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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第四十八話 保存された愛 ③

 ネファストの手を取って〈癒し〉を流し込み続けながら、シニストルは一つの考えに憑りつかれていた。


 ――外せば、届く。香印を解放すれば〈癒し〉は届く。


 シニストルの喉が震えた。

 だが、一度解放すれば、癒しの力は止まらないだろう。

 香印が暴走してしまう。


 ……こうなったのは、いつからだったか。外傷を閉じてもなお、心の奥にまで〈癒し〉が染み込むようになったのは。

 いくら外傷をふさいだって、それだけでは〈癒し〉が届かないと知った日からか。


 初めてそうなったときは、外傷をふさいでもなお〈癒し〉が止まらないことを怪訝に思った。

 何気なく癒した相手の顔を見た瞬間――()()()()()()()と察した。


 目の焦点が合わず、しかし一様に口角をあげていた。

 浸るような、蕩けるような、そんな顔をしていた。


 胸にぽっかり空いたもの、心の空隙(すきま)。それは言葉の綾だったはずだが、そんな概念をも()()()()()()()()()()のだと。


 香印調整師にかかり、抑制措置を受けてもほとんど効果はなかった。

 シニストルの〈癒し〉を止められるものは、誰もいなかった。


 彼に残された道は、過剰にあふれる〈癒し〉を自分に向けることだった。せめて、怪我人の精神だけでも守るために。


 〈癒し〉に自分自身を晒すとき、彼はいつも幸福に呑まれた。

 正気の膜が破られ、快楽が意識を連れていく。

 心が、空白になる。

 戻ったときには、時間だけが失われている。


 正気が蕩ける音を、シニストルはもう何度も聞いてきた。

 いずれ完全に戻ってこられなくなるだろう、という予感もあった。

 

 ――だが、〈癒し〉は、裏切らない。


 そのとき、ネファストが咳をした。喉の奥から這い出すような、小さな音。

 まだ息がある。そう思った刹那、シニストルの掌をすり抜けるようにして、ネファストの手が滑り落ちた。


 そのまま、動かなくなる。


 手を当てる。胸は、動いていない。

 呼吸の気配はある。だが、それが痙攣なのか、それともただの願望なのか、判別がつかない。


 もう――もう、限界だ。


 シニストルは首に巻いていた香気抑制具をむしり取った。

 解放されたラベンダーが、呻くように熱を吐き出す。

 規定違反。暴走の兆候。


 もう知らない。


「ネファスト! ……ネファスト、頼む。君を癒すから。だから、まだ、まだ行かないで……」


 掌をかざす。傷口に、熱をもった癒しの香りが突き刺さる。

 噴き出した香りは暴れ狂う。向かうべき場所がなかった。シニストルの内へ、そして目の前の青年へ。奔流は分け隔てなく〈癒し〉を注ぎ込んでいく。


 快楽の予感が、舌の奥から滲んでくる。呼吸が浅くなる。脈はどんどん早くなる。脳の奥で、水の底に沈むような音が鳴った。それは心が溶ける音だったのだろう。


 口角が勝手に上がっていった。

 また、沈むのかもしれない。もっと深く。

 今までは戻れてきた。でも、もし、戻れなかったとしたら……。


 いや――シニストルは空を睨んだ。

 違う。

 そんなことはどうでもいい。


 自分の香りに滲んでいた痛みを、〈癒し〉でも同情でもなく、〝叫び〟として理解した男。それを真正面から突き刺してきた、たったひとりの、他人だった。


 ネファスト。

 君が目の前で死ぬ。

 ――それは、それだけは、絶対に許せない。


 許せなかった。ただ、それだけが先に来た。意味も、理屈も、もう何も考えられなかった。




 ***


 乾いたラベンダーの青さに、焦げたようなナツメグの辛み。薄い鉄を削るような冷たいミントの気配。

 抑制を失った〈癒し〉が、周囲を満たしていく。皮膚の奥を洗い、浸透し、気化していく。


 痛みが治ると、ほどなく、幸福感が押し寄せてきた。苦しみが消えるだけではない。苦しんだという記憶すら、淡く、甘く、ほどけていく。


 呻きとも喘ぎともつかない声が漏れた。何が起きているのか知りたくて、重い瞼を無理に押し上げる。


 光の滲む視界の中に、彼がいた。


(ああ、君が来てくれたんだな、シニストル……)


 ネファストは過剰に与えられた多福感に溺れながら、その表情に見惚れた。息を吸うたびに、肺が熱をもって潤んだ。


 シニストルの目は、空を見ていた。誰もいない天井を、何かを探すように。口をわずかに開いて、呼気を揺らすだけ。


 香りは止まらない。どんどん強くなる。

 〈癒し〉は行き場を失い、まったく傷のない身体に染み付く。そして、シニストル自身の精神をゆっくりと、過剰に、癒やし続けていた。精神を穏やかに、だが速やかに侵していった。


 シニストルの精神は瓦解し、今までは無意識にやっていた、香印の作用を内向きに変えるという処理さえまともにできなくなっていた。


 香りは外へと溢れ続けた。そして、もっとも近くにいた若者の精神を、深く、二度と傷がつかないほど――厚く、過剰に癒してしまった。


 よりによって、ネファストは、まだ香印を定めていなかった。


 彼らは、あまりにも()()()()()()()いた。


 もしほんの少しでも早く出会っていれば、その相性の良さは美しい調和として結実したかもしれない。


 だが、遅すぎた。

 それこそが、すべての悲劇の発端だった。




 ラベンダーの奥に、薄く焦げたような、香木の破片が混じり始めていた。それは乾いた熱の揺らぎだった。冷たい空気を切って、微細な爆ぜる音のように立ち昇る。


 香りが強すぎる。揮発が早すぎる。

 まるで、自らを燃やし尽くすように、香りを放っている。

 香印が、壊れかけている。


「君は、もう死ぬのか」


 言った瞬間、胸がざわついた。喉がつかえる。


 ネファストは、息を吸い込んだ。こんな香りは、もう二度と嗅げない気がした。香りが消えてしまう前に、肺の奥まで焼きつけたかった。

 だが、吸ったはずの香りは、すぐに自分の中から出ていってしまう。


 残したい。

 この香りを失うのは惜しい。

 留めておくには、どうしたらいいのか。


(失いたくない)


 香りは、消える。

 鼻腔に残らなければ、空気と同じ。


(忘れたくない)


 だったら、刻めばいい。


 ネファストは、手を伸ばした。

 高熱に浮かされた手のひらが、白い頬に触れた。


 ラベンダーの香りが、指先に絡みついた。焦げたラベンダーが崩れる。果実が融けるように甘い香りを放ちはじめる。


 焼きつくような衝撃が、肺の奥から突き上げた。世界が音もなく崩れ始める。皮膚の裏側が反転し、香りの器官が全身に増殖していくような――そんな錯覚。

 

 ――ほしい。この香りが欲しい。


 そのとき、シニストルの目が、こちらを見た。

 焦点が、合った。

 

 ――君が欲しい。

 

 香りが喉を焼き、胸腔の内壁に絡みつく。呼吸が詰まり、身体の奥に蝋を垂らされたような感覚が走る。指先が痺れる。内臓がざわめく。

 香りが血管の内側から滲み出している気がした。

 

「あ……」

 

 シニストルが、苦しげに声を漏らす。彼は自分の内部で起きているただならぬ事態に、この瞬間だけ、正気を取り戻していた。

 

「なんで、〈癒し〉が、止まって……?」

 

「怖いか?」

 

 シニストルは苦しげだったが、その言葉にゆっくりと目を閉じた。

 

「わからない。寒い……」

 

「こっちに来い、シニストル。私なら、君の全てを〝受け取る〟ことができる」

 

「――離して」

 

 声はかすれていたが、確かに意志があった。

 

「駄目だ、ネファスト。それ以上、僕の中に踏み込まないで」

 

 強い拒絶だった。

 だが、〈保存〉はもう、始まっていた。


 香印は、宿主がもっとも強く(こいねが)った願いを、かたちある力へと変える装置。


「お願いだ……君まで、壊したくない……」


 それは懇願だった。

 ネファストの手は、まだ彼の頬に触れていた。シニストルの指が、震えながらその手首を掴む。頬から引きはがし、香りを手探ろうと動くネファストの指を、地面に封じるように抑え籠める。


 もはや、拒絶ではなかった。ただ、壊れていく自分の中に、誰かを巻き込まないための本能だった。

 だが、ネファストには届かなかった。


 ――どうか、この香りを、永遠に。


 ネファストの内奥に芽生えていた願望を。祈りにも似た歪んだ渇望を。異常に増幅()()()()()希求を、香印は静かに受け取った。


「止めろ……やめてくれ、ネファスト……!」


 だが、ネファストは止まらなかった。


「君を〈保存〉する」


 それは宣告だった。

 ラベンダーの香りは、シニストルという名の器から、静かに、しかし容赦なく引き摺り出された。それはネファストの指先をくぐり、肺の裏側にまで焼きつき、骨の髄にもぐりこんだ。


 ネファストの心臓が一拍遅れて、波打つ。香りが血流に乗って逆流し、肺から脳へ、四肢の末端へと広がっていく。

 意識の底で、何かが、静かに剥がれ落ちる。代わりに香りが入り込み、満ちていく。


 肉体のかたちを借りた、香りの器として。

 

 それはもはや香りではなかった。記憶の中に定着したまま、分解も揮発もせず、ただ作用し続ける情報の残滓。作用し続ける芳香分子。


 そのときネファストに()()された香りは、情報でも表象でもなく、存在そのものとなった。誰かの記憶に読み込まれることも、言葉に変換されることもなく、ただそこに在るものとして。


 シニストルは痛みを耐えるように目を閉じ、ネファストに覆い被さるように倒れた。


 シニストルの体が、だんだん解けていく。

 ネファストのほうへと流れていく。


 皮膚も、髪も、指も、湯の中で崩れる雪のように跡形もなく――。


「おやすみ、シニストル」


 最後に残ったのは、空になった衣服と、焼けつくように甘く、それでいて冷たい、純化を辿ったラベンダーの香りだった。

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