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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第四十二話 香りの檻

 グラントは無言で銃を抜いた。


 薬液と金属めいた匂いが鼻をかすめる。室内の異様な静けさが耳を打つ。鼓膜が自分の血流や呼吸音を拾い始める。


 部屋の中央に、ソファが一脚。

 そこに、いた。


「――ジャック!」


 ジャックは膝を揃え、背筋を正し、手を腿に置いたまま、人形のように座っている。


 駆け寄って、肩に手を置く。


 目は開いているが、焦点はどこにも合っていない。何かから目を逸らすようでもあった。


 絶望の影が一瞬、胸をよぎる。

 

「声は出せるか。おまえ、意識は……」


 動揺で乱れる呼吸にかき消されそうになりながら、何とか問いかける。


「……ごめんなさい。ぼく……ぼくが壊した……」


 ジャックはあらぬ方向をまっすぐ見つめながら、かすれた声でつぶやいた。喉の奥を震わせて絞り出したような、痛々しい声だった。


「違う。それはお前の言葉じゃない。誰に言わされた?」


 グラントはきっぱりと否定したが、ジャックは弱々しく首を横に振り、両手で顔を覆った。


 その手を見て、息を呑む。

 右手の人差し指の付け根に噛み跡がある。

 吐こうとしてついた傷。胃の奥から何かを押し出そうともがいた跡だった。


「どちらさまかしら?」


 よく通る女の声だった。

 グラントは即座に振り向き、銃を構える。


「香特だ。マリス・トリュフォー、お前を拘束する」


 声は冷たく研ぎ澄まされていたが、その奥に抑えきれない怒気が滲んでいた。


「この子に何をした?」


 銃口はぶれない。喉奥にこみ上げる殺意を呑み込み、引き金を引きたくなる衝動を必死に封じる。


 ――抑えろ。ここでは殺すな。

 少なくとも、ジャックの目の前では。


 応じるように、香気が空間を包んだ。崩れたフィグに、沈みきらない蜂蜜の重み。


 マリスは問いには答えなかった。代わりに、静かに語り始めた。


「……あの子はね、鼻で世界を見ているの。ひたすら、香りを追って……香りに取り憑かれたい、取り込んでくれ、とでもいうようにね」


 足音ひとつ立てず、部屋をゆっくり歩く。


「香りを生み出して、香りに意味を与えて、それでも足りなくて、最後は……自分自身が香りになろうとするのよ。〈完成〉を夢見る。あの子も、そうだった。……きっと、ジャックもそうなのね」


 グラントはわずかに表情を歪めた。

 マリスは悠然と、グラントに背を向けたまま言い放つ。


「罪を背負って自分を香りに溶かそうとする……わたしの娘に、ふさわしいわ」


「娘? お前、何を――」


「……あの子は、香りだったの」


 ぽつりと、独白のように呟く。マリスは銀製の匙を指先で弄び、小瓶の蓋を静かに外した。琥珀色の液体が光を受けて揺れ、匙にすくい取られる。


「わたしには聞こえた。あの子の匂いが、言葉になって。謝ってたの……」


 匙から滑り落ちた香油が、細い筋となって小瓶の中へ戻っていく。香りだけが立ち上がる。甘さと渋みが絡み合い、空気の温度がわずかに変わる。


「……記憶も、痛みも、体温も。みんな、香りになれば、保存できるのよ」


「二度は言わん。そこで止まれ」


 銃口は微塵も揺れない。


「そんなに焦らなくてもいいじゃない。ジャックとはまだお話しできるでしょう? だって〈保存〉はこれからだもの」


「……」


「あの子の記憶は、熱のように香るの。彼女よりも……ずっと深いところから。」


「彼女? ……オブリエ・ノブレサントに燐香を浴びせたのはお前か?」


 マリスは答えず、ただ小さく笑った。


「いいえ。彼女は()()()()()。そうしたら、ジャックが来てくれたのよ。……優しい子ね」


 グラントの視線が、わずかに鋭くなる。


「あなたも、ジャックの創った香りに触れたことがあるんでしょう。彼が何に苦しんでいたか。彼が香りにどれほど怯えていたか。まるでわからなかったというの?」


「おまえが仕込んだんだろ」


「それ以前の話よ。香りは環境、土壌、自然な選択なの」


「ふざけた理屈だ。ジャックはおまえに誘導されてキャプティブを使わされたんだろ。違うか?」


「暗い夜道を手探りで進もうとする子に、ただ〝光〟を見せてあげただけよ。そんなに悪いこと?」


 そのとき、ジャックがわずかに身じろぎ、声が漏れた。


「……ぼく、ぼくが組んだ、あれは……」


「これが、おまえの〝優しさ〟の結果か」


 マリスが一歩、足を前に出す。香りの層が、わずかに空気を揺らす。


「もう一歩近づいたら、撃つぞ」


「あなたも辛いのでしょう? 消えた香りを思い出す苦しさよ。私と、同じ」


 銃のセーフティが、無音の中で外された。


「おれは、壊す側でいい。取り戻せるとは思わない」


 マリスは、微笑を崩さず、両手をゆっくりと上げた。


「……そう」


「共和国法第四一条香印規制に基づき、拘束する」


 護身具から封印処置を施す。マリスは黙って従った。抵抗の素振りもなかった。

 

 ジャックの元へ戻る。脈を取り、呼吸を確認する。


「……ぼく、また……まちがって……」


「黙ってろ。お前は何も壊してない」


 崩れかけたジャックの身体を片腕で支え、端末を開く。抜け殻のような香りの残滓を感じながら、短く本局へ報告を入れる。


「特例により芳主を一名拘束。被害者一名、〈感応〉系に曝露して意識混濁している。現場は安全確保済みだ。医療班を先に寄越してくれ」


 通話を終えると、重さが肩にのしかかってきた。グラントは腕の中のジャックの体温と重みを、ただ黙って抱え続けた。

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