第四十六話 保存された愛 ①
香りが欲しかった。
ただ、それだけだったはずなのに。
もう何年も前のことなのに、ネファストはあのときの記憶をいつも鮮明に思い出せる。
香異特定局が主催する年次の「香印評価会」でのことだった。
香印評価会では、軍関係者、研究者、香料業者の名だたる責任者が詰めかけ、発表される新たな香印の性能や用途を値踏みする。
ここで下された評価は、そのまま規格登録や軍需採用に直結する。一度規格に名を刻めば、以後その香印は兵器庫にも市場にも並び、契約書には数字が踊る。
優秀な香印は巨額の契約を呼び込み、凡庸なものはいずれ姿を消す。
ネファストは香料業者ノブレサント・ラボの名代として観客席の上段通路を歩いていた。肩書は「招待客」だが、実際には香りの価値を測る選定者の一人である。
――やっていることは、家畜の品種を見極める業者に近い。
そう考えると、目の前で繰り広げられる発表や実演はすべてが滑稽に写った。誰もが香印をより高く売ろうとして、自分を商品のように貶めている。
ネファストは、自らを売りに出す真似をせずに済んだ。
だが、それは誇れることではない。単に、立つ資格すら与えられなかっただけだ。
交渉と策略で、香印と対等に向き合える地位を無理やりもぎ取る。それしか、彼の生きる道はなかった。
巨大なドーム型施設の中央には円形の訓練スペースがあり、その周囲をぐるりと観客席が囲んでいる。
ネファストは、観覧席の通路でふと足を止めた。
それが鼻腔に触れた瞬間、〝意識〟だと感じた。
誰かの祈りが、ラベンダーの皮を被って押し寄せてきたような感覚だった。
焦げた杉の煙に、ミントの切れ味が混ざる。鼻腔の上部で層を成すそれらを、ラベンダーが直線で貫いていた。
香調の層を無視して届く香り。
強固な意志。知覚の順序を嘲笑うように突き抜けて、いきなり意味だけを通してくる。
中央の訓練スペースに、ひとりの男が立っていた。
白い訓練服に、淡々と呼吸を整える動き。
今日の評価会の目玉。
〈癒し〉の香印。
シニストル・メモアローム。
香りが五感を超えて、意識の深部に踏み込んでくるような異様さがあった。鼻で吸い込んだはずの香りが、なぜか耳の奥や眼球の裏にまで染み込んでくる。人ではなく、香りそのものが空間を支配しているようだった。
(……これが、祝福)
ネファストは無意識に拳を握っていた。
自分には何もない。香りの骨格がかろうじてある程度で、発現の兆しもない。
形式上の香印。未完成の香り。
評価会においては、発表者としてこの場に立つ資格すらなかった。
この空白に、祝福の何たるかが直接叩き込まれるようだ。
自嘲にも似た感情が胸をかすめたときだった。
視線がぶつかった。
シニストルが、まっすぐこちらを見ていた。
その瞬間、ラベンダーの香りが不意に強まった。
錯覚、だろうか。
意識が反応したのか、香印が反応したのか、判断できなかった。鼻腔の奥にまで滲むような甘さが、ひときわ濃くなった気がした。
ラベンダーが香った瞬間、身体が思わず一歩前へ出た。
――欲しい。
ネファストは、はっと体を強張らせた。
違う、要らない。
だが――。
自分の中で誰かが、何かを譲り渡そうとしている。その心の動きに苛立って、ネファストは踵を返した。
***
一通り演目が終わったところで、ゆっくりと立ち上がったときだった。
視線の先に、白い訓練服の男が、スポーツドリンクのボトルを片手にゆっくりと歩いてくるのが見えた。
すれ違うのは嫌いだ。ネファストはその場に留まり、相手が通り過ぎるのをやりすごそうとする。
男は自然に通り過ぎる――はずだった。
だが、彼はふと足を止めて振り返った。
シニストル・メモアロームだった。
「ねえ。君も、芳主だよね」
低く、静かな声だった。その声に確信が宿っているのを感じとって、ネファストは動揺した。思わず振り返ってしまって、心の中で舌打ちした。
「……だったらなんだ」
ネファストはそれだけ言ったが、相手の意図はわかった。
青年期の若い芳主が観客席側にいることは滅多にない。無香人か芳気欠者と見なされてもおかしくなかった。
実際、彼の香りに気づく者は、ほとんどいない。
観客席でなくともそうだ。場所を問わず、ネファストにとってはそれが常だった。
だから、初めてだった。
自分を芳主だと断定してきた人間は。
シニストルは観客席の端のベンチに腰を下ろし、少しだけ間を空けて隣を手で示した。
「よかったら」
ネファストはその誘いに一瞥をくれただけで応じなかった。前列の背もたれに無造作に腰をかけ、ゆるく肩を傾ける。両手はポケットに突っ込んだまま、シニストルを見下ろした。
シニストルはきょとんとした表情を浮かべて見上げてきた。
「……あ。自己紹介がまだだったよね。僕は……」
「お前の名前を知らない奴がこの場にいると思うか? 〈癒し〉のシニストル。メモアロームの次男。覚えがめでたい要素ばかりだ」
シニストルは苦笑した。
「君は?」
「ネファスト・ノブレサント」
ノブレサントと名乗るとき、ネファストは視線を落とした。
「へえ。ノブレサントとはね。君も人のことは言えないんじゃない?」
ネファストは俯いたままだった。話を逸らす気はなかったが、どうしても気になっていたことを聞きたかった。
「やはり、異常だな。ラベンダーが届きすぎる。……お前はどれほど強く〈癒し〉を願ったんだ。香印発動時に死にかけていたのか?」
「いいや?」
それきり、シニストルは何も言わない。ごく自然に、話を逸らすようにネファストに問いかけた。
「君の香印はどんなもの?」
「未確定だ」
それ以上は言葉にならなかった。
「……そうか」
それだけで、慰めの言葉が浮かんでいるのがわかった。
しばらくの沈黙。観覧席のざわめきは遠い。
ネファストは、ふと問いかける。
「お前はなぜ癒すんだ?」
シニストルは少しだけ眉を寄せた。それはわざわざ考えることなのか? という顔だった。
「痛みは消えたほうがいいでしょ」
言いながら、スポーツドリンクの蓋を開けようとする。
「なら、自分の痛みも消せるのか」
シニストルの手元が止まり、そのまま動かなくなる。ネファストが訝しげに問いかけた。
「……そんなに変な質問だったか? 自分の傷も癒せるのかと聞いたんだが」
「わからない」
その声はやけに慎重だった。
「やったことがない。必要がなかったんだ。人を癒すと、僕の傷も勝手に塞がるからね」
ネファストは笑った。
「それで、傷ついていそうな私の元へ飛んできたのか」
揶揄するつもりはなかった。感情の乗らない事実確認に、シニストルは気づいたはずだった。だが、彼は視線を落とした。
シニストルの指先がわずかに動く。手に持ったボトルのラベルが、掌のなかでくしゃりと音を立てる。
「あいにく、私に外傷はない。心の傷も塞げるのか?」
「え……いや……」
「そうか。なら君に差し出せる傷はない。残念だったな、癒す相手がいなくて」
シニストルはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと、言いにくそうに言った。
「……君に、そんなふうに言えるだけの痛みがあるなんて、思わなかった」
これにはネファストが訝しげな顔をした。
「傷を持たない人間がいるわけないだろう。だからお前は誰も彼もを捕まえようとするんじゃないのか?」
シニストルは何かを言いかけたが、口を閉じた。呼吸に混ざった香りが、わずかに濃くなった気がした。
ネファストは、ちらりと視線を横にやった。曲がりなりにも芳主である彼には、手に取るようにわかった。シニストルの香りが慰めるように――あわよくば、癒してやろうと絡みついてくるのが。
ネファストは失笑した。
「は、滑稽だな。とんだ聖人君子だと思っていたが、ただの癒し狂いだったか」
ネファストはポケットから片手を出すと、〈癒し〉の流れる空気をゆったりと掬い上げた。それは、平伏す奴隷の顎を持ち上げる支配者のような、尊大な動きだった。
そして、その不遜な表情を崩さないまま、目の前の〈癒し〉に宣言した。
「評価を上方修正しておこう」
「……上方?」
呆けたようなシニストルの声に、ネファストは首をすくめた。
「私は聖人が嫌いだ。命令違反に悪びれないからな。同じ無知蒙昧なら、酔っ払いのほうがずっとやりやすい」
シニストルは反応しなかった。何も言わず、ただ視線を落とした。
ラベンダーの香りが、ごくわずかに強くなる。
ネファストは、その変化に気づいた。呼吸と体温に引っ張られた、感情の滲み。
「今、何か言い返そうとしただろう」
「いや……。ただ、自分でもちょっと笑えてきた」
しばらく、二人は何も話さなかった。
その沈黙は妙に心地よかった。
ネファストは、ゆるく目を伏せたまま、ぽつりと呟くように言った。
「……癒しは、痛みを消す行為なのか」
「うん? まあ、そうだね。鎮痛もできるよ」
「消した痛みはどこに行くんだ」
シニストルが瞬きをする。その目に、はっきりと困惑が浮かんだ。
「どこに……?」
「何が痛みを引き受けている? 君か。香りか。それとも、ただ薄められてるだけか」
「それは、どういう……」
ネファストはかすかに眉を寄せた。
「お前のラベンダーは強すぎる。痛みがないというのなら、一体何をそんなに叫んでいる?」
その言葉に、シニストルははっきりと凍りついた。ラベンダーの香気が一度だけ跳ね、すぐに静まり返った。
シニストルは黙したままだったが、否定しなかった。
ふと、鼻腔に差し込まれるような若葉の苦味が届いた。
プチグレン――まだ削がれたばかりの果枝。切り口から滲む青さが、空気にそっと触れた。ただそこにあるだけの視線のように。語らず、詮索せず、相手の沈黙にとどまろうとする。
ネファストの指先がわずかに跳ね、それを押さえ込むように背もたれをきつく握り込んだ。
シニストルがゆっくりと顔を上げる。
――伝わって、しまった。
ネファストは、わざとらしく顔を背けた。
光の加減でわずかに影になったシニストルの顔に、うっすらと微笑が浮かんだ。
「あれ……心配してくれてるの?」
一拍の沈黙。
「馬鹿を言うな。私はお前が嫌いだ」
ネファストは顔を逸らしたまま吐き捨てた。目線が合うのが厄介だった。それ以上何かが伝わってしまうのも煩わしかった。
シニストルはどことなく寂しそうに、その口元に笑みを浮かべた。
「君の香印はとても……優しいね。きっと、誰かを救う力なんじゃないかな」
ネファストは視線を遠くにやったまま、鼻で笑った。
「ほとんど芳気欠者だと言いたいなら、正直に言え。事実を言われても気分は害さない」
「違うよ、ネファスト。それは違う」
強い否定に、ネファストは思わずシニストルの方を向いてしまった。そして、シニストルの瞳があまりにも真剣な光を湛えているのを見て絶句した。
シニストルは、ネファストから目を逸らさずに口を開いた。
「僕は、君の香印を感じるよ。感じすぎるくらいだ」
彼は穏やかに微笑んだ。
「……だから、哀しいんだよ。すごく、哀しい」
その一言が、胸の奥に柔らかく食い込んだ。
それは何かを溶かすような静かな熱で、心の奥をゆっくりと侵食していった。
ネファストは、どう反応していいか分からず、ただ目を逸らした。
ネファストの香りのことを期待するように言った人は、彼が知る限り、ひとりもいなかった。
脳髄の、誰にも踏み荒らされたことのない場所に、香りでもなく、言葉でもなく、〈存在〉が侵入してきた。
香りだけで存在を証明できる男。
そいつが、よりにもよって空っぽの自分を信じている。それは、どうにも居心地が悪かった。
これが、〈癒し〉の正体か。
傷を塞ぐ力ではない。心の内側にまで入り込み、痛みと共にそれを抱えている自分ごと書き換える。
そう気づいたが、抗う気にはなれなかった。
もう、受け入れてしまった。
シニストルを。




