第五十四話 受け取る者
オブリエはローラン邸の門前に立ち尽くしていた。右手はコートのポケットに入れたまま、門の呼び鈴に触れようともせず、無言で鋳鉄の柵を見つめていた。
背後から靴音が近づいてくる。誰が訪れたかは振り返るまでもなくわかった。安っぽい煙草の匂いがする。
「何突っ立ってんだ。さっさと開けろよ」
グラントのぶっきらぼうな声が響く。
オブリエは一度だけ横目をやったが、すぐに視線を戻した。
「門に挨拶していたところよ」
「は、礼儀正しいことで」
グラントは鼻で笑って閂を外し、迷いなく敷地内へと足を踏み入れた。数歩遅れて、オブリエは静かにその後を追った。
***
ローラン邸は相変わらず整然としていた。ジャックは経過観察のために病院へ呼び出されており、アンシーはその付き添いで居なかった。
グラントはキッチンへ直行した。勝手知ったる手つきで棚を開けてパンを取り出す。冷蔵庫を開けて、スープ入りの鍋をコンロの上に載せた。
「何も食ってないって顔してるからな」
後ろからついてきたオブリエは、ため息混じりにカウンターの椅子を引き、腰を下ろした。頬杖をついて、呆れたようにグラントを見る。
「自宅のようね」
「お前もな」
しばらく言葉はなかった。鍋の中でスープが沸いていく音だけが室内に響いた。
***
日は瞬く間に落ちた。
スープが煮えるまでの間に、グラントが皿を洗いはじめる。洗剤の匂いが漂い、鍋の湯気に混じって天井へ昇っていった。
――オブリエがこの家にいた頃も、同じ洗剤が使われていた。無香料のはずの洗剤だが、独特の匂いがある。
その匂いで、ふいに記憶が蘇る。スポンジを無言で擦る、幼いジャックの姿が、脳裏に見えた。
泡の合間に立ちのぼるかすかな薬品臭。手荒れでところどころ滲んだ赤いしみ。すすぎ残しを黙って見つける目つき。
記憶の中の彼がふいに顔を上げるような、錯覚。
スープの湯気と洗剤は事故のような混ざり方をして鼻に届いたが、それは奇妙に心を静かにした。
オブリエは背筋を伸ばしたまま椅子に座り、両手でカップを包み込んでいた。
カップの中を見つめながら、彼女は口を開いた。
「出歩いていていいの? 謹慎中でしょう」
グラントは鍋をかき回しながら、低く答える。
「ああ。……まあ、問題ない。報告書は差し戻された。査問は保留中だ」
「職権に頼らずに済ませる道もあったはずよ」
「そっちを選んでたら、俺は死ぬまで後悔したさ」
短く鋭い言葉に、オブリエはわずかに口角を上げた。
「なるほどね。そういう喋り方、ジッキーが真似しそうだわ。あなたの影響だったのね」
グラントは小さく笑った。
「俺の背中なんて見るもんじゃない」
沈黙が落ちた。代わりに鍋の湯気が部屋を満たしていった。
オブリエが低く問う。
「兄は……ネファストはまだ収容されてるの?」
「そう聞いてる。ずっと寝てるらしい」
火が落とされ、鍋の蓋が置かれる重たい音が響く。
「……あの頃、わたしがまともだったら。香印をちゃんと使えていれば」
「どうかねえ。そんなやわな奴には見えなかったが。おれを殺す前にジャブ打ってくる程度には元気だったぜ」
オブリエは返さない。グラントは肩をすくめた。
「あいつはそもそも譲る気なんてなかっただろ。当主じゃなきゃキャプティブに関われないんだからな。……最初から、見てるもんが違ってんだよ」
ただの事実として吐かれたその言葉に、オブリエは黙ったままだった。
グラントはスープとパンを皿に分け、カウンターへ並べる。
オブリエは、すぐには手をつけなかった。
グラントは淡々とスプーンを口に運んだ。リビングに、カトラリーの触れ合う金属音だけが響く。
オブリエがぽつりと言った。
「ジッキーも、巻き込んでしまった」
「マリスがやったことだろ」
「迂闊だった。身辺調査をしておくべきだったのに」
「それはおまえの手落ちだろうけどな、誰がそんなこと気にすんだよ」
「責任は取らねばならない。それだけのことよ」
「〝自分のせいだ〟ってのが逃げ口上にもなるってことくらいはわかってんだろうな」
オブリエはグラントを睥睨した。
「そんなつもりはない。でも、過去を引き受けなければ先へは進めないでしょう」
「なら、黙って持ってろ」
グラントの声は咎めるでも、慰めるでもなかった。
オブリエは視線を落とした。
スプーンを手に取る。手はわずかに震えていた。数秒ののち、ためらいを押し流すように口へ運ぶ。
スープが舌に触れた瞬間、何かがじわりと溶けた。味は覚えていない。喉の奥へと流れていった温度が妙に残った。
「ジャックが起きた。……まともに喋れるようになってきた」
その言葉に、オブリエは顔を上げた。
「何考えてんのかは分からんが。ま、らしいっちゃらしいか。明日、見舞いに行く」
グラントは椅子にもたれ、ごく自然な口調で言った。
「一緒に行くか?」
オブリエは一拍の間を置いてスープをすくった。そして今度は、はっきりと答えた。
「ええ。行くわ」
その言葉に、グラントは頷きもしなかった。コップを持った手が一瞬だけ止まり、ごく自然に口へと運ばれた。
その自然さが平静を装っているように見えて、オブリエには少し重たく映った。




