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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第四十三話 一拍遅れ

 淡い朝の光が、厚手のカーテン越しに差し込んでいた。空気は乾ききり、無菌的な清潔さと静けさが漂っている。


 ここは香異特定局付属病院の観察病室だ。香印曝露者の経過を監視するため、片側の壁が観察窓になっている。通常なら医師はその外側から様子をうかがう。患者が混乱や興奮で暴れることがあるからだ。

 だが今朝、その窓の向こうは空だった。

 医師は中にいて、ベッドに腰を下ろした少年――ジャックと正面から向き合っていた。


 会話は成立していたが、言葉の焦点は定まらず、音節がときどき脱線する。

 発話のあいまに彼の視線は宙を漂い、何かを見ているようで何も見ていない。


「……では、あなたは、〝自分が壊した〟と?」


 医師はそう問いかけた。その口調には、抑えきれない観察者としての熱が滲んでいた。


 目の前の少年は、悪意ある〈感応〉系香印に長時間曝露しながらも、()()()()()自我を保った稀有な生還者(サバイバー)だ。


 〈共感浸潤〉は認知を上書きする香印である。このような強力な香印を意図的に浴びせられた場合、通常なら数分で情動が攪乱され、言語中枢や記憶回路に不可逆な損傷が生じる。

 昏迷するか、錯乱するか、自己同一性が崩壊するか。


 多くは、二度と戻らない。


 だがこの少年は、数時間にわたって曝露されながらも意識をつなぎとめた。


 異例中の異例。

 症例報告としても前例は数えるほどしかなく、そのほとんどは回復に数年を要する。

 だが彼は、少しずつ、自力で戻りつつある。


 嗅覚訓練を受けていたからか。

 それとも、曝露後も途切れず思考を組み立て続けているからか。


 医師の高揚も無理なからぬことだった。彼は今、この稀有なケースの最前線に立っている。


「沈まない香りとは、どういう意味ですか?」


 医師は身を乗り出す。


「揮発が乱れた? 成分の偏り? それとも、香印の干渉ですか」


「……沈まないのは、ぼくの……中に……」


 医師は、滑らかに別の質問へ切り替えた。


「では、トップノートから順に説明できますか。記憶の順序で構いません」


 ジャックは小さく頷くと、ネロリ、ベルガモット、ジンジャー……と淡々と並べた。

 だが「ヒノキ」と口にした途端、言葉が途切れる。視線が宙へ逸れ、指先が空中に曲線を描き始めた。


 ――揮発曲線。


 医師は記録用端末に小さくメモを打つ。


 ――患者は、特定の香材に触れた瞬間、思考の流れを視覚的動作に置き換える癖がある。


「そのとき、何が起きたのですか」


 問いは短く、答えを限定しない形で投げられる。


「……重くて……沈むはず、だったのに……でも、言えなかった……止められたのに……」


 語尾が崩れ、言葉にならない音がいくつも喉奥で潰れていく。

 医師は患者の両手の動き、呼吸の浅さ、瞳孔の開きを順に確認しながら、さらに掘り下げた。


「それは、どの香りのことですか。名前ではなく……どう感じたのか、どんなふうに沈まなかったのか、教えてください」


 ジャックはしばらく黙り、やがて低く答えた。


「全部……全部です……一つだけ、重くて……沈む前に……沈まない香りだった……。だから……ぼくです、ぼくが壊れた……」


 医師は唇を結び、質問を切り上げた。

 これ以上の言葉は、病理では追えない領域だった。


 ジャックは胸元に当てた手を浮かせた。指先が空をなぞる。微細な曲線を描くように――見えない揮発曲線を追うように。


 それは、調香師の癖だった。




 ***


 観察窓の向こう、アンシー・ローランは背筋を伸ばして座っていた。

 目はジャックの口元を追っている。声は聞こえないが、何を繰り返しているのかはわかる。


 処方だ。彼が最後に組もうとしていた香りの構成を、ひたすら組み直している。


 ――言うつもりだった。


 あの夜、異常に気づいた。ネロリ、ベルガモット、ジンジャー、ヒノキがそろっても、あんな揮発にはならない。


 だから解析をかけ、異常を見つけた。No.882の混入を突き止めた。証拠も、言葉も、揃えていた。

 必ず、伝えるつもりだった。


 だが、間に合わなかった。

 言葉よりも先に、香りがあの子を貫いてしまった。


 沈黙の中で、彼女はふと俯く。


 ――また一歩、遅れてしまった。


 理性が先に立つ。判断を挟んでしまう。調香師として、指導者として、間違ってはいけないと自分に言い聞かせてしまう。

 

 そして、ひとつ遅れる。


 ガラス越しに見えるジャックの指は、まだ動いている。 調香師特有の揮発曲線を追う動きの癖だけが、空をなぞり続けていた。

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