったのは、そこに人の気配がないということだった。この場の中心にいるはずの存在――オブリエ・ノブレサントの姿も、どこにもない。
しばしの沈黙ののち、ジュゼマンが静かに口を開いた。
「調香師殿。オブリエさまにお会いできるかどうかは、あなた次第です」
そう言ったジュゼマンの口調は、どこか試すようだった。
「……それは、どういう意味でしょうか」
「この一ヶ月、屋敷でオブリエさまを見た者はいません。誰もオブリエ様とお会いできていないのです。私自身も」
「見た者はいない。お会いできていない……?」
その意味を理解するのに、しばらくかかった。
「では、彼女の香りさえ……香印の気配すらないのですか?」
ジャックの言葉に、ジュゼマンは片眉を上げた。
「オブリエさまの香印をご存知ないのですか?」
その言葉に、ジャックは言葉に詰まる。
記憶を六年前に飛ばしてみるが、それらしい思い出がない。特異な香りこそ漂っていたが、その効果――魔法じみた能力たる〈香印〉を明示的に目にしたことは、確かになかった。
「……はい。存じません」
「そうですか」
ジュゼマンは気分を害した様子もなく、言葉を続けた。
「オブリエさまの香印は〈認識拡散〉と呼ばれております。自分の姿を認識させなくする力とでもいいましょうか」
「拡散。……認識を均一化する、ということですか?」
「はい。香印発動時のオブリエさまは、まるで濃霧の中に立っているかのようなのです。視線がすり抜け、気配も像も引っかからない。そこに存在しているにもかかわらず、知覚がそれを認識として結ばない――そういう特異な鈍化を引き起こす香印です」
ジャックは肘置きを指先で二、三度叩いた。
「でも、香印ですよね? 匂いは呼吸や体温と結びつくものです。肉体がそこにある限りは消えません。人は、空気ごと消えたりはしない」
「ええ、香りは……あります。ただ、それがオブリエさまのものだと認識できないのです。輪郭がどこか曖昧で、像を結ばない。まるで空気の粒が細かく乱反射しているような、そんな香りなのです」
ジャックは黙ったまま、考え込むように顎へ手をやった。
「……ぼくは、六年前にオブリエ様と何度も会ってます」
オブリエの香りには、湿った苔と冷たい空気が必ず混じっていた。たとえ他のすべてが変わっていても、あの香りは忘れようがない。
「体温に結びついた香りは変化が小さいはずです。おそらく、判ります」
ジュゼマンの目が驚きに見開かれた。
「……六年前? その頃のオブリエさまは、香印の制御ができておられなかったはず……」
「制御が……」
ジャックの呟きに、ジュゼマンは小さく頷いた。
「五年前までのオブリエさまは、香印の力があまりに強く、お姿がほとんど見えなかったのです」
姿が見えなかった?
だが香りは消えない。それならば。
「それで、調香師に預けられていたのですか? 目に映らなくても、匂いなら識別できますから……」
「よくご存知で。その通りです。調香師の名前は、確か……」
ジュゼマンがはっと気づいたようにジャックを見た。ジャックは、ゆっくりと頷いた。
「アンソレンス・ローラン。その調香師は、ぼくの祖母です」
「なるほど、そうでしたか……」
ふと、ジュゼマンはジャックをじっと見る。
「あなたはその半年間、どれくらいオブリエさまとお会いできましたか?」
質問の意図がつかめず、ジャックは首を傾げた。
「どれくらい……まあ、毎日ですね」
軽く返したつもりだった。だが、ジュゼマンの顔色が明らかに変わった。
「……毎日? 本当に、毎日ですか?」
ジュゼマンの声が一瞬、細くなった。何かの冗談かとさえ思ったのかもしれない。
だが、ジャックの目は真っ直ぐだった。
「ええ。一緒に住んでましたから。朝も夜も、姿を見ない日は一日もなかったと思います」
言葉が落ちると同時に、室内の空気が微かに揺らいだ気がした。
ジュゼマンは膝を握り、口を開きかけて閉じた。
姿を見ない日は一日もなかった。
それは、ありえないことだった。
ノブレサントに仕える者なら誰もが知っている。
あの頃のオブリエは、視えないのが当たり前だったのだから。
ジュゼマンはジャックの目をじっと見つめ、そして長く息を吐いた。その目の奥に宿っていた疑念が、ゆっくりと、覚悟へと変わっていった。
「調香師殿。どうか、オブリエさまと会っていただけませんか」
「はい。必ず」
その視線を正面から受け止めると、ジャックは静かに頷いた。
ジャックは応接室に漂う残香に、再びあの香りを思い出していた。
リンコウ樹脂。
ジュゼマンは口にしなかったが、それがそばにあることが香印にとってどれほどの異常か、彼ならば知らないはずがない。あえて黙したのだろう。芳主としてではなく、邸の番人として。
見える必要はない。香りがそこに在る限り、必ず辿り着ける。
それだけで十分だ。