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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第五十三話 壊さない香り

 火の匂いがした。焦げた紙、布、油――焼却炉の記憶に似ている。だが、死臭はなかった。破壊のあとに生まれる静けさのようなものだけが残っていた。


 ジャックは、目を開けた。

 自分の部屋だった。いつ戻ってきたのかは覚えていなかった。もう夕方を回っていて、あたりは薄暗い。照明は落ちたままだ。レースのカーテンが揺れ、夕日の濁ったオレンジ色が壁を撫でていた。


 額に、手が置かれた。無骨な手のひらだった。

 ざらついた指の腹が、汗を拾って滑る。そのまま、手のひらの熱が皮膚を撫でてから、ゆっくりと離れていった。動きは粗雑だったが、傷つける意図がないことだけは伝わってきた。


 そして、匂いが来た。


 香水でも、香料でもない。ただの人間のにおい。

 乾ききらない汗。襟元に沈着した皮脂。着古した布地に残る石鹸。古紙にも似た肌の匂い……。


 その匂いが、ジャックの内側に入ってきた。

 抵抗はしなかった。する必要がなかった。


(……)


 喉が塞がらない。肺が拒まない。

 染み込んできたのに、傷つかなかった。


 ふと、グラントの肩が動いた。スリーブの内側から、酸化したカフェインの残滓がこぼれた。焦げた豆の記憶がジャックの鼻に触れた。


 意図も設計もない。計算されていない香りだった。


 だが、ジャックには、確かに感じ取れた。流れがあった。どこから立ち上り、どこを通り、どのように変質してここに届いたのか。


 喉が熱を帯びた。

 身体は、その香りを受け入れていた。


 天然香料に苦手意識があったのは、主軸がわからなかったからだ。数百の芳香分子が混ざった自然のアコードは分解できない。分けられないものが混ざっていて、持続時間や経時変化が読みにくい。

 香りも一定ではない。産地や抽出方法を揃えても、時期や保管条件で香りが変わる。


 思い通りにいかない領域がある。

 定義できず、評価できないまま、放置しなければならない領域が。

 なぜ秩序が保たれているのか理解できないまま、使うしかない香りがある。


 これまで、それらはすべて〝敵〟だった。


 読めないものは、殺すしかない。

 意味のないにおいは、ノイズだった。

 

 だが、違った。

 秩序はあった。

 設計の外にあるのに、導線が通っていた。


 ジャックにとって「設計」は、幽霊を生み出すようなものだった。

 香りを読み、意味を与え、記号として再現できる形に固定する。そうやって終わらせた香りを、あたかも生きているかのように見せかけてきた。


 自分はずっと、その幽霊を通して世界を理解してきたつもりだった。


 香りに名前を与え、順序を刻み、意味を押しつけてきた。解釈し、支配することでしか、恐怖から身を守れなかった。


 だが今、自分の恐怖と同じ形をした香りに――救われている。


 最初に感じたのは、敗北感だった。


 香りは誰の手も借りず、恐怖も拒絶もなく、意味すら持たずに、ただ在った。


(作るものじゃない。……生まれるのか)


 これは思いつきでも、演繹でもない。

 匂いによって言葉なく告げられた真実だった。


 指先がわずかに疼いた。

 理由はわからない。

 ただ――創りたい。そう思った。


 自分は、まだ香りを創ろうとしている。

 正面から向き合った香りに、初めて()()()()()経験は、いつの間にか「創りたい」という衝動に変わっていた。


 また、同じことを繰り返すのかもしれない。

 それでも……。


 肺が、深く動いた。

 呼吸。取り戻された、自分の身体のリズム。


 香りは、外から押しつけられるものではなくなった。自分の中に入ってきても、拒絶せずにすんだ。

 それだけで、世界から少しだけ許されたような気がした。


 ジャックは、ゆっくりと上半身を起こした。


「……グラントさん」


 声は震えていなかった。


「お久しぶり……ですよね。今日は、ここで夕食ですか?」


 視線が合った瞬間、グラントの呼吸が微かに揺れた。空気に混じったその匂いが、ほんのわずかに濃くなる。――安堵と驚き、そして、どこかに期待のような気配があった。


 ジャックは、目を細めた。

 香りが教えてくれた。自分から意味を押し付けたのではない。自然と、そう感じられた。


 ジャックはなんとなしに両手を見下ろした。

 ムエットはない。香料もない。

 だが、香りを創るということの意味だけが、胸の奥にあった。


 誰かを守るためでも、記録のためでもない。

 ただ、壊さない香りを作りたいと、そう思えた。


 それは、強さを示すための香りではない。壊れずに在りつづけることだけを基準に、静かに寄り添うための香り。

 かつて香りに耐えきれなかった者にしか辿り着けない処方だった。

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