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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第五十一話 順序を忘れるな

 病室は密閉されていた。カーテンは閉じられ、窓も扉も固く閉ざされている。空気には一切の香りがなかった。乾いた無臭の層が空間を満たしている。


 ベッドに寄りかかるようにして、ジャックは上半身を起こしていた。背もたれに身を預けたまま、ほとんど動かない。ただ、目だけは開いていた。焦点は曖昧だったが、その視線が向いた先にアンシーの手元があった。


 椅子を引く。床に擦れる音が低く響いた。アンシーはゆっくりと腰を下ろした。アンシーの指は瓶の列を、流体の流れを定めるように並べた。


「ラクトン。脂肪酸の尻尾にくっついた輪っかだ。冷えた脂が重く沈んだときの、くぐもった粉末のにおい。……お前は、ミルクが嫌いだったな。あれを喉で感じてたんだろう」


 言葉と同時に、一本の瓶が静かに開けられた。微かに空気が脈打った。濡れた紙と脂肪の粉じんが混ざったような匂いが洩れ、すぐ彼女の手で封じられる。


「……けど、バニラはもっと厄介だった。糖脂に隠れたケトン。見せかけの甘さ。温め直された脂の匂い」


 ペンの音が乾いた空気に小さく響く。「バニラ」の文字が白紙の上に置かれた。


 ジャックの指が、膝の上で動いた。揺れたのはほんの一瞬だったが、確かに反応していた。視線がアンシーの手元から一度だけ瓶に下り、またすぐに戻った。


「それでも、逃げなかったな。お前はベチバーを加えた。あれは土だ。根だ。……線を引いて、終止符を打つための香りだ」


 封の切られていないベチバーの瓶が置かれた瞬間、空気の密度が変わった。ベッドの上の身体がごくわずかに揺れた。


 封は開けない。アンシーの指先が瓶の肩を軽く叩いた。


「好きになる必要などない。必要なのは流れだ。通り道を読む力だ」


 アンシーの手が瓶を左から順に並べていく。視線も、配置も、揺らぎがない。呼吸に合わせて、瓶が机上に整列していく。


「トップは飛ばす。ミドルは伸ばす。ベースは沈める。順序は、香りの骨格。時間のかたちだ。構成は、時間の通り道ともいえる」


 斜めに傾いたラベルの文字が、瓶の腹に張り付いている。アンシーの指が、最後の瓶を軽く回した。


 次いで、ページを開く音。ペン先が紙を捉えて、〈沈み〉と一語だけが記される。

 筆跡は角ばり、迷いがない。


 その文字のかたちを、ジャックの目が捉えた。

 はっきりと、中心に据えて見ていた。単に動くものを視界の端で追っただけではなかった。

 背中がほんの少し、ベッドの背もたれから離れた。


「お前は、トップに頼らなかった。目立たなくていい。沈ませるんだ。……土台がなければ、香りは持たない」


 ムエットを一本取り出し、わずかに香料に浸して瓶の脇へ添える。香りは拡散しない。ただ、その位置だけに、重みが生まれる。


「こいつらは処方じゃない。配合でもない。調香師としての原形の座標だ」


 ジャックは目を閉じることも、見開くこともなかった。ただ、眼球の奥で何かが揺れていた。


 アンシーは立ち上がる。香料瓶の列を確認するように視線を走らせ、1ミリのズレも許さないという手つきでその列を整える。

 その間、一度もジャックを見なかった。


 だが、ジャックは見ていた。

 アンシーの指の動き。ラベルの角度。瓶の順序を。

 曇った脳裏に刻みつけるように、すべてをじっと追っていた。


 アンシーははじめて、ジャックを正面から見た。ジャックもゆっくりと、アンシーに視線を合わせた。


「順序が壊れたなら、沈ませるところから始めろ。順序は〝答え〟じゃない。道筋だ。それが読める限り、お前は戻れる」


 扉に手をかける動作はゆるやかだった。振り返らず、肩越しに最後の声を落とす。


「いいか。〈沈み〉からだ。呼吸のたびに戻ってくるもの、それが順序だ。……生きて戻れ、ジャック・ローラン」


 扉が静かに閉まった。

 ジャックは動かなかった。だが、瓶の列に向けられた彼の目が、確かに焦点を結びはじめていた。

 彼の唇が、声にならない言葉を落とした。


 ――沈み。


 香りはない。

 そこには瓶だけが、()()()()()並んでいた。

 調香を知る者にしか見えない、その()()の骨格だけが残されていた。

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